つい先日、[ノルドグレンの左手のための協奏曲~小泉八雲の「怪談」による]って言う曲と、マーラーの5番を聞きに行ってきました。
ピアニストは、もちろん館野泉。
かつて彼は脳溢血で倒れ、2004年に「左手による演奏会」で再起。
文字通り黄泉帰ったピアニストですね。A(^_^:
それにしても、「左手のための協奏曲」は、異様な、しかし苦痛と悲しみに満ちた美しい作品でした。
美しい?
2つに分割された弦楽オーケストラは、それぞれ違った調性でチューニングされていて、同時に鳴るとおぞましい軋みを発します。後方には悪魔の音楽をかき鳴らすために調弦を狂わせたヴァイオリン奏者たちが一組ひかえて、その脇には身の毛もよだつ音を発する楽器が。
ドラムの底の皮を外して松ヤニを塗ったロープを垂らし、革手袋でしごきながら交互に引っ張るんです。
ゆっくりと執拗にね。
で、会場は、嵐の海に翻弄される木造船の中のような音響に満たされる。
美しい?
えぇ、どうしてだか、こんなにもおぞましいトーンクラスターの嵐の中でも、音楽は何か一つ突き抜けたような美を、一瞬たりとも見失わなかったんですねぇ。
苛烈な憎悪の芯に、捨てきれない深い愛の光が透けて見えている。
小泉八雲の「死体にまたがった男」から着想を得たという音楽。
女を離縁して旅立った男が旅から戻って女の復讐の念を知り、陰陽師の助言によって、怒りと悲しみのうちに死んだ女の屍にまたがり、その怨念を解いたと言う話しだそうな。
復讐の念があまりにも強かったために、屍は朽ちることなく男の家で帰りを待っていたという。
しかし、明け方の光の後、音楽は儚くも美しい和音へと解体していく。
はたして本当に、女は、その激しすぎる怨念から解放されたのだろうか?
それは、この曲を聴いたあなたの耳だけが、答えを出せるんでしょうね。
アンコールは、シュールホフのアリア。
ペンタトニックとクラスターの、東洋的に響く小品。
マーラーの5番は、死の音楽で始まり愛に満ちた確信で終わる。
葬送行進曲の合間からチラッと聞こえてくる悪魔の笑いは、あれはやっぱり小規模なクラスターで出来ているね。
続く楽章は、富士急の「どどんぱ」よりもスリルに満ちた曲。 (>_< ;
ラヴェルのラ・ヴァルスを思わせる不穏な踊りも聞ける。
で、有名なアダージョ。
終楽章は、牧場のピクニックで昨晩の情事を思い出しながら鼻歌を歌う。>ぼか!
今風に簡単にまとめると、もてない男のプチ鬱とヒステリーとやけっぱち、それに続く濡れ場、そしてやっぱり愛は素晴らしい、セックスってステキ!そんなハッピーエンドな曲かな。
マーラーさん、ごめんなさい。
まぁ、いずれにしても、自分の誕生日に死人の音楽とか聞くのは、なかなかおつなものだ。
20歳になった頃、生きていくのをホントにしんどいと感じていたっけ、で、25になった時はやっと折り返し地点まで来たから、このまま我慢してれば何とか50歳ぐらいまでは間が持つだろうなんて考えてたねぇ。
あのころは、今思えば生きてなかったなぁ。
自分をもてあましてたのよ。
29の秋にやっと観念して、2丁目に出てきた。
これは、ホントに自分にとって良いことだったと思うねぇ。
第一、後生大事にたった一人で抱えていた悩み事が、何だかどこにでも転がってる普通の話しみたいに扱われる2丁目、いやぁ~気が楽になったのなんの。
あれから20年ちょっと。
♪年をとるって素敵なことです
そぉじゃないですかぁ~?♪
この歌のホントの意味とは無関係に、シニカルな側面ぬきで、字づら通りにそう思う今日この頃です。