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マリバール 文集・ギャラリー

10月22日 中島義道著『私の嫌いな10の人びと』とNANIOさんと河流れ

2006-10-22 23:45:12 | 抱茎亭日乗メモ
 友人のMさんからメール。

> ご無沙汰です。今日、書店をぶらぶらしていたら、中島義道氏の「私が嫌いな10人の人びと」が平積みされていました。確かあの時桜井さんが読んでいたのって、これじゃなかったっけ?
> 手にとって目次を見てみたら
> 1 笑顔の絶えない人
> 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
> 3 みんなの喜ぶ顔が見たい人
> 4 いつも前向きに生きている人
> 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
> 6 「けじめ」を大切にする人
> 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
> 8 物事をはっきり言わない人
> 9 「おれ、バカだから」と言う人
> 10 「わが人生に悔いはない」と思っている人
>
> 等、すさまじいタイトルが並んでいて、本編を読まずとも、もうこれだけで充分だと思い、本をもとに返しました(笑)。

あれ?そうだっったっけ?と思って本棚を探してみたら、そうだった。
残念ながらMさんは全くダメだったようだが、私はやっぱり大好きだ、中島義道。

 しばし読み耽った。
そして「『おまえが情けない』と言う人」の項を読んで、NANIOさんが私にくれた

> きついことを言うようだが、正直、恥ずかしい。

という「苦言」を思い出す。

以下『私の嫌いな10の人びと』より引用。

「おまえが情けない」というせりふも、じつに厭ですね。とっさに、親や兄や先生や上司など目上の者が、声を振り絞るようにして、場合によっては涙を流しながら語りかける場面が思い浮かびます。万引きをした娘に、ホームレスの老人に集団で暴行を加え殺してしまった息子に、強制わいせつの疑いで逮捕された弟に、怒りと哀れみとを混ぜ合わせたような視線を送りながら、切々と訴えかける。だいたい、こういう訴えは相手の心に届かないものです。なぜなら、「情けない」とは、お節介きわまるせりふだからです。勝手に相手に期待して、それがかなわなかったから「情けない」とは、なんという仕打ちでしょう! 「俺がそんなに情けないのなら、そんな俺の母親であるテメエを情けないと思え!」と言いたくなる。単に犯罪に手を染めないというだけなのに、自分は絶対の高みに置いて、息子を欠陥人間のようにみなして責めまくる。ああ、俺もテメエが情けねえや!
 さらに、鈍感で傲慢な親は、「隆ちゃん、ごめんなさい。お母さんが全部悪かったの」と息子に涙声で謝る。「私があなたをしっかり受け止めてあげなかったからなの……」と続く。
 ああ、こういう親のバカさ加減はどこまで行けば気が済むのでしょうか? 犯罪行為に走った息子に憤慨したら、ただ「バカ者! 卑怯な奴! 残酷漢!」と大声で怒鳴ればいい。いっぱしの聖人気取りで、情けながってくれなくてもいい。そんな暇があったら、自分の日常を逐一反省してみろ! 自分が何を「考えているか」全部言語化してみろ!
 他人に対して― たとえわが子に対してであっても ―「情けない」という言葉を発することが許されるほど完璧な人は、この世には一人もいないと私は思っています。

以上引用終わり。

うほほほ。鋭い。私がNANIOさんに対して抱いた反発はこれだったのか、と気付く。

NANIOさんは私の何が恥ずかしいと言うのか?
2ヶ月遅れのレポートを自分のサイトにアップしたこと?
2ちゃんねるで叩かれたり、周囲の人と喧嘩と絶交を繰り返していること?
ああ恥ずかしい、情けない。確かにね。

私も人の言動を恥ずかしく思うことはある。
それは例えば小泉が訪米してプレスリーをネタに大はしゃぎしているニュースなど見れば「勘弁してくれ、これが我が日本の首相かよ、恥ずかしい」とは思う。

母が『太古八』の羽賀さんのマントにくるまれて「いやん。うふん」などと言っているのを見たときは、恥ずかしいというか、見たくないものを見せられた、と思った。
しかし、私は母に「止めてよお母さん、恥ずかしい!」とは言わなかった。
自分もこんな老女になるんだろうなあと思ってゾッとしただけ。

 これまたある人の最近の日記から。以下引用。

きっと選択するまでもなく、美空ひばり的に人生の河の流れが人をそう運ぶのだ。普通なら濡れるのを嫌がり、舟に乗って自分が舵をとり、思った方向に行きたいと抵抗する。
しかし、舵を取れていると思っていても実際には河の流れそのものからは外れられないのが人生だ。流れに任せるとはそういうことで、私もここのところ、その感性が結果的には人間を豊かにするのだと気がついている。
要するに、孤立を恐れないことだ。まわりを遮断していくという意味ではなく、自分に必要な人生を行くときに、自然とまわりに人がいなくなることがある。回遊コースが違うし登山ルートが違うのだ。あるいは河に流されてみようと思う人間は少ないから、当然、孤立するのだ。
ニートや引きこもりや昔でいうヒッピーみたいな状態は、とても流れに身を任せていることにはならない。あれは充分に孤立を恐れた選択でしかないからだ。
(略)
豪華客船の乗客やオンボロ漁船の乗組員は、ひとりで河に流されている私をみて笑い、哀れむだろう。だが、こちらは流されているのではなく、そのやり方で河を進んでいるだけなのだ。

引用終わり。

NANIOさんも自分のやり方で河を進んではいるのだろう。
違いは孤立を恐れるか恐れないか。
NANIOさんは他人の私が孤立することさえ恐れている。当の私は恐れていないのに。

元内縁夫も再会した時に「流れに乗れ」と言った。

私の河はどこへ行くのか?
単なるため池をぐるぐる泳いでいるちにどんどん水が濁ってきて……なんてことになっていやしないかとも思うが、恥ずかしく情けない「抱茎亭日乗」に流されるのも、また楽しからずや。