Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ANDREA CHENIER (Sun, Jan 6, 2013)

2013-01-06 | メト以外のオペラ
OONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)の今シーズンの演目は『アンドレア・シェニエ』と『イ・ロンバルディ』の二つです。
その案内を数ヶ月前に郵便で受け取った時、『イ・ロンバルディ』にはミードが登場すると書いてあって、
これは今年もサブスクリプションをリニューアルしなければ!!と舞い上がったのですが、
それも束の間、その横の『アンドレア・シェニエ』のキャストを見て固まりました。

アラーニャのアンドレア・シェニエ、、、?!
えええーーーっっ!!?ぜんっぜん聴きたくないかも。
さらにマッダレーナ役がクリスティン・ルイス、ジェラール役がゲオルグ・ペテアン、、、
んー、誰それ?って感じ?

私のギルティー・プレジャー(それを好き!と公言することにちょっぴり恥ずかしさを感じつつも、やめられない・とまらない)の一つは
何を隠そう、じゃじゃ~ん!!「ヴェリズモ・オペラ!」でして、
そう、奥深さのかけらもない単純なストーリー!どうにもこうにも3面記事なテーマ!べたなメロディー!
そんなでモーツァルトやワーグナーやヴェルディと同じオペラのカテゴリーを名乗ってしまってすいませんね~、なヴェリズモ・オペラが大好きなんです。
よって『アンドレア・シェニエ』も例外ではなく、メトでは2006/7年シーズンを最後に舞台にかかっていないこともあり、
久しぶりに全幕を生で聴きたい!という欲求は猛烈にあるのですが、
しつこいようですがアラーニャがシェニエなので、それだったらサブスクリプションのリニューアルは止めて、
『イ・ロンバルディ』単体のチケットを買ってもいいかな、、と思い始めたところ、さらに読みすすめた先にこんな一文がありました。
”お客様は昨シーズンキャンセルになった公演代金のクレジットがまだ残っておりますので、
サブスクリプションをリニューアルしてセット券をお買い求めの場合に限り、その購入代金に当てて頂くことが出来ます。”

おお!!そうでした、、
昨年のOONYはゲオルギュー&カウフマンの『アドリアーナ・ルクヴルール』(あ!これもヴェリズモでした。でもまだレポ書いてない、、)の後に
ドミンゴ様出演の演目未定の公演が予定されていたのですが、
この後者の公演が、OONY側の資金の問題でキャンセルになってしまって、そのチケット代返金依頼の手続きをずぼらしてまだ行っていなかったのでした。

よーく考えたら公演がキャンセルになったのは私のせいではなくOONYの責任なのだから、”セット券との相殺しか出来ません”
というのもかなり強引な話で、さすがおばちゃん(イヴ・クェラー女史)率いるOONY!という感じですが、
ま、一公演分の金額で二公演見れるなら、リニューアルしとくか、、、という気にさせられるトリックではあります。
(だから、そのセーブしたはずの金はそもそも私の財布から出たものだ、っつーに。)

今日の『アンドレア・シェニエ』はそんな風にまんまとクェラー女史のトリックに騙されたまま来てしまったので、
会場であるエイヴリー・フィッシャー・ホールに入る直前にふとアラーニャが主役なのだという事実をもう一度思い出して、
私に輪をかけたアラーニャ嫌いである連れに、”年に数回は今日なんでここに来てるんだろう?と思う公演があるものだけど、
今日がまさにそれだわ、、。”とテキスト・メッセージを送ってしまいました。

私がOONYのサブスクリプションを始めたのは2010/11年シーズンからなんですが、
その年は彼らが資金の問題から存続自体が危ぶまれた直後のことで、
しかも、不景気のあおりをうけてメトを含めたオペラの公演のオーディエンスが激減りした時期でもあり、
それでこれまでのサブスクライバーが保持していた良席が回ってきたのでしょう、
周りにはメトの関係者やパトロンが多く、以前ゲルブ支配人がすぐ側に座ってい(て、全幕鑑賞する辛抱なく、インターミッションで走って帰っ)たこともありますし、
今日も近くにアーティスティック部門のトップであるサラ・ビリングハーストの姿が見えます。
あ、その数列前には今はOONYの名誉音楽監督のポストにある”おばちゃん”イヴ・クェラーもいました。

舞台の両端には一幕で登場するキャスト達が開演前から座って並び、歌うパートが近くなると舞台の前方に用意された譜面台の方に出てくる
(ので、ジェラール役のぺテアンなんかはすでにオケの前に立っている)流れになっているのですが、なぜか前奏の部分が始まってもアラーニャの姿が見えません。
マッダレーナ役のルイスはもうちゃんと着席してるし、彼女からそう時間をおかずにシェニエと一緒に登場するはずの修道院長とかフレヴィルも全員舞台に登場しているのに。
まったくもったいぶるなよなー、蚊の鳴くようなファルセットしか出せないくせに!と、つい関係のないことまで思い出してしまいます。

大体年に二回公演があるかないかのOONYですので、オケも編成や練習ににわか仕込的なところがあるんでしょうが、
今日の演奏を聴くと、いつもに増して反応悪(わる)、、と思わされます。
指揮者のヴェロネージがどんな指示を出しても、全然それを見てないし、当然の帰結として、その指示に従わない。
特に今回のようなヴェリズモ系の作品だと、このオケは放っておくとどんどん歌手そっちのけの爆音になって行く傾向があって、
私は何度もヴェロネージが、”だめだめ!そんな大きな音出しちゃ!もっと静かに!!”という身振りをするのを目にしましたが、
まあ、オケはまったく彼の話を聞いちゃいないわけです。
それに、弦が甘美な旋律を演奏する箇所では、音が出てきてすぐ、彼がもう少し甘くキラキラとした音を、、という指示を出しているんですが、
どんな指示が出ても、指示前とまーったく音色に変化がなく、のほほーんとそのまんまの音で演奏を続けていて、
ま、でもその辺りはリハーサル中にちゃんと伝達してないの??とも思いますけど。
これらの例からもわかる通り、クェラーが指揮していた頃に比べて、指揮者とオケのラポートがあまり感じられなくなっていて、
オケが好き勝手にやっているのは、もしかするとヴェロネージとオケの間があまり上手く行っていないのでは、、?と勘ぐりたくなってしまいます。

この作品は始まってすぐにジェラール役のモノローグがあって、
このモノローグというのが、歌い手のバリトンの声質、この役への適性、高音をハンドルする能力、表現力などなど、
はっきり言ってこの役を歌うバリトンに必要な大方の資質・能力の有無を判断するのに十分な長さになっていて、
言い換えれば、今日のジェラール役のバリトンに期待できるか、できないか、が5分かそこらである程度判ってしまうという、
歌い手にとってもオーディエンスにとっても、怖く、また、楽しみな箇所です。

ペテアンに関しては、冒頭に誰それ?なんて失礼なことを書いてしまいましたが、謹んで撤回!
彼のモノローグを聴いてすぐ、今日の演奏会は少なくともジェラールに関しては失望させられることはなさそうだ、と確信しましたし、
こんな質の良い、しかもヴェリズモ作品を歌えるバリトン、どこに隠れてた!?いつメトに来る!?とついエキサイトしてしまいましたが、
後でプレイビルを見ると、メトにはマルチェッロ(2009/10年シーズンの『ラ・ボエーム』)と
ヴァランタン(2011/12年シーズンの『ファウスト』)で既に登場済みだったことがわかりました。
いずれの演目も私が見た公演の裏のキャストになってしまっていたようで、それでこれまで彼を生で聴く機会を逸してしまっていたようです。
こういうことがあると、やっぱりもっとメトで鑑賞する公演数を多くせねばならんな、と思ったり、、、。
しかも、私が無知だっただけで、彼はヨーロッパではすでにメジャーなオペラハウスで活躍中なんですね。

YouTubeで彼の映像をいくつかチェックしていたところ、行き当たったのが下の映像です。
ローザンヌでの『愛の妙薬』なんですが、なんで、こんな缶々みたいな戦車からベルコーレが出てくるの? 
なんでアディーナがこんなアマゾネスみたいな格好なの?? それにこの食人花みたいな芥子の花は何??(アマゾネスが阿片でも生産しているのか?)
なんだけど、、、、すごく面白い!!!
メトの今シーズンのオープニング・ナイトに現れた中途半端で陰気臭いシャーの新演出に欠けているのは、こういう種類の楽しさだと思うんですよ。



で、もちろん上の映像でベルコーレを歌っているのがペテアンなわけですが、そこでも伺われるように、
彼の強みは適度に厚みのある音を維持しながらそのまま高音域まで綺麗に上がっていけるうえに、
その聴かせどころの高音でオーディエンスが存分に楽しめるだけの長さだけ十分に音をホールドできるブレス・コントロールの能力を持っている点で、
YouTubeには2005年にディドナートやスペンスと共演している『セヴィリヤの理髪師』(フィガロ役)の映像が上がっていますが、
当時よりはずっと声が重くなって厚みが増しており、
今日のジェラールのような、ドラマティックさと充実した高音を兼ね備えていなければならない役は実に適性があります。

ヴェリズモの役を上手く歌える歌手に実力のない人はいない、というのが私の持論で、
ヴェルディやベル・カント・レップをそこそこ上手く歌えるからと言ってヴェリズモも上手く歌えるとは全く限ってませんが、
その逆に、ヴェリズモの役を上手く歌える歌手はまずヴェルディやベル・カント・レップも上手いと考えていい、と思っています。
それは別に不思議でもなんでもなく、ヴェルディや現在スタンダード・レパートリーとして演奏されているようなベル・カント作品とは違って、
ヴェリズモ・オペラには力のない歌手が歌うと、オーディエンスが聴いていられないほど下品な演奏内容になってしまう、という性質があるので、
ヴェリズモ作品をそう聴こえさせずに適度なエレガンスを保ちながら歌えるということは、
きちんとした歌唱テクニックとドラマティック・センスがあるということであり、
それがある歌手が、音楽がチープに聴こえる可能性がヴェリズモ作品に比べてより少ないヴェルディやベル・カントのレップで良い歌を聴かせられるのは当然のことなのです。
ガヴァッツェーニ指揮のスタジオ録音でデル・モナコやテバルディと共演しているバスティアニーニなどはその最たる例かと思います。

よって、ペテアンのようにヴェリズモを上手く歌うバリトンに出会った時には、
その喜びが単にヴェリズモを歌える人が現れた!ということだけに留まらず、
その期待はヴェルディやベル・カント作品にまで及び、楽しみが何倍にもなるのです。

また彼は上の『愛の妙薬』の映像ではなんだかすごい格好になってますけど、
タキシードを来て普通にしていると、決してイケ面ではないですが、いわゆるバリトン顔というのか、悪・敵・仇役に向いたルックスをしていて、
今日みたいな演奏会形式の歌唱でも少なくとも顔の表情を見ている限り割と演技力もあるように感じられ、
顔の表情がその場面その場面のジェラールの状況を実に的確に表現しています。
マッダレーナ役のルイスが”亡くなった母を La mamma morta"を歌い始めるそのイントロの部分で、
長い間恋焦がれたマッダレーナに自分の思いは絶対に届かない、そしてそれは身分の差とは何も関係がなかったことを悟りながら独り言のように歌う
”Come sa amare!(何と彼女は彼を愛していることか!)”
この声楽的には何と言うことのないフレーズに込められた表情(歌も顔も!)もとっても良かったです。

それからジェラールの一番の聴かせどころといえば”祖国の敵 Nemico della patrai!"ですが、
そこに至るまでの歌唱から想像・期待していた結果を裏切らない内容でした。
この日の演奏会のその”祖国の敵”のラストのたった一分ほどですが、カメラで隠し撮りしてYouTubeにアップして下さった方がいました。



音質が良くないので彼の声が実際にどんなトーンなのかはフルにはわかりにくいかもしれませんが、
彼の歌唱がこのアリアのグランドさ、良い意味でのベタさを保ちつつ、しかし、決して下品にはなっていない、その匙加減の上手さやセンス、
それを可能にするために、彼がどのようなスキルを用いているか、といったことは十分に伝わるかと思います。

このアリアは昨年11月のタッカー・ガラでケルシーが歌ってましたが、ケルシーの歌になかったのはこのグランデュアさなんだなあ、、、と思いました。
とにかく、今日の公演はペテアンの存在でだいぶ救われたところがあったと思います。

そして、ペテアンが公演を”救った”ということは、それを救わなければならないような状況にした人がいるわけで、、。

先にも書いたようになかなか舞台に出てこないアラーニャなんですが、シェニエが歌う場面の本当に寸前になってようやく登場。
ところが、舞台の中央に向かって歩いて来る様子がいつものヘラヘラしたそれとは違って、なんか表情がめちゃくちゃシリアスでこちこちなんです。
しかもチリ紙だかハンカチみたいなのでしょっちゅう鼻を拭いたりして、風邪気味?
しかし、シリアスな表情のアラーニャなんて、変なもん見てしまったわあ、今日は、、風邪気味で歌に不安があるのかな?
と思っているうちに、彼が歌い始めて、むむむ!!!です。

顔がスコアに糊付けしたみたいに張り付いていて、全然指揮者の方を見てませんけど!!!、、、、

まさか、アンドレア・シェニエのタイトル・ロールで、パートをちゃんと憶えてないとか、そういう恐ろしい事態ではないでしょうね?
他の歌手もスコアを持ち込んではいますが、例えばペテアンなんかは要所要所でちゃんと指揮のヴェロネージを見る余裕がありますし、
マッダレーナ役のルイスはほとんど暗譜しているみたいですし、それ以外の小さなロールの人の中にはスコアなしで完全暗譜の人もいます。
Madokakipがこいつ、まさか、、、という疑惑の混じったいやーな視線をアラーニャに向けた頃、
いよいよ作品の最大の聴かせどころの一つであるシェニエのアリア”ある日、青空を眺めて Un dì all'azzurro spazio”の前フリ部分にあたる、
Colpito qui m'avete, ov'io geloso celo il più puro palpitar dell'anima
(あなたは、私が最も純粋な感情のときめきを隠している心の奥深い場所をゆさぶった、、)と歌い出すところで、
急にアラーニャが、”え?なんで?”という表情をオケや指揮者に向けたと思うと、どんどんオケと歌が合わなくなっていって、
ついに"Sorry.."というオーディエンスに向けた言葉とともに歌を中断してしまいました。
ったく、”え?なんで?”はこっちの言いたい台詞ですよ!!!
今頃になって、”ここはこうなはずでは、、?”とヴェロネージと打ち合わせに入っているアラーニャを、
”あたしらはリハーサルを聴きに来たんじゃないよ!”とばかりに冷ややかな目で見つめているのがMadokakipだけでないことは言うまでもありません。

ようやく歌が再開し、”ある日、青空を眺めて”は、やはり風邪気味ではあるのでしょう、
声がかなり荒れている感じがあるのと、きちんと歌うのに精一杯でもう感情を込める余裕はどこにもない、という感じなんですが、
一応大きな破綻はなく歌い終え、ほっとした様子で、多くの観客からは拍手も出てました。
しかし、これがメトの舞台だったら!とおそらく冷や汗をかいて見ていたであろうビリングハースト女史は拍手などありえません!という様子で隣の女性に何やら耳打ちしていましたし、
拍手を受けながらも、さすがにこの事態はまずかった、、という自覚でほとんどシーピッシュといってもいい位の臆病なアラーニャの視線が私の目と合った時、
私からも”あんた、ふざけんじゃないわよ。”という一瞥を食らわしておきました。

今回の演奏会にはNYのオペラファンもたくさん来場していたわけですが、
”これまでアラーニャの舞台からは強い役へのコミットメントを感じることが多かったが、今回は心ここにあらずでどうしたのかと思った。”
という趣旨の意見が数多く見られました。
私はこれまでだって、アラーニャという人はいつも自我が役の前に立ってしまうタイプというか、
本当の意味で役に没入しているところなんて見たことも聴いたこともないので、そういう意見は”何を今更、、、。”と思って聞いていて、
むしろ、今回そのような印象を彼らに与えたのは、風邪のせいでなんとか破綻なく歌うことに精一杯でそれ以外のことには全く手が回らなくなったからであり、
彼の普段のへらへらしたステージ・マナーが嫌いな私としては、かえって今日のように歌うことに専念してくれる方が好感がもてるくらいです。
このアリアの後には頻繫に鼻をかんだり、咳き込んだりで、相当辛かったんだろうな、と思いますが、
その割には果敢に高音も挑戦していました(最後のマッダレーナとの二重唱では超特大のクラックになってしまいましたが)。

ただ、インターミッション中に連れに電話してこの話をした時には、”最初の失敗を風邪のせいにしようとフリしてるだけ。仮病!仮病!”とものすごい突き放し方でした。
さすが、私よりもアラーニャを嫌っているだけのことはあるわ、、、とその徹底ぶりに感心しましたが、
私の見た・聴いた限りでは、かなりひどい風邪をひいていたのは事実だと思います。

演奏家なら誰だって風邪やその他諸々の身体的な理由で不調な時があるし、簡単に代役が利かないシチュエーションだってあります。
だから、どんな歌手相手でも、風邪による歌唱の失敗や不調を非難するつもりはないし、心あるオペラファンなら、みんなそうだと思います。
だけど、それと役が頭に入っていない問題は全く別問題。
混同してもらっては困るし、役を引き受け、観客が決して安価でないチケットのために払った代金からギャラを受け取っておいて、
きちんとした準備すらして来ない、というのは、観客が怒っても全くおかしくない、卑しむべき姿勢だと思います。

そうそう、ニ幕でもこんなことがありました、そういえば。
一幕で上のような大失敗があって、しかも風邪気味、、しかもマッダレーナ役のルイスに微笑みかけてもシカトされ、、、で、相当へこんでいる様子のアラーニャ。
そこに、シェニエの友人ルーシェ役のバリトン、デイヴィッド・パーシャルが登場。
プレイビルに掲載されているパーシャルのバイオには、メトの許可を得て出演、となっていて、
おそらく現在メトのリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムに在籍しているのではないかと思うのですが、
今シーズンはメトの『マリア・ストゥアルダ』のセシル卿のアンダースタディもつとめているようです。
まだ20代の後半か30そこそこで、歌は相当荒削りなところがありますが、音の響き自体として持っているものは決して悪くなく、
ルックスも好青年風で、本人の人柄のせいもあるのか舞台マナーにチャーミングさがあって、
彼が一生懸命にアラーニャを守り立てようとしている姿は、シェニエの友人という設定とシンクロしているところもあって微笑ましいものがありました。
50歳のベテランが、パートもきちんと覚えて来ないで26,7の青年にサポートを受けるというのもどうなのよ?という気もしますが、事実なのだから仕方ありません。
それで少しリラックスした様子のアラーニャは、そのルーシェとの会話のシーンが終わると水でも飲みたくなったのか、舞台袖に消えて行ってしまったのですが、
実はその後すぐにまだ歌うパートが残っていて、見事にそこがカラオケ状態、、、。
ルーシェ役のパーシャルやベルシ役のラマンダをはじめ、舞台に残っている歌手たちが居心地悪そうに視線を交わしたり、
パーシャルが”どこ行っちゃったんでしょうね、シェニエは?”という感じで肩をそびやかすジェスチャーをオーディエンスに見せて、
何とかその場を切り抜けようとしていたのは涙を誘いました。
いよいよ今度は腹でも壊してトイレに駆け込みか?
まだまだこの後シェニエのパートが続くのにどうする気なのか、、?と心配した頃、慌ててアラーニャが走って舞台に戻って来ました。やれやれ。

こんなアラーニャを”スターだかなんだかしらないけど、超アンプロフェッショナル!超迷惑!私の大事なNYでの大舞台をこんな風にめちゃめちゃにして!!”
と冷ややかな目で見つめていたのが、マッダレーナ役を歌ったクリスティン・ルイスです。
彼女は黒人のソプラノで、メトのナショナル・グランド・カウンシルでも2度ファイナリストになったことがあるそうなんですが、
これまでどちらかというとヨーロッパの劇場での活躍の方が多いみたいです。
笑顔は素敵な人なんですけど、元々強くてクールな顔立ちなので、最初の方は緊張もしてたんだと思いますが、
アラーニャへの怒りと合体して、顔がかちこちに固まっていて、かなり怖かったです。
面白いのは、彼女の声がルックスとシンクロしている点で、エッジの効いた、固いクリスタルのような音色が持ち味で、
黒人のソプラノといえば、まったりクリーミー、、みたいな声質の人が方が傾向的には多いような気がするのですが、
彼女は真逆の方法で、これまた黒人らしい音を出す人だなあ、、と思います。
このパワフルでナイフで切りつけて来そうな音は、他のエスニシティのソプラノにはちょっと出せない質の音のような気がします。

声のパワーに比してコントロールが完全に効ききれていなくて音が飛び跳ね気味になったりしたところもありましたが、
リラックスするにつれて安定感が出て来て、最後のシェニエとの二重唱”僕の悩める魂も Vicino te s'acqueta"で、
高音の上にまたたたみかけるように更に高い高音、、となる部分では、音が高くなるのに伴って音の鋭さとボリュームが増す感じで、
相当パワーのある人なんだ、、とびっくりさせられました。

それだけ思い切りのある人だけに、ちょっと残念だったのは”亡くなった母を La mamma morta”のクライマックスの高音
(fa della terra un cielの後の AhのBの音)の処理の仕方でしょうか。
下の音源はカラスの歌唱ですが、彼女の歌唱のこの高音までの疾走感、
マッダレーナの感情がほとばしって、夢中になって一気に語りきっている様子が伝わってきます。
音楽には色んな解釈が可能と言いますけれど、ここの高音に関しては、こう表現するしかないと思うのです。



ところが、スコアにもフォルテとある、アリアの最大の山場であるはずのこのBの音を、
彼女は綺麗に確実に音を出すことに拘りすぎて、直前にブレーキがかかってしまい、結果として音を小綺麗に鳴らすことになってしまいました。
彼女はもしかするとこの高音がちょっと不安だったのかな、、?
何度も直前にブレスを入れてましたが、それも音が慎重な感じで鳴ってしまった一つの要因ではないかと思います。
(オケに前に突き進んでいくような疾走感を与えず、それに付き合ってしまったヴェロネージにも責任の一端があると思いますが。)
このBの音は綺麗になんて鳴らなくたって構わないから、マッダレーナの思いが金切り声をあげて噴出するようなそういう迫力がないといけないと思うのです。
ヴェリズモがヴェリズモである所以をどれだけ歌い手が理解しているか、というのはこういう一音に現れる、と思うのですよ。
ここで心配になってブレーキをかけて歌ってしまうようでは、まだまだヴェリズモ歌いとしてのセンスが足りん、、と思います。
まあ、まだまだ若い彼女なので、これからの成長に期待!ですが、
素材としては同じ黒人の若手歌手ラトニア・ムーアが柔らかさと大らかさを感じさせるのと対照的に、
一直線的で硬質なものをもっていて、面白い資質を持っている歌手ではあると思います。

演技に関しては、緊張のせいか、アラーニャにブチ切れ!(風邪をうつされたらたまらん!と思っているからか、
全幕を通して彼の方を見もしなければ、手を握られるのも迷惑!という感じでした、、。)のせいか、それとも演技をする気が全くない人なのか、
シェニエとマッダレーナのケミストリーは全く感じられませんでした。
この点については、また次に彼女を聴く機会に判断を持ち越したいと思います。

OONYの公演には時々あっ!と驚くカメオ出演があって、それも楽しみの一つなんですが、
今日は盲目の老婆マデロン役にロザリンド・エリアスが登場し、他のキャスト全員が木っ端微塵に吹っ飛ぶような迫力ある存在感・演技・歌唱で会場を沸かせました。
エリアスは1953/4年シーズンにメト・デビューし、1996/7年シーズンをもって定期的な出演にピリオドを打つまで、
メトでそれこそ数え切れないほどの舞台をこなしたメゾで、久しぶりに聴く彼女の歌声に観客は大喝采でした。
1929年3月生まれだそうですので、この演奏会の時点で83歳!
当然ながら、声は昔と同じではありませんが、会場の温度が一瞬に下がるような冷静さで自分の孫を役立ててくれ、と戦いに差し出す歌唱と、
それが生み出す不思議な熱さ!
冷たさで熱さを生む!すごいなあ、、と思いました。

それに終演後はなんだかんだ言っても、”やっぱりヴェリズモはいいわあ。”と思ってしまった自分もおり、
公演の内容にこれだけの問題があっても、それなりに聴かせてしまえるということは、
”好き!”と宣言するに何を憚る必要があるか?、、、ということで、今後は堂々と”ヴェリズモ好き”を公言したいと思います。

今日は風邪のおかげで珍しくアラーニャが静かで良かった、、、と思っていたのに、
最後のカーテン・コールでまた調子づいて、”一言みなさんに言わせてください。この方がいなければ今日の歌唱はありませんでした。”
と言ってイヴ・クェラーに投げキッスを送るアラーニャ。
今日の歌唱があった方が良かったのか、なかった方が良かったのかは、
イヴさんにとっても、彼自身にとっても、オーディエンスにとっても微妙なところではありますが、、。


Roberto Alagna (Andrea Chénier)
Kristin Lewis (Maddalena di Coigny)
George Petean (Carlo Gérard)
David Pershall (Roucher)
Jennifer Feinstein (La Contessa di Coigny)
Ricardo Rivera (Mathieu)
Renata Lamanda (Bersi)
Rosalind Elias (La Vecchia Madelon)
Don Barnum (Fouquier-Tinville)
Nicola Pamio (L'Incredible)
Angelo Nardinocchi (Pietro Fléville)
Ronald Naldi (L'Abate)
Eric Keller (Schmidt)
Michael O'Hearn (Dumas)
Philip Booth (Il Maestro di Casa)

Conductor: Alberto Veronesi
The Opera Orchestra of New York
New York Choral Ensemble (prepared by Italo Marchini)

Left Orch L Odd
Avery Fisher Hall

*** ジョルダーノ アンドレア・シェニエ Giordano Andrea Chénier ***

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4 コメント

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はじめまして (山助)
2013-01-24 19:22:21
アラーニャはこの2、3日前にゲオルギューから離婚を発表されており、OONYに出てきただけでもエライ、らしいですよ。
曲が止まったのは、ヴェロネージのせい、とYouTubeで話題になってますね。確かにそうも見えますがどうなんでしょう。
せっかくの年数回のコンサートなのですから、もう少しリハーサル回数を設けて頂きたいものですね。
返信する
山助さん (Madokakip)
2013-01-28 14:54:34
はじめまして!

>OONYに出てきただけでもエライ、らしいですよ

あらあら、それは離婚申し出のショックを受けながらも登場して“エライ”という意味でしょうか?
でも、私がNYのオペラファンから聞いた話では、彼はすでにその前からソプラノのクルツァックとよろしくやっていて(ってこの表現が何かスケベ親父みたいでいやらしいですが。。すみません。)
それで彼女と夜の活動(あ、また親父が、、、すみません。)に忙しくて風邪をひいたんじゃないか、って言われてますよ。
ならば、その方たちが思っているほど、アラーニャはショックを受けていたわけではないかもしれません。
だし、サザーランドがNYに『テンダのベアトリーチェ』を歌うために乗った飛行機は、
お母様が亡くなってすぐその足で乗ったものだと聞きます。
サザーランドはその時、“母がもしそれで私がNYの公演をキャンセルしたと知ったら、私のケツを蹴り上げてたことでしょう。”みたいなことを言ったとか。ガッツありますよね。
アラーニャは離婚ごときで落ち込んでいる場合ではありません。

>曲が止まったのは、ヴェロネージのせい

こちらの映像で何が起こったかを説明されている方がいますね。

http://youtu.be/QT_i_CcL6JY

(説明の英語文の中でbitとなっているのはbeat=拍の間違いですね。)
なるほど、、。
そういえば、ヴェロネージ、暗譜だったんですよね。スコアはちゃんと見て振った方がいいと思います。
しかし、まあ、このYouTubeにコメントされている方には信じられないことかもしれませんが、
こういう指揮者はヴェロネージだけでなくて、他にもいますし、
歌手の方が間違ってエントランスして来ることもあります。
それでいちいちオケが止ってたら、メトの公演なんかしょっちゅう“ちょっと待ったー!”ってなことになってると思います。
(私は舞台上の事故等で音楽が止ったのを見たことはありますが、このようなミスコーディネーションで音楽が止ったところを見たことはこれまで一度もないです。)
メトの公演で音楽がストップしないのは、指揮者か、そうでなければオケがすぐにフォローに入っているからで、
まあ、OONYオケにはそこまでの力がないし、あんまり知らない作品だし、、で、
ヴェロネージが出した指示通り、そのまま演奏してしまいました、、の結果がこれなんでしょうね。
でも、どんな理由であれ、オケが壊れたのを立て直すのは指揮者とオケの仕事であり、
音楽をストップできる権利があるのは理論的には指揮者だけなんですから、
YouTubeのコメントにあるような、アラーニャ、良くやった!というような論調は間違ってます。
なので、ヴェロネージが音楽を止めるか、そうでなければ、アラーニャはそのままオケに関係なく強引に歌い続けるか、それが無理なら音楽を止めてくれるよう促すジェスチャーをヴェロネージに送るか、このどれかが本来取られるべき対策のオプションだったと思います。

また、“アラーニャの準備不足であるかのように公演評を書いた批評家は謝れ!”との意見もYouTubeにコメント欄にありますが、
この音楽がストップした箇所についてはヴェロネージとオケのちょんぼかもしれませんが、
他の部分でもアラーニャがずっとスコアと首っ引きで、役への準備が不足していたことは間違いありませんので、
彼は謝る必要がないし、私も全くここで謝るつもりはありません(笑)

>もう少しリハーサル回数を設けて頂きたいものですね

おっしゃる通り!!ヴェロネージ、OONY、アラーニャの組み合わせは尚更です!!
返信する
なるほど。 (山助)
2013-01-28 21:24:26
クルツァックというのは、愛の妙薬でアディーナを歌っていた可愛い彼女ですな。
アラーニャは最初の奥さんをガンで亡くして、次のゲオルギューにも冷たくされて可哀想だったので、今度は大事にしてもらえるとよいですが。
そんな彼女がいたのでは、そりゃ忙しいわけだ。いい歳なのにもてるんですね・・
返信する
山助さん (Madokakip)
2013-01-30 14:05:57
>クルツァックというのは、愛の妙薬でアディーナを歌っていた可愛い彼女ですな。

そうそう、その通りです。あのアライグマみたいな彼女です。
あまりにもゲオルギューと正反対のチョイスなので、あれには相当懲りたんだなあ、、と涙を誘いますね(笑)

>そんな彼女がいたのでは、そりゃ忙しいわけだ

そうなんですよ。でもスコアはちゃんと見てきてくださいね~。

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