人がやっとすれ違うことのできるほどの狭い歩道で、前から来る自転車に脇にどいて道をゆずっても、何の謝意も返さない人がいる。
声に出さなくても、せめて軽く会釈くらいしてほしいものだ。「ありがとう」という気持ちが、無言のうちにも一瞬にして伝わる。
人と人とが接するあらゆる場面で、会釈は感謝の言葉や笑顔に負けないほどの伝達力を発揮すると思う。
わたしが「会釈」という言葉を初めて知ったのは、小学生のときだ。担任の女性教師、O先生が授業で教えてくれたのだ。
「みんな、こんど学校に外からお客さんが来るから、廊下で会ったら会釈をしなさいね」と。
O先生はみずから軽く首を下げる所作までして、深いめのお辞儀との違いを示してくれた。
ほかにもO先生は折々に、日常生活の中の細かいことまで、さまざまなことをクラスで語ってくれた。
「『先生が来た』ではなく、『先生が来なさった(「来た』の敬語。わたしの故郷の方言)』と言いなさい」という敬語の使い方から、
「布団の上げ下ろしは親にやってもらわないで、自分でやりなさい」という生活習慣のことまで……。
わたしはこれらのことを、半世紀の余を経た今も、忘れずに憶えている。
小学生時代は誰にとっても、一生役に立つ大きな学びを得る可能性のある時期なのだと思う。
この四月から小学校では「道徳」が教科として加わった。子供たちは成績の評価もされるという。
その教科内容と評価方法をわたしは知らないが、よほど吟味されたものでなければならない。
道をゆずってもらっても会釈さえできないような人には、O先生なら決して良い評価を与えてはくれないだろう。
2018.6.18
*写真の花はルドペキア(正面)とフリージア(バラ・奥)。本記事とは関係ありません。