story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

後藤先生

2021年12月25日 20時56分36秒 | 詩・散文

秋の深まったある日、久しぶりに阪急電車に乗り大阪へ向かう
ロングシートに座って向かいの車窓に広がる六甲の山々を眺める

今年も黄葉が美しい

秋の六甲山、それに阪急電車とくれば僕には思い出すことがある

あれは、写真スタジオでの修整作業をしていた時

ちょうど外出から帰社されたこのスタジオのトップ

後藤先生が店に入るなりこう叫んだ

「六甲山がすごく綺麗や!」

そして、機材の入っている戸棚を開けて
ペンタックス6×7という

ブローニーフィルムを使う大きめのカメラを取り出し

レンズを交換するのも何やら必死の形相で

巨大な望遠レンズをつけて、すぐにまた店を飛び出していった

 

美しい瞬間はあっという間だ

先生はそれを知っていて、とにかく気が急いたに違いない

当時のスタジオは阪急電車、六甲の駅ビルの中にあった

このビルの屋上はテナントの人たちが物干しなどに自由に使えるように

従業員通路から入ることが出来た

 

後藤先生の慌てぶりに、僕も手にしていたネガの修整を

いったん置いて屋上に上がる

 

広がる六甲の山々は見事に黄葉して

秋の青空を背景に屹立する様は本当に見事で

年に一度見られるかという景色だった

結構広い屋上にあの大きなカメラのシャッター音が続く

ブローニーサイズのフィルムは普通のものは10枚、長いものでも20枚撮影するのがやっとで、先生は時折フィルムを入れ替える

 

ひとしきり撮影したあと、僕の存在に気がつき

「すごいなぁ、永年、ここにおるけど、ここまで綺麗なのははじめてや」

先生は感極まったという風に頬を紅潮させて熱っぽく語る

 

この人との出会いは偶然でしかなく

僕はある写真会社の、店頭販売員として採用された

国鉄を辞めて、好きなカメラの世界で生きようとしたのだ

だが、ちょうどカメラ店はどこも社員が満たされていて

僕は「とりあえず」後藤先生のおられた写真スタジオへの配属となった

 

自分にとってカメラマンの助手、スタジオスタッフになるというのは

これは想定外で、けれど、ここの仕事は面白かった

 

修整なんてことが出来るというのは初めて知ったし

スタジオ写真の奥の深さ

後藤先生の感性と技術

スタッフの人たちの屈託のなさにすっかりここが気に入ってしまっていた

 

後藤先生はいわば「女性専科」のカメラマンで

神戸で女を撮影させたらこの人の右に出る者はいないとまで評されていた

実際、プロラボが全国で展開するフォトコンテストではよく入賞、入選していた

 

先生の評価では僕は真面目だが不器用ということだった

特に女性の写真が固いとよく言われていた

ガールフレンドに頼み込んでポートレート習作などもさせてもらっていたが

先生に作品を見せるといつも「ふ~~ん」で終わるのが常だった

 

ある日、僕が先生に命じられて残業していると

終業後の店にスタイルの良い、綺麗な女性が訪ねてきた

「おお!ありがとう、来てくれたんや」

先生は喜んで、そしてその女性に僕を紹介した

「今日のカメラマンや、注文やクレームは彼にどんどん宜しく」

などという

僕はなにも聞いていないので唖然とする

 

「業務だから心してや」

先生は改まってそんなことを言う

「今からこちらの女性をスタジオで一時間撮影すること」

「は????」

「普段、俺の写真を見てるやろ、それを君なりにアレンジしてやってみるように」

「今からですか‥」

時刻は午後八時過ぎだ

もう僕の頭は一人暮らしのアパートへの帰宅モードでもある

「そう、九時まで撮影して、そのあとは二人でご飯食べて、彼女を送ってあげてね」

「まるでデートですやん」

「大丈夫、君ごときで落ちる子ではないから」

先生がそういうと女性はきれいな声で笑う

 

その日、結局、かなり必死で女性の撮影をし

そのあと三宮のカフェバーでゆっくりと食事をした

 

当時の僕には片思いの相手があったが

「この子、いいなぁ」と思える素敵な女性だった

もちろん、僕とその子のラブロマンスなんてものは存在しない

 

数日後、仕上がった写真を見て後藤先生は

「まだ固いなぁ、でも随分、マシになったよ」

と言ってくれた

「そろそろメインでやってもらおうか」とも

それ以降、僕はカメラ販売員は諦め

スタジオカメラマンとして歩くことになる

 

写真業界を襲ったデジタル化の激流は

あまたの名店を壊滅させた

後藤先生が責任者をされていた写真会社もその例外ではなく

潰れるのはあっという間だった

 

ただ先生は、それだけでは引き下がらず

同じ阪急沿線の岡本に物件を見つけて独立された

先生の写真はお洒落なことで知られる岡本の街でも評判で

積極的に取り入れたデジタル撮影は新しい時代を感じさせ

独立したスタジオは常に活気にあふれていた

 

僕は写真会社が潰れる前に大阪のホテルスタジオに転職していて

この時は変化の激流から脇へ遠ざかることが出来た

 

だが、神戸の震災の時に人生観が変わる

「自分の好きなことを精一杯しよう」と思ったのだ

そう言えば、後藤先生はよくこんなことを言っていた

「好きな写真の世界で何年、メシが食えるか、それが人生の勝負やな」

 

やがて僕は大阪のホテルを飛び出し、震災後の神戸で独立

そして大失敗し、借金だけが残った

それでも拾う神があるとはよく言ったもので

スタジオ、出張撮影、DPE、カメラ販売などを手掛ける会社の

舞子の店の店長に招いてもらうことが出来た

 

舞子の街は後藤先生の生まれた土地で

先生はここを当時、住んでおられた塩屋、最初のスタジオがあった六甲

そして先生が独立した岡本とともに深く愛しておられたようだ

よく休日などに散歩ついでに撮影した写真をスタジオに飾っておられた

 

舞子では僕は店のすべてを任されて

それは、明石海峡大橋の開通という地元では最大級のイベントもあり

店の売り上げは、しばらく快調が続いた

けれど写真業界をさらに第二波のデジタル革命が襲う

今度は業界そのものがなくなるという恐ろしい大波だった

 

僕が店長をしていた店も不調になり

やがて僕は自分で小さな店を作って独立して

結果としてここで二度めの大失敗をする

後藤先生は非常に心配してくださり

時には店にやってきて僕の大好きな日本酒を置いて行ってくれたり

不調続きとは言っても仕事が重なることはよくあるもので

そういう時は先生が自ら応援してくれたりもした

 

だが、ある寺院の新築落慶法要の撮影が婚礼と重なってしまい、

寺院のほうを先生に助けてもらった時だ

撮影後、僕の店に愛車のRAV4でやってきた先生は

僕にフィルムを手渡しながらこんなことを言った

「もう、俺、長くないかもな」

僕はびっくりして「何かあったんですか」と訊く

「うん、肝炎がまた出てきたんや」

先生はC型肝炎に侵されていて、それもしばらくは小康状態だったはずだ

僕は後藤先生の体調が回復することを祈るしかなかった

 

今から15年前、僕は写真業界を去って、今の仕事に就いたのだが

その直前数か月、最後の賭けとして大阪の超一流ホテルの中のスタジオで

再びカメラマンとして働いていた

だが、売り上げが最優先、写真の歴史も基本技術も撮影の質も

なにもかも知らない会社幹部ではスタジオ写真の評価ではまったく話にならない

それでいて社長の息子である専務が恫喝まがいの朝礼をする

「もっと売れ、もっと稼げ」そればかりだ

名前だけは一流の、スタジオとしては三流のそこで働いていたある時

携帯電話に着信があったようだ

そのスタジオでは業務中に個人的な携帯電話に使用は禁止されていて

だから僕が着信を知ったのは帰路

大阪の街を駅に向かって歩いているときだ

 

留守番電話には後藤先生のろれつの回らない声が残されていた

 

数日後、かつての六甲のスタジオの仲間から連絡があった

「後藤先生が亡くなられた」
先生は六十代、まだまだ活躍できるはずだった

 

仲間と待ち合わせ、葬儀会場に行くと

キリスト教の祭壇の上に先生の笑顔の写真とニコンのデジタルカメラがあった

後藤先生は敬虔なクリスチャンで、またニコン党でもあった

 

数日後、意を決して僕は写真業界を捨てた

先生のいない業界にいて、だれが自分を認めてくれるのかという思いがあった

感性も技術も売り上げのためには否定される風潮に

逆らう力のない自分が悲しかった

 

後藤先生の作る写真は本当に美しかった

女性のしなやかさ、爽やかなエロスをも引き出し

写される人が自ら撮影料を支払う営業写真の世界で

僕はあそこまで「女」を写し切れるカメラマンを他に知らない

 

六甲の黄葉を頬を紅潮させて撮影していた後藤先生へ

僕は先生の弟子でありたかったのですが、写真業界を捨てて

今、街中でタクシーに乗っています

先生の愛した舞子の街で


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