幕末から自由の権へ~本田家の人々が見た時代~
日 時 2006年10月28日(土)~12月17日(日)09:00~17:00
場 所 くにたち郷土文化館 休館日 11月9日(木)、24日(金)、12月14日(木)
講演会 『多摩豪農ネットワークと本田家・小島家~新選組の事蹟を求めて~』 11月25日(土)14:00
~15:30
小島 政孝さん(小島資料館館長) 江戸時代、幕府の直轄地だった多摩地域には、いくつもの農兵組織が置かれ、生糸産業など高度の生産力を持ち、下田や横浜から新時代の風を吸収し、独自のネットワークと自治の風土がありました。その中から豪農層や名主層をスポンサーとして新撰組が生まれました。
独自の共和政体を模索していた多摩では、明治「維新」を「瓦解」と呼び、天皇と薩長閥の明治政府に反抗して、土佐と並び自由民権運動の大拠点地域になります。多摩の自由民権運動の高まりを恐れた明治政府は、「逆賊」新撰組の「殉節両雄之碑」建立を妨害し、1880年代以降は天皇を何度も行脚(7回)させて自由民権運動を支持する豪農層・名主家を潰して歩かせます。明治天皇が来訪したとき、名主家は表向き歓迎の挨拶を述べますが、街道沿いの家々はみな雨戸を閉め、無言の抗議を行ったといいます。
自由民権運動の高まりの中で、全国の自由民権グループがいくつもの私擬憲法がつくられ、それが戦中・戦後に憲法研究会によって発掘され、今日の日本国憲法のモデルとなりました。当時の私議憲法の中でも、多摩・五日市の
五日市憲法草案は、もっとも革新的なものでしたが、1968年に発見されるまで、その存在も知られていませんでした。
1880年代半ば、明治政府により自由民権運動が弾圧・懐柔され、瓦解していく中で、多摩では武相困民党事件・川口困民党事件、さらに秩父事件など武装蜂起が次々と起こり、弾圧されます。困民たちの借金棒引き運動に同情的だった銀行は全てつぶされていきます。1893年には、議会に進出した自由党の力を削ぐため、多摩は神奈川県から東京都に編入され、「都下」との呼び名がつけられました。それでも反政府の風土が収まらない多摩に天皇制のくさびを打つために、大正天皇陵がつくられ、近藤勇の実家である宮川家に土地を吐き出させて多摩霊園や明治天皇聖跡記念館がつくられていきます。
凄まじい弾圧を経て、しかしそれでも多摩は大正デモクラシー期の労農運動の拠点となり、お上に簡単には従わない「三多摩壮士」の風土は脈々と受け継がれていきます。昭和期に入って多摩が軍需工場・軍事基地が集中する一大軍事拠点とされる中、多摩切り捨ての「帝都構想」に反抗し、敗戦後も、復興「グリーンベルト構想」を断念に追い込み、米軍立川基地拡張にまちぐるみの大闘争(砂川闘争)を繰り広げました。
国立・谷保村では、下谷保の名主で村医者の本田家が自由民権運動のスポンサーとして活躍します。江戸末期の本田覚庵は、新撰組の近藤勇・土方歳三と親交があり、雑学を吸収し文人として名を知られます。その子、本田定年は自ら自由民権運動に参加し、『武蔵野叢誌』(「武蔵野壮士」にかけた)を発刊しますが、運動に挫折した後、近藤勇の首級を探す放浪の旅に出ます。
本田家をはじめ、ひとびとがお金を出し合って、明治期の初頭には潤沢学舎(現・国立第一小学校)がつくられました。この学校には、戦前・戦中を通じて天皇の「ご真影(肖像画)」を奉る「奉安殿」が存在しなかったといいます。
郷土文化館の展示では、幕末から明治期の本田家に焦点をあて、本田家に伝わる資料を中心に展示しています。近藤勇や土方歳三の写真(複写)、『覚庵日記』原本、幕末から明治初期にかけての本田家の書籍(ローマ字で「honda」と書かれたものも)、『武蔵野叢誌』、「本田定年」の文字が見える「殉節両雄之碑」の拓本などが見どころです。
闘う百姓の郷、多摩については佐藤文明著
『未完の多摩共和国』に、本田父子については菅野則子著
『江戸の村医者』が詳しいです。
同じ展示を見ても、自由民権運動に「武士道」と「兵役を含む近代国家建設」の精神を見いだす方(→
草莽・杉山奮戦日記の11/01付)もいらっしゃるようですが。