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母。富士屋ホテルプチ回想

2008-02-21 04:22:21 | memory 幼年期
昭和30年代、女子大生の母に、5つ上の父が独逸語を教えるの図。
私が生まれるずっと前、若かりし頃の父母の写真。なんだかとても微笑ましい。
当時、父が母に、これを読んであれを読んでと次から次へ本を貸してくれたのだとか。
父ならさもありなん(笑)

本日、古希を迎えた母。心から母の長寿に感謝したい。

つじつまの 合わぬ夢つなぐ この暗示 いずこより来しや 過去をたどりぬ
一昨年、母が詠んだ歌。母は真夏の夜明けの夢うつつに、一体どんな記憶の船を漕いだのか―
母は70に手が届いたとは思えないほど若々しく しゃんとしており、
短歌に素描に読書に旅行に…、と枚挙に暇がないほど好きな世界を溌剌と謳歌している。

古希の記念に、お祝いのお菓子と一緒に 旅行に持っていくのにおすすめのデジカメを贈った。
母はふと目に留まったものを、スケッチブックにさらさら素描する癖があるが、
同じように、デジカメでも好きな山野草や自然の風景を素描してもらえれば、と。


母@ザ・フジヤ・ダイニング。
一昨秋、母と一緒に箱根宮ノ下の富士屋ホテルに泊まった朝、少し早めに眼覚めた母と私は
観光客で混雑していた昼間とはうってかわって 静寂に包まれた館内や庭園を気ままに散策した。
至る所に散見される創業者好みの凝った意匠は、乱歩小説に出てきそうな風情で実にわくわく。
私たち母娘は、完全に修学旅行であちこち探検している女学生さながらだった(笑)

母はいつもさまざまなことに関心を示し、時には少女のように無邪気に驚いたりする。
古希とはいえ、本質は女学生のままみたいな人なのだ。
中学教師を経て、塾を開き、我儘放題な娘たち&息子を育て、さらにもっと我儘な父をアシストし、
弟に「千手観音だよね(笑)」と感心されるほど八面六臂の働きをしてきた母。
これからもますます母らしい毎日をたのしんでほしいと願ってやまない。
約半世紀前の母。
あるいみ、かわらないのかも。
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渋谷児童館と湯たんぽ

2008-01-26 04:47:02 | memory 幼年期
今年いちばんの寒さという日に、またもや朝一打ち合わせ。
木枯らし ぴゅううううううっ@東銀座。
しかし、帰りに歌舞伎座裏の老舗シチュー店「銀之塔」でシチューランチをご馳走に。
蔵を改装した建物の絨毯敷きのお座敷で、土鍋に蓮華でいただく熱々シチューに
凍えた身体もすっかりぽかぽか。熱すぎて、みんな帰りに「舌がぴりぴりする」と言っていたけど(笑)。

午後は渋谷で『NODE』の打ち合わせ。2号目の特集は「未来都市TOKYO」。
私はICCの学芸員さんの取材を担当することに。
この号では、他に安藤忠雄氏や押井守氏の企画もあるよう。興味深し。

NODE編集部のあるビルから明治通りに抜ける道すがらには、
むかし母によく連れてきてもらった渋谷児童館が今もある。
これは、小学1年生のときの絵日記。渋谷児童館へ母と本を借りに来た日のことが綴ってある。
まだ赤ちゃんだった弟と外で遊んで「あつくてあつくてたまりませんでした」と。真冬なのに(笑)。

(絵のような遊具はもうなかった)

夕刻に近づき、底冷えが一段と募ってきた。児童館の並びにあったインテリア雑貨ショップ
arenotに立ち寄り、ちょうどほしかったファーの湯たんぽを見つけたのでゲット。
これは湯たんぽに巻きついていた帯。

はい、リアルファーはニキで充分(笑)。

右が今日買ったミンク、ではなくフェイクファーの湯たんぽ。中は氷枕みたいなゴム製。
左は去年から愛用しているマルカの金属性湯たんぽ。昭和初期のままの無骨な仕様がすき。

湯たんぽユーザーになったのは、電磁波の心配がなく猫にもいいと聞いたから。
好奇心で試してみたら、まる1日経っても足湯にできそうなほどほくほく温かいままで驚いた。
昔のひとに知恵にしみじみ感服。ちなみに湯たんぽは中国伝来で、「湯婆」と書くのだとか?

猫婆ニキに、ファーの“湯婆”をあてがってみた。低温火傷が心配なので、
湯たんぽの上にさらにファーを敷いてニキを載せると、3秒でとろん、とトランス(笑)。
ごろごろごろごろごろごろごろごろ。。。。
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東京5歳児日記

2007-11-08 03:23:08 | memory 幼年期
日記歴は5歳のときから。↑これがその当時の日記帳。
70年代らしいレトロなデザインがツボにきます。

5歳になったばかりの頃の、記念すべき初日記の第一頁。

「きのう、おひるからくるまのはいきがすで あたしわきもちわるくなって
おひるねしたらなおりました。きのうわすごくこわいかんじ」(+寝込んでいる人の絵)

杉並に住んでいた当時、公園で光化学スモッグに倒れた幼女の貴重な証言が
どど文字で綴られている。5歳児による東京の大気汚染告発か?(笑)。
字は当時から汚く、万年筆で「わ」を「は」に直すなど、母の添削が方々に入っている。

奥の手描き絵本は母の手作り。クリスマスイブに、父がうっかりプレゼントを
買ってくるのを忘れ、母が仕方なく一晩で仕上げたという即席童話集。
しかし今見てもこれは珠玉のできばえ! 登場人物のモデルは幼児期の姉や私。
なかでも、ワンピースにアップリケされたアップちゃんがダムに落ちてしまい、
さまざまな冒険を経た後、水道を伝って戻ってくる「アップリケのアップちゃん」という童話は、
当時母が私につくってくれたニットのアップリケ付きワンピースがモチーフになっている。
クリスマスイブの夜に、即興でこんなすごい童話集を創った母にはただただ敬服する。

いま、言葉を操る仕事をしているが、原点はこんなところにあるのだと思う。

********

関東大地震が来る、というともすれば都市伝説のような言説に脅かされて何年も経つ。
至極大雑把に分けると、「どうせみんな死ぬのさ」と開き直る輩と、
「自分は絶対死なない」と無根拠に信じている輩の2タイプに分かれているような気がする。
私はといえば、北野たけしの初期作品『3-4×10月』(私はたけし映画でこれが一番すき)
みたいな、どんなカタストロフがあっても能天気に飄々と切り抜けるというのが理想。

恐らくムダとはわかっているのだけど、これだけは失いたくないというものを
長年愛用のルイジ・コラーニの頑強なスーツケースに詰めてみた。
なかなかモノが棄てられないたちゆえ、失いたくないものは数知れず。
はたから見たらガラクタでも、自分にとっては思い入れのあるものが多々。

でも、結局、お金で買えないものしか、本当に大切なものってないわけで。

件の子供の頃に書いた日記帖とか、母の手描き絵本とか、
亡父をはじめ家族や大切な人たちからの書簡とか 手作りの贈り物とか、
旧い写真のネガポジとか、PCのバックアップデータとか。
アンド 生身2体(猫&人)。結構コンパクトかも?
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蝶の標本と父の命日

2007-11-05 09:45:41 | memory 幼年期
5年前の新月の日、父は69歳で他界した。
今日は命日。

父が手作りした美しい標本が今も実家に飾られている。
生前、父は蝶を採るのが恐ろしく巧かった。

1970年代のとある日曜日。
私と姉は父に連れられて、“とんがり山”と呼ばれる
絵に描いたように頂がとんがった山に登った。
姉妹おそろいの檸檬色のホットパンツに、捕虫網を携えて。
登山好きの父は急勾配をものともせずすたこら進んだが
小学生の私は、最初にはしゃいでいただけに途中で息が上がった。

頂上で頬ばった母のおにぎりは格別だった。

ふと気がつくと、父がまるで踊るように捕虫網を振りまわしていた。
その周囲には夥しい数の蝶・蝶・蝶・蝶・蝶・・・・。

群れなし乱舞する無数のオオムラサキの神々しい光景と
その渦中で嬉々として捕虫網を操る父の姿が、
今も脳裏に鮮明に焼きついている。

父はそこで捕獲した2頭を傷つけぬよう大切に持ち帰り
自宅で器用に標本に仕上げた。
胸にピンを挿された蝶は至近で観察すると、いささか残酷でグロテスクだった。
が、歳月を経た今も、色褪せたとはいえ、あの神々しいオオムラサキは健在だ。

もう少し大きくなってから「生まれ変わったら何になりたい?」と
父に尋ねたことがある。「んー…」と考え込む父に
「蝶は?」と云うと、苦笑いを浮かべて即答した。
「蝶は勘弁」

今夏、はっとするような黒い蝶に何度か遇った。
黒い蝶は、その場の時間を止めるような気がする。
同じ頃、17歳のときに読んだまま実家に置きっぱなしていた
三島由紀夫の『ラディゲの死』をふと読み返したくなり、
実家にもうないというので買い直したら、
新潮社文庫特有のオレンジ背表紙はそのままながら
表紙に新しくクロアゲハがデザインされていた。
ふと、時間が止まったような気がした。

父は何に生まれ変わるんだろうか?
黒い蝶に遇う度、ふとそんなことを思った。

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