まろねふの廊下からの呟き

中年オヂさんの呟き転じて、人生備忘録となる…

赤ヂーゼル

2006年10月24日 | 廊下から
高宮さまのブログの山陰紀行を拝見していると、望郷の念がひしひしと…
9月は、やんごとなき理由により帰省が出来ませんでしたが、やはり都会を離れて田舎の空気を吸いたい、それが私の願望ともなってきました。それだけ歳をとったということでしょうか…

山陰の気動車は、高速化事業に伴ってステンレス製の新車に替わったと思われがちですが、まだまだ輸送力列車として国鉄色のキハ47も頑張っております。
米子界隈ではキハ47×4連もいるようですが、島根県西部ではキハ47×2連ではありますが朝夕に運用があり、一部では旧国鉄色同士の交換も見られます。後藤所の気動車は『JRマーク』を省略しているので、一見すると国鉄時代そのままにも思えます。
経費削減を謳うなら朱色一色でいいのに、なぜ塗り分けるのでしょうかね…?


右135D 左334D  8月9日波子にて

国鉄時代は嫌われた朱色一色ですが、私が子供の頃は『赤ヂーゼル』と呼び、あたかも新車のように思っておりました。因みに一番最初の朱色一色の車両はキハ17、それでも新車と思っとりました。やはり視覚効果は大きいのでしょうか…?

10 コメント

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Unknown (竹客@中村)
2006-10-24 21:29:13
当方は筑肥線で通学していたので、キハ35が朱色になった時には塗料が不足したのかと思ったりで、違和感がありましたが、次々とキハ17や26が朱に交わって赤くなり始め、あの色は赤字の当て付けかと噂したものです。
しか~し!今見ると郷愁ですなぁ~。
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Unknown (高宮今日子)
2006-10-24 21:31:33
朱色一色は山陰独特の石州瓦とかけているのかなぁ~。
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Unknown (まろねふ)
2006-10-24 21:45:33
最近、私のページにコメントを書き込むと文字化けします。皆様が書き込まれるといかがですか?

>竹客さま
当時の手抜きも、今や郷愁の一言です。しかし、それが一番落ち着いて見えるのはなぜでしょうか? それともマニアの単なるエゴなのでしょうか? 

>高宮今日子さま
その石州瓦も、赤い釉薬の来待石が取れなくなり合成で再現し始めたとか… ウチの実家も黒色の瓦ですが私の代では伝統の石州瓦に変えたいと密かに思っております。
『白い砂浜に緑の松、赤い石州瓦の家並み』これが石見の風景の定番でしたが、それも今や見れないのが残念です。
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Unknown (ちゅーすけ2号)
2006-10-25 00:28:35
>竹客様
初めまして。実は私も父親の里が筑肥線沿線でございまして、『筑肥線』という字に過敏に反応してしまいました(笑)
ちなみにうちの父親は昭和バス派でした。特急や急行、あと支線からの直通バスなど多くの本数を運行していた、その昭和バスも風前の燈になってしまいましたね…。



>その他の関係各位様
またバスかいっ!ってツッコミはなしてヨロシクですm(__)m
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Unknown (青列車)
2006-10-25 10:49:28
この朱色4号1色塗り、当初首都圏色と呼ばれていましたね。最初はてっきり、相模線や八高線辺りのみの塗装だとばかり思っていましたが何時の間にか全国に広がってしまいました。紅しょうがみたいな色だなぁ~…と思っていましたが、確かレイルマガジン誌上だったかと思いますが「タラコ色」の表記を見かけ思わず吹き出してしまいました(言い得て妙ですね)(笑)
流石にキハ58系までは塗り替えの対象にはならなかったようですが(キニ28・58・キユニ28は除く)、キハ55系の場合九州地区では急行色固持していたのに、広クニ所属の岩徳線運用車はタラコ色にされてしまいました。
この辺の規定はどうだったのでしょう?支社・管理局判断でできたのか?或いは客車の青塗りに見られる「掟破り(笑)」?
キハ40系、重いガタイの割りに出力の小さいエンジンで走行性能が悪いとのことですが、客室空間も広く座席もゆったりしていて個人的には好きなクルマです。
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Unknown (まろねふ)
2006-10-25 16:40:08
>青列車さま
昭和53年10月2日施行、『車両塗色及び表記基準規定』によりますと、一般型及び通勤型気動車の車体塗色は、キハ37のみ赤11号、それ以外は朱色5号と規定されています。岩徳線のキハ26の場合は急行列車には用いないので、『急行型』ではなく『一般型』との現場解釈で一色塗りになったのではないでしょうか? それとも単に手間を省いたか…?
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Unknown (竹客@暴掲示板)
2006-10-25 17:24:46
ちゅーすけ2号様の父上のお里が・・・昭和バスも微妙ですが、まだ大丈夫そうです。銀バス時代がローカルで良かったですなぁ~。天神から乗ると今宿まで泣いても降ろしてくれないとか聴きましたが・・・(怖)
筑肥線は殆ど気動車でしたが、客レが1往復残っていて、「ジョーキ」と呼んでました。もっぱら当方はキハユニ26の荷室に乗って帰ってました。
今日も廃線跡の車道を通って帰って来ましたが、小笹駅って空中に位置していたんですね。ごっそり山削って・・・。
そうだ・・・キハ17の運転台の反対側の妻面の色は最初から朱でしたよね。
嗚呼ローカルなねただぁ~♪
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Unknown (まろねふ)
2006-10-25 22:41:21
>竹客さま
キハ17だけでなく、一般型気動車の妻面は1色塗りです。キハ17の初期車は妻面に験水弁を操作する引き紐やハシゴがあったりとで、結構賑やかなんです。

キハユニ26といえば、ウチの田舎にも三江線運用の車両がいました。子供の頃、荷物室(郵便室だったか?)の中に入って車内灯の押しスイッチをいじって怒られた記憶があります。
客室も白熱灯で、長かった長沢トンネルに入った時だけキハユニの客室に移動したりもしました。キハユニ…懐かしいな。
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Unknown (ちゅーすけ2号)
2006-10-25 22:56:15
>竹客様
私の父の郷里は最寄駅波多江。そこから今はなき昭和バス怡土線に乗って10分くらいのところなんです。
嗚呼、なんてろ~かる過ぎる話題なんでしょう。

僕は非電化時代の筑肥線は2、3回くらいしか乗った事がありません。もっぱら福岡空港から唐津行の急行バスで帰省しておりました。筑肥線で帰省しだしたのは電化されてからですね。今や複線で15分間隔とは。時代は変わりましたね。
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Unknown (竹客@暴掲示板)
2006-10-26 17:31:53
ちゅーすけ2号様、波多江とは何とまぁ~。通学するのに下り1番列車に乗り、波多江で上りのジョーキに乗るのが常でした。波多江も様変わりしましたね。当方は今でも日向峠を越えて怡土地区で夕暮れの可也山など撮ってます。金が無いのにズームレンズ買ったりで、まろねふ殿の模型道楽をどうのこうの言えた顔ではありませんね。
宜しければ暴掲示板へもお越し下さい。筑肥線の話題で熱くなりましょう。
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