大遠足
むかし こどもに 「 用 」 があった。
こどもの 「 用 」 は
こどもの 「 あそび 」 とともにあった。
こどもの 「 かせぎ 」 とともにあった。
「 用 」 は
「 あそび 」 と 「 かせぎ 」 と その両方からでてきた。
そこから うまれでて いっそう大事なものとなった。
あそびに道具が必要になった。
こどもは 道具をつくらなければならない。
それを 保管しなければならない。
その道具は
自然のものからみつけだし
自然のものを用いてつくったりした。
人間がつくったもののきれはしでもつくったし
すたれたものからもつくった。
つくったものは 大事にされ 珍重された。
あそびの道具はつくられたものとして
おとなからこどもにてわたされることもあった。
こどもの 「 かせぎ 」 のためにも
道具が必要となるときがきた。
そうなるときが たちまちきた。
そのとき こどもは
「 おまえのコガタナ 」 ( きりだし小刀 )
「 おまえのハサミ 」
「 おまえのヤス 」 というようにあてがわれた。
やがては
「 おまえのクワ 」
「 おまえのカマ 」 もあてがわれた。
このようなあそびの道具
かせぎの道具のはたらきに
こどもは しだいに 「 用 」 を感じた。
「 用 」 を感ずるということは
道具をつくりだすということであり
それを珍重愛用することであり
それをつかって 効用を発揮させるということであった。
その使用になれる ・・・ ということでもあった。