story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

裕子さんのこと

2024年07月30日 21時53分56秒 | 詩・散文

 

 

四月三十日の夜、タクシーの運転を少し休もうと公園脇でクルマを停める
ふっと、窓を開けて夜の空気をクルマに入れる
スマホに何か着信があった
ボタンを押すとビデオチャットが着信している
珍しいことだ

出ると、女性の横顔が写っている
「こうさん、聞こえますか」
裕子さんの声だ
「聞こえるし、横顔が見えるよ」
「あら、画像も行ってるんですね、わたしには分からないから」
「タブレットやろ?画面に見えているやろうに」
「よくわからんのです、なんだかお話したくて」
「なるほど」
「今いいですか?」
「ちょうど休憩に入った時やし、短時間ならいいよ」
「嬉しい、声が聴きたかったの」
「こちらの顔も見えてるはずなんやけど」
「駄目なんですよね・・わたし、こういうの」
「SNSでブイブイ言わせてるくせに」
「興味のないことは覚えないんですよ」
「はぁ、なるほど」
「どうですか?わたし綺麗に写ってますか」
「きれいやけど、病院着の胸元はだけて胸が見えてるよ」
「あら・・・」
「ちょっと直したら」
「いいです、今日はサービスしときます」
「それはありがたい、美女のセミヌードつきや」
というほど見えていたわけではなく
胸の稜線がゆったりとしている部分がそれとなくわかる感じだ

「今日、娘の結婚式に行って、先程病院に帰ってきました」
「ご苦労さん、しんどかったでしょう」
「いえいえ、主人が「ひのとり」展望席を取ってくれて、快適に往復できました」
「それは良かった」
「我が家で「ひのとり」に乗っていないかったの私だけだったんですよ」
「初乗車ですね」
「嬉しかった~」
如何に特急「ひのとり」でも、乗ってしまえば快適この上ないだろうが
難波へ行くまでにあなたの家からはJRと地下鉄を乗り継がねばならない

先月、病院から自宅への三日間の外泊をした時に
いきなり、神戸舞子に現れて僕を驚かせてくれた貴女だけれど
その時はもう、殆ど歩くのも難儀なようで
舞子駅へ迎えに行った僕のクルマから降りることなく
ただ僕の案内する桜の名所を車内から感嘆してみていた
今年の桜はことのほか長生きで
ちょうど裕子さんが舞子に来られた時は雨の前日で最後の花見の日だった

花は美しかったが裕子さんは弱り切っていた
「焦らずとも良いのに・・」
そう言った僕の声を遮って「会いたかったの、無性に」と少し笑ってくれた
桜にも舞子の景色にも、そして僕にも会いたかったそうだ

今宵、あなたは僕に無理にでも声を聴かせたかったのだろうか
いや、僕の声を聴きたかったのだろうか
自分の命を知っていたのだろうか

「娘さんの写真、綺麗やったね」
「ありがとう・・自分の目で見てもほんと、素敵な新婚カップルでした」
昼間、「ひのとり」車中から送ってくれたのだろう
新郎新婦の写真が二十カットほどもSNSで送られてきていた
「行けてよかったね」
「はい、本当に行けたことが信じられない、行けたんだって思いました」
病院着の合わせ目からの胸の稜線が眩しい

津市のホテルがいかに良かったか
桑名市の史跡になっている建物での結婚式が如何によかったか
娘さんを生んで本当に良かったと、心の底からのその思いを伝えてくれる
夜遅い病院の個室、窓の外は吹田操車場だ
「あ、貨物が行きます」
彼女は鉄道ファンでもある
「何が牽引して(ひっぱって)る?」
「たぶん、銀色のゴトー(EF510)さんですよ」
北陸方面からの貨物列車は赤、青、銀の三種の色に塗り分けられた同じ形式の機関車が牽引する
中でも銀色が二両しかなく一番珍しい
「それは芽出度い」
「わたしね、感謝したいことがあるんです」
「感謝?」
「六年ほど前かな、わたしが仕事で揉めて落ち込んでいた時」
「そんなことあったかな・・」
「明日、ドクターイエローが走りますよって、こうさんが教えてくれて」
「何となく思い出してきた」
「はじめて西明石駅へ行ってドクターイエローに逢えた」
「そうやったかな」
「あの日から何か自分に自信がついたのです」
「その前から自信たっぷりに見えていたけど」
「表向きはね・・でもメンタルはぐちゃぐちゃでした」

その後しばらく話をして、それじゃと、またねと、電話を切った
うす暗い部屋の中の白い横顔がいつまでも心に残っていく

五月九日まではお互いいろいろなメッセージを送りあったけれど
ちょうど僕が地元神戸での大きなイベントに参加することになり
結構忙しい状況が続いて折角くれたメッセージへの返事も
短文の短いものばかりになってしまっていた

五月九日、明け方に「おはよう」と
可愛い漫画スタンプでLINEがあった
続けて「おはようございます、生きてますよ」
僕の返事は「入院中ですか?ですよね」だ
「入院しております」
「治療の方向性はどうなりましたか?」
数日前に医師に家族ともども呼ばれると聞いていたからそのことを伺ってみた
「今日は、吹田市の介護保険認定係の方が来られました。治療、どの向きで行くのでしょう・・。」
「あら、その話はなかったのですか?」
「おいおい、あるとは思います。輸血については、うけてくれる在宅医がいませんから輸血の必要なうちは入院でしょうと」
「なるほど、しばし病院住まいですか」

この医師から治療方針の説明があると言っていた時
あとで知ったのだが医師は彼女のご主人に「十日は持たないでしょう」と伝えていたそうだ

イベントを終えた五月十一日、その日の夜
D51を守る会のグループチャットに
たったひとこと「日の経つのは早いものです」と書き込みがあった
しかし、それ以来、なにをしても返事が来なくなった

五月十九日、あまりにも裕子さんと連絡が取れないので
ご主人と以前、何かの折に交換したメールアドレスがあったのを思い出し
お伺いの文を送ってみた
「ご無沙汰いたしております。奥様のご様子は如何なのでしょうか。誰も連絡も取れず、仲間内で心配しあっています。携帯も切られているようです」
翌朝、着信に気がついた
「五月十二日、母の日に逝去いたしました。葬儀は十五日に家族のみで行いました。生前のご厚情に感謝申し上げます」
一瞬、自分の息が停まったかと思った
裕子さん、逝ったの・・・・
嘘だろ・・
嘘だろ・・

この大きな喪失感は僕がこれまで味わったことがないものだった
会いたい、なんとしても会って
イベントでぐちゃぐちゃだったあの時のことを詫びたい
僕らの活動をものすごく気にしてくれたのに

裕子さん、どうかどうか幽霊になってでもいいから出てきてくれないか
まだまだ話がしたいんや

仕事中、彼女が大好きだった明石海峡大橋を見て
僕の口から独り言が漏れた

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