天草からの帰りにJR九州の三角線に沿うように国道57号線を車で走っていると吉住駅の手前で、随分と昔に馬門石採石場を訪ねた事を思い出した。
ん・・・・
それから、どれだけの年月が過ぎたんだろう・・・・
20年?
いや、もっと前の事だったかと思う。
そこで昨日は事の序に、その馬門石(まかどいし)採石場跡地を久々に訪ねてみることにしました。
と、言うことで早速・・・・
吉住駅を少し過ぎたところで網津川に添うように車を走らせると右手に馬門橋が見えてくる。
そして、この馬門橋を渡り馬門地区へと入るのだが・・・・
ここから先の道は狭くなり、その奥にある馬門石採石場付近では更に狭くなって車をUターンさせることも難しい。
だから、自身が運転する車幅感覚を十分に把握し、それなりの運転技術を持ち合わせた人でない限りは徒歩でのアクセスをお勧めしますし、何が起ころうと自己責任で。
と、言うのも・・・・
近隣の住宅(塀)などへの接触や側溝・路肩への脱輪だけでなく、場合によっては沢へと落っこちてしまうという可能性も否定できません。
でもって・・・
そこまでのアクセス経緯は全て省略して、ここが目的とする馬門石(まかどいし)採石場跡地。
今では荒れ果てて、その昔、ここが採石場であったという知識がないとマジで分からないと思う。
でも案内板くらいはあるだろ!
はい、ありますよ。
あるけど、その案内板はアクセスルートに沿っては掲げてられません。
だから、『馬門石採石場跡地➡』なんて案内板があっても道の分岐点には掲げてないので、その岐路を左右のどちらへ行けば良いものなのか・・・・?
そう、全く分からない
でもって・・・
地域に住む方たちに聞いても『話に聞いたことはあるけど実際に行ったことはないので知らない』と言われる始末。
随分と高齢の爺ちゃんや婆ちゃんに聞けば話は別ですけどね。
要するに、ちょいと見学に行こうなんて甘えた考えは、ここでは通用しないのだ。
まぁ、そんな感じの場所ですが、ここが馬門石採石場であった証として削岩機で開けたピットの跡がが残っています。
削岩機を用いて割りたい方向に並べて穴を掘り、そこへ“セリ矢”の向きを合わせるようにセットして均等に矢を打ち込むとパカッ!と石は真っ二つに割れる。
ただし、削岩機が無かった時代は石ノミ(タガネ)を用いて手で矢を打つ穴を掘っていた。
で、その手堀りの穴が、これ。
画像の中央に五つの穴が並んでいる分かるかなぁ?
ただ、この手堀りの穴は馬門地区の中で見られるものの石採石場のものではない。
これはCherryの想像だけど・・・・
その規模は別にして随分昔は、この地域一帯の様々な場所で石工職人たちが石を切り出していたのではないかと考えています。
と言うことで・・・・
今から1700年から1300年も前の古墳時代に、この地域には馬門石の切り出し加工をする職人たちが住んでいて関西圏などから『我が国の王が赤い馬門石の石棺を所望しておる』と、こんな遠い地までやってきて石棺制作を依頼した者がいた。
で、その馬門石を用いて当時の石工たちが石棺を作ったら、今のニャンコ便みたいな連中が荷受けして海路で860キロも離れた大和の地へ運ばれて『ちわ~、お届け物で~す』なーんて感じかな。
まぁ、そんな事を考えると、一国の王としての力もあったんだろうけど現代の物流状況と全く変わんねぇじゃん!ってね。
ちなみに・・・・
この馬門石は今から約9万年前に阿蘇山の噴火によって流れ出した火砕流が堆積してできた堆積岩(阿蘇溶結凝灰岩)ですが、この馬門石が何故に赤く(正しくはピンク色)なったのかは分かっていない。