カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『評価』

2008-12-04 06:07:08 | Weblog
 評価というのは


 するほうも


 されるほうも


 悩ましい。


 自分の行動に対する


 例えば、仕事とお給料が対価であるかどうかの


 それぞれのものさしの


 付け合わせみたいなものだから。


 立場も違う、それは圧倒的な違い。


 もしかしたら


 その人との、その会社との関係性が無くなってしまう可能性を含んでいたりするから。


 評価はときに残酷で


 評価は何だか曖昧で


 評価は冷静で


 評価はまやかしで


 評価はうれしい。


 どんな都合があろうが


 評価をされるということは


 最低限、自分が取った行動について、その存在を認めてもらえた瞬間だから。


 ときには厳しいこともあるし


 自分のしてきたことはそんな程度のことだったのかと心折れそうになることもある。


 怒り心頭で辞めたり、投げ出したくなることもある。


 さてさて、こここそチャンス到来のときだ。


 自分は、上司や会社のために、その人たちに向かって仕事をしているのか。


 自分は、ほめられたり、自己満足を得たいが為に困っている人や弱っている人のために何か行動を起こしているのか。


 その起こした行動は


 お客様のことを真剣考え、目の前にいる人のことをいっしょうけんめい考えて自分のできる範囲で、自分の最大限(に近い)能力を使ってしたことなのではなかったのか。


 「ありがとう。」

 「助かったよ。」

 「楽になったよ。」

 そんな言葉すら無くたって

 「ニコッ」て

 「ホッ」って

 一瞬でも

 ココロの深呼吸をする

 その間合いを

 そのきっかけを

 そんな気づきを

 共有できたらイイな、みたいな。

 

 その結果

 自分自身が救われていることに気づく。


 ただし


 厳しい、悲しい評価にも


 必ず意味があります。


 反省しなければならないこともあります。


 そこをスルーして


 次のステップに進んでも


 同じ失敗、同じ評価をされてしまう可能性があります。


 仕事だけじゃなくて、人生って常にそういうことでしょう。


 頑固とか、ポリシーを貫くということと


 ちょっと違う部分なのです。


 逆に胸を張って主張できるくらい何かを成し遂げたのなら


 違う環境に挑戦、ステップアップしていくことはイイでしょう。


 なんてったって前向きだもの。





 こんな話しを


 先週の土曜日の交流会でする機会に恵まれました。


 その方は言いました。


 「luke8488さんて、コワイ人だと思っていたので、ちょっと話しかけるのためらってました。でも話せて良かったです。」


 こうして、ぼくも評価をしてもらいました。


 反省して、違う場所、シチュエーションでいかしていきます。


 それが


 よろこびの知らせ


 であるように。





 神に感謝。
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