総合的な学習の時間に関する内容などについて、東京都で問題点を指摘されています。
読売新聞の記事と
毎日新聞の記事とで若干ニュアンスが違うように見受けられました。
毎日新聞の記事では、確かに事実を淡々と書いてはいるのですが、背景や理由が全くかかれていないため、捉えようによっては、タイトルの「国語総合でも未履修か」といった言葉が一人歩きしてしまう危険性があります。一方、読売新聞の記事では、関係者のコメントを載せるなど、どうしてそのようなことが起きているのか、という点に触れているため、実際の現場の内容を幾分反映しているのかな、とも思われます。
#理科総合に関しては置いておいても、今回の国語総合に関しては、
#時間割の表記のみの問題なのに・・・。
#今後は「国語総合(現代文)」とでも時間割に書け、ということなのでしょうかね・・・。何でこんな細かなことまで・・・。
現場は多種多様です。いろいろな学校もあれば、生徒も様々です。内容に関しても、学習指導要領を逸脱しない範囲で、その学校や生徒にあったものにかみ砕いて興味関心を高めたり、より発展的な学習に進んだりしています。
「情報」のように教科自体の目的や内容も無視して他教科を行うことはもちろん論外ですが、個々の教科指導の詳細まで細かく言われ「教科書のここの部分を行っていないから未履修」のような言い方をされてしまっては、「では教科書ごとの差異はどうなるの?」「学年途中から転入してきた生徒はどうなるの?」などと、キリがなくなってしまうだけでなく、教える相手をみない非常に硬直化した教育になってしまうような気がしています。
もちろん、だからといって現場が好き勝手にやっていいわけはありません。自分も含め、教員は、もっと指導技術を磨くだけでなく、法令にもしっかりと遵守した上で、時間割表記のような細かな点を指摘されている状況まで信頼が落ちていることを素直に反省すべきであるとも思います。
これは、「総合的な学習の時間」にも言えると思います。
高校で総合を行うことは、はっきりいって大変です。高校では、教科ごとに授業を行うので、他教科との横断的な内容を扱う「総合」では、どうしても教員の連携や発想の転換が必要になると思います。教科「情報」の知識や指導内容が、総合で大きく生かされるわけですから、その点についても、しっかりと認識していく必要があると思います。
たとえば「高校の『総合』で、何を目的にしてどのような研究をしたの?」「それで、あなたは何を得たの?」なんていう質問や論文での大学入試があってもいいかもしれませんね。高校現場の「総合」の見方が変わるかもしれません。