感謝と祈りといやし

熊本アンテオケ教会の神様の栄光の表れを神様に栄光を帰しながら書いていきます

信仰心の癒し2

2019年06月29日 | 恵み

 前回のブログで「信仰の暗黒時代」と表現した十年間ですが、神の恵みもありました。今回はその話です。

病気と神への不信感に耐えかねた私は、神学校も休学し、教会のスタッフもやめて普通の一信徒に戻りました。この時の私は、心痛と挫折感いっぱいで毎日「イエス様どうしてなんですか」の日々だったのは、前回書いた通りです。

 ただこの時、同時に「時間はたっぷりあるから、聖書をじっくり読めるなあ」とも思いました。

 私は元々読書好きだった事もあり、神学生になって聖書を勉強するうちに「注解書を見ながら、きちんと分かった上で(←背景を把握して)聖書を読みたい」と思うようになっていました。しかしそれには時間が相当かかります。「いつかできればいいな。でも忙しいから無理だな」と思っていたら・・・

 これをやって不信感は癒えましたか?と聞かれたら、答えは「いいえ」です。でも読書好きも益になり「これはこれ、それはそれ」で、注解書と照らし合わせつつ聖書を日々読みました、楽しかったですけど、予想通り相当な時間がかかりました(笑)。

 国内外の信仰書をあれこれ読むようになったのもこの時期です。信仰の先輩たちはほぼ例外なく苦難を通っています。そこをどうくぐり抜けたか?これがまた、見事に十人十色。何とも読みごたえがあり、かつ良い学びになりました。神をほめたたえます 

 ある時、教会で「聖書通読(創世記~黙示録迄)を20回すれば、土台ができる」というのを聞いたので、それを目指しました。

「土台って何かな?」と思っていたのですが、めでたく成し遂げたある日、聖書を読んでいると「その知恵と知識とはあなたのものになった」(第2歴代誌 1:12)という御言葉が心に強く迫ってきました。

 それ以来、現在に至るまで、人(ノンクリスチャン)に聖書をわかりやすく説明できるようになり、聖書の御言葉で【霊的、実際的な状況の判断(いわゆる「見分け」)と正確な対応】ができるようになりました。

 色々ありましたが、結論を言えば、今の教会につながっていたから前述の神の恵み(←聖書通読と全う)があり、今の私がいます。教会から離れてたらだんだん神からも聖書からも遠ざかり、神への根強い不信感だけが残っていたことでしょう。

 忍耐も苦しみもありましたが、その中で、自分の問題点に気づかされたり、学びが深くなったり、目からうろこだったりの10年間でした。いま振り返ると、当時の苦しさ(マイナス)より現在に至る祝福(プラス)の方が圧倒的に多いです。

今回は「信仰心がいやされた」というより、「信仰心が全く新しく作り変えられた」という話です。神をほめたたえます

hiromi