月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

路上、鳩の死を見る

2007-10-21 23:39:45 | Weblog
ほんの僅かなちがいによって、運命が大きく左右されるという現実をわれわれ、さまざまな機会に思い知らされている。例えばのこと、多数の人の命の失われた電車の脱線事故のような場合など。さまざまな個々の事情が絡んで、避けることができたひと、事故に巻き込まれてしまったひと、分かれてしまう。運命のいたずらのような僅かな差異で、その後の可能性も、夢も、人生の時間もすべて死と共に失う側に振り向けられてしまう人がでてきてしまう。
それは、こちらの場合も同じことなのだろう。例えば夜の路上で車に轢かれてしまったネコの死。時に、目にしてしまう。敏捷なネコのような動物にしては、ヘマなことではないかと思えるほど、クルマの動き、速さに対応しそこねたネコに哀しさを感じる。そこでも、ほんの僅かな距離のズレ、それがあれば助かっていたかもしれないという、瞬間の中の分かれ目ということが考えられる。
その分かれ目によって生じた不運によって、更に加えられてくるようなこともある。死の先に何があろうと、当の者は別の世界に入っているのであるから、もう無関係ということになるのであろうが、現実には穏やかならないこと。その死体を更に轢くクルマもあるわけである。路上のその死体に気づかずに。
前日の朝、自転車で道路を行った時のこと。前方、道路の中央寄りに首のあたりから血をながして、絶息している鳩を見かけた。膨らみのある体、その羽毛の色合いなどの印象から、老いた鳩などではないことが分かった。そんな鳩がクルマに轢かれて命を失っている。鳥がそのような場所で轢かれるということが想像しがたかっただけに、意外なものを目にした思いだった。危険を感じたら、飛び立てば良いだろう? なぜにそれができなかったのか。分からない。
クルマが向かい方向から、一台やってきた。こちらが目をつぶりたくなるほどに、鳩の至近を通り過ぎていく。ほんの僅かなズレで、タイヤの下になっていた可能性もありそうなほどの至近。そこで、本当に別の車に轢かれ、また別のと繰り返されたらどのようなことになるのか。それを思うと、そのままにしておくわけにはいかないと私は、たまたまクルマの通りが途絶えていた道路を歩いて鳩の所まで行き、その体を両手の中に入れたのである。向かい方向から反対側の歩道をやってきた若い女性があった。こちらを見て、ちょっとおびえた表情になっているのが目の端に入る。両手の中の鳩は、やはり小鳥とはちがう大きな鳥の感触。
道路脇の80センチほどの高さの石垣。その先の草叢の上に死んだ鳩を置いた。もう轢かれる心配はない。こちらの気も済んで、そこを離れたわけであるが、私のそうした行動。その時、なにもせずに通り過ぎてしまうこともできたわけであるから、そうしたことがなければ、鳩はどのようなことになっていたのかを、自転車を走らせながら考えていた。その柔らかな体がタイヤに轢かれたら、どのようなことになるか。どのような無残な光景を見なければならなくなるのか。元に戻れば、そもそも何故、そこで鳩がクルマに轢かれなければならなかったのか、ということまで。ほんの僅かなこと、その在る無しで、場合によってはまた限りなく大きなことも左右されることにもなるこの世の、そうした現実。気味悪いもの、と言いたくもありますね。

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