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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

映画『ザ・フェイス』

2024年03月05日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]


インド映画界のスター、ラーム・チャラン
「RRR」で、日本での人気を獲得したため、
2014年製作の旧作が発掘されて
日本でも公開されたのが、本作。

インドの地方都市。
サティヤとディープティは結婚を考えていた。
ところが、地元ギャングのドンが
ディープティに横恋慕し、彼女をつけまわす。
サティヤは戦おうとするが、
ディープティの懇願によって逃走することにした。
しかし二人の乗ったバスが襲われ、
バスは炎上し、ディープティは焼死する。
サティヤは一命を取り留めたが、
顔面に大火傷を負ってしまった。
病院の外科女医シャイラジャは、
サティヤに大掛かりな整形手術を施す。
(実はわけがあることが、後で分かる)
全く別の顔に生まれ変わったサティヤは
ラームと名乗って舞い戻り、ドン側に近づき、
加害者たちを順に復讐していく。

ここまでが半分。
復讐を果たして一件落着と思ったら、
そこから、別な物語が始まる。
それは、住民に無理な立ち退きを迫る
マフィアの親分ダルマと闘う大学生の話。

二つの話がどこでどうしてつながるのか、
それは、映画を見てご確認下さい。
ああ、そうなるか、なるほど、という展開。

つまり、一つの映画で
二つの話を楽しめる、という
「一粒で二度おいしい」アーモンドグリコみたいな作品。

手術後にラームと名を変えたサティヤをラーム・チャランが演じ、
手術前のサティヤは、ラーム・チャランのいとこにあたる
アッル・アルジュンが演じている。

とにかく、アクションの連続。
その合間にダンスシーンが挟まる。
不可思議なカメラワーク、
変てこな振り付けのダンス、
悪相役者を揃えたような敵たち、
間抜け顔役者を並べたような滑稽担当、
弾圧された人々の蜂起、
歌によるストーリー展開、
そして、意外な事実と、
インド映画の要素てんこ盛りで、
お腹一杯。
しかも、最後のくだりは感動的。

インド映画のスターは、
演技とアクションだけでなく、
ダンスもこなさなきゃならないから大変だ。
(歌は吹き替えだろう)
ラーム・チャランは「RRR」同様、
切れのいいダンスを見せる。

これだけサービス満点の作品なのに、
東京では3館しかでやっておらず、
その上映回数が1日1、2回ともったいない。

監督は、バムシー・パイディパッリ

5段階評価の「4」

キネカ大森他で上映中。

 


映画『コヴェナント』

2024年03月01日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

2018年、アフガニスタン
米軍曹長ジョン・キンリーは、
タリバンの武器や爆弾の隠し場所を探す部隊を率いていた。
雇った通訳は、アーメッドというアフガニスタン人。


通訳たちは、アメリカ入国のビザを目当てに米軍に協力していた。
隠し場所の情報を得たキンリーの部隊は、
行く手に待ち伏せるタリバンからの攻撃を
アーメッドの機転で回避し、
続いて、キンリーの部隊は
タリバンの爆発物製造工場を突き止めるが、
大量の兵を送り込まれ全滅してしまう。
キンリーも瀕死の重傷を負ったが、
アーメッドに助けられる。
アーメッドは、タリバンの追撃をかわしながら、
100キロの山道を手押し車を押して、
キンリーを米軍基地に届け、生還させる。

無事帰国して家族のもとに帰ったキンリーは、
アーメッドとその家族が
米軍に保護されず、
タリバンに追われて
逃走していることを知って愕然とする。
ビザ発給の約束が守られていなかったのだ。
アメリカ兵を助けた「裏切り者」として、
タリバンに狙われてるアーメッドの環境は、
苛酷をきわめているはず。
キンリーは、ビザの発給を激しく求め、
軍にアーメッドの救出を要請するが
らちが明かず、
ついに、自分でアフガニスタンに乗り込んで、
アーメッドの救出に向かう・・・

戦場でのアメリカ人と現地人との友情というと、
「キリング・フィール」(1984)を想起するが、
それよりはるかに戦闘シーンが多い。
軍人が主人公なのだから、当たり前だ。
アフガニスタンの荒漠地帯を再現した野外シーンは
臨場感に満ち、緊迫感があり、目を離せない、
ダイナミックな映像が続く。
音楽もなかなかいい。

タリバンの追跡を逃れて、
キンリーを軍に届けるまでの描写が
スリリングで、白眉の出来。


ここでのアーメッドの苦労が
十分に描かれているので、
その後、その恩に報いようとするキンリーの心情がよく理解できる。
恩義を返さないのは、人間じゃない。
アーメッドの捜索が意外とあっさり果たされてしまうのだが、
もう少し困難があってもよかったのではないか。
しかし、全体的に戦場での人間ドラマとして、
よくまとまっていた。

主人公キンリーをジェイク・ギレンホール


通訳アーメッドをダール・サリムが演ずる。


ギレンホールもいいが、
ダール・サリムが奥行きのある渋い演技を見せる。
オスカーにノミネートされなかったのが不思議だ。
監督はガイ・リッチー
戦争映画は新たな挑戦で、新境地を開き、
見ごたえのある作品を生み出した。

題名のCovenantは、
誓約、契約、約束等の意味。
拡大して友情の意味も。

米軍撤退後のアフガニスタンでは、
従軍通訳とその家族数百人が
タリバンに命を奪われたという。
現実は苛酷だ。

5段階評価の「4」

拡大上映中。

 


ドキュメンタリー『クインシーのすべて』

2024年02月26日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

ジャズ・ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家の
クインシー・ジョーンズを扱った
2018年のドキュメンタリー。
監督・脚本はアラン・ヒックス
ジョーンズの娘のラシダ・ジョーンズ
2018年9月21日にNetflix で配信された。

「ポップスが最高に輝いた夜」を観た流れで鑑賞。

精力的に後進の指導と
黒人の地位向上事業に励む老齢のクインシーと
若い時からの軌跡を、
大量の貴重な映像を集めて
交互に描く。

とにかく、クインシーの
仕事人間ぶりがすごい。
脳の動脈瘤から生還してからも、
仕事をやめない。
「立ち止まるのは死ぬことだ」
とまで言っている。
そのため、家庭を省みず、
妻の孤独感を招き、
4回結婚離婚を繰り返す。
最後のインタビューで、
「試して成功しなかったことは?」と訊かれて、
「ハハッ、結婚かな」
と笑っている。

その人間性の暖かさから、
各界有名人との人脈が豊か。

軌跡を辿ってみると、

「11歳まで白人を見たことがなかった」
という、シカゴの黒人社会で育つ。
少年時代にトランペットを学ぶ。
10歳の頃にワシントン州に転居。
そこで盲目の少年レイ・チャールズと知り合い、
ともにバンド活動を始める。1951年、バークリー音楽大学を卒業後、
トランペット・プレーヤーとして
ライオネル・ハンプトン楽団に参加。
そこでアレンジャーとしての才能を見出され、
カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンら
ジャズ界のスターのアレンジを手がけるようになった。

1960年代からはプロデューサーとして活躍し始め、
1963年にレスリー・ゴーアの
「涙のバースデイ・パーティ」をビルボード1位にしたのをはじめ、
マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラらのプロデュースを手がけた。


映画音楽にも進出し、
「夜の大捜査線」や「ゲッタウェイ」のサウンドトラックも評判となった。

1978年、映画「ウィズ」の現場でマイケル・ジャクソンと出会う。
そこでマイケルが
「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」
と言ったところ
「僕じゃ駄目かな?」
とクインシーが返答したという話も出て来る。


そして翌年のアルバム「オフ・ザ・ウォール」から
マイケルとタッグを組むことになる。
1982年のアルバム「スリラー」
史上最も売れたアルバムとしてギネスに認定された。
300曲作り、うち12曲を選んでアルバムに。
1987年のマイケル・ジャクソンのアルバム「BAD」も
同一アルバムからのシングルカットが
5つのナンバーワン・ヒットを記録。
このアルバムを最後にマイケルとのタッグを解消する。

アメリカのスーパースターが一堂に会して録音した
チャリティー曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」のプロデュースも手がけた。

2001年、ケネディセンターの表彰式で
レイ・チャールズがクインシーへの愛を歌った時、
客席で涙をこらえるクインシーの表情が印象的。
アフリカ米国人博物館のオープニングショーも
クインシーならでは集められた
豪華メンバー。

オバマ元大統領はこう言っている。
「クインシーのキャリアが興味深いのは、
 いつも最初なこと。
 誰よりも先にドアをくぐって、
 後から通る人に
 自信を与えてなくれる。
 それも上品に」

なるほど。

2900曲、300アルバムを録音。
51の映画、テレビ音楽を制作。
グラミー賞79ノミネート、27回受賞。
エミー、グラミー、オスカー、トニー各賞
全てを受賞した18人の1人。
子供7人、孫6人、曾孫1人。
現在90歳

 


映画『幸福の黄色いハンカチ』

2024年02月18日 23時00分00秒 | 映画関係

[旧作を観る]

山田洋次監督、高倉健主演による
1977年の映画。

公開当時観ているが、
今回再見するきっかけになったのは、
産経新聞の武田鉄也ロングインタビュー

これは、
各界の著名人に対する単独インタビューを
1か月間にわたって掲載するもので、
30日分あるから、
他のインタビューでは出て来ないような詳しい話が聞ける。

武田鉄也インタビューも、父親に関する話、母親についての話、
高校時代、「海援隊」結成、当時の音楽事情、
「母に捧げるバラード」のヒット、
金八先生への出演などの興味深い話の中に、
「幸福の黄色いハンカチ」出演の時の逸話が出て来る。
突然の抜擢で、映画作りの右も左も分からず、
カチンコが鳴ったら演技をするということさえ知らず、
始めのうちスタッフから馬鹿にされていたが、
やがて、山田監督の目の色が変わる。
既存の俳優にはない、
意表をつく新鮮で自然な演技に驚かされたのだ。
「監督は、君しか観ていない」と高倉健に嫉妬されるほどに。
ある時(柔道をしてガニマタになった、と蟹の足を持って言うところ)、
武田の演技に山田監督が吹き出し、
その音が録音が拾ってしまい、
撮り直しになったという。
この時、録音の人が
「役者に失礼だ、謝れ」と言って、
山田監督が謝罪したという。
「巨匠」になる前の46歳の時。
監督より技術者の方が偉い時代があったんだね。

というインタビューを観て、
どんな映画だったかな、
とツタヤディスカスで借りて再見。

あらすじは今更説明するまでもないが、
北海道旅行をする、いきずりの男女に
刑務所を出所したばかりの男が合流。
その男が別れた妻に
「もしまだ一人暮らしで、
 俺のことを待っててくれているなら、
 鯉のぼりの竿に黄色いハンカチをぶら下げてくれ。
 もしそれがなかったら、
 俺はそのまま引き返して、
 二度と夕張にはに現れない」
というハガキを出したという、
男の話を聞いて、
あとずさりする男を励まして、
夕張に向かう三人。
家の側まで来て、
満艦飾の黄色いハンカチを発見し、
家に向かう男と、迎える妻。
軽薄な若い男女は、
初めて人生の重さに触れたのだ。

泣いた
1977年当時、私はまだ30歳の若造。
人生の重さなど、まだ知らなかった。
それから40年以上過ぎて、
人の絆、夫婦の愛の深さ、人生の味わいを
感じられる年齢になっていたようだ。

高倉健が抜群にいい。
私は任侠映画が好みではなかったので、
全く観ていない。
その健さんの、男の哀愁を漂わせた演技の素晴らしさ。
そして、妻役の倍賞千恵子は、
この人以外、この役をやれる人はいないだろうと思わせる。
そして、当時売り出し中の桃井かおりと、
全くの新人、武田鉄也の新鮮な演技。

原作は、1971年に「ニューヨーク・ポスト」紙に掲載された
ピート・ハミルのコラム「Going Home」。
同じ題材でドーンの歌った「幸福の黄色いリボン」がある。

山田監督は製作にあたりピート・ハミル側と交渉したが、
代理人によると、ハミルは
日本の電気製品がアメリカ市場を荒らしているとして
日本に好意を持っておらず、
作品の上映は日本国内限定で
海外に出すことは絶対に認めないとの
厳しい条件つきで承認を得た。
封切り後、高い評価を得て
いくつかの賞を受賞したことから
配給の松竹は海外への輸出を考え、
ハミルに認めてもらうため
山田監督がニューヨークに出向いて映写会を開いた。
字幕もなく通訳が要点を説明するだけだったが、
鑑賞したハミルは「ビューティフル」と称賛し
喜んで輸出に賛成したという。

というのは、Wikipediaからの情報。

他にもWikipediaには、
「男はつらいよ」撮影の合間に、
倍賞千恵子が、「幸せの黄色いリボン」を口ずさんでいて、
それを聞いて監督が質問して
歌の内容を教えてもらったのがきっかけだった、とか、
ラストシーンでハンカチが風になびくシーンは、
大型扇風機を準備して撮影に挑んだが良い絵が撮れず、
3~4日かけて自然の風を待ち、撮影を行った、とか、
刑務所から出てきたばかりの高倉健が、
食堂でビールを飲み干し、
ラーメンをむさぼるように食べる場面では、
高倉は実際に2日間何も食べずに、
この撮影に臨んだ、とか、


当初若い女性役は山口百恵を想定していたが、
スケジュールの調整がうまく行かず、
出演を断られたため桃井かおりに決まった、とか、
撮影秘話が沢山掲載されている。

このDVDには
公開の25年後の2002年、
夫婦の家とハンカチを夕張市が保存している
「幸福のハンカチ 想い出ひろば」を


山田監督が訪れた時のインタビューを収録、
その中でも、いくつか撮影秘話が紹介されている。
撮影当時、武田は仮免中で、
運転が恐ろしくヘタだったので、
ロングで撮る場合は、
背格好などが似た小道具スタッフが鬘を付け運転したという。
(武田が実際に運転免許を取得したのは、
 およそ20年後の1996年8月だった。)
DVDには、映画の中で夕張市内を車が走るシーンと
同じ場面を連動させて、
25年後の夕張の街を写す。
映画の中では家があったところは、
今は家もなく、
炭鉱の街の衰退を表している。

勇作(高倉)と光江(倍賞)の再会シーンは、
近づいていく勇作に気づいた光江が
涙目で勇作をみつめるのが、
唯一の寄りのカットで、


後は終始ロングの映像
二人は見つめ合い、
勇作がハンカチを見上げ、光江がうつむいて泣きだし、
勇作がその肩を押して家の中に入っていく、
絶妙なカット割だが、
ここの場面で、欧米の観客は、フフフと笑うという。
欧米人なら、抱擁し、キスするところを、ただ、見つめ合うだけ。
日本人って、こうなのね、という笑いだ。
英国でこの映画を観たインドネシアの監督が、
同じアジア人として、
よく分かる。
インドネシア人も、映画と同じ反応だ、
と言ったという、山田監督の話。

なお、Wikipediaには、
編集担当者の
「やはり、ここで観客が一番観たいのは、
 ずっと待っていた妻の顔なのでは」
という意見を聞き入れ、
倍賞のアップのワンカットのためだけに、
倍賞と少数の撮影スタッフだけで夕張での追加ロケを行った、
という話が紹介されている。

当時、山田監督は年に2本「男はつらいよ」を撮っており、
お盆映画と正月映画の合間に
この「幸福の黄色いハンカチ」を撮った苦労話も
インタビューで語っている。
「この作品でやり残したことはありますか」
という質問に対して、
ラストの武田と桃井のキスシーンは、
もうちょっと別な撮り方はできなかったか、
とあげている。
私もそう思う。
あそこは、桃井が武田の肩に頭を乗せるだけで十分だと思う。

映画は、1977年10月1日に公開され、
第1回日本アカデミー賞をはじめ、
その年の映画賞で、
作品賞、監督賞、脚本賞、
主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞を
文字通り、総ナメ
この作品をきっかけに
武田鉄也は俳優はしても大成した。

1981年、タイで、
2008年、アメリカでリメイクされている。


テレビドラマにもなった。

「男はつらいよ」以外、
山田監督は苦手の私だが、
本作は、名作と呼んでいいと思う。

 


映画『瞳をとじて』

2024年02月10日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

「ミツバチのささやき」などで知られる
スペインの巨匠ビクトル・エリセ
31年ぶりに撮った作品。

冒頭、ある邸宅を訪れた男が、
死期の近いユダヤ人の富豪から
人探しを依頼される。
富豪の血を引く中国人の少女を探し出して、
連れて来てほしいというのだ。

というのは、映画の中の映画で、
この映画「別れのまなざし」の撮影中に
主演俳優フリオ・アレナスが失踪したために、
未完に終わってしまったのだ。

それから22年。
「別れのまなざし」の監督だったミゲル(英語名はマイク)が
「未解決事件」というテレビ番組に招かれて、
失踪事件について語る。
取材後、ミゲルは過去にゆかりのある人物を次々と訪ねて、
昔を語り、倉庫で過去の文物を探る。
それは、親友でもあったフリオと過ごした
青春時代を追想するものであった。

ここまでがおよそ3分の1。
ほとんどが1体1の対話で、
やや冗長。

マドリードから長距離バスでミゲルが戻ったところは、
スペイン南部の寒村で、
そこでミゲルは漁業をしながら、
近所の住人とだけ交流の
隠遁者の生活をしている。

ようやくドラマが動き出すのは、
番組を観た視聴者から、
「失踪した俳優とそっくりな人がいる」
という連絡だった。

訪ねて行ったところは、
修道院が運営する高齢者養護施設
そこでフリオと思われる男は
建物の修繕などをして雇われている。
男は船乗りとして、世界中を回っていたらしく、
病気で施設に来た時には、
過去の記憶を失っていた
面変わりしているものの、
ミゲルが男はフリオだと確信したのは、
「別れのまなざし」で使用した
中国人少女の写真を持っていたことだった。
ミゲルはフリオと出会った水兵時代の写真を見せたり、
水兵独特の結び方をさせたりして
記憶を取り戻させようとするが、
うまくいかない。
フリオの娘アナを呼び寄せ、会わせても、
男の記憶は戻らない。
そして、最後の手段として、
ミゲルがしたのは・・・

ここで、最初の「映画の中の映画」が
登場する、巧みな構成。
この場面は、なかなかスリリングで、
興味をそそる。

アメリカ映画だったら、
もっと違う描き方をするだろうと思うが、
監督は古い映画手法に固執する。
たとえば、多発されるフェイドアウト。

フェイドアウト・・・
場面切り換えの手法の一つ。
「暗転」や「溶暗」といった方が分かりやすいだろうが、
場面を急速に暗くして次の場面につなぐ。
逆に暗闇から次の場面を徐々に明るくしていくのがフェイド・イン。
画面に次の画面が重なって、
前の画面と入れ替わるのがオーバーラップ。
ディゾルブともいう。
端から次の場面を出て来て、
拭うように次の場面につなぐのがワイプ。
黒澤明が多様し、その影響で「スター・ウォーズ」などに引き継がれた。
これらの場面転換は、
既に過去の遺物とも言え、
今は、カットでつなぐのが主流。

前半部分での1対1の対話での切り返しも過去の手法。
おそらく巨匠ビクトル・エリセは、
新しい映画を観ていないか、
観ていても、切り捨てているのだろう。
それはそれで立派なものだが。

映画そのものは、古い手法によるので、
今の手法を見慣れた観客には、少々もどかしい。
ただ、ストーリーラインである、
失踪した俳優の探索と
過去の回復というテーマは魅力的だ。
その回復のために
映画を使う、というのも、なかなかのもの。
ただ、最後はその結果は見せることなく、
映画は終わる。
フリオの表情の変化だけでも見せてくれればよかったのだが。

169分という時間は、さすがに長い
前半にあんなに時間を取る必要はないのでは。

ただ、真ん中に当たる監督の隠遁生活は、
ビクトル・エリセの日常ではないかと思うほど魅力的だ。

その仲間との交流で
「ライフルと愛馬」を歌うシーンが出て驚いた。
ハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演の
西部劇「リオ・ブラボー」(1959)の中で
ディーン・マーチンとリッキー・ネルソンが歌う。


ただ、歌詞の字幕が「ライフルとポニー」と出ているのは、
いただけない。

「ライフルと愛馬」を聴きたい方は、↓をコピーしてお使い下さい。

https://youtu.be/2FEbBUPO5OU?t=10

「ミツバチのささやき」で
当時5歳で主演を務めたアナ・トレント
フリオの娘アナ役で出演。
「私はアナ」と、当時と同じセリフを口にする。

冒頭とエンドロールで
印象的に映される双頭の彫刻は、
ローマ神話の神、ヤヌスの像
一つの顔は未来を、もう一つの顔は過去を向いており、
なにやら象徴的
ヤヌスはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの
短編小説「死とコンパス」出てくる。
エリセはこの物語を映画化するために脚本を書いたことがあるという。

フリオの今の名前、ガルデルは、
人気絶頂で飛行機事故によって急逝してしまった
アルゼンチンの国民的英雄で
伝説のタンゴ歌手、カルロス・ガルデルに由来。
フリオがよくタンゴを歌っていることから彼につけた呼び名。

手法は古いが、
なかなか味のある映画だった。

5段階評価で「4」

TOHOシネマズシャンテで上映中。