週末、写美(東京都写真美術館)で開催中(~5/6)の「マリオ・ジャコメッリ展」と
「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」を観てきた。
ジャコメッリ展のチラシやポスターのキャッチ「また見つかった、永遠が。」は、
たぶんランボーの詩「永遠」のパロディ。なんとなく懐かしくなって、書棚の奥からぼろぼろの
新潮文庫を引っぱり出してみたら、その「永遠」の頁に「気狂いピエロ」の映画チケットが(!)
この半券は、恐らく高校生時代に観に行った時のもの(…くらっとめまい)
←前に開いたのはいつだったのか…
映画ではA.カリーナとJ.P.ベルモンドが「見つかった?」「何が」「海にとけた永遠が」..と囁きあう。
(記憶違いがあったら、平にご容赦。ぜひご一報を)
ジャコメッリ展については『NODE』の記事でも書いたが、
日本でこれだけまとまった回顧展が開催されるのは初めて。実際、かなりの見応え。
中でも、雪の中ではしゃぐ神学生を撮ったシリーズは、白と黒のコントラストに潜む白日夢のよう。
雪のきしみや 黒衣のはためきが、眩しい白の時空から 幽かに立ち昇ってくる。
図録を読むと、私が90年前後にいたく傾倒していたトランス・アヴァンギャルディアの画家
エンツォ・クッキが、ジャコメッリ写真のキュレーションを行っていたよう! 作風は異なるが、
どちらも呆気にとられるようなアナザーワールドへの案内人、という点では共通するものがあるかも。
ちなみに、ジャコメッリは生涯イタリアの片田舎にある故郷ゼニガリアで印刷業を営み続けた
“アマチュア写真家”。やはり故郷 境港でアマチュアリズムを貫いた植田正治とは、没年も同じ。
↑恵比寿駅と写美を結ぶ回廊にある、植田正治の砂丘写真。これもアナザーワールドへの道標?
ジャコメッリ展の階下で行われていた「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」では
学生時代を思い出すような教科書的シュルレアリスム写真より、アジェ(Atget)の写真を思いのほか
豊富に観られたのが収穫。マン・レイに見出されながら、孤高を貫き、無名のまま没したアジェが、
19世紀末に撮り続けたパリの写真もまた、セピアな白日夢の如し。
↑この写真は、写美の展示ではなく、学生時代に自室に貼っていたアジェのポスター写真。
これもまた、私にとってめくるめくアナザーワールドの入り口だった。
「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」を観てきた。
ジャコメッリ展のチラシやポスターのキャッチ「また見つかった、永遠が。」は、
たぶんランボーの詩「永遠」のパロディ。なんとなく懐かしくなって、書棚の奥からぼろぼろの
新潮文庫を引っぱり出してみたら、その「永遠」の頁に「気狂いピエロ」の映画チケットが(!)
この半券は、恐らく高校生時代に観に行った時のもの(…くらっとめまい)
←前に開いたのはいつだったのか…
映画ではA.カリーナとJ.P.ベルモンドが「見つかった?」「何が」「海にとけた永遠が」..と囁きあう。
(記憶違いがあったら、平にご容赦。ぜひご一報を)
ジャコメッリ展については『NODE』の記事でも書いたが、
日本でこれだけまとまった回顧展が開催されるのは初めて。実際、かなりの見応え。
中でも、雪の中ではしゃぐ神学生を撮ったシリーズは、白と黒のコントラストに潜む白日夢のよう。
雪のきしみや 黒衣のはためきが、眩しい白の時空から 幽かに立ち昇ってくる。
図録を読むと、私が90年前後にいたく傾倒していたトランス・アヴァンギャルディアの画家
エンツォ・クッキが、ジャコメッリ写真のキュレーションを行っていたよう! 作風は異なるが、
どちらも呆気にとられるようなアナザーワールドへの案内人、という点では共通するものがあるかも。
ちなみに、ジャコメッリは生涯イタリアの片田舎にある故郷ゼニガリアで印刷業を営み続けた
“アマチュア写真家”。やはり故郷 境港でアマチュアリズムを貫いた植田正治とは、没年も同じ。
↑恵比寿駅と写美を結ぶ回廊にある、植田正治の砂丘写真。これもアナザーワールドへの道標?
ジャコメッリ展の階下で行われていた「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」では
学生時代を思い出すような教科書的シュルレアリスム写真より、アジェ(Atget)の写真を思いのほか
豊富に観られたのが収穫。マン・レイに見出されながら、孤高を貫き、無名のまま没したアジェが、
19世紀末に撮り続けたパリの写真もまた、セピアな白日夢の如し。
↑この写真は、写美の展示ではなく、学生時代に自室に貼っていたアジェのポスター写真。
これもまた、私にとってめくるめくアナザーワールドの入り口だった。