高宮さまのブログの山陰紀行を拝見していると、望郷の念がひしひしと…
9月は、やんごとなき理由により帰省が出来ませんでしたが、やはり都会を離れて田舎の空気を吸いたい、それが私の願望ともなってきました。それだけ歳をとったということでしょうか…
山陰の気動車は、高速化事業に伴ってステンレス製の新車に替わったと思われがちですが、まだまだ輸送力列車として国鉄色のキハ47も頑張っております。
米子界隈ではキハ47×4連もいるようですが、島根県西部ではキハ47×2連ではありますが朝夕に運用があり、一部では旧国鉄色同士の交換も見られます。後藤所の気動車は『JRマーク』を省略しているので、一見すると国鉄時代そのままにも思えます。
経費削減を謳うなら朱色一色でいいのに、なぜ塗り分けるのでしょうかね…?
右135D 左334D 8月9日波子にて
国鉄時代は嫌われた朱色一色ですが、私が子供の頃は『赤ヂーゼル』と呼び、あたかも新車のように思っておりました。因みに一番最初の朱色一色の車両はキハ17、それでも新車と思っとりました。やはり視覚効果は大きいのでしょうか…?
9月は、やんごとなき理由により帰省が出来ませんでしたが、やはり都会を離れて田舎の空気を吸いたい、それが私の願望ともなってきました。それだけ歳をとったということでしょうか…
山陰の気動車は、高速化事業に伴ってステンレス製の新車に替わったと思われがちですが、まだまだ輸送力列車として国鉄色のキハ47も頑張っております。
米子界隈ではキハ47×4連もいるようですが、島根県西部ではキハ47×2連ではありますが朝夕に運用があり、一部では旧国鉄色同士の交換も見られます。後藤所の気動車は『JRマーク』を省略しているので、一見すると国鉄時代そのままにも思えます。
経費削減を謳うなら朱色一色でいいのに、なぜ塗り分けるのでしょうかね…?
右135D 左334D 8月9日波子にて
国鉄時代は嫌われた朱色一色ですが、私が子供の頃は『赤ヂーゼル』と呼び、あたかも新車のように思っておりました。因みに一番最初の朱色一色の車両はキハ17、それでも新車と思っとりました。やはり視覚効果は大きいのでしょうか…?
しか~し!今見ると郷愁ですなぁ~。
>竹客さま
当時の手抜きも、今や郷愁の一言です。しかし、それが一番落ち着いて見えるのはなぜでしょうか? それともマニアの単なるエゴなのでしょうか?
>高宮今日子さま
その石州瓦も、赤い釉薬の来待石が取れなくなり合成で再現し始めたとか… ウチの実家も黒色の瓦ですが私の代では伝統の石州瓦に変えたいと密かに思っております。
『白い砂浜に緑の松、赤い石州瓦の家並み』これが石見の風景の定番でしたが、それも今や見れないのが残念です。
初めまして。実は私も父親の里が筑肥線沿線でございまして、『筑肥線』という字に過敏に反応してしまいました(笑)
ちなみにうちの父親は昭和バス派でした。特急や急行、あと支線からの直通バスなど多くの本数を運行していた、その昭和バスも風前の燈になってしまいましたね…。
>その他の関係各位様
またバスかいっ!ってツッコミはなしてヨロシクですm(__)m
流石にキハ58系までは塗り替えの対象にはならなかったようですが(キニ28・58・キユニ28は除く)、キハ55系の場合九州地区では急行色固持していたのに、広クニ所属の岩徳線運用車はタラコ色にされてしまいました。
この辺の規定はどうだったのでしょう?支社・管理局判断でできたのか?或いは客車の青塗りに見られる「掟破り(笑)」?
キハ40系、重いガタイの割りに出力の小さいエンジンで走行性能が悪いとのことですが、客室空間も広く座席もゆったりしていて個人的には好きなクルマです。
昭和53年10月2日施行、『車両塗色及び表記基準規定』によりますと、一般型及び通勤型気動車の車体塗色は、キハ37のみ赤11号、それ以外は朱色5号と規定されています。岩徳線のキハ26の場合は急行列車には用いないので、『急行型』ではなく『一般型』との現場解釈で一色塗りになったのではないでしょうか? それとも単に手間を省いたか…?
筑肥線は殆ど気動車でしたが、客レが1往復残っていて、「ジョーキ」と呼んでました。もっぱら当方はキハユニ26の荷室に乗って帰ってました。
今日も廃線跡の車道を通って帰って来ましたが、小笹駅って空中に位置していたんですね。ごっそり山削って・・・。
そうだ・・・キハ17の運転台の反対側の妻面の色は最初から朱でしたよね。
嗚呼ローカルなねただぁ~♪
キハ17だけでなく、一般型気動車の妻面は1色塗りです。キハ17の初期車は妻面に験水弁を操作する引き紐やハシゴがあったりとで、結構賑やかなんです。
キハユニ26といえば、ウチの田舎にも三江線運用の車両がいました。子供の頃、荷物室(郵便室だったか?)の中に入って車内灯の押しスイッチをいじって怒られた記憶があります。
客室も白熱灯で、長かった長沢トンネルに入った時だけキハユニの客室に移動したりもしました。キハユニ…懐かしいな。
私の父の郷里は最寄駅波多江。そこから今はなき昭和バス怡土線に乗って10分くらいのところなんです。
嗚呼、なんてろ~かる過ぎる話題なんでしょう。
僕は非電化時代の筑肥線は2、3回くらいしか乗った事がありません。もっぱら福岡空港から唐津行の急行バスで帰省しておりました。筑肥線で帰省しだしたのは電化されてからですね。今や複線で15分間隔とは。時代は変わりましたね。
宜しければ暴掲示板へもお越し下さい。筑肥線の話題で熱くなりましょう。