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ラミ・デュ・ヴァン・エフ シェフのブログ ~言葉の錬金術~

フランス料理に限らず、色んな話のブログ内容です。

罪のない「ウソ」と爽やかな「妄想」が入り組む「エイプリールフール」

2015-04-01 22:38:28 | Weblog
 ほのかに立ち上がる土の香りが冬の別れを告げているようでありますが、これからその土の香りに新緑と桜の香りがプラスされると本格的に春の訪れを感じる事が出来るのです。そして、それに比例してマスク姿の人々が増えるのは花粉症の季節でもあるからです、とちょっとだけ不安を煽ってみたくなる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 いつの間に別れの季節である3月が終わり、新年度である4月がスタートしましたが、よく考えると4月1日の今日は「エイプリールフール」だった事を先ほど思い出しました。
 私が子供の頃は一年に一度しか来ない「公にウソをついてもいい日」に想いを馳せ、「どんなウソをついてやろうか・・・」と考え抜いたものですが、今では4月1日に「真剣にウソを考える」という事を躊躇ってしまうのは「そんなこと考えて(又はウソをついて)何やってんだよ・・・」と失笑とも呆れともつかないビミョーな態度を取られてしまうのを恐れているからかもしれません。もうそんな歳ではない、と云われれば反論もできませんしね。
 しかし、そんなに心に余裕が無くてどうするのでしょうか?ここで一度、「エイプリールフール」という日を再考し、そして、壮大な「ウソ」をついてみようではありませんか。
 大体、「エイプリールフール」という「公にウソをついてもいい日」に小さな、どうでもいいウソをついてしまうから失笑されてしまうわけで、もっとグローバルでビッグなウソをつけば誰も文句は言わないでしょう。ただし、スルーされる恐れもありますが、いいんです、スケールが大きければスルーされても気持ちだけは昇華されるというものでしょう。
 まず「こういうウソはダメ」という事例を挙げてみたいと思いますが、大きいウソならいいからと言って話を中東あたりに絞ってウソをついてしまうのは世界規模で危険です、気を付けたいものです。
 ではどういうウソがダメなのか。

「実は夢のような細胞を発見したんです。」

 これはダメです。確かにスケールは大きいかも知れませんが、とりあえずこれはダメな部類と言えるでしょう。

「熱海で釣りをしていて記憶を無くし、気が付いたら小田原で発見されました。」

 これもダメな部類でしょう。「若人あきら(現・我修院達也)事件」を知らなければ全く分からず、ややもすると自分のホントの話で吹聴される恐れがあります、気を付けたいものです。

「実はアンジェリーナ・ジョリーと付き合っていた時期がある。」

 これはウソというより願望です。この話はとりあえず胸に仕舞っておきましょう。

「実は泉ピン子と付き合っていた時期がある。」

 ある意味スケールが大きくネタとしては面白いのですが、ウソの質としてはどうでもいいようなウソです。

 では、どういうウソがスケールが大きく、グローバルなんでしょうか。基本的には(この場合の「基本」とは私が一方的に考える「基本」です)、世界の要人が登場しなければなりません。(あくまでも私個人の考えですよ)
 ですから、話の始まりは

「30年来、親しくさせてもらっているオランド(*1)から先日連絡があって、たまにこっち(*2)で一緒に食事でもしないか、という事だったので合って来ました。」

 というのが良いのではないでしょうか。(*1)フランスの現大統領です。 (*2)フランスの事ですな。
 それからの流れとしては、

「彼が案内してくれたビストロ・シェ・ラミ・ルイ(*3)でランド産フォワグラとプーレ・ロティ(鶏の丸焼き)を食べていたら、マドンナ(*4)が来店してビックリしました。オランドにその事を聞くと、マドンナはフランスに来るとラミ・ルイで食事をするんだ、と教えてくれました。」

 ここまで来ると「ウソ」というより「妄想」が入ってきますが「エイプリールフール」にそんな事は関係ありません。(*3)レピュブリック広場にほど近い、パリでもその名声の高さで一、二を争う伝説的なビストロ。 (*4)マドンナがラミ・ルイで食事する話は本当のようです。

 まぁ、今回はフランス編でありましたが、「30年来の友人、バラクから先日連絡があり、妻のミシェルがそっちに行くからよろしく、と言われました。」というアメリカ編でもいいわけですよ。

 もうすぐ「エイプリールフール」も終わりですが、「ウソをついてもいい」と言われても「つけるウソ」はそんなにありません。むしろ、日常にこそ「ウソ」が潜んでいるわけですからそっちの方を警戒した方がいいのではないでしょうか。

 新年度の初日に人間の性善説を試すような「エイプリールフール」とは一体誰が考えたのでしょうか?

 そんな事を考えながら、ウソのない料理を作らなければならないな、と思った次第です。

 意外と「ウソのある料理」ってありますからねぇ・・・















文章を短くすると真実が見えてくる、というのは本当だろうか。

2015-03-11 23:44:41 | Weblog
 この時期必ず、聞こえてきた春の足音をかき消すかのような突然の降雪があり、空から「喜ぶのはまだ早い」と囁かれているようであります。ふと気になって灰色の空を仰ぐと、タンポポの綿毛のような雪がゆっくりと降下し、地面に着地して融け、着地して融け、を繰り返しながらもいつも間にか白い世界を構築していくのです。その姿がなぜか悲しく見えてしまうのは4年前を思い出してしまうからか、と思ってしまう3月11日の今日、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 4年前の今日を思い出すと、「寒く、暗い、出口のないトンネルに入ってしまったようだった」と形容したくなります。
 話が沈んでしまうのであまり書きませんが、あの時は大変でした。面と向かって「こんな大変な時に、フランス料理は食べないよね、普通。」と言われてしまい、本気で店を畳んで出稼ぎに行こうか、と思ったものです。
 被災地の方々の苦労に比べれば苦労のうちにも入らないのでしょうが、当時の被災地の状況、山形の状況、街の状況、そして、店の状況を思い出してしまった次第です。「東日本大震災」でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りすると共に、一日も早い真の復興を願うばかりです。
 
 今回は時間が無いので長文にはなりません! と思います。たぶん、短めの文章になると思うのですが・・・判りません、どうなるかは。これからの話の流れ次第でしょう。(早く書けよ)
 毎回、「たまに短めの文章にしてみよう」とは思ってみるのですが、何となく物足りなくなり、かなりの勢いでキーボードをタイピングしているうちに結局、長文になる、というパターンがほとんどです。
 いつも長文を書いているからか、短めの文章を書く方が難しく感じる、という訳の分からない文章スタイルになっているのですが、もっと書きたい事をタイトにすれば文章は短くなるのでしょう。(当たり前ですけど)
 前にも当ブログでチャレンジした事ですが、まずは一度普通の文章を書き、不要な部分を削除していって文章を短くする、という手法を試してみたいと思います。
 前回、普通の文章の内容は自宅で飼っている猫の話でしたが、今回もうちの猫の話を書いて、そこから文字数を減らしていきたいと思います。


    「うちの猫」


 うちには猫が3匹います。3匹とも元々は野良猫でした。捨てられた猫が可哀想で飼い始めたら子供たちが拾ってきたりして数が増えていったのです。その中の一匹、茶トラの「ココ」は生後すぐに捨てられたところを子供が見つけて拾ってきたのです。すでに2匹飼っていましたから「今さら1匹増えても一緒だな」と思って飼い始めたのですが、子猫だった「ココ」も今では大きくなり、すっかりデブ猫になってしまいました。
 母親の愛情を知らないからか、やけに甘えてくる「ココ」は、ぬいぐるみみたいで可愛いのですが、太り過ぎて自分でお尻を掃除できなくなり、時々、おしりに「うんち」が付いていたりするのでハードに甘えられてもそれが気になってその甘えを真正面から受け止められません。しかも、尻尾をピンと立てておしりを向けて近づいてきたりしますから尚更です。
 その甘えに対する受け止めを躊躇しているとこちらをジッと見つめてひと鳴きするのですが、「何でだよ!」と本気で訴えているようで笑ってしまいます。
 他の猫におしり掃除をしてもらえば済む事なのではないか、と思うのですが、猫3匹の中の「猫関係」も色々あるようでそうもいかないようです。
 寝ている時に「ココ」が上に乗っかってくると金縛りになったような感じになり恐怖を覚えますが、ワインを飲んだ後、枕代わりにして寝ると気持ちがいいですし、根が優しい猫なのでおしりの件は帳消しにしたいと思います。
 「ココ」、いつまでも長生きして我々家族を癒してください。

 おわり


 まぁ、何となく普通の文章ですよね。さぁ、これを短くするわけですが、短くすると意外と真実のみに焦点が当たるものです。では、いってみましょう。


   「うちの猫」


 うちの猫は元野良猫です。可哀想で拾ってきたら数が増えました。茶トラの「ココ」は子猫だったのですが今ではデブ猫です。太り過ぎてお尻を掃除できなくなり「うんち」が付いていますが甘えてきます。「うんち」が付いているから甘えを受け止められません。寝ていると上に乗っかってきて金縛りになりますが枕みたいで気持ちイイです。いつまでも長生きしてください。


 だいぶ短くなりましたが、「母親の愛情を受けていない」などの感動的な部分は削除され、判りやすい真実のみが語られているようです。では、更に短くしていきましょう。



   「うちの猫」


 うちの猫は野良猫でした。可哀想で数が増えました。茶トラの「ココ」はデブ猫です。お尻を掃除できなくて「うんち」が付いてます。だから甘えて来ても受け止められません。上に乗ってきて金縛りになりますが枕で気持ちイイです。長生きしてください。


 ここまで短くするとかなりおざなりです。「可愛い」や「愛情の話」はカットされ「ココ」はデブでうんこが付いている、という事実のみが強調されています。さぁ、更に短くするともっと真実が見えてくるはずです。いってみましょう。



   「うちの猫」

 うちの猫はデブ猫で「うんち」が付いてます。だから甘えられても困ります。上に乗ると金縛りですが枕です。長生きしてください。


 
 辛うじて「猫」である事が判るレベルですが「枕」にも思えてきます。何となく書かれている「長生きしてください」が悲しく感じますね。では、もっと短くしてみましょう!



   「うちの猫」

うちの猫はデブで「うんち」です。甘えないでください。金縛りな「枕」ですが長生きしてください。



 こうなると猫の形をした「うんち」にも思えてきます。「金縛りな枕」扱いされているのを「ココ」自身知りません。では、最後、もっと短くしてみましょう!


  
   「うちの猫」

 うちのデブは「うんち」です。枕で長生きです。



 笑えません。もう猫ではありませんし。最終的には「枕」になってます・・・




 結局今回も話が長くなりましたが、誤解しないでいただきたいのは、うちの猫「ココ」は可愛いですし、好きです。ホントに長く生きてほしいな、捨てられた分以上に長生きして欲しい、と思っておりますことをここに記させていただきます。


 悲しげな出だしだったのにこんな内容になってしまいましたが、他意はございませんのでご理解ください。


 この静かな雪はいつ治まるのか、そんな空模様ですが、あの時より少しでも前に進んだのだろうか、と思ったりもします。


 早く雪が止み、土の匂いがする「春」になる事を祈って。
















 

休みの日の昼食時、食事以外の選択を迫られた事はないか。

2015-03-04 23:19:00 | Weblog
 私は独り暮らしが長かったためか、家族を持った今でも休みの日は独りで行動する時間を作りたいと思ってしまいます。(強引な理由ですが・・・)
 家族が寝静まってから独りで飲みに出かける、というのもいいのですが、私が休みの日の夜、奥さんに飲みに出かけるよう促して(うながして)、貸しを作る、というのも悪くありません。普段の罪滅ぼし、という意味でもあるのですがね・・・そうなると、独りで行動するのは日中に限られてきます。
 休みの日(月曜日)の日中に何かする、といってもやれる事はそれほどあるものでもありません。しかし、自分独りしか判らない楽しみ、というのもあるわけです。
 私の場合、その楽しみは、休みの日の「昼食」であります。「昼食」と言っても何処かに行って特別なランチを、というものではなく、近所の店、とりわけ、顔馴染みの店やいつも行く店で食事する、という何の変哲もない事であります。
 何の変哲もない昼食、といってもその店を決める基準はその昼食時に読む本で決定されますから私にとっては大問題であり、かなりの苦悩を伴う「大選択肢」と言っても過言ではないでしょう!(基本、大げさです)
 休みの日の午前、前の日のアルコールが抜け切れていない状態で起きる私は(大抵、休みの前の日は飲んでしまいます)、シャワーを浴びながら前の日にどれくらい飲んだか思い出そうと努力し、途中思い出せない所はショートカットしてそれほど飲んでなかった事にしときます。(コラコラ)
 シャワーを浴びたら歯を磨きながら地元新聞を読み社会情勢なども閲覧しながら「おくやみコーナー」をチェックし、最後に「易大八先生」の「月別占い」を見ながら「今日こそ当たるのか~」と独り言をつぶやいて「リステリン」で口内洗浄も行います。(早く話進めろよ!)
 その後、髪を乾かして、具合が悪い場合はもう一度軽く寝ます。(早く話を!!!)10分くらい寝てから起き出して髪をセットします。(話進めろ!!!)
 そして、着替えている時に自分自身、何が読みたいか考えてみます。考えてみても思い浮かばず、具合が悪い場合はちょっとだけ横になります。(どうでもいいから話進めろ!!)
 外に出て、歩いている途中で読みたい本を考えてみます。

「今、オレは活字が読みたいのだろうか?それとも漫画が読みたいのだろうか?活字が読みたい場合は本屋さんへ行って本を買ってこなければならない・・・そうなると、蕎麦(*1)か天ぷらか、な・・・それでもいいのだが・・・美味しんぼ(*2)を読みながら、かけそば(*3)でもいいかも。いやいや、待てよ、週刊ポスト(*4)で辛みそラーメン(*5)という手もあるな・・・いや、しかし、クライングフリーマン(*6)でワンタンメン(*7)という手も・・・いや、クライングフリーマンよりスプリンター(*8)の方がいいのか・・・ゴルゴ13(*9)かナニワ金融道(*10)で温麺(*11)という手もあるが・・・とりあえず、本屋さんで考えるか・・・」

(*1)この場合の蕎麦屋さんはおつまみが充実しているお蕎麦屋さんです。

(*2)雁屋哲氏原作の料理漫画。私は初期作品の方が強引な内容で好きです。海原雄山の罵倒セリフも好きです。

(*3)この場合の蕎麦屋さんは盛りが多い労働者系の蕎麦屋さんです。目的は漫画なので忙しいランチタイムを敢えてはずして入店。

(*4)あると何となく手にしてしまう週刊誌。グラビア系写真になると周りの目を気にして手早くめくってしまいます。

(*5)辛みそラーメンが有名なお店。忙しくない時はメニューにない特別ラーメンを作ってくれるので感謝してます。

(*6)小池一夫、池上遼一コンビの傑作。以前、白牙扇(ペーヤーサン)の話でだいぶ酒が飲めました。(判らない人はスルーしてください)

(*7)冷やしラーメンが有名な店。でも、温かいワンタンメンが好きです。忙しいと味がブレるのでお昼時は外して入店。

(*8)小山ゆう先生の陸上漫画。この漫画を置いてある店は山形に一軒だけです。

(*9)さいとうたかお師匠の代表作。自宅に140巻ほどあるのに余所でも読みたくなる漫画。ゴルゴの話でワインを飲む「ゴルゴとワインの夕べ」というイベントを開催したいです。

(*10)青木雄二先生の金融漫画。安易に借金したらダメだな・・・と思わせる内容で、本当は昼食には合わないのですが・・・

(*11)夜遅くまでやってる焼肉屋さんですが、最近はランチもやってます。宣伝しないからかあまりお客さんが来ないのでゆっくり本を読めます。ただ、あまりゆっくりしているとオバちゃんが露骨に閉店しますから要注意。


 このように考えながら本屋さんへ向かい本を物色するのですが、昼食に合わせる本に「料理本」はご法度です。余所の飲食店で料理本を持ち込んで読むのはマナー違反と言えますから気をつけましょう。
 何も考えずにスラスラ読める本、というのは探そうとすると難しいものですが、酒井順子女史のエッセイなんかは昔から読んでいるので意外と好きです、面白いですし。
 
 本当にどうでもいい時は「オーパーツの謎」のようなミステリー系に走るのも悪くありません。

 時間がたっぷりある時には「松本清張」大先生の小説がいいでしょう。何となく主人公だけが犯人を判ってる的なお約束もさることながら、緻密な構成と昭和初期の時代背景が妙に心地良い本であります。

 今はスマホの時代ですから漫画を読みに、というと笑われるかも知れませんが、いいんですよ、自分だけの楽しみなんですから。

「スマホで昼食時に見るのはフェイスブックです。」

 まぁ、それもいいでしょう。

 しかし、昼食時にスマホを見るなら、見るならですね!

 当ブログが良いじゃないッスカ?

 文章が長いから暇つぶしになりますぜ。























 

大学進学だけが「進学」ではない。料理の学校へ行くのも「進学」である

2015-03-03 23:38:15 | Weblog
 時折降る雪が気になりますが、身体の芯から冷えるような寒さを感じる事は無くなり、ぼんやりと「初春」という文字が見えかける頃、別れの季節はやって来ます。街には制服姿の学生たちが溢れ、その表情は「卒業」の悲しさよりも「卒業」の先にある「出会い」への期待で輝いているのです。その姿を見て「Stay boy, Stay gold・・・」と映画「アウトサイダー」のセリフを口走りたくなる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 更新頻度がかなり落ちている当ブログではありますが、ブログを続ける意思はあるんです、あるんですが、書ける状況が整わない、と言いましょうか、PCを開く状況が整わない、と言いましょうか、まぁ、まずは言い訳から始まる書き出しですよ、今日のブログは。
 2月、節分やバレンタインデーなどがありますからその前後に絡めたネタで書けるな、と思ったのですが、気が付くと3月に突入しているではありませんか!早すぎるぜ、2015!
 先ほども書きましたが、3月は「別れの季節」で「ご卒業」「ご転勤」「ご更迭」など、言い換えれば「移動の季節」とも言えるわけです。(「ご更迭」は3月じゃなくてもあるのか・・・)
 特に高校生の方々は「卒業」すると「進学」と「就職」に分かれてしまうので、かなりの「別れ感」があるのではないでしょうか。更に細かく分類すると「進学」も「大学進学」と「専門学校進学」に分かれます。
 今回は「専門学校進学」の、私の分野である「料理」の「専門学校」、つまり「調理師専門学校」について考えてみましょう。
 私は「調理師専門学校」に通った事が無く、中学卒業と同時に厨房に現場入りしたストレートな奴でしたので「調理師専門学校」の事はそれほどく詳しくないないのですが、稀に「すぐ現場入りするのと調理師専門学校に行ってから就職するのとどっちが良いですか?」というご質問を頂く事があります。
 その質問を提示してくる方は大抵、親御さんだったりするのですが(まぁ、本人からは質問しづらいでしょうからねぇ)、私個人の意見を述べさせていただきますと、調理師専門学校に通い、予備知識を付けてから現場入りする方が良い、と思われます。
 「お前、調理師学校に行ってないんだろ!」そのようなお言葉を頂きますと、ホロリと涙を見せて「三好鉄生」の「涙をふいて」を歌いながら「頑張りまッス!」と一言、言って(古っ!)走り去るかもしれませんが、よくお考えください、調理師専門学校に行かなかったからこそその「良い点」と「悪い点」が見えてくるわけです。
 私が料理の世界に入ったばかりの頃は、とりあえず「気合い」が合言葉で、技術的な問題も「気合いで乗り越える」という「料理=技術と気合い」という図式でありました。
 当時の先輩で「調理師専門学校」を出て現場入りした人はあまりおらず、なぜか判りませんが「調理師専門学校卒=軟弱」という訳の分からない持論を展開する方が多く、「専門学校ワンクッション就職」に否定的でありました。(たぶん、専門学校に行けなかった嫉妬心なのではないか、と今では汲み取れますが・・・)
 しかし今ではどうでしょうか、予備知識なしで料理の現場に入る事の方が困難であります。一から教える時間もありませんし、仮に高校卒業後すぐに料理の現場に入っても、料理現場の理想と現実の乖離に辞めてしまう事は必至でしょう。(私の友人で寿司屋さんに入ってすぐ辞めたヤツがいましたが、理由は「握らせてもらえないから」だそうです・・・辞めて正解でしょう。因みに、現在彼は料理の仕事には就いていません。そんなもんです)
 では、本題の「調理師専門学校」の「利点」を考えてみましょう。まずは「調理師免許を取得できる」。これはだいぶ利点なのではないでしょうか。しかし、取得できる調理師免許は国内でしか通用せず、海外ではほとんど意味を成しません、経験上ですが。
 次に「すぐに実習ができる」。やはり料理は包丁やフライパンを使って「作る」という行為に魅力があります。現場に入るとそれをさせてもらえませんから即実習というのは嬉しいでしょう。
 次に「勉強ができる」。調理師免許を取得するにはそれ相当の勉強をしなければなりません。その教科は「衛生法規」だったり「公衆衛生」などの「食中毒対策」的な物から「食品学」「栄養学」「調理理論」といった「理論もの」まで幅広く教えてくれます。それらを勉強できる、というのは嬉しい事ですし、後述しますが、料理は「理論」であります。
 次に「友達ができる」。これはどの学校でもそうですが、料理を通じて友達になったやつと切磋琢磨するのは良い事です。ただ、勉強しない怠惰な奴と友達になってしまうと大変ですから気を付けたいものです。
 最後に「就職先を斡旋してくれる」。もしかするとこれが一番大きいかも知れませんし、ここが一番重要かもしれません。ただ、調理師専門学校の場合、ホテルや結婚式場などの大型施設を推してくる場合が多々あると漏れ聞きます。それは労働条件の事を考えてでしょうから仕方ありませんが、街場のレストランで頑張りたい、という方は最初からその意思表示をするべきでしょう。

 これが私が考える「調理師専門学校の利点」でありますが、先ほど「後述する」とした、料理の理論の話ですが、デザートやパンは勿論ですが、料理も数字や理論に支配されている、と私は思います。
 
 そうなると、「機械で作った料理が一番うまい」という事になるのですが、そうならないのが料理の面白いところでしょう。

 では、料理、いや、調理に数字や理論以外に必要なものは何か?

 それは「季節感」や作り手の「感情」、そして、作り手が見て、聞いて、感じた事全てをフィルターにかけた「表現方法」だと思われます。
 
 そのためには作り手、つまり、料理人が立ち止まらずに勉強する事ではないでしょうか。音楽、絵画、陶器、ワイン、日本酒、ウイスキー、リキュール、書籍、写真、・・・他にももっとあるでしょうが、それらをどう感じ、どう料理に投影していくか、大事な事であります。

「それを勉強する為にはどうしたらいいんですか?」

 良い質問です。

 そうですねぇ、「気合い」ですかねぇ・・・たぶん・・・

























愛を司り(つかさどり)、人の心を翻弄させる贈り物。汝の名は「チョコレート」

2015-02-18 22:12:15 | Weblog
 晴れ、雪、雨、晴れ、雨、雪・・・そんな不安定な天候は人の心をどんよりさせ、時として思い出したくもない事をふと、思い出したりするものです。早く抜けるような青空が見てみたい、そう思いながら厨房に籠って(こもって)いる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 なかなかブログに着手できずにいたらもう2月半ばになってしまいました。気が付くと2月最初の投稿はこの記事だったりするわけですが、実は、「バレンタインデー」のど真ん中、2月14日に記事を書いていたのです。
 しかし、途中で色々あって書く事が出来なくなり中途半端のまま保存していましたので、今回、件の記事を引っ張り出して加筆し、完成させアップしようと目論んだわけです。
 もう過ぎ去ってしまった日の事ではありますが、「バレンタインデー」を思い出す為の記事、という事でご勘弁ください。
 それでは「2月14日」夜9時過ぎに書いた文章を再生させた記事です。いつものように長文でありますから覚悟してお読みください。
 



春らしい兆しを見せていたのもつかの間、一転、真冬の形相に変わっている気候を見ると、チョコレートを貰えると思い込んでいたのに全く貰えなかった男の哀愁を思わせる、そんな男としてのジャッジメントデイと言っても過言ではない「バレンタインデー」の今日、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 毎年このネタに触れておりますが、「バレンタインデー」とは愛の殉教者「バレンタイン司教」を偲び、そして、祈りを捧げる日である事をどれだけの人が知っているのでしょうか。
 古代ローマ時代、兵士の士気が下がるから、という理由なのかどうかは判りかねますが、「結婚禁止令」という訳の分からない法律を制定されてしまったため引き裂かれた二人の愛を取り戻すために死を覚悟で結婚させたバレンタイン司教は真の愛を知ってらっしゃったお方なのでしょう。
 そんな逸話とチョコレートがどう関係してくるのかだいぶ疑問でありますが、今現在の2月14日は「チョコレート」を「貰った」「貰えなかった」という審判の日だと認識されているのではないでしょうか。
 今回考えたいのは、チョコレートを「貰えた人」の事ではなく「貰えない人」について考え、そして、来年の2月14日に巻き返しが出来る様に頑張っていただきたいものです・・・、いや、頑張りましょう!みんな!(私も貰えませんでした)
 まず、「貰えない人」に共通しているのは、「チョコが嫌いだから」とか「甘いものが苦手」などと誰も聞いていないのにそんな言葉を漏らしけん制したり、バレンタインデーそのものを忘れようとするネガティブな人であります。
 それではいけません。しかし、もっといけないのは、「チョコレートを貰った」という事実を作るためにスナックやキャバクラへ行く人や、チョコレートを貰った人に異常な敵対心を持ってしまう人です。
 これからの「貰えない人」、つまり「新・貰えない人」は、自分で買って自分で食べる「バレンタインデー自己完結型」が良いのではないでしょうか。
 チョコレートを自分で吟味して買い、そして、そのチョコレートを味わう、ややもすると少しキテる人に思われるかも知れませんが、そのチョコレートを味わい、そのチョコレートを想う時、思いもよらない事を発見するのです。
 生チョコなどの中身は「ガナッシュ」というクーベルチュール(脂肪分の高いチョコレート)と生クリームを混ぜた物でありますが、その被覆(外側の薄く固いチョコレート)はクーベルチュールを溶かしてから少し冷まし、さらに温度を付けて33℃をキープしてチョコレートの結晶を安定させる「テンパリング」という作業を経ているのです。
 そこには「チョコレート」に対する「愛」を垣間見れるではないですか。チョコレートの特性を頭に叩き込み、それを最大限に引き出すにはどうすればいいのか、そして、一口で食べた時の満足感をどのように表現するのか、それを悶えながら考え、悩み、仕事に投影する・・・愛あるが故の事でしょう。
 昔、「恋と愛の違い」というのを「恋はただ好きなだけだが、愛は死ねるほど好きなのだ」と日本酒を飲みながら語ってくれた方がいらっしゃいましたが、ショコラティエ(チョコレート職人)は、チョコレートと共に死ねるほど好きなのが判るはずです。いや、それを判らずにチョコレートをただ何となく味わっていいのか、いいのか?!(うるさい)
 ですから「新・貰えない人」はチョコレートを愛し、そして、その素晴らしさを女性に教えれるような、そんな男性になるべきなのではないでしょうか。
 「チョコレート」を「貰えない」という「汝自身を知り」そして、「汝、チョコレートを愛す」という境地を切り開くのです。逆に考えれば、「貰えた人」よりも「貰えない人」の方が愛の真理を理解できる状況に置かれている、と言っても過言ではないでしょう。(いや、若干、過言かも知れません)
 
「そんな事言っても結局、チョコレートを貰えない僻み(ひがみ)なんでしょ!」

 そのように呆れて言い放つ方がいらっしゃるのは容易に想像できますが、そんな事はありません!

 チョコレートというのはですね、ただ溶かして捏ねて固めればいいものではないのです、そこには愛が・・・愛が!・・・とりあえず、この辺にしときますかね。

 因みに、私は「メゾン・デュ・ショコラ」のチョコレートが好きですな。

 感じるんです、愛を。そして、生みの苦しみも。

 やはり、「貰えない人」の方が愛に敏感になれるのかも!(自分勝手)





 と、こんな記事でありました。
 中途半端にした記事を改めて読んでみると「こっからどうやってオチつけんのよ・・・」とガックリきましたが、強引に終わらせる事が出来ました。(強引に終わらせた、と言った方がいいのか・・・)

 因みに、この後、チョコレートを数名の方から頂く事が出来まして、「貰えた人」になりました。

 貰えた事はうれしいですし有難いのですが、ブログのネタを膨らませるのには全く貰えない方が良いような気がします。

 でも、貰えないと貰えないで寂しい気もしますしねぇ・・・

 その辺どうなんでしょうか?バレンタイン司教!














 

 

常に選択を余儀なくされ、その評価を気にしなければならない仕事とは何か

2015-01-27 23:37:40 | Weblog
 鼻の先が赤くなっているのが判るくらいの「寒さ」なのに、突き抜けるような青空が見えていると「寒さ」を許せる気持ちになってしまうのは晴々とした青空のせいでしょう。それが灰色の曇りだったら「寒さ」どころか空の色さえも許す事は出来ず、悶々とした1日を過ごす事になるのです。そんな事を思いながら青空を仰いで買い出しに出掛けた今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 人は中途半端な色を見続けるとストレスが掛かってしまう、という話を何かの本で読んだ事がありますが、それが本当であれば空の色も「青色」より「灰色」の方がストレスが掛かりやすくなる、という事なのでしょうか。
 確かに、「灰色」は「黒」と「白」の中間色でありますから「中途半端な色」と言えるのでしょう。だったら「赤」と「白」の中間色と言える「ピンク」もストレスが掛かるのでしょうか。だとしたらゴレンジャーの「ピンク」は相当ストレスを抱えている事になります。いや、逆に敵にストレスを与える為の色使いなのか・・・
 それを基(もと)にして考えると料理の色もくすんだ色より鮮やかな色の方が美味しそうに見えるわけで、例えば、ほうれん草も長く茹でてくすんだような緑で出されたら食べる側も元気がなくなってしまう、というものでしょう。
 やはり、鮮やかで目に焼き付くようなほうれん草の緑、焼く前以上に赤くなったのではないかと思えるような肉の断面の赤、白い皿に同化しそうなじゃがいものピュレの白、など何気ない料理でもその色というのは大切なのです。
 しかし、料理をその色に仕上げるまでは細心の注意と調理理論、そして、調理技術が必要になってきます。ほうれん草は茎と根の部分をどれだけ加熱するか、葉の部分はどのように短時間過熱にするのか、肉はどのように焼いてどれだけ休ませるのか、じゃがいもは皮付きでで茹でるのか、それとも皮を剥いて茹でるのか、など考える力、そして、それを確実に調理できる技術というのが必要になってくるのです。
 肉を例に取り上げて考えてみますと、最近よく「ギリギリの火入れ」という言葉を聞きますが、「ギリギリの火入れ」というのは「ギリギリ」まで「火を入れる」という事ですから、「ギリギリ」で「生」はアウトです。
 例えが悪いかも知れませんが「ギリギリの火入れ」というのはある意味、崖っぷちのチキンレースみたいなものですから「ギリギリ」で止まらなければならないわけです。
 たまにレストランに食べに行って肉を食べると調理した人のその時の精神状態が垣間見える事があります。

「忙しくて肉に掛かりっきりになれないのだろう。ギリギリを目指したが結構手前で止まったな・・・。火を入れ過ぎるよりは生っぽい方を選ぶ人・・・ギャンブルを好まない堅実な人間性ですな、この肉を焼いた方は。」 

 と人間性まで分析できます。(ちょっとだけ大げさです)
 まぁ、たまには崖をブレーキ無しで飛んで行ったような肉焼きの方もいらっしゃいますが、それはそれでアッパレです。勇気がある、というのとちょっと違いますが・・・
 例えば、牛肉だったらかなり手前で止まってもいいでしょう、「セニャン(レア)」という肉焼きの分類があるわけですから。しかし、「豚」「鶏」「仔羊」にその論理は通用しません。特に「仔羊」、「骨付き仔羊」だったら尚更、というより、一番神経を使うのではないでしょうか。
 「仔羊」の焼き方に「セニャン(レア)」はあり得ません。肉の中心部分がちょっとだけ生、というのも許されないでしょう。なぜそんなにこだわるのか。それは、「仔羊」の肉というのは火が入って初めて香りが立ち、そして、その美味しさを十分引き出した、となるからです。(「なるからです」と断言してますが、私個人の考えですのでご了承ください)
 「あの匂いが嫌で・・・」そのように思われる方もいらっしゃるでしょう。それは判ります、判るのですが、あれを「匂い」と捉えるか「香り」と捉えるかでだいぶ「仔羊」のイメージが変わってきます。
 クセのある香りが苦手、という方は多いと思われますが、あの香り、いや、あのクセが無かったら「仔羊」は美味しく感じられないのではないか、と思うわけです。
 クセのない「ナンプラー」、クセのない「たくあん」、クセのない「ハーブ」、クセのない「鮒寿司」、クセの強いものは、逆に考えればクセが無ければ美味しくないんです。でも、「ドリアン」はクセが無くてもいいですけどね。
 話が逸れました。「仔羊」に限りませんが、肉というのはキチンと火を入れてこそ、その素材の美味しさを引き出せるのです。しかし、火を入れ過ぎてしまうと肉が縮み、ジュ(この場合は肉汁)が出てしまい旨味の逃げた肉料理に成り下がってしまいます。
 だから料理人は葛藤するのです。これ以上オーブンに入れるべきか、それとも今出して余熱で休ませて火を入れるか、しかし、中心がちょっとだけ生だったら・・・じゃあ、もう少しオーブンに入れるか・・・でもこれ以上お客様を待たせるわけにはいかないし・・・、そんな心の葛藤があるのです。

 そんな葛藤は肉料理だけではありません。
 
 魚はどう焼くのがいいか、野菜はどう調理するのがいいか、ソースはどこまで煮詰めるか、付け合せは何にするか、常に選択を余儀なくされ、その評価を気にしなければならない仕事、それが料理人という仕事なのです。

 ちょっとマゾっ気がなければ出来なそうな仕事でありますが、マラソンと同じで苦しみの先にゴールがある仕事なのです。マラソンは全くしませんが、ワタクシは。

 そして、クセのある食材とも向き合わなければならない仕事でもあります。

 でも、人間的には、クセが無い方がいいんでしょうな・・・

 クセ、無いですよね、私・・・たぶん・・・(祈り)

















時が流れると物事や状況は変化する。それを理解し、受け止める事が大切だ

2015-01-24 22:54:53 | Weblog
 当ブログの編集画面には当然ですがその日の閲覧数や訪問者数がカウントされていて、その数を見ると「嗚呼、早く更新しなければ・・・」などと思うわけです、最近更新率が落ちてますけど・・・
 そこには「ブログ開設から」というブログを始めてから何日経ったか、というお知らせのようなものがあり、時々それを見ては「そんなに、書いてるわけね・・・」と感慨深くなったりするものです。
 今日、たまたま「ブログ開設から」を見てみると「3049日」でありました。ブログを始めてから8年ちょっと経った、という事ですな。そこで、ブログを始めた8年前ってどんな事があったんだろう?と思い、調べてみると「あぁ~あった、あった!」というのが色々あるものです。
 そこで、私的に気になったものをピックアップしたいと思います。

 2007年(平成19年)出来事

・第一回東京マラソン開催

・東京ミッドタウンが開業

・赤ちゃんポストの設置を認可

・新潟県中越沖地震が発生


  芸能ニュース

・藤原紀香と陣内智則が結婚

・沢尻エリカが舞台挨拶でダンマリ騒動

・ZARDの坂井泉水死亡

・オネエブームが一気に爆発


 新商品・ヒット商品

・iPad touch(アップル)

・ホワイトプラン(ソフトバンク)

・全自動お掃除トイレ アラウーノ(パナソニック)

・ビリーズブートキャンプ


 新食品・ヒット食品

・メガマック


 流行語

・どげんかせんといかん

・ハニカミ王子

・そんなの関係ねぇ

・どんだけ~

・ネットカフェ難民


 ベストセラー

・ホームレス中学生(田村裕)

・鈍感力(渡辺淳一)

・ポケットモンスターダイヤモンド・パール

(年代流行より引用)


 このようなものがありました。

「ブログのネタが無いからって、こんなの文字稼ぎだ!」

 そのように思われる方もいらっしゃるかと思われますが、まぁ、否定はしませんよ・・・(投げやり)
 しかしですよ、これらの出来事から8年経って何がどう変わったか、というのを考えてみるもの良いではないですか。8年前、私がブログを始めたきっかけはホームページを開設した事からで、それに付随して「何となく料理の話を綴る、的な?」ブログを立ち上げたのです。しかし、それがどうです、8年経って、料理とは全く関係のない話ばかりですよ、このブログ。(バカ)
 このように、8年という歳月は当時の出来事をガラッと変えてしまう年月と言ってもいいかも知れません。
 8年前、「別に・・・」と発言してあんなに騒動が大きくなろうと思っていたでしょうか、沢尻嬢は。当時、藤原紀香、陣内智則カップルがいとも簡単に離婚しようと思ったでしょうか。新潟県中越沖地震の4年後、さらに大きな地震が来ようと予想できたでしょうか。オネエブームは飛ばしますが、メガマックがヒット商品になったマクドナルドがあんな謝罪会見をする事になろうとは・・・。ハニカミ王子がスピードラーニングをしようとは・・・。「どげんかせんいかん」や「どんだけ~」は別にどうでもいいですけど、「鈍感力」の渡辺淳一氏、ご冥福をお祈りいたします。ポケットモンスター・・・今やその座を「妖怪ウォッチ」に奪われてしまおうとは、誰が予想だに出来ましたか!今、ピカチュウは玩具店の隅っこに追いやられていますよ、可哀想に。私の家でもケロマツやフォッコ、ハリマロンのぬいぐるみは押し入れに幽閉されてます・・・
 
 お分かり頂けたと思いますが、「8年」経つと色んな事が、状況が、変わったりするものです。
 当ブログの、当時から一番変わったところは、何と言っても「文章の長さ」でしょうか。
 最初はキーボードもろくに叩けなかったからか、100文字書くのも1時間近くかかり、「ブログってめんどくさい・・・」と思ったものですが、「慣れ」と言いましょうか、今はほとんどブラインドでキーボードを打てるようになりました。
 その「キーボードが早く打てるようになった」というのがよほど嬉しかったんでしょうね、私。「ほらほら!見て見て!こんなに打てるんだから!」的に文章が長くなっていったのです。
 ブログを始めた当初は「100文字」、何となくやり方が判り始めて「300文字」、調子に乗って「500文字」、もっと調子に乗って「1000文字」、現在では、文章の終わりどころを探しているうちに「2500文字」と、400字詰め原稿用紙6枚ちょっとに換算される文章になったわけです。(大迷惑)
 よく「藤原さんのブログを読みましたが、何と言いますか、読み応えのあるブログですね・・・」と「お前のブログ長いよ!」というのをオブラートに包んだような優しい言葉を掛けていただく事もありますが、「ブログ見ましたが、全部読めませんでした。」や「いや~、あれじゃあ読む人いないでしょ。」といった直接フリーキック的な言葉を飛ばす御仁もいらっしゃいます。
 数年前、試験的に「短文記事」や「しりとり記事」といった変則的な記事を載せて反応を見た事がありましたが、面白くなかったのか、無反応でありました。(残念)

「料理の話はどうした!料理の話は!」

 そのような声も聞こえてきそうではありますが、編集画面のデータでは料理記事が一番読まれてるんですよね、何気に。

 因みに、調べてみましたところ、年間通して一番読まれている記事は

「「ポワレ」という調理法を考えてみる」

 という記事でありました。ありがとうございます。

 しかも、この記事を書いた日付は「2007年 9月14日」・・・ブログを始めたばっかりの頃の記事じゃないですか・・・

 やはり、料理記事に特化した方がいいのか・・・

 でも、どうでもいい話も・・・大切ですよね!・・・大切だと思います・・・・大切かなぁ?・・・

 今年は料理記事、頑張ります。(一応、シェフのブログです)


















身体の不具合が自分自身に教えてくれる事とは何だろうか

2015-01-22 19:54:09 | Weblog
 それは突然やって来ました。
 年も越した今月の頭。正確には1月4日くらいでしょうか。朝、ベッドから起きてみると右耳に違和感を感じたのです。若干、耳が詰まったような感じと耳鳴りのようなものが右耳に集中してやって来たのです。
 「何か、良い事が起きるサインのようなものだろうか・・・」そうポジティブに自分に言い聞かせてその日を過ごしましたが(その日はお休みをいただいておりました)、次の日も、また次の日も、その耳詰まり感と耳鳴りは収まらずいたところ、今度は右耳がほとんど聞こえない事に気が付きました。(早く気づけよ)
 流石に病院で診て貰おうと思ったところ、連休に入るので休み明けまで病院に行く事もできません。前兆も何もなく、突然だったのでネットで調べてみると、「耳が詰まったような感じ」「耳鳴り」という2点で「突発性難聴」かも知れない、との記事を見つけてしまったのです。
 確かに、私の右側から話しかけられてもよく聞こえず「あんだって?!」と志村けん演ずるジジィのようにならなければならなかったので、「最悪、それかも」と思っていたのですが、よく考えると左耳が聞こえるのでとりあえずいいかな、と気軽に考えていたのです。(バカ)
 しかし、耳鼻科医院に行こうと決めた前日、思わぬ事に気が付きました。それは、下に落ちた物を拾おうと屈んだところ、右耳の奥が「ザザザー」と、まるで耳に水が入った時のような音が聞こえたのです。その時、理解できました、鼓膜の奥に液体が溜まっているのだな、と。
 身体では判ったような気がしたのですが、そこは素人判断、それで断定する事はできません。
 次の日、耳鼻科医院に行き耳にカメラを入れて診てもらうと「鼓膜の中が炎症を起こしているようです」との事で、とりあえず聴力検査をする事にしました。
 診察室の隣の聴力検査室に連れて行かれ、椅子に座ってイヤホンのようなものを付けられ「音が聞こえたら手に持っているボタンを押してください。」と看護師さんに言われ、かすかな「ピーーー」という音に反応しなければならない検査をしました。しかし、この場をお借りして、しかも、その耳鼻科医院の方がこのブログを見ていない、という事を前提で書かせていただけるならば、隣の診察室の会話がダダ漏れで「ピーーー」音に集中する前に先生と患者さんの会話が気になってしまう事で正確な検査が出来ないと思われますので、是非とも完全防音にしていただきたい、そのように思う次第であります。
 まぁ、それはいいとして、病名は「滲出性中耳炎」でありました。そして、診察室の会話が気になったからか、聴力検査は右耳の中音域がかなり落ちている、と診断され、「何か大音量のものを聞いたり、耳に負担を掛けたりしてないか?」と問われて、悩んだ末、「えぇっと・・・確か先週、アーチ・エネミー(スウェーデン出身のデスメタルバンド)っていう、ちょっとヘビーなバンドの音楽を聞いたからでしょうかねぇ・・・」と答えてみると、「とりあえず、鼓膜の中の液体を摘出しないとね。」と完全にスルーされました。だったら質問するな!
 鼓膜の中の液体(膿だと思う)を摘出するには2通りあると言われ、内容を聞いてみると「鼓膜を切開して液体を摘出するか、それ以外」でありました。
 「えぇ・・・っと、じゃあ、それ以外、でお願いします・・・」鼓膜を切開、となると時間が掛かりそうだったので、手っ取り早い「それ以外」を選択しましたが、「それ以外」が何だか判りませんでした。
 改めて聞いてみると「鼻から吸引器を突っ込み、耳の中の液体を吸い取る」というものでしたが、行くも地獄、引くも地獄、ですなぁ、治療っていうのは・・・
 自分の鼻に細長い吸引器を突っ込まれ、耳にも何か突っ込まれした姿はあまり考えたくありませんが、その時はまさにそんな姿だったのでしょう、マヌケですぜ・・・
 しかし、それが終わった時、耳の詰まりがスッと消え、今までこもっていたように聞こえていたものがスッキリ、クリアに聞こえるではありませんか!嗚呼、鼻に吸引器突っ込まれるくらいでオレは何を恥ずかしがっていたのだ、音が聞こえるってサイコー!そんな思いを胸に秘め、薬をもらい耳鼻科医院を後にしたのです。
 ただ気になったのは、最後の先生の「滲出性中耳炎は完治するまでに時間が掛かる病気ですから、気長に治療していきましょう。」という言葉でした。すぐには治らないのか・・・
 すぐに店に入り、注文などをしながら貰った「病気の詳細」の紙に目を通すと、どうやら滲出性中耳炎は幼少期か老年期になりやすい病気だそうです・・・多分・・・オレは・・・幼少期なんですよね、今。
 それを読んでそんな事を思い、結局原因が判らなかった事に多少の疑問を抱えながらも、聞こえるようになった事に感謝してその日の仕事に就いたのです。もうこれで聞こえる、これ治った、と喜びながら。

 しかし、次の日、朝起きてみると、若干、右耳が詰まり気味で、またあの「耳鳴り」が聞こえるではありませんか!
 「治ったんじゃないのか!」もう耳鳴りは治まるものだと思っていた私は先生の言葉を思い出したのです。「気長に治療していきましょう」
 そして、その次の日、右耳の詰まった感じはさらに増し、また右耳からの音が聞き取りにくくなりました。

「またか・・・いつまで続くんだ・・・」

 片方の耳が聞き取りづらい、というのは意外と憂鬱です。人の言葉が聞き取りづらいので人との会話をしたくなくなります。最初にその兆候が出た時は年始という事もあり、飲み会が続きましたが飲んで会話をしても人の声が聞き取りづらいのはおろか、自分の声が頭の中に反響してますます周りの声が聞こえなくなりイライラしてきます。
 しかし、プラスな面もあります。余計な音が聞こえないので仕事に無駄に集中できる事と、頭の中で反響する音に導かれるように盛り付けがちょっとだけ斬新になれる、というものです。(ちょっとだけ大げさ)

 それから更に一日経つと、右耳は水に埋もれた状態になりほとんど聞こえなくなってしまいました。

「また、鼻から吸引、しなければ・・・」

 そう思い、しかし、それをしてもらったところでまたすぐに耳の中に液体が溜まり、の繰り返しかと思うと自分で鼓膜を破り液体を摘出したいとさえ思ってします

 そんな時、こんな考えが頭を擡げたのです。

「思いっきり鼻をかんだら吸引と同じ効果が得られるのではないだろうか。」

 鼻から空気を激しく排出するのと、鼻から吸引するのは理論的には同じ事ではないか、と考えるようになったのです。

 そこで、バカバカしいとは思いながらも息を吸い込み、思いっきり鼻をかんでみました。

 すると、右耳の奥で「バリバリバリッ!」と激しい音と共に鼓膜に痛みが走ったのです。

 しかしその瞬間、耳の奥に何とも言えない爽快感が生まれ、耳の詰まりがスッと取れたではありませんか!

 原因が判り、それを理解し、その原因の排除方法も理解できれば、問題は解決できる・・・鼻をかんで耳が通った時、私の頭の中にはそんな事柄が浮かんできました。

 そして、こう思ったのです。

「その考えを自分自身の料理に当てはめる事はできないだろうか」
 
 と。

 つまり、自分の料理の未熟な部分を探し、そして、その原因が判り、それを理解し、その原因排除の方法が判れば、自分の料理はもっと良くなる、とは考えられないでしょうか。

 今の自分料理に満足してはいけない、もっと食材を理解し、もっと「美味しさ」というものを理解しなくてはなりません。

 ありがとう「滲出性中耳炎」よ!お前はそんな事を考えさせてくれたよ。

 そう思いながらもう一回、鼻をかみました。

 「滲出性中耳炎」と診断されてから1週間以上経ちましたが、右耳の聴力は、ほぼ以前どおりに回復し、耳鳴りも日増しに消えていっています。

 今でもおまじない代わりに、1日1回、鼻をかむようにしています。

 そして最後に、

「良い子はマネしないでください!」






































 

魚は全て同じじゃない。その魚に合ったオートクチュールな調理法が必要だろう

2015-01-21 22:47:55 | Weblog
 雪国の冬は異常に寒く大変だ、そんな事は判っているんだ。しかし、今以上に雪が降り積もっていたと思われる昔、とりわけ、ストーブやヒーターなどが存在しない昔、例えば、1800年くらいの江戸時代あたりの山形の人たちはこの極寒の中でどのような暮らしをしていたのだろうか?どのようにして寒さを凌いでいたのだろうか?そして、何を食べて生活していたのだろうか?この寒さの中で・・・そんな事を考えて今の自分の暮らしがどれだけ恵まれているのかを想いながら朝の布団から出られないでいる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 「気温的に寒いのと暑いの、どっちが好きですか?」時としてそのような質問を私に浴びせて悩ませる方がいらっしゃいますが、どれくらい寒く、どれくらい暑いのかでだいぶ答えが変わってきます。
 「肌寒い」くらいの「寒い」、「ちょっとだけ汗がにじむ」くらいの「暑い」だったら「ん~、どっちでもいいけど、ちょっとだけ汗がにじむくらいの暑さの方がいいかなぁ・・・」と答えられますが、「極寒」の「寒い」、「灼熱」の「暑い」だったらどっちもイヤです。
 「冬と夏の間に春を置きました。だから春は少しだけ中途半端なのです」とオフコースは「僕の贈り物」という曲でそのように歌いましたが、中途半端で結構、いや、中途半端がいいです、気温的には。
 しかし、中途半端ではなく、今この寒さだからこそ良い事もあるわけでして、食材なんかはそれに当てはまるわけですが、山形でしたら今の時期は「寒鱈」です。
 庄内地方では「寒鱈祭り」というウインターカーニバルがあり、そこで「山形のブイヤベース」と称される(すみません、今考えました)「寒鱈汁」が振舞われるのです。
 以前、「寒鱈祭り」を「曼荼羅祭り」と聞き間違えて「どんな祭りなのか・・・」と想いを馳せた事がありましたが、「寒鱈」を食べるお祭りであります、聞き間違いにご注意を!(お前だよ)
 そしてこの時期、鱈も良いのですが、岩礁魚も良い感じであります。岩礁魚は季節的に夏かと思っておりましたが、黒ソイやメバルなどは今が旬で魚体なども痩せておらず張りがあって美味しそうです。
 いつも魚は庄内から取り寄せているのですが、先日の箱(魚が送られてくる箱の事。魚種はお任せしているので何が入って来るか判らない)には「黒ソイ」が入ってきておりました。
 鮮度の良い黒ソイでしたから当然、刺身でも食べれるレベルでありますが、鮮度が良いと何でも「刺身」にしたがるのは日本人の悪い癖です。特にフレンチやイタリアンといった洋食系であるならば「ポワソン・クリュ」や「カルパッチョ」などのなま物に走らず、加熱してその美味しさを表現するべきでしょう。
 加熱する、となると「ポワレ」という手段が常套でありますが、黒ソイの場合、ポワレするとジュ(ジュースの事。肉汁などを指す。この場合は魚の水分)が出る傾向があり、焼き上げた時にジュが出てしまうと身が固くなるように思われます。
 しかも、黒ソイの皮は丁寧にポワレしたからといって鯛などのようにパリッと仕上がりません。ではグリエ(グリル)の場合はどうか。黒ソイの皮は加熱するとネットリとした感じになるため、グリルパン(グリエ用の鋳物の焼き台)にくっついてしまい仕上がりが汚くなってしまいます。
 今までの経験上、黒ソイの焼き方は一匹まま高温のオーブンでローストするのがベストだと思うのですが、コースで出す、つまり、切り身で調理する事を前提に考えると現実的ではありません。
 ポシェ(茹でる)や軽いブレゼ(蒸し焼き)という手も考えられますし、黒ソイの調理で言うならばそちらの調理法が美味しく仕上がる可能性がありますが、どうしても「焼き」に拘りたいではないですか、日本人なら。
 そうするとやはり「グリエ」は外せません。しかし、グリルパンではくっつくのでそこは避けたいところ。となると、グリルパンの輻射熱で加熱する、というのが良いのではないでしょうか。
 切り身にした黒ソイは焼き上げる20分ほど前に塩をして少し水分を出してふき取ってから串を打ち、皮面にオリーブオイルを薄く塗ります。



 強火で熱したグリルパンに鉄の棒を渡して一段上げて串を打った黒ソイの皮面を下にして焼き始めます。



 グリルパンは中心部が非常に熱くなっておりますが、串を外側にずらせば輻射熱が弱くなりますので加熱の強弱は串の移動で調整できます。
 皮目の焼きで8割焼き上がるイメージで焼き、裏返して余熱でゆっくり加熱します。



 ヒュメ・ド・ポワソン(魚のだし汁)をゆっくりと煮詰め、トマトコンサントレ(フレッシュトマトを煮詰めた物)と白ワインヴィネガー、ケッパーを加えて味を調え、仕上げにヴァージンオリーブオイルを加えて乳化させたものをソースとして完成です。



 このやり方は完全に日本料理の串焼きですが、魚種によってはこのやり方が合っている場合がある、と私は思いますから、こういった調理法を無視する事はできません。
 
 因みに、この方法を鶏もも肉でも実践した事がありますが、今はやっておりません。

 皮がパリッとして美味しいのですが・・・何と言いますか、焼き鳥と言いましょうか、あまりにもやり過ぎと言いましょうか・・・美味しいんですよ、物凄く。

 でも、何か一線を越えてしまうみたいで怖いんです、自分自身。(それかよ)

 タレも作りたくなるんですよ、本格的に。

 そして、最大の原因は・・・厨房に煙が充満し、客席に流れてしまうからです。

 お客様がその煙を吸ってしまったら大変じゃないですか!

 「焼き鳥ください」なんて言われてしまって・・・(それもそこかよ)















星に願いをするように、ブログに願いをしてもいいのではないか。

2015-01-08 22:37:06 | Weblog
 青空なのにチラチラと舞い散る雪に塗れ(まみれ)ながら歩くのは意外と気持ちがいいものです。赤くなっているのではないかと思われる鼻の先は冷たいという感覚すらもなく、ポケットに入れた手は出せず、寒いせいか小走りに近くなる歩調、舞い散る雪が触れる瞬間に慣れた頬、そんな冬外出時特有の体感があっても気持ちよく感じるのは青空だからでしょう、と何となく言い聞かせたくなる今日この頃、皆様、如何お過ごしでしょうか。
 外が寒いという事は、勿論、厨房も寒い、という事になりますが、デザートやキッシュの生地の仕込みには厨房は寒い方がいいですし、届いた鮮魚を処理する場合でも厨房は寒い方がいいものです。肉や野菜などが届いても厨房が寒ければ仕込みを中断してすぐに冷蔵庫に入れなければならない事もありませんから、それはそれでいいのです。
 しかし、寒いです。先日、厨房に入って温度計を見たところ「9℃」でした・・・もうちょっと下がると冷蔵庫的な温度ですな。いや、冷蔵庫的な温度だから仕事がしやすい、と考えるべきでしょう・・・ね・・・。
 こんなに厨房が寒いのならば寒いうちに、いや、厨房が温かくならないうちに処理するのがベストな食材もあるわけですから、出勤してすぐ取り掛るのが鮮魚関係の処理でありますが、これが、冷たいんですね、スゴく。
 しかも、機動性と汚れてもいいように営業外の仕込み時にはTシャツとエプロンだけで仕事をしていますから(当然ですが、ズボンは穿いてます)、冷水だけで仕事をする鮮魚物処理は身に沁みすぎるくらい身に沁みます、寒さが・・・
 これを終わらせて次に仕込むのはデセール類です。ここまで来るとガトーショコラなどの焼き菓子系が出てきますからオーブンやガスが使えて少しづつ厨房は温まって、次に前菜物の仕込み、魚や肉料理のガルニチュール(付け合せ)の仕込み、サラダに使う葉物野菜の準備、前菜のソースの仕込み、前菜の切り出し、魚の切り出し、肉の切り出し、魚肉のソースの準備、などを経て営業開始、となるわけです。
 普段の営業ではこれらを全部仕込むのではなく、お客様がいらしてから取り掛かるようにしていますが、団体様のご予約の時はそうはいきません。
 昨年になってしまいますが、先月と今月も有難い事に団体様のご予約を頂戴しまして、先ほどのような工程を踏んで仕込みをし、料理をご用意させていただいたわけですが、普段のクオリティーを下げることなく10数名様分、時には20数名様分のコース料理を出す事の難しさと楽しさ、そして、細部に渡って計算しなければならない調理の面白みを体験したのです。
 例えば「前菜」では各パーツを仕込みながらもどのように盛り付けするかを考え、的確に、そして、適量を仕込まなければなりません。



 例えば「フォワグラ料理」。当店の開店時から提供しております「フォワグラのソテー トリュフのリゾット添え」をお出しする場合でも、リゾットの仕上げ方、ソースの味付け、フォワグラの焼き加減を同時進行で進め、全てベストな状態の少し前で盛り付けし、盛り付け終わった状態でベストに持って行かなければなりません。



 例えば「肉料理」。肉の種類にもよりますが、どのような焼き加減にするのか、お客様はどのようなワインを飲むのか、女性の比率はどうなのか、で微妙に焼き加減は変わってきます。(女性のお客様の比率が多く、あまりワインを飲まれていない場合は肉の焼き加減を強くする、つまり、レアは勿論、ミディアムよりも強めのミディアムウエルダンに近い焼き加減にした方が良い、と判断しています)



(画像のご予約様はワイン率が高い方でしたので「蝦夷鹿ロティ」の「ア・ポワン(ミディアム)」です)

 勿論、私一人の調理ですが、ご予約の時間と乾杯の時間をある程度設定したらそこから逆算して調理を始めればいいので、仕込やそのパーツの細部を全て紙に書き、確認しながら作業を進めれば失敗はありません。(今のところ)
 しかし、私の手が届かず、サポートしてあげれないのが「サービス」であります。
 今までの経験則で私とマネージャーのふたりで滞りなく回せる人数は「16名」。それ以上になると私も皿出しを手伝う事になりますからちょっとだけ大変になります。これが20人を超えると、困ってしまいます。
 そこで20人を超えるご予約様ですと仲の良い某同業マネージャーに頼み込んでアルバイトの人を借りる、という手を使わせてもらっております。
 そのアルバイトの人なんですが、良く教育されてるんですねぇ、羨ましいくらいに。
 大人数の仕事の経験が豊富だからなんでしょうが、物怖じ(ものおじ)せず、判らない事は聞いてすぐメモ、お客様にも笑顔の対応・・・アクサダイレクトですよ・・・CM的には。
 
 そんなわけで、この場をお借りしまして、もう一度、そして、またもや「やんわり」と、当店でもアルバイトが欲しいです・・・何となく・・・

 そんな、軟弱な姿勢ですが、アルバイトを募集します・・・

 仕事の掛け持ちは構いません。飲食の仕事の掛け持ちで他店のスパイでも構いません。(おいおい)いや、スパイ大歓迎です!(コラコラ)

 大学生でも構いませんが、親御さんと私が年が近いのではないか、と心配になります。(何が心配?)マネージャーは親御さんより年上でしょう。(どうでもいいよ)

 そんなわけで、募集してみます・・・やんわりと・・・

「年齢制限とかあるんですか?」

 特にはありませんが・・・私より年齢が下だと有難いですな。

「ホワイ?なぜ?」

 だって、年上の人が来たら、店の中で一番年下になるじゃないですか、一応、経営者なのに。