カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『距離感について』

2008-12-15 20:20:20 | Weblog
 苦しんでいる人がいる。


 どうしたものかと思案する。


 言葉での表現のしかたというか、英語を使って微妙さを出したいのでもないが


 Bestな解決策などあり得ないと思った方がイイ。


 運が良くて


 Better程度。


 人間が想定できるのはその程度なのだと


 開き直るのではなく


 あきらめるのではなく


 ちゃんと理解しなければ


 いっしょに苦しんだつもりになって


 苦しいやら、うまくいかないやらで


 受け手側がパンクしてしまう。


 そうなると


 どうしても途中で投げ出したようなカタチで


 その物事から離れなければならなくなり


 相手にしてみれば


 「最後まで面倒を見てくれなかった、何て冷たい人。」と


 かえって逆恨みまでされてしまったりする。


 この距離感が


 人間関係のコツというかヒミツだったりします。


 同じ痛みが共感されるところには


 同じ痛みを持った人が集まったりもします。


 その痛みから、完全に解放された人も


 まだされていない人も


 共感してくる人にはわかりません。


 自分自身のこともパーフェクトには理解できないように。


 頼られることは、人間誰しも悪い気はしません。


 逆に自分の現状があまりよくないときには


 ダメ無理オーラを出しているので


 頼られることはありません。


 でも


 まさに渦の中、現実問題として苦しい人には


 相手のことが見えません。


 どうしようもなくキツイから。




 ぼくもたまに言われることがあります。


 「あなたは、最後までたずさわってくれないから、冷たい人だ。」と。


 もちろん「それでいいじゃん。」といって開き直ることもしないし、逃げもしない。


 その言葉には、ちゃんと意味があるから。


 そして、自分のしてきたことにも意味があることを信じているから。


 キリストのように考え


 キリストのように話し


 キリストのように行い


 キリストのように愛そう


 ぼくは、ただの媒体の一つなだけです。


 ほんとうに正しいこと


 なんて


 その時、その人のためになること


 なんて


 一生涯わからないと思います。


 それこそ


 神さまじゃないから。


 間違った伝え方で、方法で


 ひとときの現実逃避のお手伝いをしちゃってるかもしれない。


 ずっとぼくの自己満足なんじゃないのかなって


 ずっとずっと


 堂々巡りをしていたりするし。


 最近こんなことも聞かれた。


 教会に来るようになったきっかけの話しになったときのことだ。


 「どうしてluke8488さんのような人が、ここに来たんですか。」 


 「のような人」っていうのが


 その人のぼくの評価なのだろう。


 彼にはそう見えたのだから誰にも文句は言えない。


 ぼくは気がつくのに39年間を要した。


 取り返しのつかないような大きな失敗もしてきた。


 「のような人」がどのようなものさしかは別にして


 いまポジティブに見えるのならば


 それこそが


 ぼくが救われている証だと思う。


 ぼくは


 この気づきを


 もうひとりの誰かに


 伝えられたらイイなと。


 でも自己満足との闘いは続きます。






 神に感謝。
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