まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

『千の風』に共感

2016年10月27日 | 読経の日々

仏壇の埃とりをしていて、お彼岸にご住職がおいて行ってくれたと思われる『四十六億年の命(お墓参りと先祖供養)』という小冊子を見つけました。

少し前のあたしなら、迷わずゴミ箱直行でしたが、読んでみました。

あれ、いいこと書いてある!これ、解る!

自分でも驚きでした。

『千の風』(Do Not Stand at My Grave and Weep)という詩が紹介されていました。

死後は何もない。
骨、土という物質に戻るだけ。
もう一度人に生まれ変わるなんてまっぴらだし、そんなことはないというのが自分の現在(いま)の思いです。

最期が近づいてきたとき、その思いは変わるのかもしれませんが、葬儀も戒名もお墓も自分にとってはあまり必要性を感じません。
それでも、田舎の風習のお付き合いをどっぷりしていますが。
多少は、世間体も気にしながら生きているということでしょか。

あたしの理解が詩の本旨とずれているのかもしれませんが、これを読んだとき、ああ、ほんと、これでいいんだ、とみょうに落ち着く自分がありました。

死後に物質的なことはなにもいらない。もし、私を好意的に思ってくれていたのなら、私は、いつも風や雪の冷たさ・輝き、太陽の温もりや小鳥たちのさえずり、夜空の星の瞬きという日常から感じるあなたのそばに、心の中にいつもいるよ!ということだと思います。

現在(いま)生きているあたしは、先祖やお世話になった先輩などをそんな形で感じています。

人並に稼いでいたときは時間がないという理由で、今の下流生活ではお金がないという理由で、亡くなった方のお墓参りもなかなかできません。でも、自分の中に生きていている人はたくさんいます。

自分の人生もそんなフェードアウトでいいと思います。

 有名な詩のようなので、ご存じの方も多いと思いますが、冊子にのっていた詩を転用します。

==

私の墓前で泣くのはやめてください

私はそこにはいません

眠ってなんかいません

私は千の風になって大空を駆けています

私はダイヤモンドのきらめきとなって雪に舞っています

私は陽の光となって熟した穀物にふりそそいでいます

私は優しい秋の雨となっているのです

朝の静けさの中、あなたが目覚めるとき湧き上がる雲となって、小鳥たちを輪に描いて回せます

私は夜に輝く静かな星となって、あなたを見守っています

だからどうか私の墓前で泣くのをやめてください

私はそこにいません。

私は死んでいないのです

 

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