まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

お葬式雑感

2020年10月17日 | 読経の日々

字田舎のわが集落で、お葬式があった。

今年、地域役員を受けて、3回目。

みな、直葬・家族葬式ということで、生活レベルでもお付き合いのある集落の人にも、会葬を辞退。

本当に近い血縁者のみでのお別れというかたちである。

コロナ禍前であれば隣組という昔ながらの班のメンバーが、喪主の意向を受けながら、地域内、親戚等への連絡・対応、受付業務などを支援してきた。

葬儀当日には、納骨式をおこなうのが常だったので、当日は、五十戸あまりの各戸から野辺の送りにでて、納骨の際のお焼香があった。

共働きで、夫婦ともサラリーマン世界にどっぷり浸かり、それが当たり前と思っていたころ、外せない(と思っていただけ)会議のある日に、年休をいれ、お葬式の手伝い。

厳しいクレーム処理が入っている時間に、時間年休を入れ、野辺の送り。

正直、こういう集落の習慣はとても苦痛だった。

どんなにがんばっても所詮中間管理職。

五十歳を超える頃から体力も衰え、健康面でも問題がでてき、母の介護問題と家庭の維持をどうするかという問題にあたった。

ならば、組織より、自分をしっかりしたい。

そう思い、56歳で早期退職した。

生を全うしたあのじいちゃんもばあちゃんも、歳の近かかったあの人も、自分の時間を共有した人たちばかりではないか。

その共有した時間のケジメを自分がつける。儀式として、非日常にいるお坊さんに読経などをしていただく。

これがある意味お葬式、法事なのだろう。

自分のことばかり考えて、そんなことも認識できなかった。

退職時は、収入は十分の一にはなったけれど、自由時間いっぱいになった。

精神的には、物理的拘束時間というより、思考が会社の業務に拘束されなくなったという開放感は大きかった。

生活の場、家庭・地域に軸足を置いてみると、関わりのあった人との整理もできない自分に、顔から火がでるほど恥しい思いだった。

あのじいちゃんには、いちじくの実を食ってげんこをくったけ。
あの店のばあちゃんには、買い物の手伝いをして偉いねって、飴玉もらったけ。

自分の時間において、地域の人に、どんなに慈しんでもだっただろうか。

あの先輩や少し下のあの後輩と手探りで過ごした時間は、どんなに楽しかっただろか。

忙しさにかまけて、送りもできなかった方も多い。

だめだなぁ、と思う。

今年の集落の集まりは、密にならない草刈り作業しか行っていない。

例年であれば、作業のあとに慰労会などを開きコミもはかれるのだけれど、その時間はなし。

人が亡くなっても、お別れのときもなし。

『独生独死独去独来』

人は、尊厳のある一人のエネルギーであるともとれる教えである。

ご先祖から続く父母から産まれくるわけだけれど、けっして家族、血縁だけでいきているわけではない。

たくさんのご縁の中で、生き、生かされているのだと最近感じる。

ネットやリモートだけでは、心を健全に維持できないと思う。

なにをどうしたら良いのかはわからないけれど、人の心の動きとしてとても良くない方向にむかっているのかも、と感じる。

Go Toで、大手企業や、比較的豊かな人にお金を振りまくのも否定はしないけれど、民のいない国は存在しないともいう。

生活者の心の問題はかなり重要課題かなとも思う。

コメント (3)
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