倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

23日の新聞報道 その後

2023-09-27 | 日記

令和5年長野市議会議員選挙から10日余が経過しました。

そして、私に関する唐突な新聞記事が掲載されてから5日余が経過しています。

あれから相当の時間が経過してしまいましたが、この間 周囲から寄せられてきた批判や激励がない交ぜになった多くの反響に基づく出稿元(記者)とのやり取り等に相当の時間を要し、ついぞ今日にまで至ることとなってしまいました。

 

この間、私自身 学ぶことがありました。

先ずは公職選挙法の難しさ。

後に確認すれば、出した側は真摯かつ単純な御礼のつもりであったとしても それが選挙中に出されたことで、公選法に須(すべから)く準拠していないとの指摘があれば、それは思慮が足りなかったと申せます。

ただ これはあくまで儀礼の範囲であり、私以外の陣営も一般的に行なっていることを側聞するとき、今後は私の陣営においては よりシビアに対応しなければならないことを思い及んだところでありました。

今後は、電話やメールで謝意を示すことが妥当ではないかと考えているところです。

 

そして これはやや心情的な面になりますが、私(私たち)が 心からなる謝意を示して出したささやかな礼状ハガキを 中身を熟読しないままマスコミに流した人の心理はいかばかりか ということを悩ましく受け止めました。

私(私たち)なりに示した誠意が 全く違う形で受け取られ(またはそこ(誠意)を分かっていたうえでのことかは知る由もありませんが)その対応として「当選御礼ではないか」と(マスコミに)持ち込んだ人は、それを遡(さかの)れば どういう気持ちで我が陣営に差し入れを持ってこられたのか…悩ましい限りであります。

 

そのうえで、今回の新聞記事の掲載内容であります。

みなさん既にご案内のとおり、あの記事の見出しは 私(倉野)が「当選御礼のハガキを出した」となっており、多くの(新聞)読者の方々は あたかも私が端(はな)から当選御礼のハガキを出したものと認識し、そのように印象づけられていることを知らされています。

そのことは ときに誹謗(ひぼう)からなる〝言葉の刃(やいば)〟として ときに私に直接向けられ、さらには 私を純粋に応援してくださった方々に対しても、いわば「からかいの言葉」として向けられていることを知ることで非常に残念に思い、また(私を応援してくださった方々に対し)申し訳なく思うばかりであります。

 

取材した記者に確認するなどしたところ、真相は下記のとおりのようです。

これまでも明らかになっているとおり(23日の記事の本文にあるとおり)私は、選挙の告示日以降にいただいた祝電・メッセージ・差し入れ等に対し、純粋な謝意をもって礼状ハガキを郵送しました。その差出し期間は 9月13日頃~15日までの間でありました。

この間 14日頃にも差し入れをいただいたことから、早急に御礼を申し上げなければとの思いから 15日の早朝(6時半頃)郵便局前ポストにおける第一回目の収函に間に合うように投函すれば その日の配達分に含まれると側聞して(早朝に)投函したのですが、残念ながらその日(15日)の配達分には含まれず 一部の礼状(15日投函分)は、土日休日を経て週明け(投開票日以降)に届いたようなのです。

で、その週明けの配達分の礼状ハガキが「当選の礼状ハガキではないか」との認識の下で新聞社に持ち込まれ、それが〝証拠〟として独り歩きを始めたようなのです。

 

記者は私に「ハガキを受け取った人が「当選御礼と思った」と言っている。」と話しました。

しかして記者は、その人の言葉を鵜呑みにして「これは当選御礼ハガキだ」と判断したのでしょうか。

しかしハガキの内容は 単に差し入れ等に対する御礼に過ぎず、配達された日にちは選挙後であっても その文中に「当選御礼」の表現は一切ありません。

また このハガキは あくまで特定な人に出された御礼ハガキであり、選挙期間中にみだりに文書図画を頒布するという行為でもなく、あの報道は過剰に過ぎたと思うところです。

 

そのうえで。

今回の新聞報道において 私(私たち)が、(これは私個人の問題に限らず)最も問題視せざるを得ないのが「記事のタイトルと本文(事実関係)の大きな相違」です。

記事を読み返していただければ判るとおり、記事のタイトルは「当選御礼ハガキを出した」ですが、本文は「祝電や陣中見舞い等への礼状を出した」に止(とど)まっています。

しかし 記事を熟読しない読者(有権者)は、記事のタイトルと本文の書き出しを見た(読んだ ではなく)瞬間に、私が端(はな)から当選御礼ハガキを出したんだ との半ば〝断定〟につながっている現実がそこにあるのです。

これは ひいては「印象操作」とも思われかねない表現方法であり、併せて 非常に恐ろしいことであると思います。

 

通報や情報提供による記者の取材。それらを積み上げたうえで文字(記事)にする作業。

そしてそこには、公(おおやけ)の場=紙面 に出来事を、いわば世間(社会)に晒(さら)すことへの責任が生じるハズです。

 

私の周辺におられる同紙の読者の中には、私のことも然(さ)ることながら、今回の報道において大きく矛盾した内容を平然と(読者さん曰く)掲載した同紙の姿勢そのものに大きな疑問(憂慮)を抱く方が少なからずおられることに気づかされます。

ある御仁は「これは あの「松本サリン事件」の初期報道と同じじゃないか。」と憤(いきどお)っておられました。

1994年に発生した「松本サリン事件」この際も 同紙は、十分な裏付けが無いままに第1通報者の河野義行さんを犯人視する報道をしていました。

いわば冤罪記事であります。

このことについては、同紙創刊150周年に際し 論説主幹が強い内省を込めて寄稿しています。 

 

 

 

寄稿文は「1994年夏 県警本部担当記者のリーダーだったとき「松本サリン事件」が勃発、その際に 150年の社史において目を背けることのできない重大な人権侵害をした。信濃毎日新聞は裏付けのないまま第1通報者の河野義行さんを犯人視する報道をしてしまった。取材力・判断力・人権を尊重する姿勢・報道記者としての自覚。すべて足りなかったと思う。」

あの時、メディアは恐怖や不安をあおるように「早く真相を知りたい」という欲求を満たすように、真偽不明の情報に飛びついては 異様な熱を帯びて報道合戦を繰り広げていった。距離を置いていたつもりが、渦の中にいた。浅はかな思い込みが急所となった。悔やみきれない。」旨を述べています。

この後 初期の報道によって犯人に仕立て上げられた河野さんは、それが後に誤報道と判った後も「悪しきレッテル」を貼られ、誹謗中傷などの言葉に尽くせぬ社会的被害を受け続けることになったことは周知のことであります。

 

さらに御仁は「事(こと)の大小はあれど、今回の報道も似たようなケースだ。あんな失敗を犯しておきながら、この新聞社は報道の機微について何ら学習をしていないのか。」

「これは、単にアンタのことに止(とど)まらない。このような先走った報道が平気で行なわれ続ければ、われわれは何を信じて情報に接すればイイのか。」と強い憂慮を示しておられました。

 

 

あの記事の掲載後、私は数度に亘って出稿元(記者)と話しをしました。

記事の掲載に至った経緯を訊き、そのうえで事実誤認・解釈の相違点について胸襟を開いて話したうえで 記事のタイトルと本文との大きな相違について指摘し、さらに 多くの読者が憂慮する「マスコミによる報道の在り方」についても言及したうえで、改めて本件について追記事を掲載することを求め 記者もそれを真摯に捉え、掲載に向け 上(デスク)と相談すると前向きな様子で電話を切りました。

 

ところが、です。

の日(27日)の夜、私のスマホにSNSが。

掲載見送りの連絡でした。

 

 

 

この決定が どのような経過で下されたのは知る由もありませんが、同紙デスクは 追記事掲載の必要性を認めなかったということでありましょうか。

 

 

・・・・・・。

前掲のとおり、私にとって今回の一件は さまざまなことを学び、また さまざまなことを感じ入る機会となりました。

その学びの内容は 多くは苦行となるものでありましたが、せめてもの救いは「理解者」の存在であります。

さまざまな経過を踏まえたうえで「その全てを糧(かて)にして頑張れ!」と言ってくださる方々の存在。これは私にとって このうえなく心強いところです。

おそらくは、今後の人生行路の中で 茨(いばら)の道も待ち受けているかもしれませんが、私自身 多くの方々にお支えいただいていることを何よりの励みとし、これからも あまねく市民みなさんのために精進してまいる決意を新たにいたしたところであります。

 

何より 目前に横たわる諸課題は枚挙に暇も無く、おろおろと立ち止まっている場合ではありません。

これからも「滅私奉公」の意気で歩んでまいります。