9月から12月まで3カ月間の歴史博物館ボランティア講習が、終わりました。
9名の受講者全員が、修了証を一人ずつもらってから、ボランティア登録をしました。
小学生の見学や催しがあるとき、綿を紡ぎ方を教えたり、展示準備・説明などをする予定です。
第1回目の講習は、そこの博物館の説明でした。
第2回目は、河内木綿について学習した後、綿繰り・糸紡ぎの体験でした。
第3回目は、民具展示の体験学習で、展示の仕方も教えてもらいました。
稲の種を蒔まいて・植えて・・・・・・米になるまでを順を追って展示したり、過去の古道具と現在の耕運機など写真を飾って、比較展示する方法があるようでした。
第4回目は、他館のボランティアとの交流で、大阪市立住まいのミュージアムへ行き、そこのボランティア活動状況を視察学習しました。
そこへは初めて訪れたのですが、人間国宝の桂米朝さんの語りによる案内もあり、商家や町民長屋の展示は、まるで江戸時代へタイムスリップしたような雰囲気がありました。
また、「しもたや」というのは、商売をしもた(閉めた)いえ(家)だと云う意味だったことを、初めて知りました。
第5回目は、歴史ハイキングで、3つある寺内町(じないちょう)のうち、2つを弁当持参で歩きました。
寺内町では、西洋の都市国家と同様に、浄土真宗のお寺を中心とした堤で囲まれた一単位の小国家のような独立したような様子が、街の道路等から想像できました。
なお、大坂夏の陣で徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼすきっかけとなった戦いが、この地の旧大和川の河原(付替え前に川幅2~3百米ほどあった)であったようで、驚きでした。
第6回目は、歴史ハイキングで、市の公報誌で募集した一般参加者やボランティアスタッフ達と、高安の里を歩き、地域の歴史とボランティア活動を研修しました。
古墳時代後期の、前方後円墳の実物・奈良の明日香の石舞台のような古墳・弘法大師発見の湧水のある地蔵堂・伊勢物語に関係する神社等々を歩き回り、足がパンパンになりました。
第7・8回目は、郷土の歴史を知ると云うことで、古代編と中世編を学習しました。
そこでは、縄文時代中ごろ(約5,000~4,000年前)は、大阪平野が海で上町台地が岬の河内湾だったこと。
弥生時代中期(約2,000年前)は、淀川と旧大和川の土砂堆積で大阪平野が河内潟だったこと。
古墳時代中~後期(約1,600~1,500年前)は、さらに土砂堆積で大阪平野が河内湖だったこと。
さらに驚いたことには、縄文時代から比べると、11m以上も地面が高くなっているとのことでした。
それから、来年のボランティアスタッフの新年会は、他の新年会と重複するため、残念ながら欠席しますと断り、帰宅しました。
よって、今年の予定は、伊勢参り・もちつきとおせち料理を残すだけとなりました。
9名の受講者全員が、修了証を一人ずつもらってから、ボランティア登録をしました。
小学生の見学や催しがあるとき、綿を紡ぎ方を教えたり、展示準備・説明などをする予定です。
第1回目の講習は、そこの博物館の説明でした。
第2回目は、河内木綿について学習した後、綿繰り・糸紡ぎの体験でした。
第3回目は、民具展示の体験学習で、展示の仕方も教えてもらいました。
稲の種を蒔まいて・植えて・・・・・・米になるまでを順を追って展示したり、過去の古道具と現在の耕運機など写真を飾って、比較展示する方法があるようでした。
第4回目は、他館のボランティアとの交流で、大阪市立住まいのミュージアムへ行き、そこのボランティア活動状況を視察学習しました。
そこへは初めて訪れたのですが、人間国宝の桂米朝さんの語りによる案内もあり、商家や町民長屋の展示は、まるで江戸時代へタイムスリップしたような雰囲気がありました。
また、「しもたや」というのは、商売をしもた(閉めた)いえ(家)だと云う意味だったことを、初めて知りました。
第5回目は、歴史ハイキングで、3つある寺内町(じないちょう)のうち、2つを弁当持参で歩きました。
寺内町では、西洋の都市国家と同様に、浄土真宗のお寺を中心とした堤で囲まれた一単位の小国家のような独立したような様子が、街の道路等から想像できました。
なお、大坂夏の陣で徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼすきっかけとなった戦いが、この地の旧大和川の河原(付替え前に川幅2~3百米ほどあった)であったようで、驚きでした。
第6回目は、歴史ハイキングで、市の公報誌で募集した一般参加者やボランティアスタッフ達と、高安の里を歩き、地域の歴史とボランティア活動を研修しました。
古墳時代後期の、前方後円墳の実物・奈良の明日香の石舞台のような古墳・弘法大師発見の湧水のある地蔵堂・伊勢物語に関係する神社等々を歩き回り、足がパンパンになりました。
第7・8回目は、郷土の歴史を知ると云うことで、古代編と中世編を学習しました。
そこでは、縄文時代中ごろ(約5,000~4,000年前)は、大阪平野が海で上町台地が岬の河内湾だったこと。
弥生時代中期(約2,000年前)は、淀川と旧大和川の土砂堆積で大阪平野が河内潟だったこと。
古墳時代中~後期(約1,600~1,500年前)は、さらに土砂堆積で大阪平野が河内湖だったこと。
さらに驚いたことには、縄文時代から比べると、11m以上も地面が高くなっているとのことでした。
それから、来年のボランティアスタッフの新年会は、他の新年会と重複するため、残念ながら欠席しますと断り、帰宅しました。
よって、今年の予定は、伊勢参り・もちつきとおせち料理を残すだけとなりました。