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ラミ・デュ・ヴァン・エフ シェフのブログ ~言葉の錬金術~

フランス料理に限らず、色んな話のブログ内容です。

季節的に最後であろう「芸術の秋」に観た映画が心から離れない

2014-10-30 22:17:50 | Weblog
 優しく頬を撫ぜるような秋風はどこかへ消え去り、イタズラに頬をつねる様な冬の風を感じるようになると、寂しさよりも焦りに近いものが人々の心に湧き上がってきます。それは、「1年」という区切りが終焉を迎えようとする事実を認識してしまい、「何かしなければ!」と思うのだがその「何か」が何だか判らずに焦ってしまうような、表現しにくい「焦り」なのではないか、と思うわけです。そして、さらに1ヶ月経つとその「何か」が年を越す準備だと判り、さらに焦るのです・・・と少し焦りながら思ってしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 気が付くといつも月末になっていて、気が付くと10月も終わろうとしている・・・毎年同じ事の繰り返しのように思えても、微妙に何かが違う1年を過ごしているのだろう、と先日、とあるバーでジンリッキーを数杯飲んだ帰り、静寂に包まれた夜霧の街で思ってしまったのです。(ちょっと大げさ)
 夜中の4時過ぎ、コツコツと自分の足音しかしない霧に包まれた街中は独特の湿度臭がし、霧の中に点々と浮かぶ信号機の灯りはぼんやりとした幻想的な色調で私を誘導するのです。
 「芸術の秋・・・ですな。」何となくその状況を思ってしまったのですが、この芸術の秋に何かもっと心に残るものを観たいな、とその時、霧の中で思ったのです。(たぶん・・・)
 そう考えたとき思い出したのは、今年の9月初めに遅い墓参りで実家へ帰った時、居間に鎮座してあるテレビから流れていたBSの映画特集で観た映画の事でありました。
 モノクロで、しかも、内容も暗そうな映画を途中から何気に観ていたのですが、しばらくして主人公が「三國連太郎」である事に気が付きました。そのまま勢いで観入ると、左幸子、伴順三郎、高倉健、と錚々たるメンツがその映画を支えていたのです。
 鬼気迫る左幸子の演技に押されながら新聞のテレビ欄でその映画をチェックしてみると映画名は「飢餓海峡」、監督は「内田吐夢(うちだとむ)」氏だったのです。
 内田吐夢監督、ブラザートムを連想する人もいらっしゃるかと思いますが、「レインボーマン」の脚本を務め、森進一「おぶくろさん」の生みの親であります「川内康範(かわうちこうはん)」先生の師匠的な方であります。
 その時、その映画は墓参りの用事もありましたので途中から観て途中で消して出かけなければならない、という非常にもどかしい状況で観終わってしまい、墓参りの最中も心の中でモヤモヤしてしまいました。そう、その後の霧の中を歩いて帰宅したときのように!(スミマセン、今考えました)そして、先日の休みの日、やっと念願の映画「飢餓海峡」を最初から最後までフルタイムで観る事が出来たのです!
 最初にフルで観終わった感想から言わせていただきますと、素晴らしく完成度の高い映画で、しかも、怪優「三國連太郎」の観る者を引きこんでしまう演技、そして先ほども書きましたように、全く脱いでいないのにエロチシズムを放ち愛狂おしくも鬼気迫る「左幸子」の名演、朴訥としつつも隠然とした存在感を見せつける「伴順三郎」、後半からの出演にもかかわらず映画の中心に食い込む「高倉健」、と映画とは何なのか、演技とは何なのか、というのを「これでもか!」と見せつける骨太の日式サスペンス映画でありました。
 軽く説明すると、

 昭和22年、北海道を襲った台風で青函連絡船「層雲丸」が沈没した事件に乗じて函館から船で青森に向かった男3人は強盗殺人及び放火に関与していた。その後、青森に着いたのはその中のひとり「犬飼多吉(三國)」だけだった。
 層雲丸転覆事件の身元確認に追われていた老刑事「弓坂(伴)」は引き取り手のない2体の遺体に疑問を馳せているうちに2人が強盗殺人事件との関連を見出す。そして、もう一人の犯人と思しき犬飼を追い青森へと渡る。
 その頃、犬飼はひょんなことから娼婦の「杉戸八重(左)」と知り合い、つかの間の情事のあと、盗んだ大金の一部を八重に渡してしまう。
 犬飼を追った弓坂は八重に接触するところまで行くが、八重は犬飼に対する大金の恩と愛情ともつかぬ想いによって弓坂にウソの証言をして犬飼を逃がすのだった。
 その後、八重は身を置いていた置屋に借金を返し、上京し真面目に働こうとするが世の中はそううまくいかず、八重はまたしても置屋へ身を置く事になる。そして、八重は犬飼の恩を忘れず当時切ってあげた犬飼の爪と当時の新聞を肩身離さず持ちながら10年の月日が流れる。
 10年後、八重はふとした拍子に見た新聞記事に目が留まる。舞鶴で食品会社を経営する事業家、樽見京一郎なる人物が犯罪者更生事業に多額の寄付をした記事が写真付きで載っていたのだが、その写真の男こそ八重が恩に感じ、そして、探していた「犬飼多吉」だったからである。
 早速、樽見京一郎に会いに行く八重だが、樽見は「人違いでしょう」と突っぱねる。しかし、八重は以前怪我をした親指を見て犬飼である事を確信、しつこく問い詰めると樽見京一郎は勢い余って首を絞めて八重を殺してしまうのだった。そして、その現場を見た書生もその勢いで殺し、二人が海で無理心中したように偽装工作をする。
 やがて死体が上がり、捜査を進めるうちに事件性を感じ取った若き刑事「味村(高倉)」は調べていくうちに昭和22年の層雲丸沈没事件、函館強盗殺人放火事件との関連に行き着き、リタイアしていた老刑事「弓坂」も巻き込んで事件解決に向かおうとするが・・・(説明が全く軽くない)

 
 上映時間が3時間チョイ、という長編であるため公開当時は配給元の東映の意向でカットされて上映されたそうですが、今回私が観たのはタップリ3時間チョイ、だいぶ「飢餓海峡エキス」を注入された気分でありました。
 
 見どころは何と言っても「左幸子」扮する「杉戸八重」が樽見京一郎と会い、犬飼多吉である事を聞き出そうとするシーンであります。

 バリバリの東北訛りで

「あんだ、犬飼さんだろ!あだしわがるんだ!からだがおぼえでっがら!犬飼さん!犬飼さん!!!やっばす、犬飼さんだ!」

 と迫るセリフは頭から離れなくなること必至であります。(男性限定)

 そんな事、言われるくらい想われたいものですな・・・



「あんだ!藤原さんだろ!あだしわがるんだ!からだがおぼえでっがら!藤原さん!」

「誰かとお間違えではないですかな・・・私は藤原ではなく、〝町瑠田”と言いますが・・・」

「いや、藤原さんだ!あだしのごと、わかるっべ!そのどぎのごどはわすれね!藤原さん!」

「はっはっはっ、その藤原さんとやらによほどお世話になったんだねぇ、あなたは。でもね、人違いですよ、なぜなら、私は〝町瑠田”ですから。」

「ん~ん、わだしにはわがるんだ、だって、藤原さんはブサイクだもの!ほら、やっばし、藤原さんだ!」

「コラッ!お前バカにしてんのか!首絞めてやろうか!」

「ほら、やっばし藤原さんだ!」

「ウルサイ!」


 ん~、しばらく「飢餓海峡」が頭から離れないな・・・

 皆様も機会がありましたら映画「飢餓海峡」をご覧になってください。

 ご覧になった暁には・・・「飢餓海峡 飲み会」を企画してその話で大いに盛り上がりたいものです。

 


























料理に於ける黄金比というものは存在するのか

2014-10-23 23:19:46 | Weblog
 「過ごしやすい秋を堪能しきれていないので、まだ寒くならないで欲しいな・・・」という人々の願いをスルーするかのような気温の低下と共に更新頻度も下がっている当ブログでありますが、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 最近アップした記事は今月初めだったと記憶しておりますから、かなり間が空いてしまいましたが、それでも毎日チェックしてくださる方がいらっしゃいますので頭が下がる思いであります。
 当ブログは今月で開始から丸8年も経ちました。これもひとえに、このようなブログでも温かい気持ちでお読みくださる方々と、連動しているフェイスブックへコメントをくださる方々に支えられて続けてこれたのだと感謝いたしております。
 正直に言いますと、完全にブログネタは枯渇し、それゆえに過去記事とのネタ重複に書いている本人は頭を悩ませ、そして、胸をかきむしられる思いでどのようにブログを続けていくか日々葛藤しているのであります。(80%は大げさです)
 気温などや季節的なものを絡める「書き出し」は、出勤時や帰宅時、買い出し時の徒歩で感じた事を書いているだけですからそれほど難しくないのですが、そこからどのようなネタに持って行くか、というのはキーボードを叩きながらの流れに任せるしかなく「書き出し」まで書いて思いつかずに削除した記事などは結構あるものです。
 「料理の話し書けばいいだけだろ!」そのようにご指摘を受けてしまいますと、誰もいない壁に向かって「壁ドン」し、そのまま手をついた状態でうつむきながら肩を震わせてしまいたくなりますが、その「料理の話」は書いている本人にしか判らない話のように思えて書くのを躊躇ってしまいます。(それじゃ、シェフのブログとして成立しないんですけどね・・・)
 「本人にしか判らない料理の話」というのは、「全て料理への考え方に繋がるのではないか」という仮定の下、料理へ想いを馳せてしまう自分勝手な妄想的調理理論でありまして、哲学や数学、宗教なんかがグッと来るのです。
 例えば、何気に「ピラミッド」の話をテレビで観たとします。その際、ピラミッド(この場合、クフ王のピラミッド)の高さと底辺一辺の長さの比は「1:1,6」で黄金比である、などという話を知ってしまうと「その、1:1,6、いや、黄金比的なものは料理にもあるのだろうか?」と思い、その思いがどんどん膨らんでいくんですな。(因みに、黄金比の近似値は、1:1,6181、だそうです。ミロのヴィーナスの腰までの長さと腰からの長さも黄金比だそうですな)
 「黄金比」。焼肉のタレのCMでも使われたようなフレーズですが、何だか物凄い絶対感、と言いますか、この数式を当てはめると何でもOK的な理論っぽいのは結構好きな分野であります。
 「塩分濃度が0,9%のお吸い物が美味しく感じられるのは、人間の体液の塩分濃度が約0,9%だから」という話にも食い付いたのは、それを基に考えると、味付けを「1~1,3%」で考えて料理を作れば人間の身体的に美味しく感じるのではないか、と思えるわけです。
 このような考え方になったのは10代後半から20代前半までパン屋(当時は「ベーカリー」と言いましたが、今は「ブーランジェリー」って言いますね)に従事していたからで、その時の「ベーカーパーセンテージ」つまり、パンを作る際、レシピを数字で覚えるのではなく「%(パーセンテージ)」で覚える「構成比率」というのが衝撃的だったのです。
 それまで料理店で仕事をしておりましたから、「勘」というのに重きを置いておりましたが、ベーカリーは違います。仕込む水の温度からレシピまで計算尽くし、料理と正反対と言っても過言ではないでしょう。
 3年ほどお世話になったベーカリーでの経験の後、料理に戻りますが、「構成比率」というのが頭から離れなくなってしまいます。常に「%」で考えたくなるんです、何となく。
 例えば、コンソメを仕込む時もコンソメの前段階の「フォン(だし汁)」を100%と考えて、牛ひき肉20%、卵白7%、ミルポワ(香味野菜)2%、フレッシュトマト4%、などと考えた方が構成比率が判りやすく、「もう少し牛の風味が欲しい」と思えば牛ひき肉をあと5%足す、など調整もしやすいのです。
 デザートのアイスの糖分含有量も「25%」前後が適量だと思われますし、ソルベ(シャーベット)は20%の糖分です。それは計算して導き出す事が出来ますから難しくありませんし、料理本のレシピを見て計算すると大体それくらいの糖分含有量だったりします。
 しかし、それはあくまでも机上の理論でありまして、それを作り味を見て判断するのは結局、人間なんです。「%」が絶対、というわけではなく、補助的な考え、くらいが丁度良いのかもしれません。

 そうなると「料理の黄金比」は何なのか、となりますが、おっ、こんな時の日本料理ですかな。

 魚を煮る時は、水、酒、味醂、醤油「1:1;1;1」又は、酒、味醂、醤油「1:1:1」、うどんのつゆは、出汁、味醂、醤油「12:1:1」などのお玉の杯数比率が。

 それでも、魚の煮具合や、出汁の取り方などで味は変わりますからやっぱり最終的には人の判断力なんですか・・・

 ん~、料理の黄金比、難しい!














ただ芋を煮るだけではダメだ。そこに魂が入らなければ「芋煮」にはならないのだ

2014-10-07 23:03:02 | Weblog
 「春」という字は「三人の日」と書きますが、「秋」という字は「木ノ火(木の火)」と書く事になるのでしょうか。それは「焚火」などを連想させ、寄せ集めた木で焚火をし温まる、というまさに「秋らしい」光景を髣髴させるのです。しかし、山形では「木ノ火」と言えば川原で熾火をして芋煮をする、と連想する方が多いと思われる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「山形の秋」は「芋煮の秋」と言っても過言ではありません。スーパーで売っている「洗い里芋」の隣には葱や舞茸が並んでおり、暗に「ほら、並んでいる順番に買えば芋煮が出来ますぜ」と言わんばかりであります。
 日本料理店ばかりでなく街場の居酒屋さんにも「芋煮」のメニューがリストオンし、人と会えば「今度、芋煮会しましょうよ。」という社交辞令が飛び交い、カップ麺でも「山形限定!芋煮うどん」が発売され、スナックのお通しでは「芋煮」が出され、夕方の情報番組では芋煮会の様子を取材し、とあるお店では「芋煮のテリーヌ」というのを出して私を笑わせてくれます。(最後のは余計でしたな)
 これだけ芋煮原理主義的であると「私、芋煮嫌いなんです」などと言おうものなら「山形ユダ」として「山形の裏切り者」のレッテルを張られてしまうのではないか、と若干、心配にさえなります。(大げさ)
 しかし、これほどまでに山形県民の心を鷲掴みにして離さない「芋煮」又は「芋煮会」の魅力とは一体何なのでしょうか。私が思うに、その地域ごとに分かれて作り方や仕立て方が違う点や、比較的作り方が単純なのに作り手(主にオヤジ)が火熾し(ひおこし)から妙にこだわる点、そして、自分の地域の、自分の作り方が一番うまい、などと思っている点、などが作用して山形のソウルフード(お隣の国の首都の食べ物ではありませんよ)として形成されているのではないか、と考えられます。
 それはまさにフランスの南西部ラングドック地方の郷土料理である煮込み料理「カスレ」にも似たものを感じるのです。(大げさ)
 件(くだん)の「カスレ」は、3つの地区(カステルノーダリ、カルカッソンヌ、トゥールーズ)が「カスレ発祥の地」として主張し、「自分の所のカスレが一番うまい」と譲りません。
 山形県民はどちらかと言いますと良く言えば「争いを好まない人種」、悪く言えば「内向的」ですから声を大にして「自分の所が一番ですよ!」などと言いませんが、庄内で内陸仕立ての芋煮を食べないように、内陸で庄内仕立ての芋煮を食べる事はほとんどありません。
 それは「自分の所の芋煮が一番だが、それほど主張するほどの事でもない。他の地方の芋煮を作らなければそれでいいだけ。」という暗黙の主張なのです。
 因みに、「自分の所の芋煮が一番ですよ!」と大声で主張する山形人は生粋の山形人でないか、又はアジアンハーフアイランドの流れを汲む人、と考えた方がいいかも知れません。(あくまでも話の流れですよ!)
 山形市を含む「村山地方」の芋煮は、里芋、牛肉、こんにゃく、葱、に醤油味、とシンプルですが(舞茸を入れる人もいます)、米沢を含む「置賜地方」の芋煮は、それらに大根、キノコ、などがプラスされます。
 私は「置賜地方」の生まれですが、中学を卒業してすぐ実家を出たので「置賜芋煮」には違和感を感じてしまいます。置賜ユダ(置賜の裏切り者)ですな・・・
 これが庄内地方の芋煮になるとだいぶ違ってきます。まず肉は牛肉ではなく「豚肉」に変わります。まさか、「平」とか「牧」とかの名を冠する所の力ではないと思いますが、とにかく肉は「豚」です。
 そして、里芋は「じゃがいも」、葱は「玉葱」、それに「厚揚げ」が入り、味付けは醤油ではなく「味噌」と、内陸の芋煮と全く別物になる点が地域性の違いがモロに出ていて楽しいではないですか。
  
 因みに、私の好きな芋煮は、里芋、牛肉、こんにゃく、葱の醤油味、という村山地方芋煮でありますが(置賜ユダなんで)、それを一晩置いて味が染み込んだものを熱燗で食べるのが好きです。

 「外で芋煮会しないんですか!」

 しませんねぇ・・・

 だって、芋煮会をしてしまったら自分が作りたくなるじゃないですか。

 「それでいいじゃないですか!」

 だって、芋煮を作り終わったら帰りたくなりますもん。

「帰って何するんですか?」

 そうですねぇ、ひと仕事終えた後のビールを飲みに街に繰り出します。

 その後、小料理屋で芋煮を食べながら熱燗飲みたいですなぁ。

 「現場で食えよ!」

 そうなんですよね・・・でも、お疲れ様のビールはお店で・・・(バカ)



















 

全国的に仕入れ数過剰なため短命になってしまったワインの事を考えてみる

2014-10-02 22:58:21 | Weblog
 爽やかな白ワインよりも、スパイシーで樽香が強い赤ワインを身体が欲するようになると「秋だな」と感じるようになります。それは、今までの「鶏肉のローストや魚のソテーなどを白ワインで流す」という軽い飲み方ではなく、「鹿肉や仔羊を赤ワインでじっくり味わう」に食の楽しみ方が変わってしまう事を意味するように思います。そんな赤ワインが似合う今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「私、和食党なんで日本酒です。」冒頭の書き出しを読んでそのように冷静に答える方もいらっしゃると思いますが、一応、当ブログは「フランス料理 マチルダベイ シェフのブログ」でありますからご理解ください。
 そして、今更書く必要もないと思いますが、私はワインが好きです。出来ればすべての店舗様にワインが置いてあればいいな、とさえ思ってしまうくらいワインが好きです。
 休みの日、ワインを選ぶ時、「白ワインはシャルドネがいいな、でも、ソーヴィニョンブランもいいな、赤ワインも飲みたいな・・・」と欲張った挙句、1本に絞れず、ひとりで3本全て飲んでしまうほど、ワインが好きです。
 ワインは「出会い」があり、そして、その味わいや香りは儚い(はかない)ものです。そういうものなんですよ、ワインってやつは。
 しかし、その「儚さ」が異常に短く、いや、ワイン自体の「儚さ」と言いますか、そのワイン自体の人気の「儚さ」と言いますか、とにかくそのもの自体の、ある意味「寿命」が「儚い」ワインと言えば、来月、11月の第3木曜日に解禁となります短命野郎「ヴォージョレィ・ヌーヴォー(ボジョレー・ヌーボー)」ではないでしょうか。
 その時期ど真ん中にはコンビニでも大量に見かけるようになり「ヌーボーデフレ」が発動されますが、その後、1週間もしないうちに片隅に追いやられ、しかも、しばらくすると「値下げ品」として陳列されているのを見ると、悲しみと怒りがミックスされ、流行り物の宿命、という言葉が頭の中を駆け巡り、そして、「ウーパールーパー」「エリマキトカゲ」「ナタデココ」「たまごっち」たちを呪文のように唱えてしまうのです。(一部ウソです)
 「一日過ぎるとヌーヴォーじゃなくなるよね。」そのようにコンビニで話している若者アベック(今言わないでしょうが敢えて「アベック」呼ばわりです。因みに、フランス語です「アベック」は)を見掛けた事がありますが、一日過ぎたくらいで熟成するか!と言いたくなりますな。
 「そんなに言うなら、よほど好きなんですね、ヴォージョレィ・ヌーヴォー。」そのように言われてしまうとうつむいて「いや・・・それほどでも・・・」と小声で呟いてから走って逃げてしまいますが、「かなり好き!」という範疇からは外れてしまいますが、まぁ、好きですよ、ヌーヴォー。(弱気)
 ただ、何と言いましょうか、「今年のヌーヴォーの出来」というのを雑誌で見たりすると、必ず「ここ近年で最高の出来」みたいなことを毎年、書いてあるわけです、毎年最高かっ!
 そして、実際に飲んでから感想を聞かれても「そうですねぇ・・・何と言いますか、若々しくフレッシュな果実の香りと鼻から抜ける咲いたばかりの花のような香りが・・・若々しい・・・です、な・・・以上です。」としか言いようがありません。
 いや、嫌いじゃないんですよ、毎年飲んでいるわけですしね。白ワイン感覚で飲める赤ワイン、ロゼワインより赤に近い赤ワイン、と言いますか、いいじゃないですか、ねぇ、フレッシュな果実味溢れる「ガメイ(ヌーヴォーのブドウ品種。ヴォージョレィ地区はほとんどこの品種です)」で。
 
 「今回は、ヌーヴォー批判記事ですか!」そのように言われてしまうと反省するしかありませんが、言い訳させていただきますと、日本全体的にヴォージョレィ・ヌーヴォーの仕入れ数が多いのではないでしょうか。だから、残って悲しくなっているのではないか、と。

 因みに、ヴォージョレィ・ヌーヴォーに合う料理って何ですかね?(仕事だろ!)

 フレッシュな果実味、というのが根底にあるワインでありますから、普通に考えると「イチゴジャム」なんかが合う、と考えられるわけです。

 七面鳥をローストしたものにイチゴジャムを塗って食べる、若干、アメリカンテイストが効いている料理なんてどうでしょうか。

 鶏胸肉を茹でて細く手で割いたものと苺を合わせてサラダにした料理もあうかも知れません。

 あとは・・・う~ん、芋煮、って事にしときましょ。(投げやり)

 今年は、ヌーヴォーを数本飲んでどんな料理に合うか真剣に考えたいと思います。














一味違う芋煮会。それは基本的に拘り方が違う芋煮会だ

2014-09-24 23:30:53 | Weblog
 街路樹からハラハラと舞い落ちた葉がいつの間にか枯れ、歩く度に「シャリ、シャリ・・・」と枯葉が踏みつけられて砕け散る音が耳に響いてきます。「シャリ、シャリ・・・」数枚重なった葉っぱが踏み壊れる音は、フイユタージュ(パイ生地)や春巻きを噛み砕く音によく似ていますが、それらよりももっと乾いた音で秋の物悲しさを奏でているのです。そして、砕けた葉っぱは秋の雨に打たれてペースト状になり、やがて掃除されて土に帰るのです。そんな事を思わせる枯れた葉っぱはオータムリーブスですな、とひとり呟く今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 日差しがあるのにどこか肌寒い、そんな季節になると山形では「芋煮」というキーワードが蔓延してきます。
 和食の料理屋さんでも「芋煮、始めました」と告知するところや、「今日の休みは友達と芋煮会」というフェイスブック記事も見かけます。1000人規模の「大芋煮会」というイベントもあるくらいですから、山形県民あげて「芋煮文化」を発信している事になるのです。
 稀に「マチルダベイさんで芋煮会の企画とかないんですか?」というご質問を頂く事があるのですが、募集しても人が集まらないと思われますし、仮にやるとなったら一味違う「芋煮会」にしたくなる、という性分なので企画倒れになる可能性があります。
 「その、一味違う芋煮会、って、どういう事ですか?」そのように疑問に思われ、そして、その企画自体が今回のブログネタだな、と思われた方もいらっしゃるのではないか、と推測されますが、それは今日の本題の導入部分であります、と宣言しながら今まさに本題を考えているのです。(ややこしい書き方)
 「一味違う芋煮会」と言っても「食材を高級にする」や「作り方に拘る」というのは山形の芋煮会慣れしている方ならば実践していらっしゃると容易に推測されますから、もっと違う、しかも、大人な芋煮会、というのを提唱したいものです。
 「じゃあ、私たちがいつも行っている芋煮会は、子供な芋煮会なんですか!」と揚げ足を取られてしまうと困ってしまうのですが、ブログネタでありますからご容赦ください。
 「川原でカジュアルに」というのが一般的な山形芋煮会だとしたら、一味違う大人な芋煮会は「川原でエレガントに」を掲げ、「ドレスコードあり」な芋煮会を開催したらどうだろうか、と思ってしまったのです。(行き当たりばったりな展開)
 「川原でやる事自体、エレガントじゃないですよね(苦笑)」と感情表現文字まで付けられて言われてしまうとうつむきながら反論できない自分を責めてしまいたくなるものですが、今回、そんな書き出しネタになったのは「反カジュアル」であろう「マデュロ」という雑誌が本日、創刊になったからであります。(結局、芋煮会は関係ない)
 「マデュロ」。スペイン語で「成熟」を意味するそうですが、この雑誌広告を読んでだいぶ考えさせられてしまいました。
 この雑誌のターゲットは50、60代の男性で「全国およそ1000万人の、やんちゃジジイ、たち(「マデュロ」雑誌広告より抜粋)」だそうで、「ちょい不良(ワル)オヤジ」を経験し、時を経て「やんちゃジジイ」になったシニアたちに「チャラくならない歳のとり方」を教えるのだそうです。
 「ちょい不良オヤジ」の時は「艶女(アデージョ)」なるサブキャラクターまで登場して中年男性に「物欲」という煩悩を刷り込んだのですが、今回は「やんちゃジジイの煩悩108」と題して「やんちゃなのに上品なジジイ」の指南をしております。
 しかし、またしても「魔ダム(マダム)」や「姫ーナ(ヒメーナ)」など女性誘惑系キャラが脇を固め、「煮込みのウマい赤ちょうちんによるのが週一の楽しみ」という「枯れジー」を否定するような言い回し、「転ばぬ先の長寿の知恵」「死ぬまで乗りたい超絶クルマ」「金は残すな自分で使え」といった、どう考えても煩悩の塊のような特集、と雑誌そのものが「やんちゃ」ではないか、と思わせる感がアリアリであります。
 しかも、この広告を読んだだけで想起させるのは、「消費活動の提唱」「シニア貯蓄のやんわりとした否定」と現政権の経済政策を後押しするような趣(おもむき)でありました。
 これからの高齢者社会と経済のあり方の提示なんですかね。そうだとしても「超絶クルマ」は乗れないでしょう、普通の人は。
 
 「上品なジジイ」はいいとして、そこに「やんちゃ」が必要なのか、疑問ではありますが、私もあと10年チョイで「ジジイ認定」を頂きそうなので、今のうちに上品さを身に付ける為、ドレスコードあり、の「芋煮会」というのはどうだろうか、と考えてみた次第でありました。(後付け)

 でも、川原にスーツやドレス姿の集団が芋煮会をしているのは圧巻なんじゃないですかね。

 その時の私の正装は・・・コックコート、ですな。

 華麗に芋煮を作りたいと思います・・・

 中途半端な年齢の「ちょいやんちゃシェフ」っていうジャンルはないんですかね?
























 
 

「不味い」と決めつけてはいけない。そこには見えない「美味しさ」が隠れているから

2014-09-12 23:25:18 | Weblog
 その存在を知ったのはフェイスブックでのある投稿でした。
 私の中学の同級生である女性がフェイスブック(以下FB)にその画像と共に「JA直売所にて“ハックルベリー”というものを購入。早速、ジャムにします。(原文は若干違います)」という文章があげられていたのです。
 その記事を目にして「ハックルベリー?・・・へぇ~・・・」くらいにしか思っていなかったのですが、その画像をよく見るとブラックベリー系にありがちな枝付きの丸く黒っぽい果実でありました。
 本来ならばそこで終わってしまう話なのですが、しばらくして「あの“ハックルベリー”という果実はちゃんとコンフィチュール(ジャム)に仕上がったのだろうか・・・」と、なぜか気になってしまい、彼女のコメント欄を覗いてみると大変な事実が判明したのです。(大げさ)
 「アクが強いというので、重曹を入れたお湯で煮こぼしてからグラニュー糖で煮てレモン汁を入れたのだが美味しくない」とのコメントが載せられており、しばらくするとコメントには「美味しくない」という表現から「不味い」という表現に変わっておりました。
 「不味い」。世の中に、そんなに「不味い」ものは存在するのでしょうか?その文章を読む限り、アク抜きもしており、グラニュー糖の量も適度なものだったように思えます。という事は人為的ミスで不味くなったとは考えにくい状況なのです。
 つまり、「ハックルベリー」自体、それほど美味しいものではない、と判断できます。そうなると「ハックルベリー」なるものの存在が気になってきます。
 ネットで調べてみると「ハックルベリー」という名前から「ベリー系」の果実だと思っていたのですが、「ナス科ナス属イヌホオズキ類」という「野菜系」である事が判明。しかも、更に調べてみると「食べられるのは実だけで、ガクなどにはソラニンという有毒な成分が含まれています」と書かれておりました。
 そうなると気になるどころか、「どんな味なのか」「どれほど不味いのか」という興味の方が強くなり、ついにはコメント欄に「どれほど不味いのか興味があるので送ってほしい」と懇願する事となったのです。
 そんなやり取りがあり、今日、その念願の「ハックルベリーのジャム」が届きました。ありがとうございました、荒川さん。興味のあるものを味わえ、しかも、ブログのネタにもなる、という一石二鳥的な品物に深く感謝いたします。(ブログのネタにする事は、事前に本人に伝えております)
 届くや否や食べる(届くと同時に食べる)、というのは若き者の無作法な食べ方。ここはひとつ、いま一度「ハックルベリー」というものに想いを馳せ、どういう物なのかを自分の中に叩き込んでから食べ味わいたいものです。
 おさらいすると、「ハックルベリー」とは「ナス科ナス属イヌホオズキ類の食用の実であり、食べられるのは実だけでガクにはソラニンという有毒な成分が含まれているものであります。
 ここまでおさらいして、更に興味深く思ったのは「ナス科ナス属」で「ソラニン」という「有毒な成分が含まれてる」という点であります。つまり、この「ハックルベリー」は「ナス科ナス属」「ソラニン」という共通点で「じゃがいも」と親戚関係にあると思われるのです。
 という事は、「ナス科ナス属」の親玉「茄子」、その血統である「じゃがいも」、そして「ハックルベリー」は同じ血で繋がっているわけですから料理に使っても何ら問題はない、いや、料理に使ってこそ、その真価を発揮できる、とは考えられないでしょうか。
 頂いた「ハックルベリーのジャム」の瓶を眺めながら私はそう考え、そして、味見をする事にしたのです。


(これが現物です。これを見ただけでは普通のブラックベリー系ジャムにしか見えません)

 どんなふうに不味いのか、「恐る恐る」ではなく「ワクワク」しながらひとくち口に含んでみると・・・小豆を煮たものに若干、バターを加えたようなどことなくオイリーな風味、それはハックルベリーそのものが発する香りではなく、適度な糖分(たぶん糖度60%までないと思われます)と加えたレモン汁が煮詰まる事によってハックルベリーのかすかな香りを押し上げたのではないでしょうか。
 煮詰められた果実を噛むと少し硬めの小さい種を感じますが、この種も噛んでみると大きくなりすぎた茄子の種に似た食感があり、その後に口に残るハックルベリーの皮は、ピーマンやししとう、なんばんを煮付けたものを食べた時に口に残る皮に似ています。もしかすると、食感だけなら苦みのないピーマンのコンフィチュールと大差がないかも知れません。(味は別として)
 
 「不味い」の定義は人それぞれかも知れませんが、私が食べた限り、これを「不味い」とは評価できません。

 生の状態のハックルベリーを食べていませんから「ハックルベリーのジャム」に限定されますが、作った本人が自虐的に言うほど不味くはありませんし、私はむしろ「美味しい」方に分類できる「可能性のある食べ物」と思います。

 「フランスの田舎町で売っているジャムです。」と言われて出されたら「へぇ、こういうのなんだ・・・」と思えてしまうくらい、ちょっぴり欧米チックな風味さえ持ち合わせています。(フランスにはルバーブジャムという野菜のジャムがあるくらいですから)

 さて、その使い方ですが、「パンに塗って」や「デザートに」というのは正直、おすすめ出来ません。従来の「ジャム」という概念で食べてしまうと「果物感」がなく、どうしても違和感を覚えてしまうからです。(欧米人に成り切って、そっちの味覚で食べるぶんには問題ない、と思われますが)

 では、「パン」や「デザート」に使用できない「ジャム」をどうするか?答えはひとつ、料理に合わせればいいのです。

 「丸鶏のロースト」や「七面鳥のロースト」などのシンプルに焼いただけの淡白な肉(丸鶏の場合は胸肉)には高相性だと思われますし、カルダモンやクミンといったスパイス類にも合うと思いますのでカレーに加えたり、白ワインと共に煮詰めて甘めのソースを作る時にベースとして使用しても悪くありません。

 だからと言って積極的にハックルベリーを仕入れてジャムを作るか、となるとまた話は違ってくるのですが(おいおい)、気になった「未知の味」という部分はクリアしました。

 私が思う「不味い」は人為的なミスではなく、ちゃんと作ったのに10人中9人以上が「不味い」という評価するものだと思います。

 私以外にも「不味くない」というジャッジを下して欲しいものですが、作った本人がダメジャッジを下してますから・・・ビミョーであります。

 興味のある方は是非いらして味を見て頂きたいですな。そして、ブログのネタを・・・ください・・・

















 

 

  

 
 
 


 

日本の男らしい料理とその意義とは何か。それは月のみぞ知る

2014-09-10 23:37:04 | Weblog
 満月は綺麗で神秘的な雰囲気を持っています。昨日のスーパームーンもそうでした。非の打ちどころのない丸さ、黄色掛かった白に浮かび上がる斑(まだら)な模様、どこか凛としていて、自分だけを見つめているのではないか、と勘違いさせる満月。しかし、私は満月よりも欠けている月に魅力を感じてしまいます。真ん丸になれない不完全な月は、悲しみを含んだ微笑で私たちを見守ってくれるのです。そんな事を思わせるのも満月の力なのか、と思ってしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 昨日は「中秋の名月」でありましたが、それにプラスして、月と地球の距離が近くなり、普段よりも月が大きく見える「スーパームーン」でもありました。
 期間限定で「月が大きく見える」というのを知ってしまうと何かとてつもない「特別感」を感じてしまい、月に祈りを捧げたり、月を口実に女性を誘ったりする人がいるのではないか、を推測されますが、月を口実に女性を誘ったが断られてしまい、月に祈りを捧げてしまう、というバッドなバージョンに陥った方がいらっしゃらない事を祈ります、月に。(もう遅い)
 月を口実に女性を誘うよりも、女性を誘う口実として「料理」という手段を取り入れるとよろしいのではないか、と私は思いますし、その手の話は複数回、当ブログにて取り上げております、取り上げておりますよ!男性諸君!(うるさい)
 「じゃあ、あなたはその手段で成功した事があるのですか?」と疑問を呈されてしまうと「そ、そ、それは・・・」と口ごもりながら、「お、お、おにぎりが好きなんだな・・・」と何の脈略もなく山下画伯のものまねをしてその疑問を無きものにしようと画策してしまいますが、料理が出来ない男性より、料理を女性に作れる男性の方がポイントが高いと思うのは私だけではないはずです。
 本日いらしたお客様がカウンターに来て、「料理できる男性は女性からモテるだろうな。もこみち君のように。」と仰っておりましたが、いや、それは基本的に「もこみち氏」はカッコいいので、仮に料理が出来なくてもモテているはずです・・・「不公平」、この言葉を胸に私は生きていきたいと思います・・・
 まぁ、それはいいとして、では、女性に料理を作る際、どんな料理がいいのでしょうか?パスタやカルパッチョ、トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼだったり、とイタリアンで攻める手もあるでしょう。キャロットラぺ(人参のサラダ)や真鱈のムニエル、牛肉の赤ワイン煮だったり、とフレンチ攻める手もあります。(本来ならばこれを一押ししたいところです)しかし、初めて女性に料理を作って食べてもらうのならば(そういう設定)、その料理に日本人の男らしさとその料理を作る意義が無ければいけないでしょう。
 「で、結局、何なんですか?」まぁまぁ、そう焦りなさんな。「日本人の男らしさ」溢れる料理とは一体なんでしょう。私は「肉じゃが」だと思うのです。
 「肉じゃがはおふくろの味ですよ。」 確かにそのような気持ちも理解できます。ですが、「肉じゃが」は本来、男の料理であり、もっと踏み込んで言わせていただければ「海の男の料理」なのです。
 明治時代、イギリスに留学していた東郷平八郎は留学先でビーフシチューを食べてえらく気に入ったのだそうです。そして、帰国後、ビーフシチューを艦上食として食べれるように料理長に作る事を命じたのです。しかし当時、ビーフシチューなど食べた事がない料理長は東郷平八郎の情報だけが頼りでありました。大まかに材料だけは判っても、ワインはない、デミグラスソースなどもない中でどうやって作ればいいのか悩んだ(であろう)料理長は、イマジネーションをマックスに膨らませ、ワイン、デミグラスソースなどの代わりに、酒、砂糖、醤油を使う「日式ビーフシチュー」を完成させたのです。
 どうですか、この料理長の努力。そして、諦めることなく東郷平八郎元帥のために作り上げた「日式ビーフシチュー」こそが現在の「肉じゃが」なのです、感涙ものですよ。
 因みに、今でも海軍の教科書に「肉じゃが」の作り方が載っているそうです。正式名称は「肉馬鈴薯甘煮」だそうです。
 私が子供の頃、母が、ひき肉とじゃがいもを煮込み、あんかけにする、という変化急な肉じゃがを作って出してきましたが心の中で納得できなかったのは、ビーフシチュー的な要素が感じられなかったからかもしれません、ちょっと強引ですが。
 では、「日式ビーフシチュー」というのを念頭に置いて、「肉じゃが」の作り方を考えていきましょう。
 「ビーフシチュー」というのに囚われて(とらわれて)ゴロゴロとした肉を使用するのは完全にやり過ぎです。牛肉、それも適度に脂が入っているバラ肉の、しかも、スライスがよろしいのではないでしょうか。
 では材料です。

・牛バラ肉  ・ヘッド(牛脂)・玉ねぎ  ・人参  ・糸こんにゃく  ・酒  ・砂糖  ・醤油  ・水  ・昆布  ・鰹節

 以上です。

 まずは、鍋に水を入れて軽く洗い切り目を入れた昆布を加えて20分ほど置いておきます。20分経ったら点火し中火にして加熱します。沸騰寸前に昆布を取出し(取り出した昆布は他の料理に使いましょう)、鰹節を入れてから火を止め、5分ほど置いてから布で濾して鰹出汁を取ります。(キッチンペーパーでも可)
 別の鍋にヘッド(牛脂)を入れて点火し中火で炒め脂を出します。脂が出てきたらヘッドを取出し牛バラ肉を火が通らない程度に炒めて取り出し火を止めます。
 鍋底に牛肉の旨味がこびり付いておりますから再び点火して余分脂を捨て、こびり付いた旨味を焦がさないように加熱して酒を加えてこびり付いた旨味をこそげ落としながら酒のアルコール分を飛ばします。(余分な脂を捨てる事をデグレッセ、こびり付いた旨味をこそげ落とす事をデグラッセと言います。フレンチの技ですな)
 酒が沸騰している状態で砂糖を加えて完全に溶かし、鰹出汁、醤油を加えて軽く味を調えます。じゃがいもは皮を剥いて水に晒したもの、人参はよく洗い皮付きで乱切りしたもの、適度に切った糸こんにゃくを鍋に入れて煮込みます。
 鍋の中のじゃがいもと人参に串がスッと入るようになったら先ほど炒めておいた牛肉、くし型に切った玉葱を加えて更に煮込みます。
 玉葱に軽く火が通れば出来上がりです。
 牛肉と鰹出汁の香りが絡み合い、そこに割り込んでくる玉葱と人参の甘さ、出汁の旨味を存分に吸い込んだじゃがいも、そして、それに纏わり付くメドューサのような糸こんにゃく、薄っすらとしか見えてこないビーフシチューの面影は日式ビーフシチューに昇華した証拠なのです。

 鰹出汁を取るのが面倒だ、という方は「鰹出汁の素」を使用してもいいと思いますが、料理を口実に女性を口説こうという男は細部にもこだわるべきかと思われます。

「まぁ、肉じゃがが日本の男らしい料理、というのは理解しましたが、それを作る意義は何ですか?」

 確かに、作る意義は大事です。

 そのメッセージの片鱗は先ほど東郷平八郎に命じられた料理長の話に込められているのです。

 あなた(女性)に命じられた難題(この場合、料理)は、諦めることなく、努力して作り上げます!僕は死にません!という事ですよ。

 そういう一生懸命さは必要ですよ・・・イケメンでない人なら尚更・・・

 で、いいッスかね、お月様。それは























恋と味覚は一緒である。「経験」を繰り返し「知識」として蓄積されるのだから

2014-09-04 22:27:30 | Weblog
 朝と夜の寒暖の差を感じるようになると「夏はもう過ぎ去ってしまったのか・・・」と少し寂しさを覚えてしまいますが、それとは裏腹に、これからやって来るであろう「秋の味覚」や「秋の夜長」など漠然とした「秋の楽しみ」に想いを馳せてしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「○○の秋」や「秋の○○」というように、「秋」には必ずと言っていいほど何らかの形容詞が付き、そして、その言葉が一体化した時、人は「秋」に対して過剰に何かを求め、又は、その言葉に突き動かされてしまうのです。
 「秋の味覚」あぁ、何か美味しいものが食べたい・・・、「芸術の秋」あぁ、絵でも描いた方がいいのだろうか・・・、「秋の夜長」あぁ、DVDを借りて映画を観ようか・・・、「読書の秋」あぁ、途中までしか読んでいない本を読み終わらそうか・・・、「秋茄子は嫁に食わすな」あぁ、毎年その話をブログに書いているような気がする・・・、「アキノ元大統領」あぁ、マガンダガビンサヨ・・・、「あき竹城」あぁ、米沢出身米沢出身・・・、「八代亜紀」あぁ、お約束お約束・・・、「女心と秋の空」あぁ、判らない判らない・・・、このようにいろんな想いが駆け巡るわけです。(後半、しつこかったですか?)
 当ブログも始めてから今日で「2906日」つまり「約7年10ヶ月」も経つわけですから、毎年この時期になると「秋絡み」な話を書いたりするのですが、その大半が「秋に何か始めましょう」的な記事だったように思われます。
 「料理を始めましょう」や「本を読みましょう」などはだいぶ書いたように記憶しております。ですから、今回ネタとして取り上げたいのは「この秋、ワインを飲みましょう」という事です。
 「自分が好きだから、秋という季節に乗じてワイン押しするのですか!」そのように仰られると「そうですよ・・・」とポツリと答え、そのまま走って逃げたくなるものですが、稀に「ワインを覚えたいのですが、どうやったら覚えれます?」というご質問を頂きますので今回、ここに取り上げてみようかと思った次第です。
 正直、ワインを覚えるにはいろんなワインをガンガン飲んで「これが好き」という基準を自分の中に作ればいいのですが、よほど興味があるか、強靭な肝臓を持っているか、の方でない限り一朝一夕では覚えられないのが現実であります。いや、そのふたつを持ち合わせていても難しいかも知れません。
 「そんな事言われても、やっぱり・・・覚えられないし、味が判りません・・・」そのようにネガティブになってしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、私は「味が判らない人」というのは「いない」と思っております。「味」というのは、人間に本来備わっているものではなく、「勉強」して記憶していくものなのです。
 イギリスの哲学者「ジョン・ロック」の「認識論」の言葉を当てはめて考えると、我々の心は白紙であり「生得観念」を有していない。外的な感覚と内省(内的な反省)を繰り返し、経験として蓄積されるのです。ワインを飲んだ、食べ物を食べた、という認識は「単純観念」で、それを経て、それが「どう美味しかったのか」「なぜ美味しいのか」というのを内省するうちに「複雑観念」として記憶されるわけです。「知識」とは、経験から得られるものである、という事なんですな。(かなりざっくりな解釈です)
 つまり、食べた、飲んだ、という行為を繰り返すなかで「この前飲んだものよりこっちの方が美味しい」などの考えが出来て初めて「知識」になり得るわけです。
 という事は、誰にでもワインを覚える事はできる、という事ではないですか。漠然とでいいんです。自分が好きな味はコレなのかもしれない、という事が判りかけると飲んでいて面白くなるのです。
 ワインを飲んでいて楽しい、となると人間、欲が出てきますからそこから本格的に勉強すればいいんです。勿論、本格的に勉強しなくてもいいんです。その場の雰囲気が好き、というだけでもいいんです、むしろ、そっちの方が大事かも。
 リーズナブルなワインでもその場の雰囲気が良ければそれなりのワインに思えてくるものです、要はシチュエーションで味わいも変わってくる、という事ですよ。それも「経験」を経た「知識」になるのですから。

「もっぱら、ワインは宅飲みです。」

 それは良いじゃないですか、宅飲みは宅飲みの楽しみがありますから。

 しかし、それでは覚えられないのです。店へ行き、店のスタッフと相談してワインを決める方が経験的に覚えやすいと思われます。

 その時は・・・当店の方が、よろしいんじゃないでしょうか・・・

 と、一応、店の宣伝もしておきながら、付け加えるならばその楽しみを共有できる人が一緒だと、より覚えやすいでしょうな。

 いいなぁ・・・そういうの・・・

 誰か誘ってワイン飲みに行きたいものですな。

 秋ですから。




















 

9月初めは「夏以上、秋未満」という微妙な季節である

2014-09-02 23:24:31 | Weblog
 青々とした草の匂いと地中から湧き上がる土の匂いが混じり合い「夏」の一部を形成していましたが、その「青々とした」匂いが枯れたような、乾いたような、そんな悲しみを含んだ匂いに変わると季節は「秋」に移行するのです。浮ついた気持から、冷静に考えられるようになる「秋」季節が間もなく到来ですな、と独り言をつぶやいてしまう今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「残暑」と言い切ってしまうには物足りない暑さから始まった9月ですが、逆算してみると9月を入れて今年はあと4ヶ月しか残っていないではないですか・・・光陰矢のごとし、Life is short、ですな・・・
 8月よりもグッと「秋感」が増す9月でありますが、9月になった途端、いきなり「秋認定」してしまうのはフライング以外の何ものでもありません。昨日、実家の墓参りに帰省したのですが、墓参りから帰ってきて夕方の地元情報番組を観ましたところ、9月1日にも関わらずメイン司会の男性及び女性アナウンサー2人が番組初っ端から「芋煮が食べたい」や「秋刀魚が食べたい」はたまた「秋刀魚と芋煮を一緒に食べたい」など「芋煮と秋刀魚」の業者さんから便宜を図ってもらったかのようなトークで盛り上がっておりました。
 確かに、9月は「秋刀魚」の季節であり、山形では「芋煮」の季節でもあります。しかしながら、数日前まで「生ビールが飲みたい」と言っていたのではないか、と推測されるそのアナウンサー、月が変わっただけで「生ビール」から「芋煮」にシフトしてしまうのは安易すぎます。(「生ビールが飲みたい」と発言していたかは不明ですが、ふたりの会話からその発言は容易に想像できます)
 では、「夏以上秋未満」の中途半端とされるこの9月初めは何が食べたいのでしょうか?キーワードを組み合わせていけば何が食べたいか、又は、何を食べたらよいのか、というのが判る、といものでしょう。
 まず、暑さが残っている、と言ってもキンキンに冷えたものを食べたいとは思えません。夜はそれなりに寒くなりますからむしろ少し温か目な料理が良いように思えます。
 かと言って「鍋」のような汗だく系料理というのも敬遠したいところ。という事は、適度に冷えた料理の後に温かい料理、というのがこの中途半端な時期に心地良い食べ物と言えないでしょうか。
 そして、夏の真っ只中に相当量食べていたものにも飽きているはずですから、それも外したいものです。では、「夏真っ只中に相当量食べていたもの」とは何でしょうか?私が思うに「トマト」でしょう。という事は「トマト」は外しです。
 そして、夏に疲れた身体を蘇らせるような気分を味わえる「肉」は外せませんね。
 という事は・・・答えが見えてきたように思いませんか?ここでいつものように方程式を組んで答えを導き出してみましょう。

・問 xを求めなさい。


   x=(適度に冷えた料理+温かい料理)-(トマト×夏)×肉々しい肉

 もう賢明な方ならお判りだと思われますが、この場合、xは「フランス料理」が正解です。(出来レース)

 トマトを多用する「イタリア料理」よりも、コースの流れで季節を味わう「フランス料理」の方が初秋を感じるではないですか。(え~、ワタクシ個人の意見ですから「イタリアンの敵!」などというコメントは受け付けかねます)
 
「そんな事言ったら、和食や中華だってその定義に当てはまるじゃないですか!」

 そのようなご意見を頂きそうな予感がしますが、まぁまぁ、よく考えてください、このブログは一応、「マチルダベイ シェフのブログ」とありますので「フレンチ原理主義」でなければ成立しないわけですよ。(言い訳)
 話を戻します。では「適度に冷えた料理」と「温かい料理」は何でしょうか?何でしょうねぇ・・・何かな?(バカ)
 夏の料理は酸味が利いたものが多かったように思いますので、優しくクリーミーで全体を包み込んでくれるような、それでいて適度に冷えている料理と、肉汁溢れ、噛み応えがあり、且つ、サラリとした中にもコクがあるソースが添えてある温かい料理が良いですな。
 となると、適度に冷えている料理を前菜に、温かい料理を主菜に決めて・・・前菜は「帆立のグリエ カリフラワーと舞茸のピュレ添え」」、主菜は「仔羊のロティ レモンのコンフィが入った茄子と林檎のソテー」なんかが良いのではないでしょうか。
 まず「帆立のグリエ~」の作り方は

 カリフラワーは房に分け、水洗いしてからカリフラワーがやっと入るくらいタイトな鍋に押し込めて少量の水、塩、グラニュー糖少々を加えて蓋をして弱火に掛けて蒸し焼き状態にして過熱します。
 カリフラワーが柔らかくなったら粗熱を取り、少量の牛乳と共にミキサーにかけて仕上げに生クリームを加えて更にミキサーで回し滑らかにします。
 舞茸は房に分け、スライスした玉葱と共にバターでソテーし、完全に水分を飛ばして舞茸の香りを凝縮したらフォン・ド・ヴォライユ、塩を加えて柔らかくなるまで煮込みます。
 粗熱が取れたら生クリームを少量加えてミキサーにかけピュレにします。
 帆立は塩を振らずにグリエし、中は半生の状態であるが少し休ませるとミディアムくらいの焼き具合になるだろうな、と想像できるくらいまで加熱し、グリエし終わったらバットに乗せて少し休ませます。
 皿に2種類のピュレを流し帆立を盛り付け、生食できるシャンピニョンを薄目にスライスして散らし、結晶塩を少量振り、軽くトリュフオイルを振り掛けて完成です。
 
 「仔羊のロティ ~」は

 塩分1%のお湯を300㏄用意し、そこにタイムとローズマリーを加えて20分ほど煮出します。煮出したら完全に冷まして濾してハーブ液を作ります。
 仔羊もも肉を400gに分割し(2~3人前です)、肉にハーブ液を注射します。(注射が無い場合は割愛してください)
 注射したら表面に塩をして表面をラードで焼きます。表面が焼けたら一旦肉を引き上げ、フライパンにラードと皮付きニンニクを加えて弱火で熱してラードを溶かし、肉をフライパンに戻し150℃のオーブンで焼き上げます。(途中、ラードを掛け回しながら)
 房に分けたレモンの果肉をシロップで煮てレモンのコンフィを作ります。茄子は多めのサラダ油で揚げるように炒め油を切っておきます。林檎は皮を剥き小さい角切りにしてバターでソテーし軽くシナモンを振っておきます。
 レモンのコンフィ、ソテーした茄子と林檎を合わせて塩コショウをして味を調えます。事前に取っておいた仔羊のジュ(骨やくず肉で取ったソース)を煮詰めてソースとします。
 焼き上げた仔羊は休ませてジュストキュイ(ミディアムウエルダン)にしカットします。
 付け合せの茄子と林檎、そして、仔羊を盛り付けて煮詰めたジュを流し完成です。

 どうでしょう?こんな初秋を味わうのもいいのではないでしょうか。

 因みに、上記の料理は当店で召し上がれます。(当然ですが)

 しかし、このブログを読まれた同業の方に作られてしまう可能性もありますな。

 その時は・・・食べ比べする、という手もあります。

 こう書いておくと、作られないかな、と思ったのですが・・・確認のしようがありませんな。

 めんどくさいから作らない方がいいですよ!皆さん!(バカ)






















人生の岐路とは何か、それを考えさせてくれた「夏の思い出」

2014-08-28 23:40:05 | Weblog
 うだるような暑さは雨と共に掻き消され、さり気なく頬を撫ぜる風に冷たささえも感じる夜は、静寂と共に熱帯夜から解放された安堵感を味わう事が出来ます。
 「寝苦しい夜はもう来ない」そう思う時、ヒタヒタと秋の先遣隊が近づいて来て夏の思い出を消し去ろうとするのです。だから、もう2、3日だけでもいいから最後の暑さを見せてくれ、夏の終焉よ!と心で叫ぶ今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「暑いのはもうたくさん・・・」と思っていても、いざ、夏が終わる、というのを気温で、身体で、感じてしまうと「いや、実は、それほど嫌いでもなかったんだ、というより好きだったんです、夏。」とその想いを吐露したくなります。
 「でも、夏休みが無かったから、それに付随する夏の思い出もなかったんでしょ。」と半笑いされながら言われてしまうと、悔し涙を堪え、唇を噛みしめながら走り出し、おもむろにバケツに氷と水を入れて頭からかぶってしまいたくなりますが(実際に指名を頂きましたが、かぶらない代わりに広島に寄付します)、確かに「これは!」という「夏の思い出」はないかも知れません。しかし、「夏の思い出」にランクインしてもいいような話は聞きました。
 先日、元アルバイトの「中村嬢(現千葉夫人)」が久々に来店し、連れの女性を待つ間にカウンターで話をしたのですが、その際、彼女から思わぬ話を聞く事となったのです。
 それは、今から7年ほど前、中村嬢(現千葉夫人)の知り合いの団体の方が来店し、食事をしてくださったのですが、その中に母親に連れられてきた娘さんがいらっしゃったのです。(だそうです。だいぶ前の話なのでワタクシはあまり覚えておりません)
 当時、小学校6年生だった娘さんも一緒に食事をし、食事が終わってからカウンターに来た彼女は厨房を見ながら私と話をしたのです。(だそうです。全く覚えておりません・・・すみません!)
 その話の内容は、彼女のお母さんがよくケーキを焼いたりお菓子を作ってくれるので自分もお菓子を作れるようになりたい、という事でした。(だそうです。後ほどまとめて謝罪します)
 その話を聞いた私は、彼女がうまくお菓子を作れるように、と、厨房で使っているルクルーゼのシリコンゴムベラをプレゼントしたのです。(だそうです。全く記憶にございません。この場をお借りして謝罪の弁を述べさせていただきます、申し訳ありませんでした!本当に覚えていません!7年も前の話ですので、ご理解ください!)
 ここまではよくある話ですが(よくある話ではないかもしれませんが・・・)、それから7年後の現在、その小学校6年生だった彼女は19歳になり、東京の大学の食物科に入学し、卒業後はパティシエール(パティシエは男性の場合です)になるのだそうです。
 中村嬢(現千葉夫人、但し書きがしつこいですか?)の話によると、数か月前、その彼女と会って話をした際、今でもそのゴムべラを使っている事、たまに当店が出ているローカリークッキング番組「酒の肴 つくってみーよ」を実家で録画して送ってもらい観ている事、外見がギャルチックになっていた事、などを聞いたそうです。(最後の事柄はあまり関係ありません)
 そして彼女は最後にこう話したそうです。「ゴムベラを貰わなかったらパティシエールの道は選んでいなかったかも知れません。」と。(正確さに欠ける部分もあるかもしれませんが、大体、このような話でした)

 仕事を決める時、何かのきっかけがあるとその道を外れる事はないように思います。今回の事で言わせて頂ければ、そのきっかけが気まぐれであげた「シリコンゴムベラ」だったとしたらそれほど嬉しい事はありません。
 自分の事を顧みて(かえりみて)みると、この仕事を長く続けるきっかけになっているのは、尊敬していた先輩に気まぐれで言われた「お前、料理向いているかもしれないよ。」という言葉とたまに仕事を褒めてもらう事だけだったように思います。
 それ以外は怒られっぱなしでしたが、褒めてもらえるように努力しよう、と思ったのが今まで続いているような気がします。
 
 料理も製菓も人から「美味しい」と言われるまでは大変な道のりが待っています。

 材料の仕入れとそれに伴う吟味、その仕込みとそれに伴う理論立て及び技術、実際の調理とそれに伴う正確さ、盛り付けとそれに伴う美的センス、そして、洗い物と掃除、それらを手抜きせずに行うのは大変な事です。勿論、拘束時間は長く、心が折れそうになる時もあるでしょう。

 しかし、料理や製菓、といった仕事には「夢」があります。

 それを思い描き、実際に再現する楽しみもあります。

 今日「完ぺきだ!」と思った仕事も、明日には「まだだな。」と思うことなど常です。

 極めようとしても極めることなどできない、という事も理解してきます。ひとつの事を極めることなどできないのです。

 だから追い続ける事が出来るのです。

 「オレは極めた」と思った瞬間その人は終わるのです。

 

 中村嬢(現・・・止めときます)の話を聞いて、自分自身、彼女ほどピュアに仕事に対する想いがあるのか、と思うと反省するところがありました。

 それを教えてくれ、ゴムベラを大切に使ってくれている彼女にこちらの方が感謝しなければなりません。

 また違う気持ちで仕事ができるような気がします、ありがとうございました。

 ただ、全く覚えては・・・いないんですよね・・・

 そういう若者が来店の際には・・・またゴムベラをあげたいと思います。

 ゴムベラ、買っとかなきゃ。

 それが、この夏の思い出です。