テレビを観ての受け売りだが“家康の終活”について書く。
徳川の世が末代まで続くようにとの基礎固めであり、それは諸法度の制定などであった。
大坂の陣で淀殿と秀頼が自刃し家康の天下となったのは1615年5月。
その家康が没するのは翌年(1616年)4月。
この僅か1年足らずの間における家康の動きは、お見事というほかない。
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大坂から京都・二条城へ凱旋した家康は、大坂城で手に入れた金銀を朝廷へ献上。
配下の武将らへの論功行賞もそこそこに、まず手掛けたのが『一国一城令』と『武家諸法度』。
「弓馬の道もっぱら相たしなむべきこと、居城の修補をなすとき言上すべしこと」など。
『禁中公家中御法度』は「天子の修めるべきは第一に学問のこと、武門の冠位は別に定めること」など。
『宗派寺院法度』は「寺社を本山と末寺に分け幕府が本山を統括する」など。
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これらの諸法度を7月中にやってのけた家康は、8月には駿府へ引き上げている。
実に手側良い幕藩体制の基礎固めだが、それには十分な事前準備があったという。
僧・金地院に命じ、時には二人で口述など禅問答のような経過で作成されていたのであった。
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10月に入ると江戸城へ。
竹千代と国松の跡目争いには『長幼の序』で示し、三代将軍・家光を内外へ知らしめた。
また、家康の六男・忠輝の勘当にも手を染めた。
忠輝は越後高田の75万石であったが、忠輝の舅は伊達政宗だった。
そのころ世間では、とかく忠輝が政宗と組んで謀反のうわさがあった。
忠輝は改易となり伊予へお預け、最期は信州で迎えることになった。
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そんなこんなで、この年は明けた。
翌年、家康は松のうちに食した鯛の天ぷらにあたり病の床につく。
4月没、享年75。
徳川の世は、十五代将軍・慶喜まで続いたのである。