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越境3.11。「せめて頭を」

2011-04-13 04:11:04 | Scene いつか見た遠い空


まるで何ごともなかったかの如く、東京の桜は2011年も満開を迎えた。
春を春として謳歌する森羅万象。それを穢す存在は毛ほども見えず無味無臭。
とまれ、咲き誇る桜に何の罪もなく。梢を見上げ、果敢に生きようね、と励ましあう。


東日本大地震で被災された方々 ならびに被災地に所縁の深いみなさまに
心よりお見舞い申しあげます。あなたに、私に、世界中のいきものに、
ひねもすのたりのたり平穏なときが訪れることを心底祈っております。

東京は一部を除き比較的軽微な被害で、私自身は怪我もなく無事でしたが
地震後にお見舞いのご連絡をくださった方々や、長らくブログを休止していることに
ご心配いただいたみなさまのお心遣いに感謝いたします。



3.11から1か月。
日々暗澹と憂える情報津波の渦中で、心の整理はつかない。けれど、
さしたることもできないと自分を卑下してうじうじ落ち込んだり
現実の辛さから誰かの思想にうっかり乗っかって思考停止したり
すべて見て見ぬふりのカラ元気でけろりと現実逃避し続けたり
凄絶な映像や悲痛な声に愕然と涙することでちゃっかり自己浄化したり
税金や株価の変動とか経済効率だけにちくちく目くじら立てたり
全て誰かや何かのせいにして 自省なく天や他者をどろどろ恨み続けたり
まして対岸の火事目線で社会をしれっと論じたり、
――そんなことだけは 決してしたくない、と思う。

今日も元気に生きのびているというシンプルな奇跡に感謝し、
はかり知れない恐怖と喪失のいたみのなかにいるひとの心に
温かな光が灯るような世界をつくっていく一助になりたいと願ってやまない。
たとえそれがどんなにささやかな灯であったとしても
この気持ちの灯をずっと絶やさないようにしていきたいと思う。

・・・

都心の地下鉄構内やビルの内部は、いまやローマのメトロみたいに薄暗いけど
外はうららかな陽気に包まれ、一見、大震災も原発事故も幻だったのでは?
と錯覚するような「日常的」のどかさだ。


だけど、ちがう。
3.11の昼下がりを境に、ゆるゆると緩慢に永続するように思われた世界は、一変した。
破滅の恐怖と復興への希望にゆれるアンビバレントな日々の中で
かつての「日常」は、突如目覚めた獣のように別の時代に飛び移った。
映像でいうならば、情緒的なフェイドアウトではなく、容赦ないカットアウト。
まるで、三島由紀夫の短編小説のラストシーンみたいな、唖然たる幕切れ。
まさか、自分が子供の頃から享受してきたこの国の「平和ゆるボケ」な時代が、
こんなカマイタチみたいなカットアウトによって、ばっさり暗転するとは!

・・・
取材と原稿の嵐でブログを全然更新できないまま3.11以降の世界に突入してしまったが、
極私的な3.11当日のことと、3.11の3日前にたまたま出張で訪れた
福島のことを書いておこうと思う。
――いま思うと、3.11直前には幾つも不思議な暗示があった。


3月8日、私は福島に日帰り取材に行っていた。せっかく福島に行くのだからと、
福島の観光情報をネットであれこれ調べていたものの、忙しくて結局トンボ帰りとなった。
取材を終え、福島から東京に帰る新幹線やまびこの中で、野坂昭如の『終戦日記』を開き
「日本人は戦争を天災の類とみなしている」という一文を反芻しながら
車窓に映る逆光のなだらかな山容を眺めて思った。
「福島にまた来たいなぁ」と。


連日の寝不足続きでうつらうつらしているうちに夕暮れが迫り
ふと目を上げると、気怠い寝ぼけまなこに澄んだ夕陽が沁みこんできた。
なんだかあったかい気持ちになって いつまでも車窓をぽーっと眺めていた。

この穏やかな黄昏どきには夢にも思わなかったことだが
この日に取材した歌人の朝倉富士子さんから伺ったお話は、
奇しくも その後の福島の運命を暗示するものだった。    

翌3月9日、まさのそのインタビュー原稿に着手しようとしていた矢先
三陸沖を震源とする震度3の地震が福島で起こって新幹線が止まったというニュース知った。
自分の中の見えない弦が幽かに鳴るような不安に駆られた。


3月11日朝。朝から取材が入っていたため、珍しく早起きをした私は
出がけにコーヒーカップを水道でじゃぶじゃぶ洗いながら、ふと思った。
「水を平気で使えるなんて、ありがたいことだなあ」と。
自分でも不思議だった。なんでこんなことを思うのだろう、と。

その日の取材場所は、神保町の学士会館だった。私好みの昭和初期 傑作レトロ建築だ。
(かつて私のいとこもここで結婚式を挙げた。とても素敵だった)
学士会館が着工したのは、1923年の関東大震災後。
設計者は、耐震工学のエキスパート佐野利器と、
彼の門下生であり、震災復興に貢献していた高橋貞太郎。
当時の耐震・防災技術を結集した重厚かつモダンな学士会館は、
まさに震災復興を象徴するモニュメントでもあったらしい。取材でも、そんな話を伺った。
後になって思えば、この取材も極めて暗示的なものがあったような気がする。


13時半過ぎに取材を終えた私は、その足でレンブラント展の内覧会@国立西洋美術館に
向かう予定だった。が、この日はちょうど昨年末のスリランカ取材をまとめた
地球の歩き方gem stoneシリーズのスリランカ本の発売日でもあり
せっかく神保町に来たのだからと、書店を幾つか回ってみることにした。
(奇しくもスリランカといえば、2003年のスマトラ島沖地震の津波で壊滅的な被害を受けた国。
私が昨年末取材したのは、まさにその被害から復興した南西海岸沿いのリゾートだった。
この話はまた別の機会に詳しく触れます)


大きな揺れを感じたのは、まさに書店の中で本を探しているときだった。
あまりの激しい揺れに、本の雪崩に遭いそうな危機感を覚え、
側にたまたま居合わせた見知らぬおばさまと手をとりあって神保町の交差点に飛び出た。
歩行者はみな立ちすくみ、地面が大きく揺れる度に悲鳴があがった。
細長いペンシルビルが、羊羹でも振ったみたいにぶるんぶるん揺れており、
そのてっぺんのアンテナにとまったカラスだけが、
左右に大きく揺れながらも平然と下界を見おろしていた。

とっさに、これは東北の方はただごとではないのでは、、と直感した。
携帯で速報をチェックしていた見知らぬ人がいち早く「震源地は東北みたい」と教えてくれた。
猛烈にいやな予感がした。
とまれ一刻も早く家に帰ろうと思い、交差点に居合わせた見知らぬ人たちと
「電車止まってるから歩くしかないですね」「気を付けてくださいね」と言い合って別れた。
ああいうときって、他人同士でも本能的に気持ちが寄り添うんだなあと思った。

途中、九段会館の前を通ったとき、救急車や白バイが何台もやってきて
異様にものものしい雰囲気だった。ここで命を落とされた方がいたことを
その数時間後にニュースで知った…。心よりご冥福をお祈りいたします。


靖国神社の狛犬の側を通った時、再び大きく揺れ出し、警察官に「神社に逃げなさい!」と
叫ばれたけど、靖国にはどうしても足が向かず、逆の半蔵門方向に走って逃げた。
道路にはビルから避難してきた人が溢れ、イタリア文化会館の前やイギリス大使館の前でも
毛布をかぶった人などがみな不安げな表情でひそひそ話をしていた。

これは千鳥ヶ淵の側の交差点。一見、お花見の行列のようだけど
ヘルメットを被ったり、非常持ち出し袋を背負った人がかなりいた。

青山通りに出ると、「地震情報やってまーす!」とカフェの呼び込みをしている人や
道の縁にへたり込んでピンヒールから室内履きに履き替えている女性がいたり。。
その辺りまでは目立った損傷を感じるビルは見当たらなかったが、
表参道のルイ ヴィトン前を通過した時、軒先から水がぽとんぽとん零れていた。
原宿駅から明治神宮にも人がわらわらいた(写真だと土日の原宿にしか見えないけれど)


ずっと冷たい風が吹きまいていたけれど、
2時間ずっと足早に歩き通しだったせいか、寒さをまったく感じなかった。
代々木公園に入ると、樹木のしじまでほっと気がゆるんだのと
自宅に近付いた安心感で、目尻に涙がにじんできた。


拙宅は無駄にちまちました飾りものが多く、本棚の9割はガラス戸付なので、
大惨事になっているのではないかと戦々恐々でマンションに入った。
戸棚に置いてあった蓮の花と葉の陶器が床に砕け堕ちており
本棚代わりに重ねてあったワインの木箱が2つばかり崩落し、本が100冊位飛び散っていたけれど
あれだけ揺れたにもかかわらず、この程度で済んだことに むしろほっとした。
三陸沿岸の被災地の惨状を思えば、こんなのは被害ともいえない。

・・・
3月8日に取材した福島市に住む歌人 朝倉富士子さんの安否が気になり電話したけれど
まったくつながらなかった。心配になって編集のさとうさんに確認すると、
被害もなくお元気というメッセージがあったそうで、ほっとした。

富士子さんは古希を過ぎているとは思えないほど心身若々しくチャーミングな方で
石川啄木、室生犀星などをテーマに今まで何度もインタビューさせていただいている。
3月8日のインタビューのテーマは「戦争と広島」。
福島で彼女から伺った話は、その後のことを思うと、
あまりにも暗示的で衝撃的といわねばならない。


「40年前、近所に広島出身の女性が嫁いできたのですが、被曝差別が怖くて
 出身地を秘密にしていたことを告白され、非常にショックを受けました。
 実は、福島にも原爆が落とされる可能性があったという説があり、
 紙一重の違いで福島と広島は命運を分けたのです。
 もし福島に原爆が落とされていれば、私の命もなかったでしょう。
 そう思うと、偶然にも幸運のくじを引いて恐ろしい難を逃れた福島は、
 広島に対して贖罪をしなければならないだろうと感じました。
 また、戦時中は日本でも原爆の研究をしていたわけで、
 これは敵味方ではなく人間全体の連帯責任ではないかと思いました。
 私たちは、何も手を汚さなかったわけではないのです」

そうした思いから、約40年前に富士子さんは広島を訪れ、戦争と広島をテーマにした
「せめて頭(こうべ)を」という一連の歌を詠んだ。

〈流灯のうるみて美しき水の面明日へひそかに怒りをつなぐ〉
彼女は云う。「美しい水が流れる自然の中で、苦しみを抱えつつ明日も生きていく時、
人の痛みを理解しない人間の傲慢さに対して怒りを秘めていなければ」と。

〈あかつきのひかりも冷えて降るものを せめて頭をあげて発つべし〉
 この歌も、40年前に詠まれた歌。でも、思いは今も一貫して変わらないと彼女は云う。
「私たちは何もできないかもしれない。けれど、せめて頭をあげて
 前を向いて生きていくべき。単にかわいそうねと同情して涙を流したり、
 憐れむことによって優越に浸るのではなく、生きものとしてどうあるべきか
 という哲学と敬虔な姿勢を持つことが大切。どんなに悲惨な事態に直面しようと、
 人間はうなだれてはいけない。花が咲けば、散って、実って、地にこぼれていく。
 今という現実の時間が永遠に続くわけなどないのです。
 だから、死を恐れるのではなく、せっかくいただいた命を精いっぱい生きたい」

40年近く前に富士子さんが無我夢中で詠んだという歌。そこに込められた深い洞察。
3.11直前に福島で彼女が話してくれたことは、戦争という過去の話ではなく、
実は目前の未来に向けて語られた、本人も意識せざる予言的な「言霊」だったのだと思う。

「今という現実の時間が永遠に続くわけなどないのです」
「私たちは何も手を汚さなかったわけではないのです」
富士子んさんのこの言葉に、あのとき私は深く深く頷いた。
どこかでこのカタストロフを無意識に予知していたのかもしれないけれど
想像をはるかに超える現実の残酷さに、いまはまだ愚かに動揺するばかりだ。

いま、富士子さんがこよなく愛し、歌にも詠んでいる福島の里山を思うと
はげしく憂えるけれど、そのたびに彼女の言葉を思い出す。
彼女は数年前にも広島で被曝しながら生き残った木々を樹木医と共に見てきたようで、
「人間が一番悪さをした木にも、ちゃんと新芽や美しい実がなっていたのよ!」と
目を輝かせて話してくれた。いま、すべての森羅万象に どうか人間の悪さに負けないで
果敢に生きてほしいと切に切に願う。

震災一週間後、地球に最接近したという巨大なスーパームーンは
自然のごく一部である人間に、無言で多くを語りかけていた。
それは、暗く深い穴で震える私たちを、
いままでとはまったく違う世界へといなざう
眩しい出口のように見えた。
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コメント
 
 
 
Unknown (すみ太)
2011-04-13 20:54:18
この間はお話出来て、本当に良かったです。
lunaさんの言葉が心にしみます。
早く被災された方に、心からの笑みが生まれることを祈ってしまいます。
被災しなかった私達が頑張らなきゃいけませんね。
 
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