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ラミ・デュ・ヴァン・エフ シェフのブログ ~言葉の錬金術~

フランス料理に限らず、色んな話のブログ内容です。

食べれないものは歳と共にクリアできる。しかし、クリアしづらいものもあるだろう

2014-06-05 23:16:47 | Weblog
 青く透明感のある陽射しを確認できるようになると、高くなった気温によって肌にうっすらと張り付く湿気、そこに吸い寄せられたような目に見えない細かい砂のようなもの、それらを感じる事が出来、「春」から「初夏」へ向かっているのだな、と思ってしまいます。つい最近まで残っていた「寒さ」は「涼しさ」という言葉に置き換えられ、その「涼しさ」は夜になると「心地良さ」になるのです。「寒さ」は立場が変わり「心地良さ」になる事を思うと、人間もそういう事ありますなぁ、と思えてしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 ちょっと前まで厨房が寒く「寒いのは嫌だなぁ」と思っていたのに、現在の厨房温度が27℃超であることを確認してしまうと「もうちょっと寒くてもいいかな・・・」と思ってしまうのは私の、いや、人間のわがままであります。
 少し前までイヤだったものを現在好きになってしまう、という現象の代表的な例は「食べ物」であります。
 私は子供の頃、野菜のお浸しの「胡麻和え」や「白和え」といった野菜に微妙に甘いコーティングをする食べ物を敬遠していました、いや、オブラートに包まずに言わせていただければ「嫌い」だったのです。
 その嫌いだった理由は判りやすく、「ご飯に合わないから」という一点だけだったような気がします。つまり、ご飯に合うものは「好き」で、ご飯に合わないものは「嫌い」のように。
 判りやすく例えるなら、ご飯に合う「カレー」は「好き」、ご飯に合う「カツの卵とじ」は「好き」、ご飯に合う「魚の煮付け」は「好き」、ご飯に合わない「サラダ」は「嫌い」、ご飯に合わない「ところてん」は「嫌い」、ご飯に合わない「白和え」も「嫌い」、という感じです、子供でしたからね。
 しかし、年を経て「サラダ」「ところてん」もそうですが、「白和え」が「美味しい!」と感じるようになったのは年齢もありますが、酒を飲むようになったから、というのが最大の原因でありましょう。
 今では献立(メニュー)にあると率先して注文してしまうかも知れない一品であります。丁寧に茹でて下地に軽く漬けていたであろう野菜にセクシーなまでに絡んでいる白衣(しらごろも)は、微妙に鎖骨が見えている和服の女性を髣髴させ、それが伊万里焼風の小鉢に盛られていると、凛とした中に垣間見える艶やかさを感じ取る事が出来るのです。一口食べると野菜のほろ苦さの後に鰹出汁の香りが鼻をくすぐり、それらを押し上げるかのようにほんのり甘く、クリーミーな白衣(しらごろも)が頬の中を撫ぜるのです。それはまるで・・・この辺でやめときますか、飽きてきたでしょ。
 まぁ、そんな理由で、昔嫌いだったものが好きになるのではないでしょうか。しかし、その反面、時間が経ち、酒を飲むようになっても、嫌いとまでは言えないが、それほど隙とも言い切れない、ビミョーな立ち位置の食べ物も存在します。(私の中に、ですよ)
 以前も、当ブログにその話を載せ、一部の、ほんの一部の方から疑問の声が上がってしまった食べ物もあるわけです、勿論、私事で。
 その話は数年前に載せたのですが、また新たにその食べ物話を書こうと思い思い返してみても自分的に好きになっていない、時が過ぎても好きになっていない、という事実を噛みしめたのです。(大げさ)
 その「好きになれずにいられない」食べ物とは前回と変わらず3つあります。ひとつは「さつまいもの天ぷら」、もうひとつは「かぼちゃの煮つけ」、そして最後のひとつは「赤飯」であります。
 「あんた!それらの本当に美味しいの食べた事ないからでしょ!“天ぷら近藤”に対して失礼極まりないわよ!」そのように罵られるかも知れない覚悟は最初から持っております、持っておりますよ!最初から!(逆ギレ)
 私の母親が作ってくれた「ソレ」がトラウマになったのかも知れないが、口の中の水分を奪い去り、全編、中途半端な甘さで攻め込んでくる「さつまいもの天ぷら」、糖度が高く繊維質が豊富なのが食べるとすぐ判る種に近い部分は許せても皮に近い部分と醤油のマッチングがどうも許せない「かぼちゃの煮つけ」、小豆の旨さがもち米に全て吸収されているのはいいが、そのダシガラの小豆が前面に押し出ていて、且つ、あのもちもちした粘度ある食感がオカズとマリアージュするとは思えない「赤飯」、どうも苦手です。
 「さつまいもの天ぷら」は天つゆに付けて食べると苦手指数はクールダウンしますが、実家の「さつまいもの天ぷら」には生醤油でした。「さつまいもの天ぷら」に生醤油はバッドフィーリングであります。あの「ポクポク」した食感、ビミョーな糖度、サラダ油を吸った衣、そこに唇がかゆくなるような生醤油、ん~、どうでしょう?(長嶋風)
 かぼちゃもそれほど嫌いな食材ではないのですが、あの醤油風味との組み合わせが苦手指数を急上昇させてしまいます。そぼろ餡仕立てはもっと急上昇してしまいます。
 「あのもちもち感がいいんでしょ!」と言われてしまう「赤飯」も、あのもちもち感が苦手です。「もちもち感が苦手なら・・・」と昔、「赤飯」をお茶漬けにして食べてみた事があったのですが、サラサラにしたからいい、というわけでもありませんでした。
 その昔、タイ、イサーン地方の屋台で名物料理、というものを食べてみた事があったのですが、もち米を葉っぱで包み蒸し上げたものにビーフジャーキーのようなオカズが乗っていたものでした。
 店主が見守る中、笑顔で食べ切る事が出来ましたが、帰り道、「オレは・・・もち米自体が苦手なのかもしれないな・・・」と少し落ち込んだ事がありました・・・
 しかし、それらの3品、どなたかの家に招かれて出てきたら勿論、「美味しい!」と言って食べる自信はあります、基本的に「食べれない」というわけではありませんから。
 ジャンルとしては「食べれるけれど、積極的に食べようとはしない」又は「食べたい物のリストには常に載ってない」というものです。

 「私は3品とも好きですよ!」そのようにおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。それは素敵な事です、としか言いようがありません・・・

 それでも、「いつか、きっと、好きになる時が来るだろう、白和えのように・・・」と思ってはいるのですよ、ほんのちょっとだけ・・・

 しつこいようですが、この3品、嫌いじゃないんですよ!

 ただ・・・、何と言いますか、ねぇ・・・

 でも、嫌いじゃないんですよ!(うるさい!)
















 
 

不完全な理由を突き止め、それを改善すれば完全になる。それを料理に置き換えよ

2014-05-23 23:32:58 | Weblog
 昨日までの雨がウソのように青々とした空が顔を出し、爽やかな気候と柔らかな日差しが「外に出ろ」と語りかけてくるのです。その言葉に誘われて外に出てみると、明日催される「東北六魂祭」のイベントである「ブルーインパルス」の演習飛行が行われており、低空で飛行するジェット機を見る事が出来たのですが、その時、なぜか米軍基地問題が頭に浮かんでしまった今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 5月24日、25日の両日、東日本大震災で亡くなられた方々の鎮魂と東北の復興を願って行われる「東北六魂祭(とうほくろっこんさい)」がここ、山形市で開催されます。
 その前日である今日は先述致しましたブルーインパルスの演習飛行が行われたわけですが、同じ今日はなんと「キスの日」なのだそうです。
 「キスの日」。キスをしろ、という日なのか、安易にキスをするな、という日なのか定かではありませんが、唇と唇を重ね合わせる行為を見つめ直さなければならない日なのかもしれません、見つめ直してどうなるもんでもありませんが・・・
 「キスの日」の次の日が「六魂祭」というのもビミョーな感じでありますが、東北各県の伝統的踊りを披露するのがメインでありますから、当県山形は勿論「花笠踊り」です。他県に負けないくらいダイナミックで叙情的、そして、扇情的な踊りをかましていただきたいものです。
 そして、お祭りと言えば「屋台」でありますが、東北六県の名物屋台が出る、と聞きましたので時間があれば行ってみたいな、と思います。稀にですが「フレンチのシェフが屋台の食べ物食べるんですね」と言われた事があったのですが、それは勝手な思い込みです。
 私も人間。屋台の食べ物も食べればカップラーメンだって食べます。勿論、定食屋さんへも行きますし、居酒屋さんへも行きます。基本的に「料理人性善説」論者で「本当にマズイ食べ物はそれほど存在しない」と思っております。
 「本当にマズイものは存在しますよ!」そのように食らい付いて来られる方がいらっしゃるのではないか、と思われますが、「本当にマズイもの」の定義は結構厳密なものでありますから、それを満たすのは容易ではありません。
 例えば「味付けがありえないくらい塩辛い」というのは、塩の分量を入れ間違えた、と考えられますから「マズイ」のではなく「塩を入れ過ぎた」と認識するべきです。ただちにクレームを申し入れ、作り直してもらいましょう。
 例えば「素材の味を損ねている」というのは、素材に対して色んな要素を重ねすぎている、と考えられますから」「マズイ」のではなく「作り手が考えすぎて空回り」と認識すべきです。大笑いした後、本人に伝えてください。
 このように、本当に、真に、「マズイ」ものはなかなか無い、と考えざるを得ないというのがお分かりだと思いますが、キリスト教的な考えでは、善と悪の解釈を「善の神」「悪の神」が存在し、人間を導いている、とは考えないのです。
 キリスト教は一神教でありますから「神」はひとつ。という事で「善」と「悪」の二つの神は存在しない、存在するのは「完全な神」と「不完全な神」と説いているのです。
 回りくどくなりましたが、この理論を料理に当てはめると、「マズイものは存在しない。存在するのは、完全な料理と不完全な料理である」となるはずです。
 つまり、「この料理はマズイのではない。これは不完全な料理であるからそう思ってしまったのだ」と解釈し、自分が完全な料理を求めている事を褒めなければならないのです。
 しかしながら、この世の中に「絶対」などという事はありませんから、もしかするとどこかに「マズイもの」は存在するかも知れません。それにはかなりハードルの高い条件が与えられ、それらをすべてクリアした時にこそ、「マズイ!」と大声で叫べるのです。
 ではその条件とは何か?私が考える「マズイ」の定義は、

・作り手は100%真剣である。

・作る際に手を抜いていない。

・食材を吟味している。

・自信を持って販売している。

・上記の事が判っているのに10人中8人以上が「マズイ」と判断している。

 これはかなりハードルが高いです。
 真剣に作り、且つ、手を抜いておらず、そして、食材も吟味していて自信があるのにも拘わらず(かかわらず)、10人中8人以上が「マズイ」と判断している、自分の事だったら海外逃亡してしまいますな。というか、これをクリアできる食べ物はないでしょう。逆にどうやったら作るのか聞いてみたいものですよ、もしあったら。

 ただ、人間ですからねぇ、頭で「不完全な料理だな、これは。」と思っても「マズイ」という言葉が口から出てしまうのは致し方ないのではないでしょうか。

 以前、私が生まれ育った地域に唯一存在し、その場違いで異様な雰囲気を醸し出しているホテルのカフェでサンドイッチを食べた時、思わず出てしまった言葉は「マズッ!」でした。
 条件反射的に言ってしまった事に驚き、その原因を突き止めるべく、食べ進めてみるとどうやら犯人はパン自体でした。勿論、具のバランスなどの問題もありましたが、それ以上にパンの問題が大きい事に気が付きました。

 さり気なく店員さんに「どちらのパンを使ってるんですか?」と聞いてみたところ、「当ホテルのベーカリーで焼いたプルマンブレッド(食パン)を使用しております。そちらに同じパンを販売しておりますからもしよろしければ。」とのお答えを頂きました。

 勿論、気になって帰り際にその食パンを見てみると原因が判りました。

 焼いてあるパンの断面の気泡が大きい、そして、底面の気泡も大きく焼き色が十分付いていない、いや、付かなかった、と判断できました。

 これはパン生地を捏ね上げた後、生地を発酵させ過ぎてしまい、その後の丸め、型詰めをして「ホイロ」と呼ばれる湿度付き発酵器の中でも発酵させすぎた場合によく起こる現象です。

 こうなるとパンのふっくら感やしっとり感が失われ、パサついたような、且つ、パンの風味がなく痩せたような、そんな味になるのです。

 帰り際、私の「マズイもの」定義の3つくらいはクリアしているな、と思いながらその場を後にしたのです。

 そのサンドイッチも原因が判るため「不完全な料理」となります。

 しかし、「不完全な料理」というのは悪い事ばかりではありません。

 「不完全な料理」には「不完全になるべく理由」というのが存在しますからその理由を突き止め、そして、改善すれば「完全な料理」となるのです。

 ですから、それほど「マズイもの」というのはないのです。

 私も「不完全な料理」を作らないよう努力します。

 仮に作ってしまった場合・・・「前衛的な料理」と呼んでくださいね。




















 

季節が変わるという事は料理も衣替えをする、という事ではないだろうか

2014-05-21 22:02:49 | Weblog
 ゴールデンウィークが過ぎ去り、やまがた植木市も過ぎ去り、となると5月が5月でなくなるような、いや、もう5月が終わったような、そんな錯覚に陥り、そして、まだ見ぬ6月に想いを馳せるのです・・・そんなせっかちな思いが交差する今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 5月前半のイベントが終わってしまうと「5月が終わって、早く6月になってくれないかな・・・」などと勝手な事を思ってしまいます。それは恰も(あたかも)、「太陽にほえろ」の思い入れのない刑事の殉職が予告で流れた時、「早く次の刑事が入らないかな・・・」と思うのに似ているような気がします、いや、入手困難な「ナタデココ」が手に入りやすくなった時、「次のブームフードは何かな?」と期待してしまうのにも似ているのか・・・どっちにしても物凄い個人的な意見ですけど。
 何かの時期が終わる時、何かの時期が始まる、というのは世の常でありますが、それは飲食店でもそうでしょう。「鍋の時期が終わる時、エスニックの時期が始まる」こういう事ですな。
 今まで「鶏団子鍋」や「ちゃんこ鍋」といった「温まり系料理」から「トムヤムクン(辛い海老のスープ)」や「ヤム・ヌア(辛い牛肉のサラダ)」「ヤム・ウンセン(辛い春雨のサラダ)」といった「汗かき系料理」に移行するのではないでしょうか。
 イタリアンなら「スパゲッティ・ボロネーゼ(ミートソース)」から「トマトの冷製カッペリーニ(極細スパゲティ)」に移行するように、フレンチなら「オニオングラタンスープ(名前そのまんまです)」から「ヴィシソワーズ(冷たいじゃがいものスープ)」に移行するように、和食なら「鶉真丈 薄葛仕立て(鶉を叩いて当たって丸めたものに葛を付けた出汁を張ったもの)」から「冷製吹き寄せ(車海老や茄子などを一度炊き、地に付け込んで冷やしてガラスの器に盛ったもの)」に移行するように、中華なら・・・もうやめましょうか、疲れてきました・・・
 いやね、だから、5月後半から6月というのは「衣替え」もあるように、料理の差し替えの季節でもあるわけです。そういう話に持って行きたかったんですよ、今思ったんですけど。
 ラーメンだってそうです、「辛みそ系」から「冷やしラーメン」に移行するはずです、人の心は。
 「温かい」「熱い」という料理へのイメージを「清涼感」「ひんやり」というイメージに変えるには手っ取り早く料理自体を冷やすのが一番でありますが、どうも最近、冷やしてはいけないものまで冷やしているような気がしてなりません。
 「冷やしカレー」や「冷やしおでん」なるものは論外で私個人的には認めません。「カレー」は温かいからこそスパイスの香りが立ち、且つ、そのスパイスで汗をかく事によってその後の清涼感がやって来る料理なのです。それを無視した「冷やしカレー」。「正当料理理論妨害」の罪で逮捕です。
 「冷やしおでん」。これはただ単に温めていない、とみなされ「調理放棄物販売」の罪で逮捕です。(私の中では、ですよ)
 このように「冷やしてはいけない料理」又は「冷やす必要があるのか疑問な料理」が最近、メニューに見られる場合があります、気を付けたいところです。
 「何がダメなんですか!ちゃんと言ってください!」そのように詰め寄られる方がいらっしゃるのではないか、とお察しできますが、ハッキリ言いましょう、「冷たいカルボナーラ」もダメです。
 先述の「トマトの冷製カッペリーニ」は良いんです、もうああいう料理として確立されていますし、食べておいしいですから。「冷たいウニのパスタ
」というのもいいでしょう、生うにを使用するのでしょうから。
 「冷たいカルボナーラ」・・・冷やす理由が判りません。いや、逆に冷やす理由を教えてほしいです。「みんなカルボナーラが好きだからです。」仮にこれが理由だとして、パルミジャーノ・レッジャーノ(粉チーズ)の結晶が口に残らないのだろうか疑問でなりません。
 「作れないからそんな事を言ってるんじゃないですか!」そのようにおっしゃる方もいらっしゃるのではないか、と推測されますが、な、何を言ってるんですか!作れますよ!作った事ないけど。
 じゃあ、行きますよ!作り方!(イメージで)

・卵黄、少量の白ワイン、生クリーム、をボウルに入れトロリとするまで混ぜながら湯煎に掛けます。

・ボウルの中の卵黄、生クリームが温かいうちにパルミジャーノ・レッジャーノ(粉チーズ)を加え手早く混ぜ合わせ室温に戻しておきます。

・別のフライパンでオリーブオイル、棒状に切ったベーコンを投入し、カリカリになるまで炒め、ペーパータオルに上げて油を切っておきます。

・スパゲッティを塩分1%のお湯で柔らかめに茹で、氷水で冷やしタオルでしっかり水分を拭き取ります。

・卵黄、生クリーム、粉チーズが入ったボウルにベーコン、冷やしたスパゲティを加え混ぜ合わせます。

・皿に盛り付け、上から荒目のブラックペッパーを振り掛けます。

 これで完成です。

 何か、何て言うんですかね、文字に起こしてみると、何でしょうか、う~ん、ウマそうじゃないですか。(バカ)

 いや、でも・・・認めん!冷たいカルボナーラは認めんぞ!

 しかし、作り方はこうだと思うんですけどね。

 一応、料理教室で作ってみて、みなさんの反応をみてから答えを出す、のがいいのでしょうか・・・

 でも、認めん!オレは認めん!

 生クリームは乳脂肪分38%が良いと思いますがね。

 でも、認めん!・・・多分、認めん・・・














 
 

たまには、頭のトレーニング的クラシカル言葉遊びをしてみては如何か

2014-05-08 22:59:15 | Weblog
 まだ肌寒さが残る春の宵は、暗さの中にもきらめきがあり、静まり返った空気は清々しく、訳もなく歩く靴音にもリズムをつけたくなる、そんな夜なのです。それは正に「春宵一刻直千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」なのではないか、と思えるほどで、まっすぐ帰宅するのがもったいないような気がしてなりません。だから飲みに行ってしまうのですよ、と言い訳をしたくなる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 今日から山形市では「やまがた植木市」が開催されております。私もお昼過ぎにちょっと抜け出して神社へお参りがてら屋台などを見てきたのですが、今年は新しく「富士宮やきそば」や「シロコロ焼き」といったB級グルメ系屋台が台頭してきており、「餡餅(シャーピン)」「チャプチェ」といった北東アジアチームが苦戦するのではないか、といらぬ心配をしてしまいました。
 そうなると屋台での「日中韓」関係にも微妙な変化がみられるのでは、とまたもやいらぬ心配をしてしまったのですが、「チャプチェ屋」の隣は「餡餅屋」、その隣は「山形牛煮込み屋」となっており仲良く営業しておりましたから安心したのですが、近づいてみて店員の話を聞いてハッとしたのです。
 何と、その「山形牛煮込み屋」は「餡餅屋」が経営している中国資本で、店員さんもチャイナな方でありました。チャイナな方も山形の人に迎合して「山形牛煮込み」にしてしまったのでしょうか。どうせなら「四川風牛煮込み」の方が雰囲気が出て良かったのではないか、と思いながら通り過ぎた次第でありました。
 「お祭りの屋台に政治的な話を持ち込まないでください!」そのようにお叱りになる方もいらっしゃるのではないか、と思われますが、いや、必要です。その手の話に興味を持つのはいい事ではないですか。
 先日の休みの日、息子とバスを待っている時、なぜか「しりとり」をする事になったのですが、そこでもニュース的要素は外せません。

「しりとり!“り”」

「り、り・・・理化学研究所!“よ”」

「・・・よ、よ、読み書き!“き”」

「き、き・・・緊張するアジア情勢!“い”」

「それズルいよ・・・」

「何で、いいんだよ、そういうしりとりなんだから。」

「い、い、犬!“ぬ”」

「ぬ、ぬ・・・額賀元防衛庁長官!あっ、“ん”が付いたな、もう一回やる?」

「いや、いい・・・」

 こんなやり取りがあり、この後、息子は「しりとり」の話題をしてこなくなりました、残念。
 しかし、ジャンルを限定した「しりとり」というのも意外に難しいのではないでしょうか。例えば、「偉人、有名人」と限定した時、

「しりとり→リンカーン大統領」

 と、役職を付けて「良いか」「悪いか」でだいぶ変わってきます。「り」が最初に付く人の名前を探す方が難しいからです。「リンカーン」は「ン」が付くからアウトなのですが、そもそも「エイブラハム」も付けなければならない、という問題が出てきます。
 「り」で「力道山」もアウトです。そうなると・・・ハッ!ありました!この流れでしょう!

「しりとり→笠智衆→宇野重吉→筑紫哲也→山本五十六→クリントイーストウッド→毒蝮三太夫→宇野宗佑(うのそうすけ・元総理大臣)→桂銀淑→クェンティン・タランティーノ→野村義男→王貞治→ルー大柴→バラク・オバマ・・・」

 このように続くわけです。これが「国の名前」だとどうなるでしょうか。

「しりとり→リビア→アメリカ合衆国→クウェート→トルコ→コート・ジボワール→ルーマニア→アイルランド→ドイツ・・・」

 これで終わりになるはずです。「つ」の付く国が判りません。「アイルランド」の代わりに「アイスランド」でも同じですし「アフガニスタン」ではアウトですからね。
 では、これが「料理の名前」だったらどうなるでしょうか。

「しりとり→リー・ド・ヴォーのソテー クリームソース→スパゲッティ・ボンゴレ→蓮根饅頭→卯の花→茄子田楽→栗ご飯・・・」

 もう終わりにしましょうぜ・・・なぜに今、真剣にしりとりを考えているのか判らなくなってしまいましたよ、書いていて。

 ただひとつだけ判明した事は、「限定しりとり」は色々考えるので頭のトレーニングになる、という事です。

 そうですよ!そういう事を言いたかったんです!皆さんにも息子にも!

 と、いう事にしておきましょうぜ・・・













  

遊ぶ事を考えるより、安息する事を考える方が複雑だ

2014-05-07 22:55:43 | Weblog
 桜の時期はもう終わり「新緑の時期」という言葉が頭に浮かぶと本格的に5月なのです。まばゆいばかりの日差しは夏ほど強くなく、透明感があり清楚な女の子をイメージさせ、その日差しと共に舞う風は若い緑に生まれたばかりの土埃が混じったような、そんな若々しい匂いがし、自ずと人を屋外へ導いてしまう効果があります。アスファルトの道から外れて土の道を歩くと道脇には這い出て来たばかりの虫がいそうでつい探してしまいます。蠢く(うごめく)という字は「春に虫が2つ」と書きますからゴソゴソと動いている虫を見つけた時、完全なる「春」を体感するのではないか、と思ってしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 今年のゴールデンウィークはもう終わりましたが、最大で「11連休」という企業もあった、と聞きますから驚きであります。
 我々飲食業にとって「11連休」とは未知の連休であり、仮に「11連休」してしまったら「ついに、閉店か・・・」か「店主、具合が悪いのか・・・」のどちらかにしか取られません。
 仮に、その「11連休」の理由を「研修の為、お休みさせていただきます」などとしようものなら「アイツのところ、儲かってやがるな!」と同業の方から言われてしまいますから恐ろしいものです。
 しかし、本当に「11連休」する事になったら何をして過ごせばいいのでしょうか?それを考える方が逆に怖い!まずは「旅行」ですか。まぁ、海外に行ってしまえば11日なんてすぐに消化できますからね。いや、でもその海外でも何をするか、というのもありますな。
 私もいい年ですから「バックパックを背負ってビンボー旅行」は遠慮したいところでしょう。捨ててもいいような下着を持って行き、のような旅はしたくありませんな。
 勿論、豪華な旅もできませんから普通に海外旅行、となるのでしょうが、私も家族持ちで、しかも、全員連れて行く、なんて事になったら、そのために借金しなければならないくらいであります、恐ろしや、恐ろしや。
 という事で、海外旅行は却下して(するのかよ)、家で過ごす事にしましょうか。(後ろ向きな考え)
 11日も休みがあるのですから、1日くらいは「全く何もしない日」というのを設けてみるのはどうでしょう?ユダヤ教的には「サバス」と言い、「安息日」なので「働いてはいけない」「全く何もしてはいけない日」ですから料理もしてはいけないのだそうです。
 「じゃあ、何も食えないんですか!」そのようにお思いの方もいらっしゃると思われますが、そんな事はありません。前の日の残り物なんかを食べるのはOKなんですね。昔は料理が出来ないので肉や野菜を鍋に入れて近所のパン屋さんの窯にその鍋を入れてもらいの残り火で自動調理していたものをサバスに食べた、と本で読んだことがあります、そんな裏ワザもあるのね。
 しかし、今は電子レンジがありますからパン屋さんの窯はいらないのですね、というか、そんな「安息日」的な家庭料理がざらなのではないでしょうか、イカン!イカンですよ!安息日以外安息するな!
 失礼いたしました。料理をしてはいけない安息日、はややもすると「ぐうたら(怠け者でも可)」と言われてしまいそうですから、安息日なのに料理をする、というのを考えてみましょうか。
 安息日の料理となると「鍋物」が一番安息料理だと思われますが、「鍋物」は意外と用意ややり方が大変で、何度も当ブログで取り上げたため、ブログを読んでいる方から「藤原さんと鍋をやるとめんどくさそうですね。」とド直球な言葉を頂いた事のある料理でありますから安息料理ではないでしょう。
 「カレー」。これも何となく安息料理感がありますが、こだわってしまうと限りなく、時間のかかる料理であります。「レトルトでいいじゃないですか・・・」それでは安息過ぎて「やる気なし」と捉えられます、気を付けたいものです。
 「ポトフ」・・・オォ!これは最適!サバス料理決定です!「ポトフって、鍋物ですよね・・・」な、何を言いますか!「日式鍋物」と「ポトフ」は似て非なるものです。
 「居酒屋」と「ビストロ」くらい似て非なる、いや、「ホワイトシチュー」と「ブランケット・ド・ヴォー」くらい似て非なる、いや、「鯖」と「サヴァ?」くらい似て非なる、いや、「下町のナポレオン」と「ナポレオン」くらい似て非なる、いや、もうやめときましょうか・・・いやね、それくらい似て非なるものなんですが(長いよ)、「ポトフ」の場合、「日式鍋物」と違い固い食材を長時間調理する事で食材(この場合、肉を指します)を柔らかくし、且つ、その食材の出汁を取る、という一石二鳥的な料理であります。
 肉は「牛スネ肉(ない場合はスジが適度にある牛肉)」「丸鶏(ない場合は「骨付き鶏もも肉」で)」の2種類。
 牛スネ肉は血をふき取り、たっぷりの水を加えて火に掛けます。最初から強火にするよりも中火くらいでゆっくり加熱した方が味が出やすいので我慢して中火でお願いします。
 しばらくすると水が濁り、アクが浮いてきますが、この段階でアクを取らずさらにアクが固まるまで待ち、沸騰寸前にアクが固まったら一気に取り始めます。アク取りが苦手な人は網を使うのも手でしょう。
 アクを取ると牛スネ肉の入っただし汁は澄んできますからアクを取りながら1時間ほど煮ます。1時間ほど経ったら鶏もも肉を入れます。最初から鶏肉と牛スネ肉を一緒に入れてしまうと、牛スネ肉に煮る時間を合わせてしまいますから煮上がった時に鶏肉がパサついてしまうのです。
 鶏もも肉を投入したら、皮を剥いた丸の玉葱、縦半分に切った人参、根本だけのセロリ、ローリエ、クローブ、ホールのホワイトペッパー、塩少々を加え、さらに1時間ほど煮ます。
 最終的な味付けはほとんどしないで具材を上げ、肉や野菜は適当にカットして皿に盛り付け、薄くスープを張り、別皿に塩、胡椒、マスタード添えてを完成です。
 
 どうですか、なかなかの安息料理ではないですか。煮ている間、アカデミックな本などを読んでいるとちょっと自分を勘違いしてしまいそうです。

 残った鶏肉や牛肉は次の日、手で割いて適当に切ったトマト、キュウリ、マヨネーズと共に混ぜてサラダに、スープは米と共に炊けば炊き込みご飯になります。野菜は・・・残さず食べなさい!

 次の日も安息日になりますな。

 という事は、安息2連チャン。

 11連休が前提ですから残り9日・・・あと2~3回、ポトフですかね・・・













 
 

宣伝活動を得意としない県 山形 を考える

2014-05-03 22:40:14 | Weblog
 堂々と「今は春です!」と宣言してもいいような陽気になりましたが、朝晩にはまだ寒さが残り、暖房器具を押し入れに仕舞おうか躊躇し、悩み、そして、まだ仕舞わないでおこうかな・・・と弱気になってしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 朝晩と昼の気温の寒暖の差が激しいので「もしかしたら、今年の山形のワインの葡萄の出来はかなり良い状態なのではないか・・・」と思ったりするわけですが、そんな今年は「山形デスティネーションキャンペーン」実施年であります。
 「山形デスティネーションキャンペーン」とは、「地方自治体及び地域の観光事業者等がJRグループと連携して、対象エリア(デスティネーション)の集中的な宣伝を広域で実施する事により、全国からの誘客を図ることを目的とする日本最大規模の観光キャンペーン」なのだそうです。(山形商工労働観光部観光経済交流局観光交流課 山形デスティネーションキャンペーン概要より引用。漢字多すぎです・・・」
 今年の6月から始まるこのキャンペーン。人によっては「ディスティニー(運命)」と混同してしまい、「一世一代の賭けに出た、運命のキャンペーン!」のように思われている方もいらっしゃると漏れ聞きましたが、すみません、「デスティネーション」は「目的地」や「行き先」の意味を持つ言葉で、それに「キャンペーン」を無理やりくっつけた造語であります。
 キャンペーンマスコットは「きてけろくん」という山形県の形、つまり顔の形をイメージして作られたであろう「ゆるキャラ」でありますが、日本全国、自県をPRするのに「ゆるキャラ」を使用するのが鉄則みたいになっておりますが、同じような事をしても「くまモン」や「ふなっしー」を超えられるものではない、と考えられます。
 そして、その「ゆるキャラ」に追い打ちを掛ける様に、吉村美栄子山形県知事が突然、さくらんぼの被り物して周囲を驚かせ賛否を分ける事になったのですが、私個人的な意見で言わせていただければ、自ら広告塔になった知事を支持したいのです。しかし、問題点として声高に挙げたいのは「被り物をした知事が似合いすぎてシャレにならない」という事であります。
 その手の被り物は、絶対やらないであろう人が敢えて被った、というサプライズがあるからこそ光るものでありますが、知事の場合、何と言いましょうか、その・・・書いてもいいんでしょうか・・・元から被りそうな、いや、被ってもおかしくない、そんな資質を持った方が満を持して「被った」という事でありまして、全く違和感なく受け止められるのです。
 地元ニュースで流れた、ブルーのスーツに身を包んだ吉村知事がさくらんぼの被り物をかぶった映像を観ても、とても自然で全く違和感がなく、どうせならその場で花笠踊りでも披露して欲しかったな・・・などと思ってしまった自分に驚いてしまうくらいの勢いでありました。
 まぁ、その話は別にいいのですが(だったらするなよ)、自県の宣伝を得意としない県選手権全国大会なら確実に上位入賞を果たせるであろう山形県がどのようなキャンペーンを実施するのか興味のあるところではありますが、私的には「ゆるキャラ」などに頼らず大人な宣伝に徹して欲しい、と思うわけです。
 山形デスティネーションキャンペーンのメインテーマは「山形日和」となかなかイイ感じでありますからそこにアピールキャッチコピーを盛り込みたいものです。
 

「A級グルメ県 山形」

 なんていうコピーはどうでしょうか?「グルメ」的要素は必須でありますし、食材の宝庫、という事もアピールしなければなりません。しかし、出だしの「A級」という所だけを見て「戦犯」と続けてしまう方がいそうな気がしますから止めておいた方がいいでしょうな。
 

「あなたの知らない世界 山形」

 ちょっと「新倉イワオさん」が入っていますが、テレビで「奇習が多い県」として大げさに取り上げられているようですし、山形の存在すら知らない方もいると思われますからこれくらいのインパクトは欲しいでしょう。


「さくらんぼだけだと思っているのではないでしょうな 山形」

 投げやりです。確かにさくらんぼが一番有名かも知れませんが、他に「ラフランス(洋ナシ)」「つや姫(米)」「山形牛(米沢牛もお忘れずに)」「桜鱒(県の魚です。もう少しで終わりか)」「山菜(今が盛り)」など、その他諸々ございますのでこのコピー、というわけです。


「夢破れた者を優しく癒す県 山形」

 それくらい優しい人が多いですよ、という意味なのですが、捉えようによっては「山形には夢破れたヤツしかいない」と捉えられそうです。


「傷ついた者を優しく癒す県 山形」

 それくらい優しいだらけですよ、という意味なのですが、捉えようによっては「山形には夢に破れて傷ついたヤツしかいない」と捉えられそうです。


「恋に疲れたものを優しく癒す県 山形」

 もうこれくらいにしときますか・・・

 
 今月は「東北六魂祭」というイベントもありますし、JCのアジア大会も6月に山形で行われるようです。

 他県の方には優しくしたいものですな。

 そして、他県からいらっしゃる、夢に、恋に、傷ついた人たちを優しく癒してあげたいと思います。

 癒されたい方たち、その前に腹ごしらえとしてフランス料理をお願いしますよ。

















大型連休時に書くブログ記事は「大型」でなければならない。

2014-05-01 23:35:47 | Weblog
 新年度である4月が早々と終わりとなり、ゴールデンウィークという名の大型連休を含む月である「5月」を迎えてしまった今日、ブログにも大型記事を書かなければならないのかな?と「大型」の定義もなされぬまま、そのように考えてしまった今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「書き出しに“今日”という言葉が2回出てますよ。」そのようにご指摘をしてくださる方がどれだけいらっしゃるのか興味のあるところではありますが、仮にご指摘を頂いたならば「5月1日の今日、そのような事を考えてしまった!今日この頃、ですから、よし、としておいてください。」と苦しい言い訳をしなければなりませんな。
 「それよりも“大型記事”の方が気になりました。」そのように思ってくださった方、ありがとうございます、そう思っていただけますとスムーズにタイピングできそうであります。
 「大型記事」と一口に言っても色々と受け取り方があるでしょうが、文章の長さだけで言いますと、毎回「大型記事」であるわけです。しかし、「大型記事」とはそれだけでいいのでしょうか?私はそのように思いません。(そう言いながらネタを考え中)
 以前は、東京研修の様子を5回くらいに分けて記事にしたりしておりましたから、その記事回数の長さで行けばそちらの方(研修で飲み食いした様子を伝える記事)が「大型記事」に該当するでしょう。しかし、今回、私が書きたい「大型記事」は、当ブログの冠にもあります「シェフ」が示すように「料理」の大型記事なのです。(シェフのブログなら普通、料理の話しかしないだろ、のツッコミは受け付けません)
 当ブログで最も読まれている記事は意外な事に(意外かよ)「料理記事」だったりしますし、賛否のコメントが最も多いのも「料理記事」だったりする様に、「料理記事」は人気のようです。(もっと興味持てよ)
 しかし、「料理の事をブログにしなければ・・・」と思えば思うほど全く関係のない話に向かうことが多々あり、気が付くと書き出しから終わりまで料理の話を一切載せない時もある、という「シェフのブログ」に、冠を外せよ的な意見を寄せられても致し方ないな、と思うほどでありました。
 ですから、連休前、いや、会社によってはもう既に超大型連休に入ってらっしゃる方も含めて、その時期に壮大な料理記事を書こうではないか、そのように思ってしまった次第でした。(大げさ。しかも、その説明だけでかなりの字数)
 今回の記事はいつも書いている「ロースト」や「ポワレ」「グリエ」という調理法を私なりに考えてみる、という、まぁ、いつもそのような事を書いているのですが、それをもっと突っ込んで書いてみようか、と思ったのです。
 
 まずは「ロースト」というのを考えてみましょう。「ロースト(仏語ロティ)」とは、元来「塊肉を熾火で炙り焼く」を意味するものでしたが、ガス火やオーブンが発達した現代に於いて「熾火(おきび)」を使用して調理、というのが現実的ではありませんし、そのような設備を厨房に設置しようとすればしかるべき所への届け出が必要になります。
 ですから、現代では「フライパンを使用してオーブンなどの密閉空間の中での加熱をする調理」と解釈されております。
 しかし、何度のオーブンで何分、という基準は各個人、各シェフの調理経験に基づいて設定されておりますから「これが絶対!」というのはありません。基本的には

「フライパンで焼き色を付けてから180℃のオーブンに入れて加熱し、途中、肉の表面を乾かさないようにその焼き油を肉に回し掛けて更にオーブンで加熱し、指で触って火の入り具合を確認し、網の上に乗せて温かい所で休ませてから切り出す」

 という作業の流れになります。
 実際、私もそのようにしておりましたし、それに何の疑問も持たずに作業しておりました。しかし、やっているうちに疑問に思う事が出てきまして、それが「なぜこんなにジュ(肉汁)が出るのか?」というものでした。
 一度疑問に思ってしまうと、かなり疑問です。ジュ(肉汁)が抜ける、という事は、同時に肉の中の旨味も抜けることでありますから大問題であります。
 「焼き過ぎなのか・・・」そのように思い、火入れを浅くしてしまうと中途半端なレアになってしまう。それでは意味がないのです。狙うのは「アポワン」つまり「ミディアムレア(肉によってはミディアム」です。
 フレンチの場合、肉の焼き具合は「ブルー(完全なレア。ほぼ生)」「セニャン(レア)」「アポワン(ミディアムレア)」「ジュストキュイ(ミディアム)」「ビアンキュイ(ウェルダン)」の5段階表現ですが、それらは肉の違いや肉の状態、それとお客様の好みで焼き分けられます。
 話は戻りますが、180℃のオーブンで数分加熱、というのがジュ(肉汁)の流れる原因であれば、それを考え直さなければなりません。最初に考えたやり方は、180℃のオーブンに5分という短時間加熱を繰り返し、肉を休ませながら焼くやり方に変えたのです。この方法だと肉の繊維も急激に縮む事がありませんから肉も固くならず、且つ、ジュもそれほど出ない、という利点があったのですが、問題は「ジュもそれほど出ない」という事は、逆に考えると「少しジュは出る」という事ですから、更にジュを閉じ込めるやり方を模索し始めたのです。
 次に考えたのは、オーブンという熱空間に肉を晒す、ということでした。この考え方は、フライパンに接地している肉が急激に加熱されるためジュが出る、というのを仮定して、熱空間だけで肉を焼く、という考えです。
 180℃のオーブンの中に手を入れる事は可能ですが、180℃に熱されたフライパンには触れない、というのを考えると判りやすいのではないでしょうか。つまり、熱とは、空気が介在する事で柔らかく火が入る、という事なのです。サウナ理論ですな。
 その考え方で焼いた仔羊はこうなりました。



 このやり方ですと、短時間に分けて焼いた焼き方よりもジュがほとんど出ません。
 やり方としては簡単です。フライパンに網を乗せ、その上に表面を焼いた肉を置いて180~200℃オーブンで加熱するだけです。
 しかし人間というのは欲が出るものです。「さらに上を」と思う時、ジュもそうですが、肉質をさらに柔らかく焼けないものか、と考えてしまったのです。
 そう考えると簡単です。オーブンの温度をさらに下げ、加熱時間を延ばせばいいのですから。同じく表面を焼いた肉を網に乗せて120℃のオーブンで1時間ちょっと加熱した肉はこうなります。



 これは「蝦夷鹿」ですが、「豚肉(肩ロース)」もこうなります。



 大量に焼くとこうなります。



 現在はこのような焼き方ですが、いずれまた疑問が頭を擡げ、いろいろ考えたりするんでしょうが・・・

 次に、「グリエ」ですが、基本的に当店で「グリエ(グリル)」の料理は魚料理に限定されてしまいます。先ほど長々と書きましたように「肉」は「ロティ(ロースト)」が基本ですから、調理法としての「グリエ」は魚料理でしか採用しておりません。(前菜でスモーク物をお出しした場合は魚料理でもグリエしない時があります)
 「グリル(グリエ)」の場合、グリルパン(溝の付いたフライパン)を使用するのが一般的ですが、勿論、当店もそれを使用しているのですが、若干、使用方法が違います。
 グリルパンは熱するだけに特化させ、その輻射熱で魚を焼く、文章にすると難しそうな内容ですが簡単に言いますと、魚に串を打ってグリルパンの上で焼くだけです。魚種にもよりますが岩礁魚の場合はこの焼き方が今のところは最適のような気がします。
 それで焼いた魚料理がコレです。



 「黒ソイのグリエ ゲヴェルツトラミネール風味のソース・ブールブラン」

 では次に「ポワレ」ですが・・・

 長すぎます・・・かなり。

 この辺でやめときましょうね。

 あ~、疲れた。当分、料理の話はスルーしていいですよね。

 いや、スルーします・・・











 

桜の花が散り始める刹那的なこの時期に思う事は「薬も過ぎれば毒となる」

2014-04-22 23:22:06 | Weblog
 桜が咲き誇り始めたのは先週末からだったと記憶しておりますが、その桜ももう花びらが舞い散るようになり、その舞い散り落ちた花びらに昨日の雨が染みてアスファルトにへばりついている姿は泣き濡れた少女のようで、悲しくもありながら可愛くもある、そんな風に見えてしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 よく歌の歌詞の中に「桜舞い散る頃」という言葉が使われていたりしますが、それは卒業や入学時期を狙った歌詞作りなのではないか、と思われますが、「桜舞い散る頃」という言葉の響きも、哀愁漂う、と言いましょうか、切なくなる、と言いましょうか、そんな趣を感じさせるものです。
 だからでしょうか?「桜舞い散る」という言葉が入っているだけで歌詞や文章的に「何かイイ!」と思わせる何かがあるような気がします。
 例えば「桜舞い散る頃、君にフラれて・・・」という文章も、ただ単に「フラれて悲しい」というより「フラれたけど気持ち的に前に進もうとしている」という印象を与えるではないですか。
 「桜舞い散る頃、前日の酒が抜けずにバッドフィーリング。水をがぶ飲み二日酔いからの卒業・・・」こんな歌詞をアコースティックギター片手に歌われたら「アレッ?結構イイ曲かも・・・」そう思ってしまうかも知れません、ただ具合が悪い事を歌詞にしているだけなんですけどね。
 そのようにそれが入るだけで「アレッ?何かいいかも・・・」と思わせ、正常に判断させなくしてしまう事を「桜舞い散る頃現象」と呼び(ウソ)、世の中に浸透しているのです。(いつも注訳を書きますが、だいぶ大げさです。そして、そういうブログです。予めご了承ください。書いている本人もどういう結末になるか判らず書いておりますのでその辺もご理解ください)
 その「桜舞い散る頃」的な四大調味料と言えば「めんつゆ」「ダシの素」「ポン酢」そして「固形スープの素」でありますが、普通のご家庭ではこの調味料をスリーカードもしくはフォーカード手にしていらっしゃると思われます。
 ご家庭だけではなく、飲食店でもこの「桜舞い散る頃」調味料を使用している所があるそうですが、ダシの取り方やスープの取り方、ポン酢の作り方やめんつゆの作り方など知っていて敢えて使っている事を祈ります。(「桜舞い散る頃」調味料などとは呼びませんのでご注意を)
 確かにこの「桜調味料(省略しすぎですか?)」は、使うと便利でありますが、それに慣れ過ぎてしまうと何にでも入れてしまい「アレッ?何かイイかも」を通り越して「あぁ!何かスゴイ!」になってしまいます。(その「スゴイ」はグッドなのかバッドなのかは人によって違いますので敢えて書きません)
 よく「魚の煮付け」の作り方を聞いてみると魚の切り身を「水」と「めんつゆ」で煮付けている、という話を聞くのですが、魚を魚風味の汁で煮る行為は、何と言いますか、肉骨粉的なイメージを連想させてしまうのでどうか、「水」「酒」「みりん」「砂糖」だけでお願いしたいものです。
 「ポトフ」にも固形スープの素を大量投入している方はいらっしゃらないでしょうな。少しだけなら「旨味補強」という考え方もありますが、大量投入しては逆に素材の風味を損ねることになりかねません。
 「だって、ガツンとした旨み、欲しいじゃないですか・・・」判りますよ、その気持ち。そういう人は「ポトフ」じゃなく「とんこつラーメン」にしましょうね。
 「ポン酢」も最近はダシ味が前面に出ているものが多く見受けられます。判るんですよ、その味、その気持ち。でも、何と言いますか、世の中「ダシ至上主義」になり過ぎている、と言いましょうか、とにかく「旨ければそれでいいんだ」的思想が蔓延していて「適度な旨味」が軽視されているような気がするのです。
 数年前にもこの手の記事を書いた事があるのですが、それは「同業者」が「めんつゆ」を使っている、という話に触れ「ウマければ勝ち」的な考え方はどうなのか?と疑問を呈したのです。そして、それをアニメ「タイガーマスク」のエンディング曲「みなしごのバラード(現在はこのタイトルだけで放送禁止でしょうな)」になぞらえ、

「旨ければ それでいいんだ。 お金さえ そればいいんだ。 ひねくれて客をにらんだ 僕なのさ。 あぁ、だけど そんな僕でも あの頃は・・・」

 と歌詞を変えてみたのでしたが、「あの頃は」の後は、「あの頃は、ちゃんと作っていたんだけど、ちゃんと料理を作っても誰も評価しないんだ。それだから、めんつゆやポン酢、固形スープの素、ダシの素を使っているんだ!それで何が悪いんだ!お客さんはそれを食べて評価してくれてるんだ!旨ければそれでいいんだよ!お金さえあればいいんだよ!」そのような叫びが聞こえてきそうでなりません。
 
 最近、「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」グループが、おでん居酒屋店「俺の出汁」なるお店を開店させた、という話を行かれた方からお聞ききしました。

 「どうでした?」と聞いてみると、「ん~、何でもかんでもダシの味がして旨すぎるんだな・・・」と仰っておりました。

 「俺の出汁」・・・恐るべし・・・しかも、俺のダシですよ・・・

 「味の適度さってあるよな・・・」そんな事を、出勤途中の桜舞い散る頃に思ってしまったのです。

 桜も薄い桃色だからキレイなんです。思いっきりピンクだったら・・・イヤらしいでしょ。



















 

「妄想」に似た「想像」は、いずれ「創造」に変わるだろう

2014-04-19 13:40:12 | Weblog
 自宅から店へと向かう途中に某料亭さんがあるのですが、一昨日辺りからその料亭さんの庭の塀から零れ落ちそうな桜を見ながら出勤する事ができる幸せを「日本人だけが味わえる感覚なのだろうか・・・」とふと思ってしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 やっと山形にも桜の季節がやってきました。ニュースなどではだいぶ前に「東京は桜が満開です!」というのを見せつけられてきましたから「待ってました!」の気持ちが最大限に出ても致し方ない、というものでしょう。
 いつもこの時期になると当ブログでは「花見はこうするべき」みたいな話になるのですが、昨年その話を書きましたところ「花見のやり方までも画一的にしようというのか!」というコメントを頂きました、ありがとうございます、ご意見ありがとうございます。
 その記事の内容的には

「場所取りする際も一足早く飲んで場所取りするのではなく、文化的な本でも読んで場所を取っておきましょう。桜の木の下ではシャンパンでもサッと飲む程度にして次の会場へ移りましょう。」

 のようなことを書いたと思うのですが、当ブログですからそれらを回りくどく書いたのだと思われます。
 勿論、それらはブログの「ネタ」でありまして、実際私がそのような事をしているか、というと、メインである花見すらしていない、というのが現実です。
 数年前に息子を連れて公園へ行き、桜をサッと見てからランチを食べに行った、というのが「最後の記憶」くらいなもので、実際に桜の木の下でブルーシートを広げて宴会、はかなり前の思い出になります。
 「自分が実際していないことをブログネタにして人に提唱しているのか!」そのように憤慨される方もいらっしゃるのではないか、と推測されますが、すみません・・・自宅と店舗のどちらかにしかいないような人間であり、若干、妄想癖のある男ですからそのような内容になってしまうことをご理解ください。
 「妄想癖だなんて・・・なんてイヤらしい!妄想癖のある人間が料理を作っていいんですか!今まで書いたブログ(論文)を撤回してください!」そのように言い寄られてしまうと、だいぶうろたえてしまいますが、確かに「妄想」は「事実でない事を想像して信じ込むこと」でありますからバッドな想像であります。
 しかしながら、料理には「妄想」とまでいかないまでも「事実であろう事を想像して信じ込むこと」というグッドな想像は必要であり、その「想像」が「創造」に変わるわけです。
 例えば、某有名パティシエさんはその著書の中で「菓子を焼く場合、一旦オーブンへ入れてしまったら確認する事が出来ないのでその中を想像する事が大事である。」と前置きしながら、「今頃、窯の中のカヌレは型の中で煮立ってやがるんだろうなぁ・・・へへへ、と思ってしまう」というような事を書いておりました。
 あの文章の中で「カヌレ(フランス・ボルドーの伝統焼き菓子。外がカリッと、中はモッチリという表現が似合うヴァニラ風味の焼き菓子)」という文字が無かったら、それこそ「妄想」になってしまうわけですから、やはり「妄想」ギリギリの「想像」は必要と言えるでしょう。(強引な話の展開ですが当ブログの性質上、ご理解ください)
 料理の作り方を頭の中で組み立てる、又は、食材同士の組み合わせを考える、となった時、若干の、いや、結構な、「想像力」を駆使しなければならないわけですが、その時は他人に理解できない「自分だけ判る考え方」や「自分だけのイメージ」が大事になります。
 その頭の中の自分だけしか判らない考え方を文字に起こすとこうなります。

「あ~、なんだろ、とりあえずアレか・・・アレとアレをアレしてね、アレだ、アレ!そうそう!アレアレ!あっ、待てよ・・・アレも組み合わせたら・・・そうするとアレも必要だな・・・それで、最後にアレな。よし!これでキマリ!」

 こんな感じですよ。
 こうなると「想像」なのか「妄想」なのか、という話になりますよね。しかし、「自分しか判らない」からこそ、出来る料理、というのもあるはずです、いや、ありますよ。

 なぜ、こんな話になったかと言いますと、まぁ、何と言いますか、そんな感じの、自分にしか判らないイメージを増幅させて作った料理が、最近ありまして・・・

 本当に「アレをアレして・・・」という流れで作ったんです。

 その料理がですね、この料理です。



 「黒と赤(Noir et Rouge)」そんなイメージだけで作ってみました。

 料理に忠実に名づけるならば

「庄内産メバルとじゃがいものテリーヌ仕立て バター香るイカ墨パウダーを塗して ブロッコリーのクスクス風 シェリーヴィネガー風味のフレッシュトマトソース ズワイガニと鮑のヴァプール フランヴォワーズ風味のビーツのピュレ」

 ねっ、判りづらいでしょ。

 でも、自分の中ではある程度完成してるんですけどねぇ・・・












真の爽やかさとは何か。それを爽やかではない男が考える

2014-04-16 20:05:49 | Weblog
 気が付けば、四月も半ばを過ぎ。気が付けば、明るい日差しを感じる事が出来。気が付けば、小さい体に大きいランドセルを背負った子供たちを見掛けるようになり。気が付けば、まだしっくりこないスーツ姿の若者が同期と思しき仲間と歩いている。気が付けば・・・気が付けば、時の流れの早さをただ見守るばかり・・・そんな気持ちにさせられる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 気が付いたらこの記事が4月最初の投稿記事になり、「もう、ブログを書く気力がないのではないだろうか・・・オレ。」とひとり切なくなってしまった次第でありますが、頑張って更新をし、そして、枯渇しまくっているネタを振り絞り、いつか来るブログ卒業に備えたいと思います。(なぜか感傷的)
 この文章を書いていて「なぜだ?なぜ、オレは今、こんなに感傷的なのか?」と自問自答しているのですが(だいぶ大げさ)、これは「春」という季節が引き起こす現象なのではないでしょうか。
 よく考えたらこの現象(なぜか感傷的になる現象)は「秋」にも起こる事があります。「春」と「秋」に共通する事と言えば、「オフコース」の歌にも出てくる「中途半端な季節」であります。
 私の仮説では、その「中途半端な季節」の微妙な気温変化が人間の体細胞に外的ストレスを与えて分化多能性を獲得させるのではないか、と考えており、それを「刺激惹起性多能性獲得細胞(しげきじゃっきせいかくとくさいぼう)」と言い、その頭文字を取って、「スタッ・・・」そろそろ止めましょうか・・・ウソです、いや、そんな事書きたくなる季節なんですよ、中途半端だと。(どんな季節だよ)
 しかし、そんな季節なのにもかかわらず、先日、「料理教室」のご依頼を頂きました。(季節は関係ないでしょ)
 毎月1回づつ「男性の料理教室(通称「オヤジ料理教室」)」と「女性の料理教室(通称・・・特にありません)」の計2回を開催しているのですが、それとは別に「料理教室」の依頼が来るのは稀な事です・・・アレッ、先月もプラスであったかな?アッ、2年ほど前にもあったかな?(覚えておけっ!)
 今回は気体燃料などを生業(なりわい)になさっていらっしゃる企業様からのお話でありまして、人数もだいぶ多く、料理教室用のショールームがある中での仕事でありますからかなり本格的です。(いや、いつも本格的にやってるんですけどね)
 今回の料理教室では「3品作ってほしい」という事でしたから、「前菜」「スープ」「メイン」といつものようにコース立てのメニューを考えるつもりですが、実際に行われるのは来月の後半でありますので「爽やか」をテーマに掲げてメニューを組みたいと思います。
 「あなた自身、爽やかな人間ではないのに、そんな料理作れるんですか?」そのようにちょっと口元に笑みを浮かべて疑問を呈して来られる方もいらっしゃるのではないか、と推測されますが、人間を外見では判断してはいけません。
 確かに、私は「爽やかではない男選手権大会」の東北ブロックをトップで通過する可能性を秘めた男かも知れませんが、「爽やかではない男」だからこそ「真の爽やかさ」を知っている、とは考えられないでしょうか。
 逆の見地から考えれば、爽やかなイケメンさん、ホニャララもこみち氏の料理に爽やかさを見いだせないのと一緒で、その人に対するイメージと、その人が作る料理が一致するか、というと必ずしもそうは言えないのが現実です。
 では、「爽やかではない男」の私が考える「爽やかさ」とは何なのか?そこには3つの構成要素が必要になります。
  
・「酸味」

(これは不可欠です。しかし、調子に乗って使い過ぎると酸っぱすぎて爽やかとは程遠いものになってしまいます。その塩梅と言いますか、バランスをどう構成するかがカギとなるでしょう。酸味を立たせすぎないように、とオリーブオイルなどを加えすぎるのも問題です。オイリーな料理は「爽やかな料理」の反意語、と言い切ってもいいでしょう)


・「ハーブ」

(「ハーブ」、この言葉だけで爽やかさを連想させますが、その上に「脱法」などと付いてしまうとダークなイメージしか残りません。ハーブを効果的に使った時の爽やか感はかなりのものですが、使い過ぎると食べていて辛くなります。因みに、昔、ベトナムの人にご馳走になった本格的な生春巻き(ゴイクン)はハーブしか入っておりませんでした。確かに物凄い爽やかでしたが、爽快感だけが記憶に残り、ウマかったかどうか、という肝心な部分は吹き飛んでしまいました。このことを踏まえると、使い過ぎに注意、という事が判ります。そして、意味もなく飾りでパセリオイルを多用する方がいらっしゃいますが、それもオイリーです、爽やかではありません。皿の上の見た目を重視して意味のない事をするより、なぜこれを使うのか、という信念が欲しいものです)

・「柑橘」
(これは「レモン」だけではなく「オレンジ」「グレープフルーツ」「金柑」などの柑橘類全てを指します。「オレンジ」や「グレープフルーツ」はフレッシュをそのまま使用してもいいのですが、煮詰めてその酸味と甘みを引き出しものと併用して使用した方が効果的に使用できる、と考えられます。皮も爽やかさを演出するのに効果的ですが、その場合、国産で低農薬の物を選ぶ、などの配慮が必要です)

 どうですか、この文章を読んだだけでも「爽やか」になる、というものですが、この時点で文章字数が2,000字以上になりましたからゲンナリしてきた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「で、結局、爽やかな料理、って何を作るの?」

 そのように思われた方が多数いらっしゃるのではないか、と推測されますが、そうですねぇ・・・上記の爽やか調理アイテムを駆使して・・・

 「柑橘類とハーブのサラダ」というのはどうでしょうか?

 安直すぎますか?そうですよね・・・まだ時間がありますから、考えます、爽やか料理。