庭で座ってのいろんな思い

庭の四季で花や木との語らいを写真とともに思いついたら記載する

五月人形

2010-04-28 | 行事などいろいろなこと
還暦誕生日祝いに、五月人形が百貨店から届きました。
家人が、姉さんにおねだりしたからでした。
男の子ができたらプレゼントすると言っていましたが、叶わぬ夢となったからです。

陶器で、中央には家来二人を従えています。
我家の陶器製雛人形とこの五月人形の作者は全く同じで、光堂作でした。
さっそく、床の間に飾ると、五月の雰囲気をかもし出しました。
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ゴルフの会話

2010-04-28 | ちょっとした話
ゴルフの上手な人が下手な人に聞きました。
「何時もどれぐらいで、ゴルフまわるんや?」
下手な人が答えました。
「たいがい、4人でまわります。」

すると、怒って聞きなおしました。
「違うがな!どれぐらいでまわるんや?と聞いてんのんやぁ!」
また、下手な人が答えました。
「そうですねぇ~、ハーフ2時間ぐらいはかかりますねぇ。」

結果、ゴルフの上手な人は呆れて帰ってしまいました。

これの会話はfictionです。
作者のゴルフスコア―は、ボーリングのスコア―と同じだそうです。
ただし、彼のボーリングのスコア―も只今のところ不明です。
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還暦誕生日と自転車

2010-04-27 | 行事などいろいろなこと
25日は家人の還暦誕生日でした。
日曜日には村の行事があり参加したので、翌日に手作りの誕生ケーキを焼きました。
それに、誕生日プレゼントに自転車をあげました。

自転車は、35年ほど前に幼稚園への通勤で使っていた以来の新車です。そのころには、5kmほどある距離を通勤していましたが、その後通勤時間がかかるのでバイクに切り替えました。
当時の自転車は、友だちのウラやんから買ったものでした。彼の勤務するゴム会社では、自転車も作っていたので、義姉の自転車と2台まとめて48,000円で買いました。
彼は右肩上がり経済の企業戦士であったためなのか、東南アジアにも出張でよく出かけていました。彼の大腸がんが分かったのは末期だったので、50歳ぐらいの早春に亡くなりました。最後の彼からの年賀状は、入院中に病院から書いたのか字が震えていたのを覚えています。
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タケノコ物語

2010-04-26 | 行事などいろいろなこと
福知山へタケノコ堀にでかけました。

連休前なのか、車はスゥ~イスゥ~イと、往復とも気持ち良く走りました。

昼過ぎの1時ごろ到着し、鍬と大黒様のように大きな袋を持って、イクちゃんにタケノコ山へ連れて行ってもらいました。
猪か鹿のフンが落ちているところもあり、農作物を荒らしていると聞いていたので、シシやシカが山の上から下りてきていることを実感しました。
道路に近い山の下の方は他人の土地でしたので、履き替えた長靴で滑りながら山の中腹あたりまで登りました。
「ここんとこ、3年ぐらいタケノコ採りにきてへん!」とのことで、沢山のタケノコの親(竹のこと)が空に向かって15~20mほど伸びていました。中には江戸時代の座敷牢のごとく、太った人にとっては通りにくいような所もありました。また、竹が茂って薄暗いようなところでは、光っている竹がないかと探しました。もし、光った竹が見つかり、斧で割れば、小さな可愛いかぐや姫が現れるかもしれないと思ったのですが、残念ながら今回もまた、かぐや姫には出会えませんでした。
こんなことを思ったのは、京都府のもう少し北へ行くと丹後地方で、安寿と厨子王や大江山の鬼退治の昔話が残っているからでしょうか?
また、今年の4月から朝ドラでも、出雲地方のゲゲゲの(鬼太郎)女房を放映している影響からでしょうか?

話はもとへもどり、タケノコですが、クミちゃんの話では、タケノコも年によって、多い時と少ない時があるそうです。それで、今年はタケノコが少ない方なのかなぁ?とも思いました。
以前にも堀に来たことがあるので、山の上の方から獲得したタケノコを転がしながら、山の下の方へと掘り進みました。すなわち、山から下るときには、登ってくる間にめぼしをつけておいたタケノコの方へ向かって取りながら、転がしながら下山しました。

「大きな袋を肩にかけ、大黒様がきかかると、そこに因幡の白ウサギ、皮をむかれて赤裸・・・」と心の中で歌いながら、タケノコがいっぱい詰まった重たい袋を担いで、イクちゃんの家へと帰りました。

そして、ケーキなどおやつでコーヒーブレイクして、孫のリカちゃんのおゆうぎ会の踊りDVDを見たりしました。TV画面の中の彼女は、しっかりとダンスを記憶していて、他の子どもたちを引っ張っていくリーダー的な存在でした。将来を、家族みんな期待していて、羨ましいようにも思いました。

さて、帰宅したのは夜でした。
翌日は朝から運動会があるので、早起きして日ごろお世話になっているご近所さんにお裾分けをしました。京都の福知山のタケノコは、今が旬ですさかい!と言いながら配りました。
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今週の出来事

2010-04-25 | 行事などいろいろなこと
月曜日は、中学校ボランティアが空振りとなり畑仕事でした。

火曜日は、家人の小中学校図書館サポートボランティアの説明会があり、送り迎えをしました。

水曜日は、近江のM君宅を訪問しました。
開通して間もない第二京阪道路を通り行きましたが、名神高速道路へ乗り替え間違えで、京都市内へ着いてしまい苦労して辿りつきました。
彼の新居は総木造づくりで、床・天井それに各扉なども全部が木の香りが心地よく、吹き抜けのある1階ワンフロアーは、ゆったりしており、これで囲炉裏があったら山小屋だなあ、と思いました。
早速帰って、チュウカ君に、家人が見てきた家の様子を電話で話していると、「俺も、木彫の家を建てたい。」と言って、チュウカ君にしては珍しく羨ましがっている様子でした。
口が悪い性格なども、「不治の病」らしいのですが・・・・
そこれからは、京都大原三千院が近いので、夫婦二組で昼食を食べに行きました。この三千院は、傳教大師最澄上人が比叡山延暦寺建立の際、草庵だった所だったようです。おりしも、阿弥陀三尊像(国宝)を開帳しているので見学しました。そこは、中央の阿弥陀如来の両脇をかためている、観音菩薩と勢至菩薩との座り方が「大和座り」というめずらしい正坐姿でした。

木曜日は、この前の旅行の清算があり、会長さんとともに旅行社と出会い、支払いを済ませました。

金曜日は、家でイチゴ入りミニドラヤキを作りました。
それは、ホットケーキミックスに玉子・蜂蜜・ヨーグルトを混ぜ、ホットプレートで焼き、あずきを塗ってイチゴをはさんで出来上がりです。

土曜日は、京都の福知山へタケノコ堀へと出かけました。

日曜日は、高齢クラブの市連合会の運動会があり、参加しました。
地区の若手高齢者であるためリレーに選ばれアンカーを務めました。ゴール直前で追い付きそうでしたが、残念ながら一歩及ばず予選敗退となりました。しかし僕は、最後の抽選会では2等賞が当たりました。特等の自転車にももう一歩及ばず帰りました。
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野菜の苗

2010-04-25 | 初心者のガーデニング
野菜の苗を植えました。

今は、じゃが芋・玉葱・ネギ・エンドウ豆・イチゴは、畑で栽培中です。
トマト・ミニトマト・胡瓜・茄子・ゴーヤ・南瓜と薩摩芋を、プランターなどに植えました。
各苗は、薩摩芋を除いて各1本ずつですが、接ぎ木の苗はゴーヤだけです。
接ぎ木は、値段が高いので安い方を買いました。
接ぎ木の苗でないと弱いらしいですが、元気に育つことを祈りながらの植え込でした。
ただし、接ぎ木の苗の実は味が悪いと、後日に農家の人から教えてもらいました。

清貧の年金暮らしの一日でした。
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忙しかった4月の前半

2010-04-17 | 行事などいろいろなこと
中学同窓会・村の旅行・学生時代の仲間・高齢者クラブと週2回ほどの行事を、風邪気味の体調でこなしました。

昼間のG寿司屋での集まりは、いつもの夜のG鍋料理と違って、今回は懐石料理でした。
夜は高額な料理が、昼間なら定額ですむとのことでしたので、これからは昼間の集合の方が料理がよいのではないか?と思いました。

その次の日には、高齢者クラブの出し物を準備しました。
僕は、毎月の連続出演に、ええんかなぁ?と思いながらの出席ですが、そこの会長が「つぎ、たのむわ!」と僕に振ってきますので、いつもそれへの準備がいります。
地域包括センター職員さんの介護制度の講習の後に、今回は、CD音楽、団体ゲーム・個人ゲーム、ちょっとした小話などを加えてみました。
杉良太郎の歌と、鉄道唱歌の替歌、の2曲を歌いました。
鉄道唱歌の替歌では、図書館でCDを借りたもと歌流しましたが、全部聞いたら1時間半はかかります。「汽笛いっせい新橋を・・・」とすぐにCDを止めて、替歌をうたいました。
人気のある替歌だと教えてもらったものです。それは、参考までに、下記のとおりです。

我ら人生60から (鉄道唱歌の替え歌)
我ら人生60から 心も体も元気です 70で迎えにきたならば ただいまお留守と言いなさい
我ら人生60から いつもニコニコ朗らかに 80で迎えにきたならば まだまだ早いと言いなさい
我ら人生60から そんなに不足は言いません 90で迎えにきたならば そんなに急くなと言いなさい
我ら人生60から いつも感謝で暮らします 100で迎えにきたならば 頃みて行くよと言いなさい

次に、カードで作った“とんちの読み方”をつなぎでしました。(「石の上にも3年・ひっくりカエル・七転び八起き・イチジク・すみません」が答えです。)
そして、テーブルごとの団体ゲームにはいりました。双六しりとりゲームです。
A3用紙に縦横6マスづつ作って、外枠まわりから中心へ向かって、各角までとしりとりで言葉を書いていきます。
説明が悪かったのか?やり方が分からなかったり、しりとりなのに最後に「ん」が付いたりしたものもありました。
双六しりとりゲームが完成したチームのものを読みました。
10チーム全部が完成しないので、「後は家でやっておいて下さい。」「宿題です。」と打切りました。
今度は、隣の人どうし二人がペアーになり、個人ゲームに移りました。
相手の事がどれだけ当たるかを、配った紙に書いてもらいます。
問題は、8個で、1性別・2生まれ月・3朝食を食べたか・4好きな食べ物・5好きな動物・6好きな色・7年齢・8今は幸せか?の項目を、それぞれ相手の顔を見て、想像して紙に書いてもらいました。
全部の質問項目が当たった人が、一人だけいました。
ここでも、説明が悪かったのか?なかには相手の事ではなく自分の事を書いているのではないか?と心配しました。

なんか、混乱したようだったので、最後に、小噺をいれて、敗者復活をしました。
(1)「お日さんとお月さんと雷さんが旅をして宿に泊まりました。翌早朝に雷さんが宿の女将さんに聞くと、お日さんとお月さんはもう既に出発していました。そこで雷さんは『月日のたつのは早いものだ』と思いました。そして、女将さんが雷さんに何時たつのか?と聞くと『私は雷だから、夕立(ゆうだち)にしよう』と答えました。」
(2)「道で貧乏神に出会いどこへ行くのか?と聞くと『今からお前の家へ行くところだ』と答えました。今度は、福の神に出会いどこへ行くのか?と聞くと『今からお前の家から出てきたところだ』と答えました。」
(3)「病院でお年寄りが医者に『右膝は大丈夫なのに、左膝が痛い』と云うと、『年のせいです』と答えました。するとお年寄りは『年のせいと云うけど、私の膝は右も左も、おない年です』と云いました。」

その日の反省点は、出し物は2つぐらいにしておかないとアカンと思いました。
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ハチ公物語

2010-04-17 | ちょっとした話
昭和9年4月21日、彫刻家の安藤照による銅像が、渋谷駅前に建てられた「忠犬ハチ公」のはなしです。また、秋田の大館駅前にも同じ形で作られた銅像があるそうです。
なお、第二次大戦で金属資源不足のため供出され、溶かされ機関車の一部になり、東海道線を走りました。現在のハチ公像は、彫刻家の息子、安藤士(たけし)によって、昭和23年8月9日に再建されたものだそうです。

このハチ公物語は岩貞るみこ作で、待ち続けた犬の副題がついていました。
大正13年1月に、2カ月の子犬は、秋田から夜行列車で、30時間かけて東京まで送られてきました。座っている姿を前から見ると、前足が八の字に見えたので、飼主が犬の名前を「ハチ」と名付けました。
飼主である上野英三郎さんは、53才のやさしい東京大学教授で、年の離れた八重おくさんと二人暮らしでした。先生の家へ出入している植木職人、小林菊三郎の息子サダオが話している物語で綴られていました。ハチとサダオは、10万5千人も亡くなった関東大震災の前々年、大正12年の生まれで同級生だそうです。ただし、犬は1年で人間の8才の年をとるそうです。

以前「もういいかい?まあだだよー!」という、生徒達から慕われる先生の映画がありましたが、映画の先生と上野先生が、僕の頭の中でダブりました。
この映画は、同窓会で先生が「もういいかい?(もう米寿も過ぎたので死んでもよいか?)」と尋ねると、生徒たちが「まあだだよー!(まだまだ、死んだらアカン)」と答えるシーンから題名が付いた、映画の題名でした。

話は、もとのハチ公にもどります。
上野先生が朝鮮へ長期出張の時、ハチ公は渋谷駅まで見送りに行きます。先生の留守中に主人がいない寂しさでハチ公は病気になります。それでも先生が帰ってくる時、渋谷駅へ迎えに行きます。上野先生が帰ってくると元気になります。
そして、不幸なことに、上野先生が大正14年5月に亡くなります。ハチ公は上野先生の匂いのする服などから離れませんでした。
その後、植木屋の菊三郎宅へあずけられました。
そして、ハチ公は、いつも上野先生を朝送って行った渋谷駅へ出かけ、先生が帰ってくる夕方まで、毎日・毎日・・・昭和10年3月8日までの死ぬまで、上野先生を待ち続けました。
最後は、上野先生が眠る青山墓地の方向に向かい死んでいるハチ公の姿が、発見されたそうです。

「ハチはいま、大好きだった上野先生に、会いたくて会いたくて、しかたなかった上野先生に、やっとやっと、会えたんだよね。」と締めくくられて、この物語は終わっていました。
また、ハチのことを大好きだったが、ハチがじゃれるのは上野先生だけだった、とも書かれています。
さらに、上野先生は、芸等をハチに一切教えてはいけないと云っていました。「お手」「お座り」などのものを・・・・・

また、僕もこの時期に田舎から引越しをしたので、田舎で飼っていたチロという犬の事を思い出します。
夏休みなどに田舎へ帰ると、僕の事を忘れず喜んでじゃれてきたことを。
僕の周りをチョロチョロしていたので、チロという名前を付けたことも。
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地域の旅行

2010-04-12 | 行事などいろいろなこと
湯村ゆく はてなくつづく 桜かな

地域の親睦会の役が回って来て、過去の行き先を調べ、2月から準備が始まりました。
まずは、旅行社からの打合せでした。1社はセールスマンの態度が悪いので断り、次のN観光に依頼しました。
それから2月に、役員で会員さん全員を個別訪問して、旅行参加を呼びかけました。
2回目と3回目の旅行社との打合せで、昼食・観光など含め検討し決めました。
4回目に、旅行社と最終打合せ確認をしました。その時、会長さんが、バスガイドは若いと説明が下手やし、かといって高齢者は困るし、そこそこの年齢で、そこそこの別嬪さんを頼むと言うと、旅行社のセールスマンは鋭意努力をしますと応えました。
1週間前の日曜日には、貸切バスへ積込む飲物・おつまみを買出しに行きました。早目に、おつまみの袋詰めをお菓子屋さんへ頼んでおきましたので、引取だけですみました。また、ビール・酒・チュウハイ・オロナミンやリポビタン・コーヒー・お茶などは、前年の明細を見ての買い出しを車で行きました。これで準備が完了しました。

毎月、会費の入金チェックをしたり、総会や懇親旅行の資料をきっちりと丁寧に残しておいてくれている前任者に感謝しています。彼は、もと公務員だったからでしょう。

近所の駐車場へ大型観光バスが来て、買出しの荷物を積込み、旅行臨時会費を徴収してから、自由に乗りこみます。その時、関所のごとく、おつまみをこの会費と交換に渡すと、「高額なおつまみやなぁ」と面白い冗談を言う人もいました。

皆楽しみにしていたのか、集合時間前には全員集合し、予報がはずれた好天気のなかを早目の出発になりました。旅行実行側としては、バスの中でアルコールを飲んでもらえたら旅館や昼食レストランで飲むより、原価で安価に済むなぁと思いながら、添乗員さんにビールなどを配ってもらいました。バスは、すぐにガイドさんの説明が聞こえなくなるほど賑やかになりました。また、会長さんの「そこそこ(美人)のガイドさんに来てもらいました」との朝の挨拶にも盛り上がり、この旅行中には「そこそこのガイドさん」と呼ばれていました。

北近畿道は、わが村より1週間遅い桜がチョウ満開でどこまでも続いていました。
地場産業の鞄屋さんで買物をして、地場産業の但馬牛のしゃぶしゃぶ鍋の昼食をとり、桜満開の出石城下町を散策して、天然温泉かけながしの宿に着きました。
温泉町で一番のI旅館は、陛下も訪れた写真が飾られていました。また、旅館の人も桜満開の今が一番良い季節です、と言っていました。
湯船に浸かりながら、やっぱり旅は良い温泉と豪華な食事が一番やなぁと思いました。そして、途中の観光は付け足しでも結構でよい。
また、2次会のカラオケ貸切でも、歌の上手な人がいっぱいで、盛り上がりました。

翌日バスに集合すると、朝に荒湯で温泉卵を湯がいてきて皆に配る人もいました。
蒲鉾や海産物の土産屋さんに寄り、鳥取砂丘の風の強い山にも登り、天然海水いけす料理の昼食をとり、かにっこ館を見学し帰途に着きました。

出発した駐車場への到着時間は、工事中もあるものの途中で高速ができていたので、1時間早い到着になりました。
どこが不景気か?と疑うぐらいの高齢パワーで、バスのトランクには、お土産の山・山・・・
そういえば、到着前に「土産買いすぎて持たれへん、迎えに来てくれ!」と携帯電話を嫁さんにかけていた人がいるぐらいでした。

こんな様子を見て、僕はふと思いました。
戦後、日本経済を動かしてきた人々の高齢パワーは、今も健在やと・・・・・
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中学の同窓会

2010-04-12 | 行事などいろいろなこと
中学の同窓会参加は、3度目でした。会場は、大阪城の近くのKホテルでした。

42歳の厄年と60歳の還暦に学年全体の同窓会があって以来で、今度はクラスの同窓会でした。
他のクラスの有志を含めて、担任のM先生・H先生と31名が集まりました。
当時に卒業したのは、一クラス50名の生徒数で十一クラスもあり、学年の生徒数は合計550名で、さすがに団塊世代でした。

同窓会というのは、生存者の確認のようなものです。クラスメイトですが、1回目にはK君が事故で欠けて、2回目には海上自衛隊のN君が欠けて、3回目の今回にはO君が欠けていました。
O君とは喧嘩した思い出があります。それは、クラスでも背が低かった僕が大きいかったO君が手を出す前に平手打ちをかましました。喧嘩に負けることは初めから分かっていたので、最初の一発ぐらいかましておかないと、との計算がありました。あとは、ボクシングのサンドバックのようにボロボロに打たれっぱなしでした。誰かが止めに入り終わったことを今でも懐かしく記憶に残っています。これは、負けるとわかっていてもしなければならない喧嘩だったといまでも満足しています。
なお、前回同窓会の写真では、O君と肩を組んで写っていました。

担任のM先生が、記憶では君は小さいかったので身長が伸びたのは高校生になってからやろう?といつも尋ねます。僕はいつも、栄養失調やったからです、と答えるように決めています。先生方は、おおぜいの担任した生徒をよく覚えているんだなぁといつも感心しています。

なお、桜が満開で会食後の花見に行きましたが、私は風邪をひいていおり明日も旅行の買い出しがあるので、お先に失礼しました。
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