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ロンドンから徒然に

リトル・チルドレン

2007-08-04 | 映画・演劇
 先日このdiaryで触れた小説『赤朽葉家の伝説』の中で、祖母がその“もらい子”としての境遇を同級生にからかわれた時に、自分は『足りている』ので何も羨ましいとは思わない、といったことを言い返しました。一方現在を生きる私は、今よりはもっと違った何かがあるはずだ、と満足することを知りません。
 今日、映画『リトル・チルドレン』を観て、ふとそのことを思い出しました。

 アメリカはボストン郊外の静かな住宅地。いわゆるサバービア(郊外族)と呼ばれる、ある程度の学歴と経済力を持って、一見何不自由なく幸せな生活を送っている家族。ところが今のそういった刺激のない生活に満足できず、どこか別の種類の幸せな生活があったと思っています。でも、そこを踏み出して自分達の今の価値観を壊そうとするものが出てくると反発し、排除しようともするわけです。そんな中で主人公たちの取る行動は皆、どこかタイトル通り大人の分別を失った子供のようです。
 たくさんの登場人物のためか、それぞれの性格がややステレオタイプ過ぎて、深さに欠ける点もありますが、可笑しさの中のほろ苦さといった人生の真実を描くために分かり易くしたのかもしれません。
 希望の光が垣間見える“大人”の人生への転換に収斂していく、ラスト・シーンの物語の進め方は良くできています。

 皆が中流だと自分で思っていた時代から、格差社会と言われる二極化の時代に移って来ている日本社会。良い意味での向上心を持つことはもちろん大切ですが、“足りている”気持ちを持つことも大事なのではないでしょうか。