story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

知惠子抄

2020年12月26日 06時23分16秒 | 詩・散文

 

今の上皇・上皇后陛下のすぐ脇に緊張した表情で

けれど何かを発言しようとしている若き日のあなたが写っている

両陛下は皇太子・皇太子妃時代のようだ

 

ほかにも紙袋や使いきった化粧品などのケースを片付けると

いろいろな写真が出てきて

それは、若き日のあなたがパレスチナへ行ったことの記録写真だったりする

 

若き日のあなたは面長で細身、美しい女性だったようだ

ようだ・・と書いたのは僕は生きているあなたに出会うことがなく

あなたが亡くなったことであなたの家の処分を巡り

困り果てた長野県小諸市の担当者が、唯一の血族である僕を探し出した

 

突然届いた固定資産税の督促状に驚いた僕はすぐさまその市役所へ電話を入れた

「お電話いただけると信じておりました」

実直そうな役場の担当者の声が聞こえる

そこからこの半年余りの僕の苦闘が始まった

 

正直、あなたの存在は知らなかった

僕にとって祖父である、あなたのお父さまのことは知っていた

だが、僕は本当の「じいちゃん」は栃木に居たものとばかり思っていた

それが突然の長野県だ

 

長野といえば鉄道ファンである僕の若き日

そこの電鉄を巡りに訪れたことがあって、この小諸を僕は通っていた

そのころ、まだ祖父は存命で

あなたは最も女性が輝く年代のキャリアウーマンだったのだろう

 

あなたの父親が亡くなり、数年して母親が亡くなり

そして六年前に父違いの兄が亡くなった

一人になったあなたはすでに定年を超え、十分すぎるほどの年金を受給して

何不自由ない暮らしをしていたと周りには見えていたのだろう

 

だが、ある頃から精神に変調をきたした

何かに追われている

何かが迫ってくるその恐怖

 

何も迫ってくるものなどない静かな町で、あなたは何かにおびえ

時折、近所の家に逃げ込んで助けを求めることもあったそうだ

 

それでも昼間のあなたは陽のあたるウッドテラスに出て

好きな花に囲まれ時にはすぐ近くに聳える浅間山に向かって背伸びをする

たまに、家の傍を走るローカル電車の音が響いたことだろう

好きな音楽、好きな英文学のCDが明るい部屋に流れ

自分で煎れたコーヒーの香りと味を楽しむ

パレスチナに単身乗り込んだほどの度胸のある・・あなた

誰しも周囲の人は強いあなたをイメージして

あなたの心のひだに気が付くことはなかった

 

この地方では朝晩には氷点下になることもある十月の下旬

何かから逃げようとクルマを走らせたあなたは

どんどん南へ下がっていき

高原別荘地で有名な小海、清里を越え

ウィスキー醸造で知られる山梨県白州の

小さな小学校の先の行き止まりにクルマを突っ込ませてしまった

すでに夜になっていたはずだ

 

スマホで助けを求めることも出来ぬくらいに精神が錯乱していたのだろうか

財布も免許証も置き去りにされたクルマの中だ

 

クルマを下りたあなたは現地では冬の始まる季節ゆえ

寒いはずの夜の藪に入り込んだ

そこは今は使われていない農業用の林道

藪に覆われ昼間だとたぶん誰も立ち入る勇気が持てないところ

あなたは何かから逃げようと必死でそこを歩いた

 

靴などすぐに脱げてしまったし、靴下も破れてしまった

それでも逃げよう、逃げなければとあなたは藪を歩いた

 

やがて広いところに出る

それは田圃であったが、そこはあなたには楽園の入り口に見えたのだろうか

逃げ切った

そう安心したあなたの目は

月齢二十六のか細い月を見つけることはできただろうか

 

そこは釜無川の清流にほど近く

川のせせらぎがあなたの耳に入ることはあったのだろうか

 

刈り入れのとうに終わった田圃にあなたは倒れ込んだ

あと少し、あと二十メートルも歩くことができれば

人の通る道だったというところで

 

だが、あなたはそこで安心して空を見たのかもしれない

ここなら誰も追ってこないと

 

我が叔母、知惠子様

なぜに僕がもっと早くあなたに出会うことがなかったのか

出会えればそれこそいろいろな面白いお話を伺えたのに

出会えればたとえ僕の様なつまらない甥でも

あなたの心の隅で冗談でも湧かせることができたのに

 

今、あなたの居宅の窓から

明るくそびえる浅間山を眺めている僕がある

 

*知惠子の母方親族の方々、隣保の方々、長野県小諸市役所の方々、山梨県警北杜署の方々にこの度のこと、深く感謝し御礼申し上げます。

(銀河詩手帖第303号掲載作品)


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