昨年の講習後、色々なボランティアへの依頼がEメールで来ていましたが、1月から多忙で参加できませんでした。
陶芸の展示会と重複していましたが、年度内に一度は協力しようと思っていたので、ハイキング前日に、歴史資料館へ電話で伝えました。
集合場所の法善寺駅に9時半集合し、一般参加者16名・同館友の会と古絵図研究会メンバーを合わせ約40名で、6時間の「太平記の舞台を歩く」ハイキングでした。
当日の5名のボランティアの仕事は、名前を聞いて受付し参加者リボンを渡す・レジメの配付及び資料代の徴収・歩行中の安全確認と誘導・終了後リボンを回収する、という仕事でした。
1337年頃に「八尾城の戦い」があったそうで、その戦争に出て来る地名を歩きました。
この八尾城については、西郡説や八尾座説などがあり、確定できていないそうです。
南北朝の内乱では、千早赤阪村の楠木一族の活躍は有名ですが、ここ周辺にも太平記の舞台になっていました。
法禅寺は、柏原市に本拠を持つ坂戸源氏源康季と係る寺院だった、と説明があり、今の漢字の法善寺になったようです。
源氏に関しては、北条時政制札(伝達事項など知らせる札)が玉祖神社にあることや、文永・弘安の蒙古襲来で祈祷したこの地域のお寺の教興寺が、異国襲来記で鎌倉時代のことを思わせます。この祈祷は、四天王寺と住吉神社でも行われたそうです。
楠木正成の家臣だった神宮寺小太郎(四條畷の戦いで戦死)の墓や、その近くの鎌倉時代から続く神宮寺墓地がありました。
また同じく、楠木正成の家臣だった四條畷の戦いで戦死した恩智左近満一の墓も、見学しました。
先の神宮寺城は何処だったか不明ですが、恩智城の本丸地点は、現在公園になっていて、桜の名所になっています。
この城を守る堀だった池などから、古絵図研究などで現在の地形から、想像することができるように思いました。
さて、教興寺は、聖徳太子が物部守屋を征伐した時に、秦川勝(はたかわかつ)にこの地域に仏教を始めて興す意味の寺に、「教興寺」と名前を付けたそうです。
そして、鎌倉時代に(1269年)、奈良西大寺の叡尊(えいそん)という和尚さんが、荒廃していたお寺を再建したそうで、高野山にその旨を書いてある銅鐘があるそうです。
それから、室町・戦国時代には、足利尊氏が弟直義に利生安国を願って全国に建てさせた(1339年)、河内国の利生塔があったのですが、畠山高政と三好義興・松永久秀の合戦で伽藍を焼失しました。
さらに、江戸時代に、南河内の浄厳覚彦和尚が、この寺の本堂・祖師堂・鐘楼が再建しました。この覚彦和尚は、近松門左衛門と親交だったので、お初・徳兵衛の“曽根崎心中”が作られたようです。
地域歴史の理解度は、まだまだ点の段階ですが、多くの点がつながって線になれば、と思っているところです。
陶芸の展示会と重複していましたが、年度内に一度は協力しようと思っていたので、ハイキング前日に、歴史資料館へ電話で伝えました。
集合場所の法善寺駅に9時半集合し、一般参加者16名・同館友の会と古絵図研究会メンバーを合わせ約40名で、6時間の「太平記の舞台を歩く」ハイキングでした。
当日の5名のボランティアの仕事は、名前を聞いて受付し参加者リボンを渡す・レジメの配付及び資料代の徴収・歩行中の安全確認と誘導・終了後リボンを回収する、という仕事でした。
1337年頃に「八尾城の戦い」があったそうで、その戦争に出て来る地名を歩きました。
この八尾城については、西郡説や八尾座説などがあり、確定できていないそうです。
南北朝の内乱では、千早赤阪村の楠木一族の活躍は有名ですが、ここ周辺にも太平記の舞台になっていました。
法禅寺は、柏原市に本拠を持つ坂戸源氏源康季と係る寺院だった、と説明があり、今の漢字の法善寺になったようです。
源氏に関しては、北条時政制札(伝達事項など知らせる札)が玉祖神社にあることや、文永・弘安の蒙古襲来で祈祷したこの地域のお寺の教興寺が、異国襲来記で鎌倉時代のことを思わせます。この祈祷は、四天王寺と住吉神社でも行われたそうです。
楠木正成の家臣だった神宮寺小太郎(四條畷の戦いで戦死)の墓や、その近くの鎌倉時代から続く神宮寺墓地がありました。
また同じく、楠木正成の家臣だった四條畷の戦いで戦死した恩智左近満一の墓も、見学しました。
先の神宮寺城は何処だったか不明ですが、恩智城の本丸地点は、現在公園になっていて、桜の名所になっています。
この城を守る堀だった池などから、古絵図研究などで現在の地形から、想像することができるように思いました。
さて、教興寺は、聖徳太子が物部守屋を征伐した時に、秦川勝(はたかわかつ)にこの地域に仏教を始めて興す意味の寺に、「教興寺」と名前を付けたそうです。
そして、鎌倉時代に(1269年)、奈良西大寺の叡尊(えいそん)という和尚さんが、荒廃していたお寺を再建したそうで、高野山にその旨を書いてある銅鐘があるそうです。
それから、室町・戦国時代には、足利尊氏が弟直義に利生安国を願って全国に建てさせた(1339年)、河内国の利生塔があったのですが、畠山高政と三好義興・松永久秀の合戦で伽藍を焼失しました。
さらに、江戸時代に、南河内の浄厳覚彦和尚が、この寺の本堂・祖師堂・鐘楼が再建しました。この覚彦和尚は、近松門左衛門と親交だったので、お初・徳兵衛の“曽根崎心中”が作られたようです。
地域歴史の理解度は、まだまだ点の段階ですが、多くの点がつながって線になれば、と思っているところです。