story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

特急しなのに乗り合わせた人たち

2021年11月21日 22時47分36秒 | 小説

 

名古屋から乗った特急「しなの」内で僕は酒を呑んでいる。

駅売店で買った弁当はとっくに食べてしまい、ただ、焼酎を舐める。

列車はかなりの高速だが、酷く揺れるという感じはなく、ただカーブを曲がるときにやや車体が傾いているかと感じるだけだ。

 

カーブがあろうと小駅があろうと淡々と特急らしい速度で走り続ける。

 

僕は中津川から先の木曽川の見られる方向の座席をとっていて、酔い始めた頭で山や川の景色を眺める。

僕の隣の座席は空いている・・というか、列車は気の毒なほど空いている。

この列車は山中を走るのに昨今の新幹線のようなトンネルばかりではなく木曽川と山々の織り成す見事な景色を眺めていることが出来る。

 

それでも・・木曽福島までも結構長いな・・と乗り慣れている僕でも少し倦んできたころ、通路を挟んだ並びにいる夫婦ものだろうか、カップルがこちらを見ているのに気がついた。

酔っているとき、人は普段しない行動をする。

他人がどこを見ていようが関係がないが、僕はいきなりそのカップルに声をかけた。

 

「僕に何か御用ですか・・・」

カップルのうち、通路側にいる品の良い男性が返してくれた。

「いえいえ、こちらの窓から木曽川が見えないので、そっちを見てしまいました」

「ああ・・なるほど・・」

「失礼しました」

窓側の女性が美しい声で詫びた。

「たくさん空いていますし、今が空席なら松本までは空いていると思いますよ」

僕はそう言って、木曽川の見える方向の座席に移動してはと、指をさした。

「そうですよね、じゃ、そちらの座席に変わります」

カップルは僕の座席の後ろに移動した。

 

「この時代はいいよね」男性のひそやかな声が、耳に入る。

「ええ、人々は自由だし、要らぬ迷信などで誰かの命を奪う事なんてないのかも」

女性もトーンを落としてはいるが、美しい声は変わらない。

「そういえばさ、マサカドさんはどうしているのでしょうね」

「彼は今、ちょうどヒタチにいる頃じゃないかな」

「ヒタチか・・まぁ、彼の場合はそれなりに人望も伝わっているし」

「それは、ヨシナカさんもですわ、貴方などはとうに悪者ではなくなっているのだし」

「いやいや、悪者だよ・・きっとこの時代でも」

不思議な話をする二人。

だが僕は酔っていて、焼酎カップも三本目だ

 

列車は車体を傾ける。

木曽川の水面が大きな窓に広がる。

「お客様に車窓のご案内をいたします」車掌の肉声放送だ。

「木曽川が左の車窓に美しく見えておりますが、まもなく、この区間で最も美しい寝覚ノ床がご覧いただけます、あと5分ほどで左の車窓にご注目ください」

 

「おお!」

男性のほうが感嘆の声を上げている。

「ここは恵那に出るまで七日もかかったところなんだ」

「そうですよね、でも・・私はここを縄で縛られて歩かされた・・」

 

寝覚ノ床は高速で突っ走る列車から一瞬見えてすぐに消えた。

 

「そろそろ木曽福島ですね」

「ああ、なんとかこの時代では僕は名誉を戻せそうな気はする」

「いいですわね、私はなかなか」

「また機会があれば会おうよ、次の時代には君の、モミジさんの名誉が回復していることを願っている」

「でも、次の時代なんてあるのかしら」

「どういう意味だよ?」

「戦争と温暖化、公害、抑圧されなくなった人たちの勝手気ままな振る舞い」

「日本が、いや世界が次の時代まであるかどうか分からないってことか」

「人間はいつも勝手気ままなもの、でもこの時代は人間が自然界をも蹂躙していまっていることが私には不安なの・・滅びてしまわないかと」

「自由にも産業や経済の発展にもその裏に大きな不安が忍び寄るという事だな」

「そうです、私の居場所の鬼無里ですら、ここ最近は自然破壊が酷いですし」

「案外、木曽のほうが昔の面影をとどめているのかもな」

「木曽は高速道路の道筋から外れましたものね」

 

やがて列車は木曽福島に着いた。

「じゃ、たぶん、どこかで合流されるだろう三条の方様に宜しく」

男性は明るくそう言い、列車を降りていく。

列車全体では数人の客が入れ替っただろうか、その中に件の男性もいた。

ホームに降りた男性は僕に軽く会釈をした後、車内に残った女性に手を振る。

 

僕は先ほどまでの二人の小声での会話が気になって仕方がなかった。

男性が降りた僕の後ろの席には女性だけが残っている。

 

思わず立ち上がって後ろの席の女性を見た。

「あの・・なにか」

女性が不安そうに問いかけてきた。

非常に美しい女性だ。

「先ほどまであなた方がお話していたのが聴こえていて、とても興味を抱いたものですから」

「ごめんなさい、煩かったですね・・」

女性はそう言って詫びた。

「いえ、そうではなく、お話の中身を聴いてしまっていたので・・」

「本当にごめんなさい・・でもお話にご興味がおありになられたのでしたら、暫くご一緒にいかがですか」

女性は自分の横の空いている座席をさす。

 

どうせ目的地に着くまでは何もない一人旅だし断る理由もなく、美女の横に座れるのは悪いことではない。

 

僕はまだ持っていた未開封の焼酎カップを彼女に差し出しながら彼女の横に座る。

「あら・・」

「このような下卑たもので失礼します」

「いえいえ、お酒は大好きなので」

彼女はそういうとすぐにカップのふたを開けて、僕のカップと合わせてくれた。

「ところで、さっきの男性の方と不思議な話をしておられましたね」

僕は思うところをそのまま聞いた。

「まるであの男性の方が木曽義仲であるかのような気がしました」

すると彼女は、一瞬、視線を窓の外にやり、やがてカップを口に運びながらこういう。

「信じてくださらないかもしれませんが・・」

「いや、今の僕なら何でも信じますよ」

「先ほどの方は木曽義仲公なのです」

「それでは、お話の中に出てきたマサカドという方はもしかすると・・」

「そう、平将門様、新王様です」

「なるほど、そこは予想できました・・では、貴女は」

彼女は僕を見つめ、そしてまた視線を窓外に移す。

「私ですか・・・」

「さほどの方々と同じ立場におられるというのは尋常ではありません・・・きっと名の通った方なのでしょう」

 

女性は間をおいてから語り始めた。

「私たちは歴史の中で悪人と評された者たちの集まりです」

「その方々がなぜ今ここに」

女性はこう語った。
・・時折、集まってはその時代で名誉回復ができないか動いているのです。

ですので、例えば水戸光圀公が楠木正成様の評価を覆したと見えるように、空海上人が没後70年後に再評価されたように、本当は評価されるべき方々が悪役にされているのが覆るときがありますでしょう。その時こそ私たちが動いている時なのです・・

「では、もう一度伺いますが貴女は?」

「私は紅葉(もみじ)と申します、姓は伴(とも)です」

「紅葉さんですか・・歴史上にお名前がおありなのですか」

「はい、この度、義仲公、将門公にお誘いいただきましたが、なかなか私の名誉回復は難しいと、京を訪ねて実感したところです」

「木曽義仲公、平将門公にお誘いいただけるなんて、貴女は一体、どのようなお方なのでしょう」

「先ほども申し上げましたように紅葉(もみじ)と申します」

そして続けて女性は話した。

「私は鬼だったのです、鬼にされたのです・・将軍の子を宿したからでした。嫉妬から鬼と言われ、信濃国水無瀬へ流されたのです」

「失礼ながらよく分かりませんが・・」

すると女性は少しため息をつき、窓の外を眺める。

「では、貴方はこの時代で古典とされる紅葉狩をご存じですか?」

「古典といわれるほどのものに詳しいわけではないですが、歌舞伎の舞台ならそのお話は知っています」

「でしょうね、あのお話の中で語られた鬼が私です」

「鬼ですか・・たしか、更科姫に化けていたとされる・・・」

「あら、よくご存じですわね、その更科姫とされるのが私です」

「なんだか、ピンとこないですね」

 

列車は時折、車体を傾けながら木曽路を進む。

やがて木曽川は細くなり、さほど高くない山々を抜けると広い盆地に出る。

 

「更科姫というのは、のちの時代の方々がつけた名前、本当は紅葉(もみじ)と申します」
「紅葉さん・・」

「はい、紅葉を狩り、討ち取ったから紅葉狩・・・」

「え・・だとすると、紅葉狩の言葉の源は」

「私なのです」
「テレビでこの間、見ましたけれど貴族たちが眺めに行くのは憚れる、それゆえ、狩という言葉を使ったからと」

「この時代の学者がそう仰れば皆さん信じますよね」

「確かに」

「その番組では花見や雪見は家でもできるからと言われませんでしたか?」

「はい、まさしく、それゆえ、秋の紅葉だけは「狩る」ことにして外に出かけていたと」

「じゃ、私のいた鎮守府将軍・源経基さまのお屋敷にも楓の樹は数本ありましたよ」

「あ・・・」

「桜の樹があるほどのお屋敷、楓がないのは却っておかしいですわね」

「なるほど」

「貴族の言葉の綾とか風習とか、そういってほしいのは、この時代では誰なんでしょう」

「あ・・」

大きな力が動いている・・僕はそのことを悟った。
大きな力の前では一人の女性の名誉など、ごみのようなものでしかないのだろうという事はすぐに理解できた。

 

列車はやがて松本に着いた。

いくらかの乗客が入れ替わり、僕たちが座っている座席の通路の並びに、これまた美しい女性が息子と思われる青年と腰かけた。

「三条の方様、お久しぶりでございます」

紅葉と自称する女性がその女性に声をかける。

青年も恥ずかし気に挨拶をしている。

「紅葉様、お久しぶりですわね・・ご成果はいかがでしたか?」

三条の方とされる女性が答える。

「まだまだ、私の名誉の回復には程遠いです」

「そうですか、私もこの時代では難しいです‥なにより書いてくれる作家の先生が見つかりません」

「井上靖先生、新田次郎先生、吉川英治先生、津本陽先生まで・・もう・・この時代だといらっしゃらないですものね」

「そう、特に新田次郎先生にはぜひとも、私の名誉を回復してくれるようにお頼みしたかったのですが」

間に挟まった僕ではあるが、大体の事情は察知できるようになっていた。

「あら、こちらの殿方は・・」

「あ、私たちと関係のないこの時代の殿方です」

「あら、そうなのですか、こんなお話お聞かせしてよろしかったのかしら」

「よくわかりませんが、いただいたお酒が美味しくてついつい」

そう言って紅葉さんは笑う。

三条の方さんは「やってしまったわね」なんて呟きながら苦笑している。

 

「特急あずさ、とても気持ち良かったです・・甲府から松本まであっという間」

そう言いながら三条の方さんは、僕と紅葉さんにいきなり、カップ酒を薦める。

「七笑」とある・・木曽の地酒だ。

「松本の駅で求めてまいりました、義仲さんがいらっしゃると思っていたのですが、あのお方は木曽福島で降りられたのですね・・せっかくなのでこの時代のあなたもどうぞ」

三条の方さんはそう言いながら僕にもカップ酒を持たせてくれた。

「どうしても、明日に地元の寺院で自分の仕事への講演会があるとかで、降りていかれましたわ」

「あのお方らしい…本当にせっかちなお方」

三条の方さんはふっと笑いを漏らす。

美しい女性二人に挟まれて僕はカップ酒を開けて流し込んだ。

「ああ・・美味い!」

思わず口に出る。

「木曽は昔から酒の良いところ…本当にこの時代のお酒は美味しゅうございます」

紅葉さんも一口飲んで感嘆しているようだ。

「私はこのお酒の地元、木曽を本当に貧弱な供で何日もかけて通りました」

三条の方さんは感慨深げだ。

「まだ、ご婚礼ですから宜しいではありませんか・・私は縄で縛られて・・」

紅葉さんは一瞬、口元を抑えた。

「婚礼とは言っても、山のまた山、そこへ無理やりに嫁がせるわけですから」

「三条様のお父様にもご事情はおありでしょうし」

「あの頃は父を恨みましたわ・・・でもその父も大内殿の内乱で亡くなりましたし」

「ほんと、あの時代は無茶苦茶でしたわね・・でも、三条の方様は少し前にかなり名誉をご回復されていますね」

「NHKさんのおかげですわね・・新田先生の作られた私のイメージを随分、元に戻してくれました」

「だったら、今更ご苦労などされなくても・・」

「それはそうですが、なかなか一度ついた悪い印象というのは歴史から拭えないものです・・そして息子の義信などまだまだ・・」
「でしたわね・・息子さん、ほんと誤解ばかりで」

紅葉さんの言葉に息子、義信が言葉を選びながら返す。

「ありがとうございます、いずれ時代がきちんと評価してくださると僕は信じています」

息子の言葉に二人の女性が頷き、改めて三条の方さんが紅葉さんを見つめなおす。

「ですが、僕のみならず、義元公まで「短足で馬に乗れなかった」なんておかしなことが平気で信じられているのですから」

「それはもう、冗談に近いですわね」三条の方さんが残念そうな表情をしながら言う。

「でも、義元公が短足というのはこの時代の人のごく普通の常識のようで」

義信君も諦めたかのように声を落とす。

僕はそこで口をはさんだ、義元公というのは今川義元に違いない。

という事はこの母子は武田晴信の正室の三条の方と、その長男で家督を継ぐはずが夭折した、あるいはさせられた武田義信だろうか。

「あ、今川義元公のその評価ですが、それは作家先生の誰かが描かれたことでしょう、そういう意見もあるのですが、一般的にはそのようなことにはなっておりませんよ」

「そうなんですか、僕はてっきりこの時代の皆さんがそう信じておられると勘違いしていたのでしょうか」義信君がちょっと驚いたという表情をする。

「たぶん、そう思います。立派な武将であったと言われる人のほうが多そうですよ」

それを聴いて青年は安心したようだ。

安心というのも変なのだが、この人たちは歴史の彼方の異世界から来たのだろう。

 

ふっと、三条の方さんが紅葉さんにこれだけはどうしてもと…話し始めた
「紅葉様、私はお能が大好きでしたから、その中で描かれた、貴女様、紅葉様のことをなんとしてもこの時代の皆さんに分かっていただきたくて」

「ありがとうございます・・私の場合はすべてが逆に作用しているようで・・水戸光圀公が私のことを書いてくださればよかったのにと未だに思うのです」

「川端康成先生はもう少しでしたわよね」

「そうなんです、鬼無里には来ていただいたのですが」

 

僕はまた会話に割って入ってしまう。

「みなさん、なんだかこの世・・現世の方々ではなく歴史の彼方から来られているようですね・・失礼な思い違いかとは思うのですが」

「現世の人でもあり、現世の人でもなし、想いは全く現世なのですが」

三条の方さんが俯いて小さな声で言う。

「想いというものは体が消えても時を経ても、消えることはないのです」

紅葉さんが真剣な表情で僕を見つめる。

特急「しなの」は先ほどまでとは変わり、篠ノ井線の曲がりくねった線路でたびたび速度を落とす。

見事な北アルプスが車窓に広がる。

「まだありますわよ」

三条の方さんが悪戯っぽくまたカップ酒を配ってくれた。

今度のは「渓流」とある。

呑んでいるうちに、現世も過去世も何が何だかどうでもよくなってくる。

生きていることも過去の者になったあとのことも、なんだかあまり違わないような気がする。

本来、生死というのはそういうものかもしれない。

 

「私、どうしても紅葉さんのところの「東京三条(ひがしきょうさんじょう)を訪ねたくて・・この度はいい機会なんですの」

三条の方さんが紅葉さんに改めて言う。

「ただの山の中ですけれども・・私がいたころから今でもずっと」

紅葉さんは恥ずかしそうに答える。

 

「明日、資料館でのお話、楽しみにしております」
「ありがとうございます、ぜひよろしくご協力お願いしますね」

「ちょうどよいご縁ですから、そちらの殿方にも一肌、脱いでもらいましょうよ」

三条の方さんが僕を指さす。
義信君が笑ってみている。

「ね、あなた、明日のご予定は?」

「え?明日ですか・・朝から長野市内で個人的な打ち合わせがありますが」

「じゃ、午後だったら大丈夫ですよね」

「ええ・・ちょっと観光地巡りでもしようかと」

「でしたら是非、鬼無里観光にいらっしゃいませ、そこに私たちもおりますので」

「あ・・はい」

「まぁ、そこまでお会いしたばかりの方に無理強いは」

紅葉さんが横から助け舟を出してくれる。

けれど「こういうご縁は必然なのですよ、紅葉様」三条の方さんにぴしゃりと抑え込まれてしまった。

 

いつしか列車は姨捨の絶景を見る場所を淡々と走っている。

「きれいですね、善光寺平から上田平」

義信君が呟く。

そろそろ日が傾いて、遠くの盆地はオレンジに染まる。

「そう、ここをきれいだと眺められるこの時代の人がどんなに私には羨ましいか」三条の方さんが呟き紅葉さんが頷く。

僕はいきなり放り込まれた話の中心から解放されホッとしている。

 

「僕、明日、鬼無里にお邪魔します・・よく長野駅前で見るあのバスに乗ればよいのですね」

僕はその場の雰囲気は少し和んだのを感じ、そういった。

「申し訳ないですね、貴方も歴史がお好きなようですし、決して無意味な体験ではないかもです」

紅葉さんは申し訳なさそうに言ってくれる。

「ええ、でも随分酔いました」

僕がそう口走ると「あら、私も酔いましたわ」三条の方さんも言う。

「母上、普段、お酒はもっと強いではないですか」

義信君が笑いながら宥める。

「いえ、ちょっと力を入れすぎました、この時代の女性の身体って結構、柔いですわ」

「まあ、あまり無理をなさらず」

紅葉さんが苦笑しているが、すぐ隣の僕からはクスクスと口を押さえて笑う横顔しか見えない。
だが、美しい女性ではある。

「紅葉さんはその鬼無里におられるのですか?」

「はい、普段は鬼無里の松巌寺におります、そこは先ほどの義仲さまも関係されるところなのですが・・」

「義仲様は木曽が明日の午前中、午後は鬼無里だと思っておられるのでしょう」

また三条の方さんが口をはさんできた。

「あのせっかちな方は明日、来られるかどうかわかりませんわ」

紅葉さんは苦笑しながら返す。

「三条の方さんも鬼無里に行かれるのですね」

僕は改めて訊いてみた。

「この度はまたとない機会だと捉えております。わが三条家にもどうやらご縁のある土地のようです、しかとこの目で見たいと思います」

列車はゆっくりと長野駅へ入っていく。

 

北陸新幹線がすれ違い東へ向かう。

特急「しなの」はいつもの通り、車体をくねらせていく

さっきの三条の方さんと義信君母子は、すでにデッキへ向かって通路に立っている。

「せっかちだなぁ」僕が苦笑すると紅葉さんが「いいのですよ、あのお人は・・」そういって笑った。

 

列車が停止する寸前に僕は立ち上がった。

斜め前の座席の荷棚にあげてあった紅葉さんの荷物を降ろしてやり、彼女に渡す。

「ありがとうございます」

紅葉さんは長いまつ毛の美しい笑顔を見せてくれる。

明日は鬼無里らしい・・・

「ね、紅葉さん」

「はい?」

「僕、小説を書きますよ」

「え?本当ですか・・」

「はい。タイトルも決めました」

「どのような・・」

「「鬼無里の姫」です、明日はいろいろなことをお聞かせくださいね」

車両の出口へ向かいながら僕はこの美しい女性を自分のキーボードで蘇らせる楽しみを思う。

 

「鬼無里の姫・・もったいないです・・」

紅葉さんはそう言いながら少し俯いて出口へ急ぐ。

「でも、どこか販売してくれる当てもないですし大文豪でなくて申し訳ないですが・・」

駅のホームでは立ち食い蕎麦の香りが漂っている。

「もしかしたら、私たち、いい出会いだったのかもしれません」

ホームを歩きながら紅葉さんが呟いた。
今夜、ホテルで彼女のことを調べてみよう、そして明日の講演会に臨んでみようと僕は考えている。

「あの、明日の講演会の題名は?」

気になって訊ねた。

「はい、歴史での悪名高い偉人たちの再評価を考える・・です」

紅葉さんはふっと寂しそうにそういった。

「私への評価は変わりません、たぶん」

長野駅の改札へ美女と並んで歩きながら僕は自分も少し悲しくなるのを感じていた。

 

 


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