ラミ・デュ・ヴァン・エフ シェフのブログ ~言葉の錬金術~

フランス料理に限らず、色んな話のブログ内容です。

人の心は秋の空のように変わる、しかし、変えていけないものもある

2010-10-23 14:43:10 | Weblog
 秋の諺(ことわざ)で有名なものと言えば「秋茄子は嫁に食わすな」でありますが、なぜ嫁に秋茄子を食わせるな、と注意を促しているのか疑問になった事がありました。
 数年前の記事にも載せた事がありますが、「嫁」に限定して食べさせるな、と発言しているところから舅か姑しかいないな、と思い、「姑意地悪説」「舅の嫁優遇に姑嫉妬説」「姑茄子毒性論知らなかった説」と3パターン考えた事がありました。
 その後、茄子を調べてみたら「じゃがいも」も茄子科の植物だという事が判明し、「じゃがいも」の芽に含まれる発ガン性物質「ソラニン」が茄子にも微量ながらに含まれているのか、と妙に「秋茄子は嫁に食わすな」は「姑の優しさか・・・」と納得してしまったのでした。
 そう考えると妙に秋茄子を嫁に食べさせようとしている姑さんがいた場合、「もしかして・・・」と疑わなくてはなりません、平成の毒婦、ですな。
 秋の諺にはなぜか人間の業、と言いますか、それを感じさせる諺が多いように思います。
 「女心と秋の空」これは有名ですが、「秋の夜と男心は七度変わる」というものもあり、結局、男女共に心が変わりやすいのか、と斜め読みしたくなるものがあります。
 しかし、よく考えると、「男心」も「女心」も変わるのは理解できますが、秋の空や夜がそんなにコロコロ変わるとも思えません、この諺を作った人がかつて恋人の裏切りにあったのではないか、と深読みしたくなるものです。
 
 私も男ですから心変わりがする時もあるのでしょうが、「料理心」だけは変わりたくないものです。
 「料理心」とは「料理に対する心構え」という捉え方もできますし、「料理に向き合う心」とも考えられます。
 「料理に対する心構え」と考えれば「食材や生産者さんへの敬意」になるでしょう。「料理に向き合う心」というのは「調理を突き詰める」となるでしょう。
 どちらも大切な事ですし、この二つが無くては料理は成立できない、といっても過言ではないと思われます。
 「食材や生産者さんへの敬意」は、ただ単に食材にこだわり「地産地消」を訴えるだけはなく、スーパーで売っている食材でも同じ立場で使い、そして、それらを無駄にする事無く使い切り、生産者さんの想いを昇華する努力を惜しまない事ではないでしょうか。
 その「努力」の一環として「調理を突き詰める」を考えなくてはならないでしょう。
 毎日同じ仕事をしている、と訴える調理見習いの方がおりますが、それは、同じ仕事を「させられている」のではなく、同じ仕事を「している」だけの話であって、毎日、人参の皮を剥くのも「どうしたらこの人参の皮を美味しそうに剥けるのか?」と日々心の中で考えながら仕事をすれば「同じ仕事」ではなくなるはずです。
 鍋磨きも同じで、どうしたら効率良く、しかも綺麗に磨けるか、と考えながら磨いていけば必ずその考えは調理にも生きてきます。
 これらは、毎日、広大な土地で土にまみれて野菜を作っている、家畜を育てている、魚を獲っている、方々に対する尊敬の念がなければ持続しません。
 
「結局、お前は何が言いたいのだ?」

 そのようなお言葉を頂きそうではありますが、この考えに近づける料理人になろうと、私自身ももがいているのですよ、もっと精度を上げるために。

 先日、

「お金の良し悪しで職場を決める。ある程度の給料が無いと女にモテない」

 と、公言していた若き料理人がおりました。

 その考えも「アリ」でしょう。世の中ですから。

 しかし、私は一点だけ、一点だけ、疑問に思ったことがありました。

 では、なぜ彼は独身者で彼女もいないのか。

 給料の金額が足りないのではなく、ひとつの事に対する「想い」が足りないからではないか。

 仮に、高額を手にしても相手は心変わりはするものですよ、秋の空と一緒でね。

 秋の空は変わってもひとつの事に対する「想い」を変えずにいればいずれ何かはあるものです。

 いずれね。
















  

 

 
 
コメント
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