カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『うわさと真実』

2008-12-10 07:07:07 | Weblog
 気になっている人のことを


 気になってしょうがない事柄について


 もちろんそちら方向へアンテナが立っているので


 様々な情報が飛び込んでくる。


 その情報の発信源が


 どうなのか


 そんなものは吟味もせずに


 目先のおいしそうな話しにかぶりついて


 でも消化不良を起こしてしまって


 吐き気をもよおし


 なんだかムカムカして気持ちが悪い。


 こんなことの繰り返しから抜け出せずに


 いつも同じところをぐるぐるまわっている人がいる。


 ホンモノの食べ物だったら


 誰からもらったのか


 賞味期限はだいじょうぶなのか


 自分が好きな味なのか嫌いな味なのか


 食べきれる量なのか


 それこそ毒が入っていないか


 いろんなことを一瞬に考えられるのに。


 人間の発する


 うわさ話(特に良くないことや他人の不幸、いわゆる陰口のたぐい)は


 甘い蜜の味がするのかなぁ。


 もっと言えば、毒が入っていた方がイイみたいなところのあったりして。


 気にするなと言うのは無理な話かもしれないけど


 真実を確認しなくて


 どうして


 例えば当事者同士


 きりきりいがみ合わなきゃならないんだろう。


 真実を確認するのは


 勇気もパワーも必要だけれど


 そんなことで


 ストレスを溜めて、ジワジワと心のパワーをロストしていくのは


 無駄でしかないと思う。


 「そうは言ってもね、直接確かめるのは難しいんですよ。あなたみたいに強くないから。」


 もちろんその人それぞれのキャラクターがあって


 何をしても悪い意味で文句を言われちゃう人とか


 コミュニティーのリーダーとか


 コミュニティーのおこられ役になっちゃってる人とか


 目立っている人とか


 いろいろで


 様々な要素が複雑に絡み合っていることも事実。


 やっかみや羨望が姿形を変えたものがほとんどだし。


 いじめや


 過去の経験で


 そういうことに敏感でいないと


 こわくてしょうがないってこともあったりするし。


 結局


 それを発信している人の個人の意見であることがほとんどなので


 ぼくは、聞いているふりをして


 記憶に残さないようにしている。


 もちろん勘違いの場合は、本当のことをその場で教えてあげます。


 例えば三人で話していたとして


 自分以外の二人が同じ部分に共感や納得して正しい情報としてアタマに刻み込んでくれるとは限らないし。


 偶然の瞬間を切り取って


 「すごいことしてたよ。」ってのも


 前後関係を知らなかったりする。


 それくらい


 うわさというのは


 曖昧で


 いい加減だということ。


 ただし


 間違えや


 だらしなさや


 違和感などは


 しっかり受け止める準備も必要です。


 その受け皿を持ったら


 持てるように意識できたら


 うわさなんて


 なんともなくなります。


 もう一歩進んで


 「あんなこと言っちゃうことにもきっと何か理由があるんだろうな。」


 って考えることができたら


 そのときに発生する痛みにも耐えられるんじゃないかな。


 怒りのパワーを相手に向けることは


 イエス様がやってきたことでしょうか。


 それが無実の罪だとしても


 十字架につけられたということを


 「何であの場面でその大切なことを、信仰を

  忘れちゃったんだろう。」






 神に感謝。
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