laisser faire,laisser passer

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楽しく気楽につぶして生きてます。

スカ

2008-01-08 | kabuki a Tokio

演舞場に成田山からご来臨中の不動明王像を拝みに行って来ました。

…で済ませたいほど、見るべきものはほかにない、といっても過言ではない芝居です。

 

見る前にいろいろ予想はしていた。
プラス方向では「かっこいい、スペクタクル、ダイナミック、楽しい」など、
マイナス方向では「くどい、しつこい、うるさい、下手糞(まあこれは予想じゃなくて事実だが)」など。

ある意味すべての予想を裏切ってくれました。

 

退屈。

 

あたしは海老蔵が好きじゃない。でもそれは基礎もできてないのに、へんな工夫をしたり、大げさすぎる芝居で芝居全体を台無しにするから、という理由がほとんどで、裏をかえせば、芝居全体を覆せるほどのダイナミックな存在感、ともいえるわけである。ひとつはまれば大当たりする可能性がある、そういうところが魅力でもあるのだ。

だけど、今日の芝居での海老蔵は、唯一のとりえともいえる存在感すら希薄だったような。
台詞が浮くとか、見得するときなぜいつも唸るのかとか、立ち回りのときばたつくとか、そんな技術的な部分を指摘する気もなくなるほど、なんだか本当に影の薄い、スカみたいな役者に見えたんだよなあ。

 

特につまらなかったのが毛抜。
弾正の愛嬌も世知もなんも感じられない、台詞の語尾が詰まる悪い癖だけが團十郎を彷彿とさせる。
やたら早口で段取りを踏んでいるだけ、としか見えない芝居。
毛抜があそこまでつまらない芝居だと思ったのは初めてのことだった。


成田屋の弾正とは比較するまでもないが、面白さでも魅力でも、数年前浅草でみた男女蔵の弾正にはるか及ばず、あまつさえ、同時に上演された獅童弾正のほうがまだマシだったのでは、と思うほど。


 


海老蔵個人の出来を除いても、五役早変わりを売りにしようとするあまり、芝居の筋がめちゃくちゃで、陰陽師がただの三枚目にしか見えないし、早雲王子(この役あたり、ちゃんと描けばかなり面白いと思うんだけど)が出たり入ったりあわただしくて、歌舞伎初心者には筋を追う事も難しかったのではなかろうか。
やはり、鳴神上人と弾正と不動明王の三役をきっちりやって、ほかの役は適材適所で、というほうが、結果としてずっとまともな舞台になったように思うのだが。

 

 

もちろん、最初から座組が薄いことはわかっているから、それを逆手にとって、海老蔵ワンマンショーにしたてようとしたのだろうが。
肝心要のワンマンショーの主役、海老蔵が生き生きしていない、という最悪の展開。座頭だからちゃんとやらなきゃ、と思いつめた結果芝居が小さくなってしまったのだろうか。それなら逆じゃん。座頭のときは派手にやってくれていいから、他の役者が主役のときにおとなしくしようよ、海老蔵くん。

シンが魅力的じゃないのだから、脇ががんばっているかといえば、そうでもなく、なぜか市蔵、右之助、猿弥、笑三郎といった芸達者が全員つまらないんだわ。

個人的に贔屓の段治郎も含めて、主役にも脇役にも、ほとんどすべての役者から熱気とか新鮮なことをやっているのだ!という意気込みとか、こういう芝居には不可欠なそういう空気が一切感じられなかったのはなぜなんだろう。



 

 

…ご開帳中の不動明王以外にいいところを強いて探すなら、
鳴神の絶間姫、芝雀
絶間姫の物語の場面だけが、ちゃんと歌舞伎を見たという満足感を与えてくれた。

あともうひとつ。京屋とおもだか屋の若手による立ち回り。
菊五郎劇団が国立に行っているのによくがんばったと思う。特に京屋の京純、京由、京珠らは本来女形なのに実にキレのいい動きだった。



で、ようやく立ち回りで盛り上がったと思ったのに最後の最後のイリュージョンのしょぼさできっちり失笑させられるし。

いろんなところで猿之助のアイデアを盗んでいつつ、ちっとも活用できていないどころか、これでは猿之助が泣くだろうと思われる部分もたくさん。
おもだか屋の役者たちは何を思いながら脇を勤めていたのだろうか。

 

 

海老蔵嫌いを自認するあたしですが、海老蔵ファンの人は、今日みたいなスカスカの海老蔵でも、たくさん出てさえいれば満足なんでしょうか。
あたしが海老蔵ファンだったとしても(いや、ファンだったら余計)今日みたいな芝居を見たら怒り狂うと思うんですが。

どうなんでしょう。