story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

出陣前夜

2006年10月20日 18時53分54秒 | 小説

「殿!なにとぞ、軍議を開きますよう!」
絶叫にも似た声だ。
日の暮れかかった城内の大広間に詰めている泣く子も黙る筈の武者達ではあるが、誰も皆、心細さに不安の表情を隠せない。
「このままでは、丸根も鷲津も落ちてしまいます!」
髭面の大男が素っ頓狂な声を上げる。
風も吹かず、蒸し暑い。
永録三年五月十八日、西暦に直すと1560年6月12日の夕刻。
場所は尾張の国、清洲である。

「いやいや、殿には篭城され、稲葉山の御助力によりてこの難儀を乗り切るお積もりであらせられるのよ」
少しは物分かりのよさそうな老臣が髭面を諌める声も聞こえる。
「誰か、灯を!」
別の老臣が叫ぶ。

すぐに小姓が灯明に火をいれる。
さして明るくない灯明に照らされた部者達の顔は、強張り、汗が噴き出し、鬼のようになっている。
「されど!されど!このままでは、丸根の者どもは!」
「多少の犠牲はやむを得ぬ事よ・・」
「林殿!まさか、おぬし、佐々殿はじめお歴々の将士を見殺しになさるのか!」
「森殿!目先のことに戸惑っておれば大なる望みは得られましょうや!」
今にも老臣二人が掴みかからんばかりになりそうなとき、静かな声が溜息と共に響く。
「じゃがよ・・今川の四万にぶつかってしまえば、織田など木っ端微塵ぞ・・」
「柴田殿・・剛の者といわれるお主にも似合わぬひ弱な・・」
「ひ弱というなら言えば良いわ・・このままどっちに転んでも、清洲は明日には火の海よ」
「しかし、何か打つ手があるから殿は黙っておいでであろう・・」
「乾坤一擲!敵をひきつけて打つしかあるまい!」
「篭城はこもるほうが負けると・・決まっておるわ」
「決まってなどおらぬ!現に毛利家では吉田の郡山城にて篭城、尼子の大軍をば苦しめ、追い払ったと聞くぞ」
「毛利の後ろには大内がいたればこそじゃ」
「我が織田にも斎藤の後ろ盾はあろうが!」
「大内と斎藤とでは役者が違うわい」

「殿!是非、篭城の軍議を!」
「いや、殿!なんとか、丸根、鷲津の将士を救援する軍を!」
「これは、武士の面目でござる。仲間を見殺しにしてまで能々とは、生きておれませぬ!」

上座にどっかりと座ったまま、充血した眼で皆を見詰めているのがこの家の主人、織田信長だ。
具足もつけず、先ほどから嘗め回すように幕僚達一人一人を見ているのだ。
・・こやつらの、どれかが今川に内応しておろう・・
誰かが敵に内応しているのは事実である。
けれど、それを口に出すようなことは出来ない。
この場で作戦を告げたところで、すぐに今川義元もこちらの作戦を知ることになるのだ。

信長は幕僚達の声を嗄らしての議論も聞かぬ風を装っている。
脇に置いた酒を表情を変えずに飲む。
元々、酒はあまり好きなほうではない。
どちらかというと、果物や菓子のようなものが好きな質だ。
けれども、今日ばかりはこの騒ぎのなかで、平静を保つために酔いが欲しかった。

もしも、平静が保てなくなれば、それは即ち、自滅を意味している。
今は、耐えるしかないのだ。
頭の中に描いた最高の作戦・・
それへの準備はここに居る幕僚達の誰にも知られることなく、秘密裏に整っていた。

「殿・・」
彼の脇の戸が開く。
奥仕えの女が、彼に目配せをする。
「お前達はここで議論をしていろ!」
そう言い捨て、女の誘うほうへ導かれていく。
ここから先は誰人たりとも入れない、信長の私的空間でもある。

「猿か・・」
「さようで・・」
「蜂須賀、生駒の者ども、うまく動いておるか?」
「は、明日、昼を見計らい、今川義元殿本陣を桶狭間あたりにて足止めさせご覧に入れます」
「方法はあるのか・・」
「生駒党のもの、村の百姓男女と入れ替わり、貢ぎ物などを義元殿本陣に届けますれば」
「うむ・・桶狭間へは、どうやっておびき寄せるか?」
「それがしが一党、街道筋にてひと騒ぎなど・・」
「相分かった!多くは聞かぬ」
「しかし、丸根、鷲津はかなり苦しんでおるご様子・・明朝まで持たぬやも知れませぬが」
「うむ・・」
「何とか、逃げる手筈をせねばと思いますが・・」
猿と呼ばれた男は、暗い部屋で良く見えぬ信長の表情を伺っている。
「致し方なし・・許せよ・・」
しばらくの沈黙の後、信長はようやく、一言だけ言った。
「かしこまりました。では、明晩、良い知らせを・・」
「お主もな・・ここがわしらの踏ん張りどころだて・・」

信長はすぐに大広間へ戻ってきた。
「殿!なにとぞご決断を!」
「今、決断が為されなば、いずれ清洲は阿鼻叫喚の炎に・・」
「なにとぞ、丸根、鷲津だけでも・・」
口々に幕僚達が叫ぶのを、黙って聞いていた彼だったが、突然、大音声で叫んだ。
「やかましい!貴様らは黙ってわしの言うように動け!」
「殿!それでは!」
「殿!戦の世、降参も決して恥じるべきものでは・・」
その声の主だけは彼はしっかりと睨み付けた。
・・林か・・
次の瞬間、信長は意外なことを言った。
「腹もすきもうした!夕餉の支度も出来ておろう!メシだ!飯にしよう!」
奥のほうから小姓達の威勢の良い返事が聞こえる。

「もう駄目だ・・」
「ああ・・やはり、殿は御館の器ではござらぬ・・」
小さな声が広まる。
「殿に聞こえると、手打ちにされ申すぞ」
「御気性だけは随分と、荒っぽい方でおざるが・・いかんせん、戦を知らぬ・・」
戦に直面しているとあって、質素な膳である。
ただ、濁酒だけは、目を見張るくらいに運び込まれた。

「飲めや飲め!まさか、敵が迫っているときは肝っ魂が縮こまり、酒も飲めぬとは言わせぬぞ!」
信長は自分への悪口が囁かれているのを知ってか知らずか、皆に酒を勧める。
それも普段にない機嫌の良さである。

「やはり、殿はただの“うつけ”者よのう・・」
「ほんに・・ほんにのう・・」
宿老のなかには、信長から恭しく杯を頂きながら、陰口をこぼすものも居る。

髭面の大男、柴田は、杯をあおりながら、ずっと膳の淵ばかり見ている。
・・いや、殿の事だ・・これは、我らを欺いて、何やら大きなたくらみを図っているに決まっている・・
彼はそう思おうとした。
数年前、信長に反旗を翻した林にそそのかされ、彼もまた叛乱の戦を起こしたことがあった。
けれども、たくらみは見事に見破られ、彼も林もその時に首を斬られるところを、信長は意に介さず、助命したばかりか今にいたるまで重用してくれている。
柴田にとって今や信長は全てを賭けることの出来る神のような存在でもあるのだ。
・・しかし、本当に殿が“うつけ”ならば・・
悪事の同僚、林を見ると、彼はもう、信長を馬鹿にしきったのか、隣のものと何やらにやにや笑みをこぼしながら話をしている。
・・わしは、殿を信じるのみ・・
林を視線から振り払い、柴田はまた杯を空ける。

普段はめったに酒を過ごさぬ信長が、大酔している。
視線も定まらぬようだ。
彼とて飲みたい酒ではない。
“うつけ”を演じるために飲み出した酒だ。
けれども、飲むうちに、家臣の情けなさ、襲い来る大軍への恐怖・・そういったものが渾然となって彼に迫ってきた。
本当は泣きたい。
あるいは腹立たしく、居並ぶ宿老たちの首でも飛ばしてやりたい・・
元来が孤独感が苦手な彼である。
けれども、何も出来ない自分が居る。
これは策略である・・そう言い聞かせるが、自分でも本当に策略なのか、自分が皆が言う“うつけ”なのか・・分からなくなっても来る。

こうしている間にも前線からはひっきりなしに伝令が到着する。
伝令はこの部屋に呼ばれないので、彼らが幕僚の酒盛りを見て愕然とすることはないが、酒盛りをしているほうは、気にかかる。
ふらふらと、信長は立ち上がった。
「お主たちも寝よ!もはや夜もふけた!寝ずの頭では良い考えも浮かばぬわ」
信長はそういって部屋を出ていった。
残された幕僚達は、もはや何を言う気もなく、ただ、柴田や森ら数人が、甲冑を被りはじめただけで、他のものは、諦めたようにそれぞれの寝所へ下がっていった。
信長は、数人が甲冑を被る音を耳にしていた。

「さいよ!」
「はい・・」
信長に“さい”と呼ばれた女は、厳しい表情をしていた。
「少し、酒を過ごした・・」
「まあ・・明日は戦だというのに・・」
「今生の名残の酒になるかも知れぬ・・過ごしても仕方あるまい」
「今生の名残?」
「そうだ」
「私にはとてもそうは思えませぬ・・殿が弱気になるとすべての努力が水の泡でございます」
「おお!そうよの!さいには、いつも世話をかける・・」
「御館様・・私は、この勤めが嬉しくて、させて頂いております」
「そうか・・そうだったな・・」
「御家臣のなかにも、少しは骨のある方もおられましょうし・・」
「そうだ・・甲冑をつけていたのは・・あれは柴田か森か・・」
「自分の身ばかり可愛いお偉方は放っておかれ、良い家臣だけで進めば良いではありませんか・・」
「そうだ・・うむ・・まさしく、さいの言う通りだ・・柴田は可愛いやつよ」

信長の足はもつれ、呂律も回らない。
さいの肩にもたれて、だらしなく奥へ入っていく。

寝所にはすでに布団が敷いてある。
「うむ・・少し休もう・・」
そう言いつつ、信長の目が光る。
部屋に入った途端、彼の表情が引き締まる。
「明日の準備は良いか?」
「はい、今川殿のどのような動きも見逃しはしませぬ・・」
「猿とは連携がなっておるか・・」
「もちろんでございます」
「義元殿の顔を見知っているものは・・?」
「武田信虎殿の家中におりました桑原甚内と申しますもの・・このものが同道いたします。明朝、熱田の宮にて、簗田からご紹介があります」
「分かった!で・・明日の気象はどうなりそうだ・・」
「明日は、必ず大雨となります。時刻がはっきりしませぬが、案外、雨の降り出しは午ごろになるかと・・」
「それまでは持ちそうか?」
「たぶん・・」
信長の表情が変わった。
子供のような笑顔になった。
「勝てるの!」
「はい!」
信長の肩から力が抜けていく。
けれども、酒の酔いが抜けない。
「さい・・よ・・」
「は・・」
「今宵は構わぬか?」
そう言われた彼女は、すこし身を捩って、それでも、小さな声でこういう。
「今生の名残でなければ・・」
信長は、彼女を正面から見据え、笑顔になる。
「おう!明日もじゃ!」
さいも、軽く笑顔を見せる。
「なら、お好きに為さいませ・・」

信長は獣のようにさいに、覆いかぶさった。
さいは声を激しく上げ、信長にされるままに、身を任せる。
彼女は、実は信長が活用している忍びの纏め役でもある。
その彼女は、前線で指揮を執っている“猿”や簗田と組んで、大仕事をしている。

蒸し暑い夜の奥の部屋で、信長はこれまでの鬱憤の全てを吐き出し、新しい運を掴み取ろうとしていた。
その彼の思いは、そのままに、彼と睦みあい、汗を吹き出させる女の白い肌に向けられていく。
「勝つのじゃ!わしは死なぬわ!」
彼は、何度もそう絶叫し、女は彼の全てを受け入れていく。
彼女にとっても新しい運・・そこを乗り越えなければ、必ず死出の旅路となってしまう峠を、今、この男に賭けたかった。
彼女は妻でも側室でもない。
ただ、仕事として信長の側に詰めているだけだ。
側室になろうと思ったこともない。
ただ・・自分の運が欲しい・・
身悶え、絶叫しながら、彼女は明日の勝利を確信していた。

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2 コメント

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ああー、いいですね。生命の孤独感や焦りみたいな... (ゆっち)
2006-10-22 17:20:39
ああー、いいですね。生命の孤独感や焦りみたいなもの、そういう行為で埋めるってアリかもしれませんね。
様々な大河ドラマで信長を観ましたが、このお話を拝見して、またひとつ、彼自身を知るキッカケになったと思います。
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ゆっちさん> (kousan)
2006-10-22 20:07:58
ゆっちさん>
ありがとうございます。
信長とその周囲の人間模様はこれで5作目になると思います。
桶狭間に関わるのは2作目・・
この時代の人々の心を思いながら、僕が描く信長をいずれはきちんと立たせてやりたいなあ・・と思っています。
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