まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

過ち

2018年01月11日 | 読経の日々
カヌーのアスリートが、ライバルとなる選手の飲み物に禁止薬物を混入させた事件が発覚した。
 
もちろん、こういった行為は、やってはいけない、『犯罪』であることは間違いはないのだが、一面、とても人間らしい事件だと思う。
 
トップアスリートの多くは、生まれながらの恵まれた資質や環境の中で、常にスポットを浴びて過ごす場合が多い。
 
十代後半から二十代には運動能力のピークを迎え、日本一、世界一の記録を作っても、三十代には、次世代の選手にとって代わられる。
記録は破られるために存在するのみだ。
 
サラリーマンであれば、六十年もかけてゆっくり経験することを、半分の時間で走り抜け、その過程で、スポーツを通じて得た感動を見失い、勝ちたい(負けたくないという不安)、一番になりたい、いつまでもスポットを浴びていたいという気持ちに支配されてしまうことは、とても人間らしいことではないだろうか。
 
そして、誹謗中傷したり、相手を相対的にへこませる行動に出ることは、事件にはならないが、実社会でいくらでもみられる事象だ。
 
数日前に、ジャンプの高梨沙羅さんが、柔道の吉田沙保里さんと対談しているテレビ番組を偶然見た。
 
沙羅さんはこのところ『勝ち』がないらしい。平昌オリンピックも近づき、金を取らなければという重圧から、オリンピックにのぞむ心構えを吉田沙保里さんに聞いていた。
 
吉田沙保里さんが前のオリンピックで、大きな期待の中、金を逃したのはまだ記憶に新しいが、このときは、「自分はキャプテンだ」「他の階級は金をとったので、自分も」「連覇の期待」などから、試合で始めて自分を見失い、周りの声が聞こえなくなったという。

勝ち負けを意識するより、沙羅さんがジャンプが好きだと思うときをイメージして、もちろん、オリンピックで「試合を楽しむ」なんてできないと思うけれど、無心に飛んだらいいと思うよ、という内容のアドバイスを送っていた。
 
さすが、霊長類最強のさおりんである。
沙羅ちゃんには、すでに世界一の実力がある。自我があるから不安もでるのだから、ジャンプで初めて感動した初心に戻って試合にのぞめば、結果はついてくるよ、ということなのだろう。
 
さおりんは、金を逃したことで、トップアスリートから、大好きな柔道でのよき指導者への扉をあけたようにも思える発言だった。
負けたことで、勝利の金メダルより、ずっと大切な気付きがあったのだろう。
 
沙羅さんは、キュウリのきゅうちゃんスマイルで、「始めてジャンプした時、鳥になったような気持ちになったんですよ」と応じていた。
 
結果など気にせず、精いっぱいやったらいい。それはその通りだけれど、外野の意見で、当事者たちはそう簡単には割りきれないということなのだろう。
 
世界を極めた人でも、自我によって、みな苦しんでいる、そんな話だ。
 
この自我による不安や妬みも、それを裏返して、他人の視点に自分を持っていければ、思いやりや優しさのタネになる。
人間は、面倒で不思議な生き物である。
 
============
<今日は何の日>
今日は、鏡開きです。
 
お正月の鏡餅には神様の加護が宿るので、それをそろそろ食べちゃおか、という行事ですね。
どう食べてもいいんでしょうが、包丁で切るのは縁起が悪いみたいですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする