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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

根津神社

2024年04月23日 23時00分00秒 | 名所めぐり

今日は、朝から根津へ。


珍しく、カミさんも一緒です。

目的地は、ここ。

根津神社。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が
1900年近く前に創祀したと伝えられる古社で、
東京十社の一社に数えられています。

東京十社とは、↓。

根津神社が現在の姿を整えたのは、
江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉の治下にあった宝永3年(1706年)。
当時嗣子のなかった綱吉は、
甥で甲府藩主の綱豊(綱吉の兄、後の六代将軍家宣)を世嗣に定めたが、
根津にあった甲府徳川家の江戸屋敷で出生した綱豊は
根津権現を産土神としていたことから、
綱豊が江戸城へ移る際に、
藩邸跡を根津権現へ献納し、
社殿を造営したもの。

主祭神は、
須佐之男命(すさのおのみこと)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
誉田別命(ほんだわけのみこと)

正面の鳥居から入って、

神橋

御遷座300年を記念に造営されました。

楼門

江戸内の神社の楼門で唯一残っているもの。

ここから、国宝が続きます。

唐門

社殿

江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉による造営で、
お参りする際、目の前にあるのが拝殿。
その奥に本殿・幣殿があります。
一番奥にある一段高い建物が神様のお住まい「本殿」。
拝殿と本殿をつなぐ中間を「幣殿」といい、
権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされています。

社殿7棟が国の重要文化財に指定されています。

全て本物の漆塗りです。

願掛け榧(カヤ)の木

神使の白蛇が住処とし、
人々が願いごとをするとその願いが不思議と叶ったと言われています。
絵馬の撮影は禁止です。

透塀

社殿の周囲を囲んでいる塀。
細い木で菱形に組まれた窓から中が透けて見えるのでこの名があります。
全長200mの塀が300年経っても歪みなく、
最近の調査で地中8mの深さまで
基礎工事がされていることが分かりました。

西門

棟門という形式の門。
2本脚のシンプルな形で構造上強度に欠けるため、
現存するものが少ない貴重なものです。

北門

このあたりは屋台が並びます。

この日は平日だからか、
閉店の屋台が多かったです。

社務所(客殿)

古木が多く、

保護されています。

神楽殿

文京区の無形文化財に指定されている
社伝神楽「三座ノ舞」などが奉納されます。

千本鳥居

乙女稲荷に通じる参道には奉納された数多くの鳥居が並びます。

徳川家宣公胞衣塚

綱豊(六代将軍家宣)が生まれた屋敷のため、
家宣の胞衣(胎盤)を収めた場所。

乙女稲荷

池を見下ろす舞台造り。
祠は穿たれた穴の中。
古い記録には穴稲荷とあります。

庚申塔

暦の庚申の日の夜に集まり寝ずに夜を明かす、
江戸時代に流行した民間信仰があり、
道の辻などに塔が建てられました。
道路拡幅の際、根津神社へ遷されたものです。

塞大神碑

悪疫が入らぬよう道を守る神で道祖神とも言われます。
駒込追分の一里塚に立てられていたもので、
これも道路拡幅の際、根津神社へ遷されました。

駒込稲荷

根津神社が千駄木村より遷座する前、
この地が甲府宰相徳川綱重の下屋敷だった頃の守り神。

文豪の石

夏目漱石や森鴎外も氏子で、
境内散歩の際に腰を下ろした石。
これは、拝借した写真。
当日見つけられなかったのは、
参拝者が座っていたため、
ゆかりのある石とは思えなかったので。

森鴎外碑銘水

日露戦争戦勝記念に陸軍軍医監だった森林太郎(森鴎外)が
戦利砲弾を奉納した時の台座を転用したもの。
これも見つけられなかったので、拝借した写真。

観光ルートになっているのと、

とにかく外国人が多い。


どうやって名所を知るのでしょうか。

今の時期に訪れたのは、
つつじ苑の一般公開だったからですが、
つつじ苑の写真は、後日。




豊栄稲荷神社と東福寺

2024年04月19日 23時00分00秒 | 名所めぐり

4月4日のブログで紹介した金王八幡宮参拝の帰りに立ち寄ったのが、
道路を挟んである豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)。

金王八幡神宮とは対象的に小さな神社。
朱色の鳥居が並んでいるのが特色。


京都の伏見稲荷のミニ版みたい。

鎌倉時代に
金王八幡宮ゆかりの河崎基家の曾孫・澁谷高重によって
祀られたのが始まり。


元々は、渋谷駅近くに鎮座していた「田中稲荷神社」と
道玄坂上に鎮座していた「豊澤稲荷神社」が合祀し、
昭和36年(1961)には現在地に遷座して
豐榮稲荷神社となりました。

境内の右手にある多くの庚申塔は江戸時代のもので
渋谷区文化財に指定されています。
現在は隣にある「金王八幡宮」の兼務社となっています。
祭神は、宇迦之御魂命(倉稲魂命)。

                                                               

 

金王八幡宮の北隣にあるのが、
東福寺(とうふくじ)で、
天台宗の寺院。


山号は渋谷山(しぶやさん)。

1173年創建された歴史あるお寺で、
渋谷区内で最古の寺
本尊は阿弥陀如来像です。
隣接する金王八幡宮を管理する別当寺でした。

参道から鐘楼堂本堂


合掌地蔵尊、歴代住職の墓、栄範・栄傳地蔵などがあります。

梵鐘、薬師如来像、菩薩、不動明王像などは、区の有形文化財に指定されています。

空襲では被害を免れた強運の寺です。

この水はどこから来るのでしょう。

ここが渋谷であることを忘れさせてくれるような、
静かな空気がただよっていました。


                                    


靖国神社の遊就館

2024年04月15日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日の続き。千鳥ヶ淵の桜を見た後は、ここ、靖国神社へ。

逆光で恐縮。

境内。

桜が見ごろです。

この桜が開花発表する際に見る、標本木

能楽堂

靖国神社は何回も来ていますが、
今回来る気になったのは、
ここ、遊就館(ゆうしゅうかん)に
初めて訪れるため。

靖国神社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館。
幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る
戦没者、軍事関係の資料を収蔵・展示している。

「遊就館」という名称は、
『荀子』勧学篇の
「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」から
「遊」「就」を撰んだもの。
国のために尊い命を捧げられた英霊のご遺徳に触れ、
学んでいただきたいという願いが
館名にはこめられている。

1 階玄関ホールは入場無料で、
展示物の撮影は可能。

零式艦上戦闘機五二型(復元機)。

泰緬鉄道において鉄道連隊将兵の手によって運用されていた            
C56 31号蒸気機関車。

売店もあります。

2階展示室は有料。
切符は機械で。


エスカレーターで2階展示室へ進む。

22部屋の展示室と2つの映像ホールより構成されている。
「映像ホール」では、
祭神や近・現代日本に関する記録映画を上映。
記念事業完遂御礼映像「未来へつなぐ靖國の心」


1日11回上映 1回の上映時間約26分。

ここまで来て、脇を見ると、「撮影禁止」の表示が。
なぜだ。ケチくさい。

展示室は、時系列順に
古代、近世、明治維新、戊辰戦争、西南戦争、
日清戦争、義和団の乱、日露戦争、第一次世界大戦、
満州事変、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)関連の資料を展示。

大展示室に限り撮影が可能。

順路最後のコーナー「靖国の神々」では、
祭神となった戦没者の写真や肖像画の一部を展示。

また、英霊のご遺書・ご遺品が展示しています。

一つ一つ読むと、
国のため、家族のために闘う心がうかがわれ、
涙をこらえ、
鼻をぐずぐずさせて、恥ずかしい。
こういう時、海軍大尉の息子の血が騒ぐ。

ネットから収集した、特攻隊員の手紙↓。

お父上様、お母上様、
益々御達者でお暮しのことと存じます。
幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。
お正月も来ました。
幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。
お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。
雑煮餅が一番好きです。
ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。
母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。
靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。
敵がすぐ前に来ました。
私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。
否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。

満里子殿 
何もしてゆることもできず散り行くことは
お前に対して誠にすまぬと思っている。
何も云わずとも、武人の妻の覚悟は十分できていることと思う。
御両親様に孝養を専一と心がけ生活して行くよう。
色々と思いでをたどりながら出発前に記す。
恵美ちゃん坊主も元気でやれ。
教え子へ。教え子よ散れ山桜この如くに

父母上様 喜んでください。
勲はいい立派な死に場所を得ました。
今日は最後の日です。
皇国の興廃この一戦にあり、大東亜決戦に南海の空の花と散ります。
二十三年の幾星霜、良く育ててくださいました。
厚く御礼申し上げます。
今度がその御恩返しです。
父母上様 こんど白木の箱で帰ります。
靖国神社で会いませう。
長い間ありがとうございました。くれぐれも御身大切になさいますよう。


御両親様 いよいよ本日、出撃の命令がありました。
ご安心ください。必ずや立派に成功致します。
今は出撃二時間前です。
我々一行皆な朗らかです。
私もニッコリ笑って行きます。
今はもう総ての俗念も去ってすがすがしい気持ちです。
数時間後には、この世を去るとは思えないほど、
抱える爆弾はどす黒く光っています。
しっかり爆発するぞと云わんばかりに。
では行って来ます。
皆様、お元気で

博物館の性質柄、
戦争の歴史。
そう思うと、戦後80年近く、
戦争に巻き込まれなかった日本の平和を思う。
それも、ここに祀られた人たちの犠牲があってのもの。

国のために命を捧げた先人を祀るこの神社。
中国・韓国の横やりで、
日本国の総理大臣が参拝できない事態が続いている。
中国・韓国の国民に問う。
恥ずかしくないのか

最後に出征を見送る家族の像

遊就館の展示を見た後では、
心に滲みるものがある。

 


金王八幡宮

2024年04月05日 23時00分00秒 | 名所めぐり

今日は、渋谷に出て、

スクランブルスクェアを見つつ、

明治通りから少し入った道を上ると、

うっそうとした木々が見え、

ここは金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)。


第73代堀河天皇の御代、
寛治6年正月15日(1092)に鎮座。


これは脇の鳥居なので、正面へ。

これが、大鳥居

神門

渋谷区指定有形文化財。

境内。

御社殿

権現造りで江戸初期の様式を現在にとどめ、
都内でも貴重な建築の一つに数えられている。
渋谷区指定有形文化財。

祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)。
応神天皇(第15代天皇)は、
八幡大神として全国の八幡社に祀られており、
「文武の神」「平和の神」「母子の神」
「子授・安産・子育ての神」として古くから信仰されているが、
当八幡宮ではこの他に
「福徳開運、厄除、良縁の神」
特に「渡航交通安全の神」として、
御神徳の高い神と崇められている。

渋谷城砦の石

河崎重家が、禁裏の族を退治した功で
堀河天皇から渋谷姓を下賜されて渋谷重家となり、
八幡宮に渋谷城を築き居城した。
これが渋谷の発祥ともいわれている。
渋谷城は、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦で、
焼き払われてしまい、
現在、境内に渋谷城砦の石が保存されている。

金王丸御影堂(こんのうまるみえいどう)。

渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、
渋谷平三重家の子。
重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けると、
金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢を見て
立派な男子を授かった。
そこで、その子に金剛夜叉明王の上下二文字を頂き
「金王丸」と名付けた。
源義朝に従った武将で、勲功を建て、
その名声により、
当八幡宮を金王八幡宮と称するようになった。
金王丸御影堂には、
金王丸が17歳で出陣の折、
自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められている。
金王丸の木像は、3 月最終土曜日に斎行される金王丸祭で特別開帳される。

金王桜

渋谷区指定天然記念物
源頼朝が、金王丸の忠節を偲び、
鎌倉の館よりこの地に桜樹を移植し「金王桜」と名付けた。


金王桜は、長州緋桜という種類で、
雄しべが花弁化したものも交じり、
一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜。

江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、
江戸三名桜の一つに数えられた。

芭蕉句碑


                                    しばらくは 花のうえなる 月夜かな
芭蕉48歳の時のもの。
当八幡宮でこの句を詠んだという記録は見つかっておらず、
句にあった場所に建立したと考えられる。

神楽殿

ここは、近隣の会社員のランチの場となっいるようだ。

日本の文化、神社内神社。
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんしゃ)。

御嶽神社(みたけじんじゃ)。

宝物殿

例祭の神輿。

昔の模型。


昔は島であったらしい。

小説「天地明察」の舞台になっており、
当時は算額が多く奉納されていた。

目についた、あれこれ。

 


地下鉄博物館

2024年03月28日 23時00分00秒 | 名所めぐり

東西線葛西駅を通ったので、


地下鉄博物館に行ってみました。

地下鉄の高架線の下にあります。

休日とあって、開館時間10時前から行列


家族連れが多いようでした。

入口のチケット売り場。

大人220円、子供100円。

こんな床に導かれて、

入口は、地下鉄の自動改札風。

これが東京の地下鉄網


東京メトロ9路線180駅と
都営地下鉄4路線106駅の
総計13路線286駅(2020年6月6日現在)。
路線・駅数は、
世界各都市の地下鉄路線で4番目に多い。


東京メトロ副都心線と都営浅草線を除く
全ての地下鉄路線が都心の千代田区を経由します。

丸の内線車両。

中にも入れます。

特別展。

これが初期の地下鉄車両。

中には人形も。

当時の駅名。

当時の改札。

「地下鉄の父」早川徳次(のりつぐ)。


「何かしら、この世で最初の仕事がしたい」という望みを抱き、
外遊先のロンドンでそれを見つけた。
それが、地下鉄。
当時の東京は「市電」という路面電車網が出来ていたが、
地下なら、踏み切りも要らず、信号待ちもない。

大隈重信、渋沢栄一らを動かし、
資金集めをして
東京地下鉄道株式会社を立ち上げ、
専務取締役となり、
関東大震災の翌年、ようやく起工式に持ち込む。
昭和2年、
まず上野~浅草間が運行を開始する。
そして、次第に西方向に進み、
浅草~新橋が完成。
品川まで延ばす予定であったが、
資金が途絶え、新橋までとなった。
そして、五島慶太が渋谷から新橋までの路線を完成し、
二つの路線がつながって、
今の渋谷~浅草の銀座線が完成。

という苦労話を↓の本で読んだことがある。

私は昭和33年に東京に出てきたが、
当時、地下鉄は銀座線と丸の内線の2本しかなかった。
渋谷では、地下鉄の乗り場が3階にあり、
驚いたものだった。

管理システム。

運転席のシュミレーター

東京の交通網の模型。

銀座線の運転席。

世界の地下鉄。

工事の様子。

これを回転させて掘ります。

↑はシールド工法。

↓は開削工法の手順。

出口も車両風。

外からも見えます。

興味深い展示でした。