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東京の夜景動画ブログです。

最後の一兵まで?

2006-12-30 23:42:01 | 業務関連


今日も朝から非常によい天気だったが、さすがに撮影ばかりしているわけにもいかず、休みを利用して部屋の掃除やら歳末の買い物やらを済ませた。
歳末の買い物といっても、正月用品とかではない。午前中には差し戻したテキストのリテイクがあがってきたし、別企画のテキストも24時間以内にあがってくる予定なので、週明けには出社してチェックなどしなければならない。ただし、飲食店の多くは休んでしまうため、お弁当用のあれこれやらおやつやらを買い込んだというわけ。



最後の一兵までってわけでもないけど、ほかのスタッフはコミケ動員で根こそぎ持ってかれちゃってるし、終わった後もしばらくは使い物にならないから、まぁしょうがないといえばしょうがねいねぇ~
ものすごくどうでもいい話だけど、タイトルだけやたらに有名な「最後の一兵まで」って映画は、1937年のドイツ映画だとばっかり思っていたけど、それより10年以上前にも同じタイトルの日本映画が存在していたのね~
日本映画のほうは内容不明だけど、若き日のアラカン(当時は「嵐徳太郎」名で出演)していて、こっちはこっちでちょっと興味がある。ドイツ映画のほうは、タイトルとひし形戦車の登場するスチルなどから、勝手にカンブレーかアミアン辺りだとにらんでいたんだけど、意外にもミヒャエル攻勢(カイザー攻勢のほうがわかりやすいか)がテーマだったことを知って二度びっくり!
WEBってありがたいねぇ~



でまぁ、今日も今日とて企画やらなんやらについてごにょごにょやり取りがあったんだけど、自分はずっとドキュメンタリー方面で活動していたから、やっぱりフィクションの組み立て方をきちんと把握していないんだよな。さすがに細かい話は出来ないけど(してもしょうがないし)、ものすごく大雑把に言ってしまうと、ドキュメンタリーは観察データを下に帰納的な組み立てをするのに対して、フィクションは作者の構想を下に演繹的な組み立てをするのが基本なので、自分のやり方は文字通りの意味で正反対だったというわけ。
問題は、このことに気がつくまでリアル10年かかったということなんだけど、まぁ過ぎたことを嘆いても仕方ない。
いちおう、帰納法的なフィクションの組み立て方もあるけど、そうすると作家の意図があいまいになって受け手が混乱しやすくなるし、少なくとも商業的な成功を収める可能性はほとんど皆無になる。また、演繹法的なドキュメンタリーの組み立てもあるんだけど、そっちはほんとにやばい結果を招くことが多い(やらせや捏造を引き起こしやすい)。



写真についても同じことが言えて、自分がストレートフォトグラフィに惹きつけられ、そして基本的な制作態度として取り入れたのも、今にして思うとドキュメンタリーを通じて帰納的思考法になじんでいたためだろう。ただ、最近は表面的にはストレートフォトグラフィの手法を取り入れつつも、演繹的に制作する作家は少なくないし、リンクしたWikiの解説にも言及されている。
もちろん、写真というメディアにおいても演繹的に制作することは可能だし、特に商業メディアにおける写真はほとんど全てが演繹的といっても過言ではない。だが、演繹的に制作するには作者の構想というか妄想というか、そういう要素が強くないと成立しないので、おいそれとまねの出来るものでもない。実際、演繹的に制作しておられる作家の構想力というか妄想力は、強迫神経症の域に達している場合が多いからね。



とはいえ、前回の個展はまさに帰納的制作の問題点をさらけ出したわけで、来年は業務を通じて演繹的な制作法を身につけるか、あるいは帰納的な制作の問題点を解消するか、いずれかを達成しないとまずいと思うわけですよ。