ゆるゆる素浪人の「気まぐれ日誌」~ 自己満足とボケ防止に、人生の雑記帳~  

そういう意味で老人の書いた「狼の遠吠え」、いや「犬の遠吠え」と思い、軽い気持で読んで頂けば有り難いです。

中国産もち米の農薬汚染物語

2008-11-20 06:35:00 | 時事・雑感
先週の参議院農林水産委員会で中国から輸入したもち米から、
基準値以上の有機リン系殺虫剤メタミドホスが又も検出されたと公表した。
そのもち米約1,550トンが食用として販売済みで、
調査もせず放置されているという。

今の日本では食の安全性が新聞に載らない日がないぐらい国民は敏感だが、
戦後から1965年頃位までは「食糧の確保」に主眼が置かれ、
食の安全性の問題は二の次だった。

狭い日本では主食の米の確保が戦後の大命題で、
特に農林省は花形行政で米の増産に躍起に成っていた。
そこへ戦後化学兵器として開発された毒性の強いパラチオンなどが、
稲作のニカメイチュウの防除に効力を発揮する事が分かり多用される。
それに呼応して毒性や残留性が強い、
有機塩素剤のドリン剤、BHC、DDTや酢酸フエニール水銀などが、
農薬として広範に使用しはじめる。

その頃にアメリカではすでに農薬に警鐘を与えた「生と死の妙薬」が出版され、
時のケネディー大統領が政治の力としていち早く取り上げ、
農薬の規制で安全体制を確立していく。

ところが日本では1954年に、
キウリを食べて3名がパラチオンで死亡する事故が発生し、
残留農薬に関心が持ち始めた頃だった。

その頃に衛生化学研究者からは、
キュウリ等へ毒性の強いドリンが土壌に永く残存し移行することが指摘された。
更に牛乳や母乳中にもドリン剤やBHC&DDTが、髪の毛には高濃度のHgが残留すると報告され、
このまま進めば総べての日本人が農薬中毒者に成ると懸念された時代でもあった。

これらを受けて厚生省も残留農薬基準設定を押し進めていくが、
当時の農薬使用サイドの農林省は、
戦後の国策としての米の増産に寄与した自信からか、
厚生省サイドの規制交渉にはなかなか高いハードルであった。

それに対して現代は飽食の時代に成り、昔とは大きく様変わりし、
国民は今までの経験から「食の安全・安心」を第一に求めるようになった。
しかし農林省サイドは過去の実績にアグラを掻き、
今の空気が読めず食の安全性に対する認識が希薄で、
大臣や行政官の強気な発言や行動に繋がって行ったのではなかろうか。

そして1968年「食品衛生法」にりんご他4食品、5農薬の基準が初めて設定される。
先進国のアメリカより遅れること、ほぼ15年後の事である。
食品の国際化に伴い全ての野菜等に農薬基準が設定されたのは、
今から2年前の2006年にポジチィブリスト制が導入され、今日に至っている。

現在は中国でも日本が経験した残留農薬問題が頻繁に起っており、
政府も重要課題として対策に苦慮している。
かつて我が国が経験した道筋を中国も又辿っている様だが、
先進国のアメリカから遅れること、ほぼ半世紀後と成る。

当時は国民の間で「食の安全性」が、
こんなにも注目されるように成ろうとは思いもよらなかった。
人生の多くを地方の食品残留農薬検査体制の確立に携った者として、
困難であったが遣り甲斐のある仕事であったことを改めて感じている。
しかし今と成っては職務上得られた「食品の安全安心」の知識が、
退職後の食生活の手助けに成っている事は事実のようだ。