庭で座ってのいろんな思い

庭の四季で花や木との語らいを写真とともに思いついたら記載する

セミが・・・・

2011-07-27 | ちょっとした話
玄関入口のシマトネリコの木に、セミが2匹止まっていました。

学校が夏休みになると、待ちかねていたかのように鳴き始めました。
後ろのセミが、前のセミに、セミ語で言いました。
「ミィ~ン ミィ~ン ミィ~ン!」

我輩は、たまたまセミ語がわかったので、通訳しますと、
「へぇをかまさんといてや、臭いから!」と言っておりました。
以上

追伸
ジツエはんが、朝にディーサービスへ行く時、8匹のセミがこの木にとまって機嫌よく「ミィ~ン ミィ~ン」と鳴いていると、「やかましい!」と言って、持っていた杖でこの木を叩いたので、セミは団体で飛んで逃げました。
迎えに来たスタッフは、この行為に呆れて、声も出ませんでした。

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ソクラテスの弟子が、また怒る・・・・

2011-07-27 | ちょっとした話
ソクラテスとは、先週まで2チャンネルのテレビ絵本でしていた、桜公園に住んでいる灰色の野良猫のことです。
この猫ソクラテスの弟子とは、吾輩のことです。

この前のことです。
7月初旬、9時の一番に申し込んでいた市の講習会の受講案内がきませんでした。
開講直前、係りに問い合わせると、「過去に受講したものは参加できません」と説明されました。
事前に受講経験有りと告げたうえでの申込みでしたので、納得がいかず、やむを得ず、しかるべき措置をとり、責任者から電話をかけ直してもらいました。

そして、過去の受講経験を毎月の定例会で活用していること、昨年度にもこの受講申し込みをした折に2年連続なので断られて今年度まで待っていたこと、今年度の受講者に過去の受講経験者が一人もいないかを名簿を持って確認に行きたい(不公平な扱い確認)こと、などを電話で話しました。
結果は、受講経験有り、という理由で受講できません。
役所と地域役員等のこともあり、もう一つ突っ込んだことも云えず、あきらめざるをえません。
そのかわり、改善点を以下の三点指摘しました。
電話を受けた職員は、必ず、氏名を告げるよう徹底すること。
市広報の申込み案内に、記載されている先着順のほか、「再受講できません」と追記すること。
申し込み締め切り後速やかに、ハガキで受講の可否を連絡すること。
その責任者は、分かりました、と答えました。

しかしながら、大学で4カ月に及ぶ市民講座「地域生活と法」の修了証が、今日届くという嬉しいこともあり、プラス(良いこと)とマイナス(悪いこと)でゼロになりました。
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ひらがな

2011-07-23 | ちょっとした話
安以宇衣於 加幾久計己 左之寸世曽 太知川天止 奈仁奴祢乃 波比不部保 末美武女毛 也由与 良利留礼呂 和為恵遠 无 
あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わゐゑを ん
以上のとおり、似た音を選んだ漢字から、平仮名が作られました。
ひらがなは、1文字が1音を表すので、外国人には発音記号と思われています。
先に書いたように、このひらがなは、9世紀末頃、平安時代の貴族たちが、似た発音の漢字を選び、それを簡略化して書き、日本独自の“ひらがな文字”を作ったそうです。
それまでの日本では、歴史書の『古事記』など、中国語の文字で、すべてを漢字で書いていた、とのことです。
平安時代の学問は、中国の古典が中心で、女性には学問不要とされていたため、女性たちは漢字を簡略化して、和歌や手紙を書いたそうです。
そして、紫式部が「源氏物語」を、全部ひらがなで書きました。
今では、日本人が生み出したひらがな文字は、美しい絵画のように鑑賞される芸術・美術品になっています。

さて、まだひらがなが誕生していなかった奈良時代の万葉集の歌は、中国から輸入した漢字で書かれていました。吾輩には、読めません。
柿本人麻呂の作で、琵琶湖のほとりの大津に、かってあった都を偲び詠んだ歌があります。
「淡海乃海(あふみのうみ)  夕浪千鳥(ゆうなみちどり)  汝鳴者(ながなけば)  情毛思努尓(こころもしのに)  古所念(いにしへおもほゆ)」
元の万葉集は全部が漢字ですが、ひらがなを使う現在表現では、
「近江の海(あふみのうみ)  夕波千鳥(ゆうなみちどり)  汝が鳴けば(ながなけば)  心もしのに(こころもしのに)  古思ほゆ(いにしへおもほゆ)」です。
訳は、「近江の海の 夕波千鳥よ お前が鳴くと 心もしみじみと 昔のことが思われる」です。

追伸
我家の緑のカーテンの朝顔の葉が、ひらがなの『ひ』の字に見えてきました。
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万葉集の飛騨人

2011-07-22 | ちょっとした話
飛騨から帰ると、万葉集で作者未詳の歌が、TVで放映されていました。

「かにかくに  物(もの)は思(おも)はじ  飛騨人(ひだひと)の  打(う)つ墨縄(すみなわ)の  ただ一道(ひとみち)に」
(あれこれと 思い悩んだりはしない 飛騨の匠が打つ 墨縄の線のように ただ一筋にあなたを思おう)

墨縄とは、大工さんが真直ぐに線を引くため使った墨の付いた糸。その墨線に一途な恋心を例えて詠んだ歌だそうです。
どんな曲がった木でも、真直ぐな墨糸を引ける大工さんの技術(心)です。だから、墨付けを見れば大工の仕事が判るらしいのです。
飛騨人とは、飛騨の匠のことで、都の寺院建築に腕をふるったようです。万葉人が、この真直ぐな墨付けを見て驚き、詠んだ歌です。

こうしたことから、現在も飛騨の匠によって作られる家具などの技術が、万葉の時代から続いていることに、吾輩は納得できました。

追伸
写真は、台風に飛ばされなかった、支柱に巻き付いた我家のキューリです。
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左甚五郎となでしこ

2011-07-19 | 行事などいろいろなこと
連休に「行くとか行かへん!」言う90歳の婆さんも連れて、姉と4人で、飛騨へ二泊三日で行きました。
甥のユウ君とワカナちゃんの娘ユウヒちゃんがもうすぐ一歳になるので見に、車で往復700キロを走りました。

前日に朝取りの河内葡萄を頼んでおき、朝8時半の出発でしたので、13時ごろ高山到着でした。
飛騨地方では、気温が、朝夕は涼しいのですが、昼間は35度ぐらいにもなりました。

姪と甥の配偶者の実家をまわって、お店に居た赤ちゃんを連れ、弟の家に着き休憩してから、夫婦でインターネット予約のホテルで泊まりました。
学校の夏休みの始まる前の平日は、宿泊料金が格安でした。

翌日は、歴史に詳しいガイドさん(ヒトシ君)の案内で、円空仏の千光寺・高山の城山公園の照蓮寺・左甚五郎の彫刻が残っているお寺などを訪ねました。
飛騨千光寺は、高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗のお寺で、十一面千手千眼観世音菩薩がご本尊とする空海弘法大師の弟子により建立された、お寺でした。
円空は、お母さんが洪水で流されてしまったので、その供養として生涯に十二万体の仏像を刻んだらしく、晩年に千光寺に滞在したそうです。円空仏宝館には、63体の円空仏が安置されていました。

また、キツツキ家具など匠技からこの地出身と思われる甚五郎が、“左利き”だった「左(ひだり)甚五郎」とか、「ひだ(飛騨)甚五郎」だったとか、いわれがあるそうでした。

あるお寺の屋根を支える左甚五郎の猿の彫刻がありました。
その猿の彫り物には、網が被されていました。
その網が、「鳥よけの網」だと思っていましたが、そうではありません。「彫刻の猿が、外へ逃げないための網」である、との説明がありました。
左甚五郎の猿の彫刻は、まるで生き物であるかのように扱われていました。

そして、夜には、仕事を終えた甥たち夫婦を交えての焼肉パーティでした。
我輩は、こうした若者たちの働きで、年金がもらえることに感謝をして、「彼らにビールをつごうかな」と思っているうちに、酔っ払って寝てしまいました。

家へ帰ると、サッカーの“なでしこJAPAN”が、アメリカに奇跡的勝利で、金メダルを獲得しました。
このことも含めて、甥たちのお嫁さんの働きぶりを見ていると、まさに『女の時代』だ、と思わざるをえません・・・・・・・

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祇園祭3-3

2011-07-12 | 行事などいろいろなこと
またしても、話は変わります。

奈良時代中期、政権争・飢饉・疫病流行で乱れた世の中を仏の力で鎮め、平和な世の中にしたいと願い、聖武天皇が当時の国民半数(延べ260万人)がかりで作った奈良大仏だそうです。
小生は地震の自然災害等で、祇園祭の始まり、奈良の大仏(盧舎那仏、すべての仏を統括する最高位の如来)建立が分かるような気がします。
今や日本では、東日本大震災で原発が何時になったら鎮静するのか分かりません。数十年はかかるそうです。

福島県の野菜や魚を食べるパフォーマンスをする政治家は、原発の近くに住めばよいと思います。
随分前の総理大臣不信任の国会中継で、3人の議員が寝ていました。
公務員給与は減額し、議員の人数・議員報酬を減らさないのは、自分勝手すぎです。
義援金をもらうので、生活保護費をカットするなんてことも考えられません。
国民はバカではないので、怒りを忘れてはならないと思います。最低の15%内閣支持率です。

最近、老人がよく起こるのは、会社を離れ自由なため、自分の思いのまま過ごし、他人に押さえられなくなるからでしょうか?
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祇園祭3-2

2011-07-12 | 行事などいろいろなこと
さて、話は変わります。

7月17日は祇園祭で、山鉾と呼ばれる屋台が、京都の32の町をねり歩きます。
平安時代に日本各地で疫病の流行を悪霊の崇(たた)りと考え、それを鎮めるために祇園祭が始められました。
山鉾は八坂神社の神霊を、それぞれの町にお迎えするためのものです。
各町の人々が、山鉾は釘を使わず荒縄だけで固定し、3日間かけて組み立て、大きいものは、12トンもの重さで、高さが25メートルにもなるそうです。
その先端には、長刀や松が飾られ、高く突き出た物に神が降りてくるといわれています。

なお、山鉾は、豪華な装飾品を飾るので、「動く美術館」と呼ばれています。そして、中国・ベルギー・ペルシャなどで作られた織物で装飾されています。
この祇園祭は、15世紀後半に戦乱で一時中断したが、裕福な町民たちで復興しました。
この町衆は、自らの力を誇示するため、競争し合って、山鉾を飾り立てるようになったそうです。

祇園祭の見どころは、何といっても“宵山”で、山鉾巡行の前夜祭です。
英語で言えば“the eve of the grand parade of floats”です。
山鉾には提灯がともされ、各山鉾では「ちまき」と呼ばれるお守りが売られていて、それには病気を治す効果があるそうです。

メインイベントは、32基の山鉾が京都の大通りを優雅に巡行し、町の穢(けが)れを祓(はら)います。
また、巨大な山鉾が方向を変える「辻回し」が3か所であるそうです。そして、引き手がその技を争う一番の見せ場だと、云われています。
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祇園祭3-1

2011-07-12 | 行事などいろいろなこと
作者不詳の平家物語のはじまりです。

「祇園精舎(ギオンショウジャ)の鐘(カネ)の声、諸行無常(ショギョウムジョウ)の響(ヒビキ)きあり。
娑蘿双樹(シャラソウジュ)の花の色、盛者必衰(ジョウシャヒスイ)の理(コトワリ)をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯(タダ)春の夜(ヨ)の夢のごとし。
たけき者も遂(ツイ)にはほろびぬ、偏(ヒトエ)に風の前の塵(チリ)に同じ。」

(祇園精舎に鳴る鐘の音は、この世のものは万物すべてが移り変わっていくものだ、ということを示す響きがある。
釈迦がその下でなくなったと伝えられる娑蘿双樹の花の色は、盛んなものもいつかは必ず衰えるという深い道理を表している。
人の身の上もこの通りで、栄えている人も、それがいつまでも続くわけではなく、そのはかなさは春の夜の夢のようである。
力の強い人もやがては滅び去っていってしまうが、それはちょうど風の前にただよう塵と同じなのである。)

祇園精舎(仏教を開いた釈迦が教えを説いたインドの寺院)
諸行無常(この世にある物すべてのものは、常に変化して不変であるのもはない)
娑蘿双樹(インド原産で三、四十メートルになる常緑樹)
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村祭り

2011-07-08 | 行事などいろいろなこと
今年も祭りのシーズンです。

太鼓と神輿が、村中をねり歩きます。
祭りの日は、有難いことに神社まで行かなくても、村の鎮守の神様が、神輿で我家の横まで来てくれますので、祭りの寄付は欠かしません。
今年は、前年の太鼓に続いて、50年ぶりに神輿の修理があり、わが家も修繕費の寄付を一番早くしたので、神輿修復記念タオルをもらいました。

お向かいのMさんの息子さんは、世界中を駆け巡る商社マンですが何処にいても、毎年必ず帰ってくるお祭り大好きな青年です。
彼のお母さんが、S新聞に掲載された自慢の息子の祭りインタビュー記事を見せてくれました。
世界中のどこにいても、休暇を取って村祭りには帰る、と書いてありました。
彼は、淡路島で6カ月も修復にかかった新品のような、金ピカ神輿を担いでいました。

翌日の早朝に、彼の愛車のジャガーが、消えていました。
きっと、関西空港から世界の仕事場へ戻ったのに違いありません。
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七夕は、雨だった

2011-07-08 | ちょっとした話
昨日は七夕でしたが、雨で、織姫と彦星は年に一度のデートをしたのでしょうか?
万葉人は、どんな思いで、天の川をながめていたのでしょうか?
万葉集のTV番組を、観ました。

『天の川  水陰草(みずかげくさ)の  秋風に  なびかふ見れば  時は来にけり』

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が七夕を詠んだ歌です。
「天の川 水のほとりの草が 秋風に なびいているのを見ると ああ 七夕の季節がやってきたことだ」

どうして、たなばたは「七夕」と書くのでしょうか?“7月の夕べ”かどうかは、わかりませんが・・・・・・
日本の“たなばた”の行事は、中国の伝説と日本古来の信仰とが、融合してできたそうで、“七夕”という言葉は、日本古来の信仰に由来する日本独自の言葉だそうです。
中国の伝説は、牽牛と織女(織姫と彦星)が天の川を渡って、年に一度の逢瀬(おうせ)を楽しむというものです。
一方、日本古来の信仰は、棚機女(たなばたつめ・棚で機を織っている女性)という女性に係わるものです。
棚は、水辺に突き出した台で、その上で機を織りながら、やって来る神様を待っている女性が、棚機女(たなばたつめ)です。
日本人は、神様がどうやって私たちが住んでいる世界へやって来るのかを、いろいろと考えたその一つの考え方に、海の向こうから水を越えてやって来る神様がいるんだ、と考えました。
そのような神様を迎える女性が、棚機女(たなばたつめ)で、彼女の気持になって詠んだ歌があります。作者は不詳です。

『機(はたもの)の  踏み木(ふみき)持ち行きて  天の川  打橋(うちはし)渡す  君が来(こ)むため』

「機織機(はたおりき)の 踏み木(ふみき)を持って行って 天の川に 打橋(うちはし)を渡します  あなたが私を訪ねてくださるように」

踏み木は、機織機(はたおりき)の部品で、横糸を通す際に、縦糸を交互に上下させるために踏む木です。また、打橋(うちはし)は、簡単に掛けたりはずしたりできる橋のことです。
女性が、このような橋を川に掛けるのは、川を越えて自分のもとへやって来る男性を、今か今かと心待ちにしているはやる気持ちを、詩に詠んでいます。

このように日本では、万葉集の詩は、男性が女性のもとを訪れるというふうに、詠われています。
ところが、もともとの中国の伝説では、女性が男性のもとを訪れるというふうに伝わっていて、日本と中国では逆になっています。
万葉人の恋愛や結婚は、男性が夜に女性のもとを訪れて一晩を過ごす“妻問婚(つまどいこん)”でした。
ゆえに、“妻問婚(つまどいこん)”の習慣に合わせて、中国の「たなばた伝説」を一部を変えて、万葉人たちは受入れました。
地上の実際の恋愛生活が、天の川の恋人達の逢瀬にも影響したようです。

そうなのかぁ~
万葉人は、チュウカみたいに、皆んな婿養子だったんだなぁ~
今は、中国の嫁入婚が一般的なのになぁ~
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