倉野立人のブログです。

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青木島遊園地問題から派生した「公文書」 =案の定の〝黒塗り文書〟=

2023-05-12 | 日記

長野市が 半ば一方的に廃止した「青木島遊園地」から派生した「公文書」が、これは案の定ではありますが、行政ルールに基づいてはいるものの、その実態が市民の「声」には ほど遠いものであることが露呈されることとなっています。

 

 

 

 

この 遊園地廃止問題については、長野市が行なった行政行為が あまりにも市民の「声」に背(そむ)いていたこと・遊園地廃止に突き進んだ経過が一方的で不透明であったことが大きく問題視されています。

とりわけ、市の所管課が作成した「公文書」が 騒動のキッカケとなった〝苦情者〟とのやり取り・その対応が不十分であったことを あたかも〝子どものせい〟であるかように作成されており、それが事実と合っていないのではないかと指摘されるなど 事実を積み上げるべき存在の公文書が「廃止ありきの論拠」さらには その行政行為の「つじつま合わせ」のために行使されていたことが やはり大きな問題として指摘されてきました。

そのうえで さらには、遊園地を廃止に追い込む決定打となった「地権者の都合」について、3月にNHKが市に対し 地権者との借地契約の延長をめぐる交渉の経過について記(しる)した公文書の公開を求めたところ「公文書は作成していなかった」との回答があり、またもや大きく問題視されることになりました。

このことについては「公文書は無いけれど〝職員メモ〟は存在する」などと不透明な回答がされたことから異論が噴出、結局 市は、後になって「公文書を改めて作成する」としたところでした。

 

[参考]3/23付のブログ記事

     ↓

https://blog.goo.ne.jp/kz2df777/d/20230323

 

 

市が公文書を作成したとの情報を受け、NHKが再び情報公開請求をしたところ、1月から2月にかけて行われた8回の交渉の記録は、それぞれ2行から3行程度の記載に留(とど)まっていたとのことです。
報道内容は「市議会で質問が相次いだ、交渉で 市側がどのような提案をしたのかは記載されず、誰が交渉したのかや 地権者の発言もすべて黒塗りにされていました。」とされ、さらに「これについて市の公園緑地課は「文書をご覧のとおりです」として、詳しい理由は明らかにしていません。」とのことでありました。
このことについて、NHKが行政の情報公開に詳しい識者に尋ねたところ「社会的に関心が高まった問題について、実質的な交渉の中身が検証できないのは問題だ。」と話しています。

また NHKは、交渉の内容が詳しく記載されていないことについて 10日の定例会見で荻原市長に尋ねたところ「地権者の発言について、こちらから公表するのは差し控えたい」と述べ、さらに そのうえで、相手の発言が明らかになるおそれがあるなどとして「市側の提案についても情報を公開することは差し控えた。」と説明したとのことでありました。

 

政治を揶揄(やゆ)する言葉に「のり弁公文書」というものがあります。

これは、真実を知りたい人が行政に対し「公文書」の公開を求めても、出されるモノ(公文書)は、そのほとんど(これも肝心な部分)が全て黒塗りで隠されており、その姿が白米を海苔(のり)で覆った弁当=のり弁当 のようだ、と評しているものです。

で どうやら、今回 長野市が公開した公文書も「のり弁公文書」であったようです。

しかも さらにタチが悪いことに、今回の公文書は 交渉を行なった事実だけを列挙しただけで、交渉の中身について記した いわゆる議事録にはほど遠い内容であったようです。

このような雑な記載で、果たして行政行為を将来に遺(のこ)すための公文書の役割を果たしていると言えるのでしょうか。

百歩譲って「のり弁」にするとしても、それ(黒塗り)は個人名や金額などの特定情報とし、言葉のやり取りなど 話しの流れについては正しく記録し 情報公開に付するべきではないでしょうか。

このことについても荻原市長は、まるで職員の行為を養護するように「差し控えた」を繰り返しており、ここでも向いている方が違うように見え 残念に尽きないところです。

 

で…今回の〝その場しのぎ〟ともなった公文書の扱いは、市の将来にも禍根を残す悪しき材料にもなりかねません。

それは「公文書の記録性」から言えるのです。

例えば、将来 似たような事案(問題)が発生したとき「そういえば あのとき「青木島遊園地問題があったナ」として 当時(=今回 作成した)の公文書を紐解いても、残されている内容が(今回のように)不十分なままであれば、そのとき(将来)も「当時の公文書の内容がこの程度なので それ以上のことは分かりません」となり、またもや うやむやのまま事(こと)が運ぶようになってしまう。

すなわち、全てを明らかにしたものを公文書として残さなければ その反省は将来に活かされないことになり、行政は またも同じ過ちを繰り返すことになってしまうのです。

 

このような「公文書」の扱いについて、識者のIさんは「チャットGPT」の活用に際しても警鐘を鳴らしておられます。

行政体が「チャットGPT」を活用する際において その行政体独自の・そして正確な情報の累積が行なわれなくては、(チャットを)利用する際 偏った情報や独自性の乏しい情報が基(もと)になってしまい、そのために 利用する側に十分な(正しい)情報がもたらされないままの資料になってしまうのではないか、というものです。

 

残念ながら、今回 公表された「公文書」は、行政に加担した「お手盛り公文書」と言わざるを得ないようです(しかも のり弁)。

このような 結果として不十分な積み上げが、やがて行政体を劣化させることになるのではないか と憂慮する者は 私だけではないでしょう。