庭で座ってのいろんな思い

庭の四季で花や木との語らいを写真とともに思いついたら記載する

マイ数珠ができた

2008-08-18 | 四国八十八ヵ所
四国八十八箇所を終えた記念に数珠を作りました。
人口60億人の世界広しといえども、マイネーム入りのものは他にはありません。

1年かけて巡った四国一周の成果です。この旅行は海外旅行が行けるほどの費用がかかりましたが、退職記念の旅行でした。

四国巡礼では、初めのうちは家内安全とか身近なことをお祈りしていましたが、半ば過ぎからは世界平和をお願いするようになりました。なんだか少しは人間が大きくなってきたような気がしてきたのは自己満足でしょうか?それとも世の中が殺伐として来ているからでしょうか?

まあ、人類は頭を打って、反省して、考えて、成長していくことでしょう。人間が考えることは、何でも、何時かは実現することができるものだと思っていますから。

とにかく記念の数珠ができて満足している今日この頃です。
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高野山へのお礼参り

2008-07-21 | 四国八十八ヵ所
今月高野山へ四国八十八箇所のお礼参りに行きました。
家から駅まで歩いて行きましたが、駅の近くで傘がいりました。

最後の最後でついに雨か?と思い、大きい雨傘と折畳み傘を持っていきましたが、此の時だけ傘を使いました。和歌山に大雨警報がでたというのに、高野山ではサンサンと陽が照りました。1年間天候に恵まれたのは、やっぱりお大師さんのおかげです。

旅行社の大阪集合場所変更のトラブルで、ナンバへのバスが30分以上遅れてきたので、添乗員は気を使っていました。その添乗員さんは一人で、若い男性でした。名前はワカイさんでした。
バスは、阪神高速~近畿道~南阪奈道から一般道に出て、外環状線を走り○○トンネルを抜け橋本を経由し紀ノ川沿いから、くねくねと曲がる関西のイロハ坂を上り、高野山へと向かいました。バスの走行時間は約2時間ほどでした。

高野山では、奥の院・安養院・金剛峯寺・慈尊院をまわりました。
まず、奥の院へお参りしてから、安養院で精進料理の昼食をいただきました。もちろん、その料理には高野豆腐がでていました。

昼食後、12回の四国八十八カ寺で貰った数珠球で記念の数珠を注文しました。人間の煩悩108と同数の数珠球で名前も入れてもらいます。出来上がりは郵送です。

帰りには、九度山の慈尊院で法話を聴きました。高野山へ案内する犬の話でした。DVDで紹介したのに、また住職が同じ話をして、しつこいなぁと思いました。残念ながらたいしたことのない法話でした。
さっき法話をしていたのに、こんどは外でお守りなどを売っています。早代わりで、忍者の分身の術を使っているのかなぁと思うほどでした。帰りのバスをも手を振って見送ってくれました。お寺でも人件費削減だなぁとひしひし感じました。
もともと高野山は女人禁制だったので、弘法大師のお母さんがこの慈尊院へ9度訪れたことから九度山の名前が付いたらしい。入口に女人高野別格本山と記されていた。

なお、比較的早めにナンバに帰りつきました。しかし、近鉄奈良線が故障していたので、地下鉄で鶴橋まで来ましたが大阪線も動きません。しかたなく、JRで近くの駅まで行きそこからタクシーで家まで帰り着きました。タクシーもなかなか拾えず待っていると近所の女の子もタクシーを捜していたので、一緒に乗せて帰った次第です。なんか?最後のドンデンガエシで高野山の記憶が消えてしまったような気がしました。

四国八十八箇所では、古いお堂がコンクリート造りになってきて情緒がなくなりつつあることが残念に思います。それと、ほとんどのご本尊が大事に隠されていて拝めないことが一番残念に思いました。きっとお大師さんはお参りする人々にご本尊の開放を望んでいることでしょう。
写真は、高野山の奥の院です。
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満願成就(後篇)

2008-06-13 | 四国八十八ヵ所

いよいよ四国88カ所が最終日になりました。吾輩だけでなく参加者の皆さんも、なんだか緊張して寝不足の様子でした。

 

記念すべき63日午前中には、8時にホテルを出発し、ケーブルカーで85番八栗寺・その向側に位置する84番屋島寺、そこで少し早目の昼食を取りました。

午後には、86番志度寺・87番長尾寺へ、そしていよいよ最後の88番大窪寺でした。

それから、1年前の最初のお寺1番霊山寺へのお礼参りで、満願成就の法話を聞いて終わりました。

 

今回の四国88カ所お遍路最終回は、79番~88番で1番さんを含め11カ寺、前回の13カ寺に次いで多い、涅槃の道場(讃岐)のお参りでした。

612月)・7回目(1月)に旅した、修行の道場(土佐の国)の1回の旅では、6カ寺にお参りできるのが精一杯だったことを思うと、讃岐の国は、数多くお寺参りできました。

高知県と違い、香川県では、平地にあるお寺が多く、更に、寺と寺の距離が比較的近いので、10カ寺以上のお参りができるんだなぁと思いました。

 

だんだんと、最後に近づくにつれて、般若心経を読む声が大きくなっていくような気がしました。

 

88番大窪寺では、高齢者の男性が「以前にここへ来た時は、嫁さんと一緒だった」と号泣されたので、先達さんが彼の肩を抱いて「もうそろそろ、奥さんを休ませてあげなさい」と言って、彼を一番前に呼んで、心をこめて般若心経を奉納しました。読経中には、もらい泣きをする人々も多かったように思います。

そうそう、35年前に結婚した時に住んでいた町名が、88番さんと全く同じ大窪だったので、最後の大窪寺は何だか親しみがもてるお寺でした。

 

そして、最後での1番霊山寺の法話は、最初に聞いた法話と同じお坊さんでした。年間20万人ともいわれる四国遍路巡礼者にお話をされるのは、大変な回数だろうなぁと、思いながら聞いていました。そんな訳で、恥ずかしながら、そのお坊さんの法話で何を言われたか、サッパリ覚えていません。

 

その法話よりも、先達さんが参加者全員に握手しながら「最後まで良く頑張りましたねぇ。これで終わりじゃないですょ。これからが始まりですょ。」と言われたことの方が、心に響きました。先達さんは、温かくて柔らかな手でした。弘法大師の空海さんには直接会えなかったけれども、まるで空海さんのような、心の広い先達さんに会えて、大変良かったなぁと思いました。これからは、腹が立つ時などには、彼の心の広さを思い出そうと思いました。このことが彼が言う「これからの始まり」なんだなぁと自分で納得しました。

 

思い起せば、発心の道場(徳島)では、途中で挫折することなく88番の最後まで続けることを決意しました。修行の道場(高知)では、山道や階段が多いお寺なのに高齢者も頑張っているなぁと思いました。涅槃の道場(愛媛)では、鶴が羽を癒していて発見された道後温泉やみかん畑等の自然・前を走るバスから草餅の差入れ接待等の人間味に触れることがありました。そして最後の菩提の道場(香川)では、一つのことを成遂げた充実感を実感する、まるで悟りが開けたような思いになれました。

 

また、般若心経の読経も、初めは読むのに精一杯から、回を重ねるにつれて、上手に読もうとする欲が出てきたりもしました。

それから、吾輩は団塊世代の競争世界に育ったせいなのか、他チームの読経を意識して、負けないように声が大きくなるようなこともありました。

とかく、団塊世代は、終戦で父親が妻のもとへ戻ってきて生まれた子供達で、この年代の人口が非常に多いため、何をするにも競争社会を意識します。

 

蛇足ですが、空海弘法大師の幼名は「まお(真魚)」と言いました。「まさお」という名前は、さぬき(讃岐)をすると、「まお」になります。なんと驚いたことに、お大師さんの幼名と同じではありませんか。だから、「まさお」は、修行前の名前であると思います。

 

かくして、お大師さんと私と家人の同行3人旅は、・健・信の「三コウ」の旅で、退職と還暦を記念して、無事に幕を閉じました。

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満願成就(前篇)

2008-06-05 | 四国八十八ヵ所
マージャンではありません。1年かけて四国お遍路の旅が終わりました。
結願は88番大窪寺までお参りしたこと、満願は1番霊山寺へその報告をしたことでした。

お大師さんのおかげで、お参りの時はいつも天気で、雨の中でロウソク・線香をつけることなく12回終えたことを先達さんに話したら、なんと運が良いことかと非常に驚いておられました。
不思議なことに、台風も予報より早く八丈島の方へ通り過ぎたり、直前まで降っていた雨がやんだりしたのは、きっと、お大師さんのおかげだと思われていることでしょう。

今回の先達さんは、ヤオさんという名前の兵庫県のお寺のお坊さんで、心の広い方でした。お寺へのお賽銭は、その人の気持ちなので1円でも1千万円でも同じ値打ちですよ、とおっしゃいました。
昔に、僕のお祖父さんが話していたことを思い出しました。それは、「お供えはいらん、お参りに来てくれるだけで良い。」という言葉と同じでした。
今の宗教は、お供えを強要することが多いように思います。

それから、今回の先達さんは、白装束や袈裟などは一切強要することなく、楽しくお参りしてもらうことに努めている、とおっしゃっていました。皆さんが出来ないことは、私が全て代わりに頼んでおきます、ともおっしゃっていました。
だから、最後の旅行社アンケートには、空海のような先達さんで良かった、と書いておきました。

さて、お参りのことですが、我が家はいつもどうりに朝早く、「起きているか~?」と1階から高齢者の大きな声が響き渡り、最後のお遍路のたびが始まりました。ただただ、この高齢者が1年間元気に留守をしてくれたことを感謝しています。

お遍路の最終回は、天気予報どうり、あいにくの雨が降っていました。駅までは傘が要りましたが、集合場所のナンバへ到着しバスで出発すると、去年の第1回目の7月と同様に、雨はあがりました。

阪神高速道路から山陽道を走り、瀬戸大橋を渡って、坂出のレストランで昼食を取り、第79番天皇寺から参拝をしました。続いて、山の上で階段がたくさんある81番白峰寺・82番根香寺、さらに、平地にある80番国分寺・83番一宮寺へと、1日目は5カ寺へお参りしました。

国分寺は、阿波・土佐・伊予・讃岐の国と各地にある、県庁のようなお寺でした。なお、ここの大師堂は、売店の中にありました。いや、大師堂の中に売店もありました。
また、一宮寺には、地獄の釜の音が聞こえるところがあり、頭を突っ込んでゴロゴロ・グラグラという音を聞いてきました。悪人がここへ頭を突っ込むと、石の両扉が閉じて、頭が抜けなくなるそうです。今回の参拝者全員の頭は、この石扉に挟まれなかったので、皆が善人だったようです。

5時過ぎにようやく1日目のお参りを終え、高松市内のホテルに着いたのは6時前でした。
ホテルの部屋へ入り、すぐに親戚のタニガキさんに電話をして、グループの夕食を終えてから、タクシー10分ぐらいでお家を訪問しました。
方角がわからないので、携帯電話で場所を聞いている時に、タクシーの運転手さんに代わると、「はい!運転手さんです」と自ら答えたので、皆で笑ってしまいました。
奥さんが犬を連れて、途中まで探しに来てくれました。
再会は10年ぶりぐらいでした。タニガキさんは、奥さんの母親(88才)と同居していました。彼女は、介護2級だそうです。
同じ京都府ですが、谷垣貞一議員の親戚でないとのことでした。
そこでは、アルバムから探してきて、若い頃の母親ジツエはん (20才)の写真を見せてもらうことができました。

車で送ってもらい、ホテルへ帰ったとき、添乗員さんに出会いました。「何処へ行ってきたの?」と聞かれたので、冗談で、「ちょっと六本木まで行ってきました。」と言うと、ビックリして目を丸くしていました。

かくして1日目が終わりました。疲れたので、次回に続きます。
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11回目の四国

2008-05-19 | 四国八十八ヵ所
涅槃の道場である。四国霊場最後の県(伊予の国香川)までやってきた。
5月の今回は、今までの最多13カ寺をお参りした。

来月6月の残り10カ寺で、四国霊場88カ所が満願となる。そして最初のお寺1番霊山寺をお参りして講話を聴くことで、四国88カ所が数珠のごとく結ばれ結願といわれている。
そして、7月に高野山へお礼参りに行くと、88の各お寺で貰った数珠玉に20個の数珠玉を加え、108個の数珠玉による数珠が完成する。108は人間の煩悩の数で、大晦日の除夜につく鐘の数である。

さて、今回の香川県は、空海さんが生まれたお寺の75番善通寺と、四国霊場の最高地925mに位置する66番雲辺寺と、金毘羅さんに近くて急な720余りの階段で知られた71番弥谷寺と、それに今までになかった最多13カ寺のお参りがポイントだった。
なお、弥谷寺はタクシーに乗らず歩き遍路気分でお参りしたので、階段の途中に団子屋さんがあり、草餅団子を食べた後に新鮮なサクランボのお接待を受けることができた。
なお、1234年前にお大師さんが生まれた善通寺では、甲子園の高校野球のごとくそこの土に触れることができ、子供時代に遊んでおられたと思うと、感慨もひとしおだった。

弘法大師空海は、宝亀5年(774)に善通寺で生まれ、幼名を真魚(まお)といった。父は佐伯善通で善通寺の名前になった。15歳で叔父の阿刀大足に連れられて京都へ行き、大学に入った。学問だけでは人々を救えないと21番太龍寺・室戸岬の24番最御崎寺・60番横峰寺や64番前神寺などで修業をして、空海(22歳)となった。32歳の時に遣唐使船で、嵐に遭いながら、唐に渡った。長安(唐の都)の青龍寺で恵果和尚に密教を伝授され、「遍照金剛」の名をいただいた。大同1年(806)に帰国し、真言宗を開いた。嵯峨天皇と親交、弘仁7年(816)に高野山に金剛峯寺を建立。天長5年(828)に日本初の庶民学校の「綜芸種智院」を創設。承和2年(835)3月21日早朝、高野山金剛峯寺にて入定(62歳)。空海没後86年の延喜21年(921)に「弘法大師」の名を賜った。

また、73番出釈迦寺は、弘法大師が真魚と呼ばれていた頃(7歳の時)、「仏門に入って人々を救いたい。願いが叶うなら釈迦如来よ、現れたまえ。」、と言って我拝師山の断崖から身を投じたところ、蓮華の花に座した釈迦如来と羽衣をたなびかした天女が現れ、落ちてくる大師を受止めた、といわれのあるお寺だった。
この奥の院である番外霊場捨身ケ嶽弾定は、高速道路からよく見える処だった。

ただ残念なことは、讃岐でありながら、昼食と夕食のうどんがおいしくなかったことだった。

写真は、直登108階段の71番弥谷寺(いやだにじ)。
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10回目の四国巡礼(2)

2008-04-17 | 四国八十八ヵ所
お遍路バスツアーでの先達さんは、最後の方に近づくと、ベテランのお坊さんのような人になるようである。参加者がいろいろと知識がついてきて、対応できる案内人をつけるようだ。
そして今回も、先達さんの考えで、1日目に険しいお寺を先にお参りし、2日目はできるだけゆったりとお参りするように配慮した。この日の先達さんは、お参りのテンポがよく気持ちよく納経できた。この調子で行けば、次回のノルマ讃岐の国13カ寺巡礼も可能だろう。

さて、既に65カ寺を訪れ、それぞれお寺の本堂と大師堂で2回ずつ、般若心経を130回唱えたことになった。「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺があるが、「130回の般若心経を唱えるがいまだ覚えられず」である。まあ、ほぼ間違わないで般若心経を唱えられるようになったことで、良し!と思っている。

宿泊は道後温泉だった。遍路巡礼を忘れ夕食後に、同ツアーの同行者と、からくり時計・坊ちゃん電車と坊ちゃん湯の観光に出かけた。
アニメ映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった坊ちゃん湯では、皇室の湯を案内してもらった。そこのトイレが畳敷で、下の箱に落ちたウンコの状態で健康状態を見るようになっていると、懇切丁寧かつサービス旺盛に説明してくれた。
住まいの玄関は東向きが吉だといわれるが、やはり皇室の湯は東入口になっていた。
姫路城・和歌山城・松山城の3城の内の一つも眺めて、正岡子規の記念館も近くにあるらしく、今回はお遍路修行ながら、ゆったり観光気分も味わえた。

お遍路は不思議な事がおこるらしいが、今回もそうだが、天気にはいつも恵まれる。出発前日まで大雨でも、当日は晴れ上がり傘を使用したことがない。これだけは不思議である。

前回にもトイレ休憩した高速道の石鎚山SAでは、愛媛みかんの「きよみ・はるみ・デコポン・文旦など」を、野菜を貰う親切なご近所さんに配るため、宅急便で自宅へ送った。今回はジツエはんが病気でデーサービスを休んでいるので、土産を大量に配ることがなかったため自宅でも食することができた。

旅行社アンケートに毎回意見を書いて提出するが、結構参考にされているように思う。
それは、最後の挨拶で西国33箇所の話もしてくれたことや、四国八十八箇所逆打ツアーの2泊3日半年満願コースも新聞広告にPRされている。

お参りしたお寺で1個ずつ貰う数珠玉を使い、108個の数珠が完成する日が段々近くなってきた。
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10回目の四国巡礼(1)

2008-04-03 | 四国八十八ヵ所
4月1日に大阪を出発して、1泊2日の10回目の四国お遍路だった。

高知県の足摺岬までの距離が一番遠くて、大阪から片道500kmもあった。距離が450kmもある愛媛県も今回で最後となり、残り2回の香川県と高野山へのお礼参りが残るだけとなった。65カ寺を打ち終え、香川県23カ寺を2回でお参りするので、まだまだ安心はできないと気持ちを引き締めた。

打つとは、昔の巡礼でお参りしたしるしに自分の名前を書いた木札をお寺に釘打ちしたことから来ている。今でも紙に書いた昔の名札が、お寺の柱等に糊付けされている。テレビ番組の桂小枝不動産が、賃貸住宅にシールを張るのは、これをまねたものだ。以前のテレビ番組で、ボクシングの赤井も同じようなシールを張る番組があった。

さて、今回の60番横手寺と65番三角寺の参拝には、大型バスが通れないためタクシーなどを利用した。特に、マイクロバスで走ること15分、山頂に駐車場があり、そこから山を800mほど下ったところに、横手寺は位置していた。歩き遍路さんにはきついだろうと思った。
そして、徳島県の12番焼山寺・20番鶴林寺・21番太龍寺も山中にあり、歩き遍路泣かせと云われていたのを思い出した。我々のグループの高齢者もよく頑張っておられた。

今日はこれまで、次回に続きます。
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2回目の奥道後ホテル

2008-03-10 | 四国八十八ヵ所
今回のお遍路の旅は、早くも9回目で1泊2日の旅でした。
昨年7月から始め、発心の道場・阿波の国へ4回(23カ寺)、修行の道場・土佐の国へ3回(16カ寺)、菩提の道場・伊予の国へ3回(26カ寺)、そして再来月からの涅槃の道場・讃岐の国へ2回(23カ寺)と続く予定です。残るは、4・5・6月の3回で結願、7月は真言宗総本山の高野山への満願お礼参りと先が見えてきました。

今回は、帰途に初めてしまなみ街道の西瀬戸自動車道(今治市~福山市)を渡りました。約50分の所要時間でした。その中央にあるしまなみ公園でトイレ休憩がありましたが、開通した頃はにぎやかだっただろうと思われたが、広い駐車場が寂しそうな気配でした。きっと途中で止まらないで通過してしまう様子でした。

今度は、鋭い眼をした修験道のようなお坊さんでした。メモ用紙などは見ないで説明する、仏教に詳しい知識豊富な先達さんで長いお経を読まれる方でした。
帰りのバスで彼は、修行の白衣を脱いで普通のおっさんになったと言いました。

また、延命寺で探していた木魚があったので購入しました。偶然にも、先達さんの先祖も義父母の納骨いている大念仏寺の宗派だったので、この木魚をお払いしてもらいました。
そして帰宅してから、義父母の仏壇にこの木魚を鳴らして般若心経をあげたところ、姉さん達が目を丸くして笑いながら喜びました。

今回のお寺は皆平坦な処にあり興味深い所はなかったのですが、仙遊寺では本尊がたまたまご開帳されていて、初めて子年の守り本尊の千手観音菩薩をすぐ傍で拝めました。大きさは2m以上もある立派な仏像に出会え感激しました。

それから、先月22日に学生時代の後輩青木君がくも膜下出血で急死したので、今回お参りした8カ寺全てで極楽へ行けるように拝んできました。
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ジョン万次郎について

2008-02-20 | 四国八十八ヵ所
足摺岬にはジョン万次郎の大きな銅像がある。(1827~1898年)
彼は偉大な人物であったことを四国訪問ではじめて知った。
高知では坂本竜馬一色だが、もとは彼に影響を与えたのが万次郎だと思う。

万次郎は幕末の日本において、日米の懸け橋として重要な役割を果たした人物だ。

土佐の漁師で、14歳の時(1841年)伝蔵船長の漁船で遭難し、5人の仲間と無人島に流れ着いた。無人島のため鳥に警戒心がなく、いとも簡単に捕まえて飢えをしのいだ。そこは鳥島で半年間過ごした。現在の鳥島は、アホウドリ約1,800羽がくらしている。

米国の捕鯨船の船長ウイリアム・ホットフィールドに救出され、捕鯨を手伝いながらハワイに着いた。そこに仲間を残し、利発で機敏な万次郎は船長に見込まれた彼一人だけが、米国のマサチューセッツ州フェアヘーブンの船長の家へ連れて行かれ、息子のように可愛がられ高度な教育を受けた。
特に、ホットフィールド船長がいつもお祈りする日曜礼拝は白人だけが許され万次郎が断られる教会だったため、怒って他の教会へかわったほどの可愛がりようだった。

万次郎は、油を取るための捕鯨船に乗り航海術を身につけたり、日本へ帰るための資金を得るためカリフォルニアの金鉱で働いた。

一度は捕鯨船で仙台沖まで帰ったが、江戸時代の鎖国政策中のため厳しい罰則があり係わりを持ちたくないと思われたのか、変な外人と思われたのか、入国を阻まれて帰国できなかった。
今度は、鎖国中でも、オランダと清国だけは長崎で付き合いがあるため清国からの帰国を考えていたが、薩摩の島津が琉球貿易をしているとわかったので琉球へ上陸し、薩摩、長崎、そして高知へ帰ってきた。
米国から持ち帰ったものは、長崎で幕府に没収され、高知の山内藩は開国に前向きだったので帰国できた。

高知では、画家の河田小竜に米国生活を話した。その後、坂本竜馬がこの画家にこれらの万次郎の話を聞き、竜馬を目覚めさせたと思われる。

10年後(1851年)に日本へ帰国した万次郎は、ペリー来航前に米国の暮らしを伝えている。1853年に、東インド艦隊の司令長官が4隻の黒船(軍艦)が神奈川県の浦賀で開国をせまった時に通訳した。また、米国との通商条約の英文訳もし、開国後には、咸臨丸の勝海舟艦長の通訳として福沢諭吉等と伴に同行した。

最後は、東京大学の礎になった開成学校の教師の時に亡くなった。
士農工商の江戸時代、武士以外の漁師であるにも拘わらず苗字を許されたので、住んでいた地名の中浜から、中浜万次郎となった。
なお、米国ではジョン万次郎と呼ばれていた。

最近、「ホットフィールド・万次郎友好記念館」事務局の新聞記事が掲載されていた。万次郎が当時米国で滞在していたホットフィールド船長の家が競売になっているので、記念館にする活動が、聖路加国際病院の日野原重明理事長を発起人に組織された。電話03-3265-1907
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前回の7回目88ヶ所(その2)

2008-02-12 | 四国八十八ヵ所
1月8・9日に1泊2日のバスツアーで、1日目は大阪から瀬戸大橋を渡り約500kmも走り高知へ行き、四万十川の観光も参加した。

2日目は、朝一番に38番金剛福寺へお参りした。
このお寺は、88ヵ所の中でも最南端に位置し、足摺岬の突端にある。37番岩本寺からは寺間距離が最長100kmもあり、徒歩で30時間以上かかると思われる。歩き遍路の岡本君が、ここは大変だったと云っていた処でした。

昔は厳しくて、四国を死国と言って、死を背負って歩いて廻ったとも本に書かれていた。今はバスツアーで、「旅の出会いを」楽しんでいる。その土地・そこの人・風土・歴史・食べ物・風景などの出会いがある。そしてお遍路の四国一周を廻るという目的を同じくする人々の出会いも、また面白い。

さて、足摺岬には、ジョン万次郎の大銅像がアメリカの方向を見て立っている。あまり知らなかった万次郎は、偉大な人物であることをここで知った。

・・・ジョン万次郎については、次回に続く・・・
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