story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

テールライト

2005年02月07日 15時01分00秒 | 小説
僕はイライラしていた。
やっと買った中古のスプリンタークーペを真っ赤に塗装し、太いタイヤをはめ込んで、仕事が終わると意味もなくエンジンをふかして突っ走っていた。
カセットデッキをつけ、スピーカーを増やし、気に入っていたバラードを大音量でかけていつも突っ走っていた。
ここは昭和58年の播州・加古川の町外れだった。

昨日、年下の友人、中村が同じような仲間がたむろする喫茶店に現れて、僕と村下の前にマッチ箱を投げてよこした。
村下は火のついていない煙草をくわえていたから「サンキュー」と言いつつ、そのマッチを取って火をつけ、改めてマッチ箱を見ていた。
村下の顔色が変わった。
「なんや・・」
僕は気になって村下の持っているマッチ箱を覗き込んだ。
・・ホテルテキサス・・
「おう・・中村・・このマッチは?」
村下の横に腰掛けた中村は「行ってきましてん」
そう答えてにやりと笑った。
「おうおう・・ええなあ・・」
そう言ったまま、村下は黙り込んでしまった。
僕は何のことか分からず・・「行ってきたって・・?」
「あほやなあ・・彼女とええことしてきたんやんけ・・」そう言って村下は煙草の煙をプウっと思い切り吐き出した。
「よかったでっせ・・」
中村がさらにそう言う。
「ふうん・・」僕はまだ何が何やら分からずに、相槌を打っていた。
中村が来る前、僕と村下の話題はトヨタがいいか、ニッサンか・・お互いのクルマをまるでその二つのメーカーの代表であるかのように会話をしていたのだ。
けれども・・どちらも中古車だった。
村下はニッサン・ローレルのクーペタイプで、大きくて堂々とした車だったし、僕のは当時としては小型スポーツの一つだったけれどもいずれも4年落ちの古いクルマだ。
「ほんまに良かったですわ・・」
「なにが?」僕の質問に、中村はビックリするようなことをいった。
「チチでんがな・・オナゴはよろしいで・・」
僕がビックリして、中村をまじまじと見ていると村下が「そらそうや・・!あれはええもんやからなあ・・」
いきなりそう言って相槌を打った。

僕たちはクルマを走らせ、ほとんど意味のない会話をし、時として「女欲しい」と叫ぶことはあっても、そこから出ることのない遊びが長く続いていたのだった。
僕と村下は同い年で二十歳、中村は二つ年下で18だった。
・・先を越された・・それは屈辱だった。
中村はクルマもトヨタクレスタの最上級車種の1年落ちを免許を取得してすぐに無茶なローンを組んで購入し、それで遊びまわっていた。

今日はその中村が彼女を連れてくるという。
いつもの喫茶店ではなく、居酒屋で会うことにした。
僕は居酒屋への道をぶっ飛ばしていた。
エンジンを思い切り回転させて、いきなりローギヤに放り込む・・クラッチペダルを離すその前にクルマの後輪は勢い良く回転し、派手な音を立ててスリップする。
信号がまだ青になる直前、クルマは一気に飛び出した。
2車線しかない道路を思い切り限りなく加速する。
2速3速そして5速・・加速はすさまじく、一気に時速100キロにもなる。
次の信号が見える。赤だ・・ここは小さな道路との交差点・・僕は思い切りクラクションを鳴らし、減速することなく一気にそこも通過する。
狭い道だ。景色が流れるというよりも飛んで行く。自転車が走っている横をさっと通過し、前のクルマを堂々と反対車線に出てごぼう抜きをする。
既に時速120キロ・・さすがに怖くなって、ゆっくりと速度を落とした。
恐怖感がイライラを収めていた。

居酒屋に着くと、中村はもう来ていた。
「ああ・・山田さん!」
中村はなぜか僕や村下には敬語を使う。年上を一応、立ててくれているのだ。
彼の横には胸の大きな可愛い女性が座っていた。
「はじめまして・・智子です」
女性はそう言って軽く微笑んだ。僕は彼女の胸を想像しながら「ああ・・よろしく」できるだけ気さくに明るく答えたやった。
暫くして、村下が入ってきた。
「おう!」
尊大ぶって入ってきた次の瞬間に彼は「あ・・はじめまして」おどけてわざと笑いを誘う。
笑うと智子はさらに可愛い。
八重歯がちらりと見える。
村下は僕のほうを見て「おまえなあ!もっとましな運転しろよ!」
そう叫んだ。
「見てたんかいな・・」
「見とったわい・・おまえ、あれは120キロくらい出とったやろ!」
「そうか・・そないには出とらんとおもうが・・」
「うそつけ!まるで暴走族やぞ・・」
そう言いながら笑った。
僕は少し鼻が高かった。智子が尊敬の眼差しで見ている気がしたのだ。

そのまま、たらふくそこで飲んで食べた。
店の外に出たときは酔いが回って、足元もおぼつかなくなっていた。
「大丈夫う?」
智子の甘ったるい声は誰に向けられているのだろう・・
僕は「風にあたろうや・・」そう提案した。
「ええなあ・・」「いやあ・・こんだけ酔っ払うと・・ええやないですかぁ・・」
二人も賛成し、「ええ!だいじょうぶなん?」智子もそう言ったものの、結構乗り気なようだ。
「ほなら・・六甲でも行くか・・」
そう言ってそのまま、村下を先頭に中村が2番、僕が3番で、列を作りクルマを走らせる。
酔っているからか、村下も中村も荒い。
秋の終わり、窓を開け、風を入れ、加古川から第二神明道路を神戸へ向けて突っ走る。
お互いの連絡をとる手段はない。
何かあればハサードランプの点滅で知らせることになっていた。

飲酒運転が危険なのは飲んだ直後ではない。
むしろ、呑んで暫くしてからのほうが判断力が鈍るため、まともな運転が出来なくなることがある。
僕は暫く走ってそれを実感した。
前を行く中村のクルマのテールランプが左右に揺れる。
道路のラインも判然としない・・それでも村下は、高速道路を時速100キロ以上の高速でぐいぐい引っ張っていく・・
僕はあくびをわざと繰り返した。
冷たい空気を出来るだけ腹に入れなければならない・・六甲へ行こうと提案したことを後悔した。
明石市内をしばらく走っていると、いきなり中村のクルマが左のウィンカーを出した。僕も左のウィンカーを出し、そのままそこのインターから高速道路を降りた。

「あかん!」
3台のクルマを並んで停車させて、村下がクルマから降りるなりそう言った。
「呑みすぎや!前が見えへん!」
「ちゃんと、運転してはりましたやン」
中村が村下にいう。
「そうそう・・全然普通やったやン・・」智子もそう言う。
「いや!このままでは六甲までは無理や!どっかで休憩しよう・・」
僕は助かったと思った。
村下がここで高速を降りてくれなければ、僕が事故を起こしたのかもしれない。
「とりあえず・・ここは通過するクルマも多いから、ファミレスにでも行こうや・・」
僕の提案に、揃ってファミリーレストランに入ることになった。
まだコンビニも、たくさんない時代だ。
夜といえばゲーム喫茶かファミリーレストランだった。

僕たちは明け方にようやく、その場から折り返してそれぞれの自宅に帰った。
「午前様なん?」
母が僕を問い詰めた。
一晩中、起きていたようだった。
すまないと思った。けれども出てきた言葉は全然別の言葉だった。
「うるさい!ほっとけや!」
2階に上がる階段で、僕は母の視線を感じた。
部屋に入ると、布団が敷いてあった。職場へ向かうまでの、ほんのひと時の眠りを、僕は貪った。

数日後、仲間がたむろする喫茶店で僕はコーヒーを飲んでいた。
先日来のイライラもようやく納まり、ゆったりとした気分で、新聞に目を通していた。
「あ!山田さん!」
中村が店に入ってきた。
僕は軽く頷いて彼を自分の居るボックスに迎え入れた。
中村の後ろから智子が入ってきた。
「クルマを変えようと思うんですわ・・」
中村がそう切り出した。
「君のクルマは・・僕のよりずっと新しいやんか・・なんで?」
「今やったら・・高く引き取ってくれるんですわ。それで、この際、クラウンに乗り換えようと思うんです」
「クラウン!」
僕は驚いた。
中村は、小売店に勤めている。
僕よりも給料が多いのだろうか?そう思ったけれど、それは口に出さなかった。
「こいつも賛成してくれるしね!」
智子が横でニコニコしている。
「だって・・クラウンって・・カッコいいでしょ」
僕は頷くだけで見ていた。
「クラウンの2,8ロイヤルサルーンですねん」
「今やったらクレスタの下取りが100万出るんですわ・・それでクラウンが頑張ってもらって、350万ほどやから、新車が今くらいの払いで買えるんです」
「へ!シンシャ!ちょっとやりすぎと違うのん・・」
「同じ乗るんやったら、気持ちがええ方がよろしいがな・・」
「そやけど・・今のローンも終わってないねんで・・」
さすがに僕は彼を止める気になってきた。
「ローンなんか・・銀行がなんぼでも貸してくれまっさ!」
いや・・それはちがう・・そう言いたかった。けれども僕には声が出ない。
「山田さんも、いつまでも中古に乗っとらんと、レビンかセリカの新車でも買いはったらええですのんや」
「いや・・僕はええわ・・」
バブルの絶頂期だ。
今から思えば馬鹿みたいな話が実際にあった。
けれども僕は、月々のガソリンスタンドからの請求すらしんどい状況で、中古とはいえ、クルマのローンもまだ残っていた。
僕には借金の上に借金を重ねる勇気はなかった。
その時、村下が店に入ってきた。
「おうおう!」
元気良く入ってきた村下は、中村の新車購入の話を聞いて、「ええのんちゃうのん・・新車はええで」それだけ言って、話題を変えてしまった。

中村はしばらく、とりとめのない話をしたあと智子と先に出て行った。
「おい山田よ・・中村・・あいつ・・大丈夫か」
喫茶店のマスターが話を聞いていたらしく、僕にそう言った。
「知らん・・好きにさせたれや・・」
村下がそう答えて「中村はあほか」と、小さくつぶやいた。

僕が自宅に帰って、自分の部屋で音楽を聴いていると、中村の母親が訪ねてきたと母が言ってきた。
僕に会いたいという。
答える前に中村の母は僕の部屋に入り込んできていた。
「お願いです・・山田さん・・息子に、もう少し、家にお金を入れるように伝えてください・・」
中村の家も僕の家も母子家庭だ。
僕も自分をどら息子だと思ってはいるけれど、毎月の給料の半分は母に手渡していた。
「中村君、お金を入れないんですか?」
「そうですねん・・今月は車を買いなおすから、家には入れへんって・・言いますねん」
「そら、えらいことですやん・・」
中村にはまだ小さな弟妹がある。
彼が家に金を入れなければ、母親のパートだけでは到底生活できないことくらいは僕にでもわかる。
「山田さん・・クルマって、そないに買い替えなあきまへんのんか?」
「いや・・僕なんか古いクルマに乗ってるし・・」
「そうですやん・・クルマみたいなもん、ええのんに乗ってもご飯食べられしまへん」
「今のクルマも十分ええクルマやけどな」
「そうですやろ・・私ら、乗せてもらったこともおまへんのや」
中村の母は涙を流して僕に訴えかける。
「健ちゃん、中村君にちゃんと話をしたりや・・」
僕の母もそばに来てそう言った。
僕には自信に溢れた中村を説得する自信はなかった。
「わかりました。お母さん、何とか言うては見ますけど、あいつ頑固やさかい・・」
やっとそれだけ言って、僕はその話を終えた。
中村の母は何度も頭を下げて出て行った。

しばらくすると中村から電話がかかった。
「山田さん・・今からドライブしますんやけど、付き合いまへんか?今日でクレスタも終わりやし・・」
オーケイ!と電話を切ってすぐに、彼がやってきた。
「今日は智子さんは?」
「会社の用事があるらしいんで・・」
僕は彼のクルマの助手席に乗り、中村はクルマを走らせた。
「やっぱり、あきまへんわ・・」
「なにが?」
「クルマですわ・・このクルマも可愛がってやったんですけど、やっぱり安もんですわ・・」
「安もんには思えへんけどなあ・・」
僕は僕のクルマとは比べ物にならない丁寧なつくりの車内を見てそう言った。
外の音もほとんど聞こえない。
軽くエンジンの音がするくらいだ。
「ちゃいまっせ・・クラウンロイヤルサルーンはよろしいで・・」
「そら、そうやろうけど・・僕のクルマよりはよっぽど上等やけどな・・このクルマ・・」
「山田さんのはスポーツタイプですがな・・僕のはサルーンですから・・やっぱりサルーンはクラウンですわ・・」
「ふうん・・それで、そのクラウン・・買うのん?」
「明日、納車ですねん・・これでやっと、誰にも馬鹿にされんと走れますわ・・」
「誰も馬鹿にはしてないと思うけど・・」
「いやあ・・やっぱり、クラウンとクレスタは違いますわ・・」
中村はそういいながら、クルマを高速道路につながるバイパスへ乗り入れさせた。
アクセルを踏み込む。
クルマは滑らかに加速する。オートマチックだ。僕のクルマのようなクラッチはこのクルマにはない。
「家にはお金を入れてるんか?」
僕はさっきの中村の母親の顔を思い浮かべながら訊いた。
「うちのおかん(母)がなんか言いに行きましたか?」
「ああ・・家にはきちんと、お金を入れてやらんと・・」
「なに言うてますねん・・お金はこれまで十分入れてきましたわ・・もうよろしいやろ・・僕は高校も行かんと働きましてんで、もう勘弁や・・」
中村は吐き捨てるように行った。
「そやけど・・家族にも生活があるやろし・・」
僕の言葉への答えはなかった。
クルマは夜のバイパスを疾走する。雨が降ってきた。光がにじんでいる。
前の車のテールランプがにじみながら、かすかに左右に揺れている。

それからしばらくして、中村の家族は居なくなった。
僕の母によると親戚を頼って、大阪へ行ったという。
中村は家族の居なくなった市営住宅を一人で使い、納車されたクラウンを大事に乗る毎日だった。
僕は心なしか、クルマに乗ることが楽しくは、なくなっていた。
月々のローン3万円少々も、これがあれば何が食べられるだろうかとか、中村の家族何日分の食費になるだろうかと考えるようになっていた。

翌年、春、中村からの電話は、僕を驚かせた。
朝、まだ夜が明ける前、甲高い音で鳴き続ける電話を、僕は朦朧とした意識で取り上げた。
「山田さぁん・・えらいこっちゃぁ・・事故ですねん」
「事故?・・どこで?」
「バイパスの出口ですねん・・今、警察に見てもろてますねん・・」
「何処の出口や?」
「加古川インターですねん・・」
すぐに行く・・僕はそう言って電話を切って、自分のクルマを走らせた。
加古川インターには何もなかった。もしかして・・そう思い、インターチェンジを迂回して、側道から反対側の出口へ回ってみた。
パトカーや救急車のものらしいパトランプがたくさん点滅し、4~5台のトラックや乗用車が停車していた。
側道から見ると停車しているだけに見えたけれども、インターの出口へ回るとそれらの車はすべて重なり合い、押しつぶしあった格好になっていた。
警察官や救急隊員が忙しく立ち働く中、呆然と立ち尽くしている中村を見つけた。
「おう!中村!大丈夫か!」
中村は案外しっかりした顔つきで、それでも腰が浮いたように僕のほうを見た。
「あきまへんのや・・あれですわ・・」
見ると、大型トラックの下に、彼の自慢のクラウン・・その白い車体が見えていた。
「よう助かったな・・」
「僕は、クルマから降りてましてん・・ここで脇にクルマ寄せて、友達、待ってましてん・・」
ここで・・?
ここはバイパスの出口だ。クルマが停車できるような場所ではない。
「なんで・・こんな場所で停まったんや・・?」
「友達が遅れたんですわ・・一緒に神戸へいってましてん・・」
「誰か怪我した人はあるのん?」
「ああ・・追突したトラックの運転士が、足をはさまれたみたいですわ・・」
あたりにはクルマの燃料やオイルが流れ出して、油の強い匂いが漂っている。
ガラスがそこら中に散らばっていた。
中村がクルマを止めて、後ろから来るはずの友人を待つ間、彼はクルマの外に出ていたという。
ここで待っていたのは、バイパス本線を友人がそのまま走行してきても見つけられるようにとの配慮からだったという。
トラックはここでバイパスを降りて、県道へ向かう予定だった。
まさか左に寄ったそのすぐ先で停車しているクルマがあることなぞ、考えもしなかっただろう・・
「もう少しや!」
人々の叫び声、トラックの運転台に閉じ込められた運転士の救出をしているところだった。
運転士は痛みからか表情をゆがめて、時折、窓の外を見ていた。
夜が明け始めていた。
あたりが少しずつ明るくなってきた。
「この車の運転手は?」
警察官が、トラックの下になった中村のクルマを指差している。
「僕です・・」中村が叫んだ。
「ちょっと来てもらおうか・・」
そのまま、彼は警察の車に乗せられていってしまった。
僕はしばらく、その現場を見ていた。
トラックの運転士が救出され、担架に載せられて、すぐに救急車に積み込まれた。
レッカー車がやってきて、トラックをゆっくりと動かし、中村のクルマが出てくる。
哀れにも中村のクルマは屋根がなくなっていた。
ここに彼が乗ったままだったら・・そのまま死んでいただろう・・そう考えると彼にも運があったというべきか・・それともその反対か・・?
僕はこれ以上、ここに居ても仕方がないので、自分のクルマに戻ることにした。バイパス出口と側道が合流するところに小さなタバコ屋があって、そこに公衆電話があった。
中村は先刻、ここから電話をかけて来たに違いない。
僕もその公衆電話を手にとって智子に電話を入れた。
幸い、すぐに智子本人が出てくれた。
「中村・・・えらいこっちゃで・・」
「え?信ちゃんが?」
僕は事故のいきさつを話して、電話を切った。電話なぞしないほうが良かったのではと思ったけれど、してしまった以上、後の祭りだ。
智子は泣き声はださなかったけれども、ショックを受けたようだった。

警察へ連れていかれた中村は、その日のうちに戻ってきたけれど、中村が失踪したのはそれからまもなくだった。
彼は友人のクルマを借りて、そのまま、借りたクルマごと失踪してしまった。
僕にも、村下にも、智子にも行き先を告げずに、消えてしまった。
一度だけ、智子がその後嫁いだ先の家に、現れたそうだ。
智子が玄関に出ると「元気か?」と訊いたと言う。
「元気よ・・・信ちゃん、元気なの?」
「いや・・あまり元気とちゃうねん・・幸せか?」
智子は彼の方になだれかかりそうになる気持ちをぐっと押さえて、こう言ったそうだ。
「めっちゃ・・シアワセやねん」
そうかと、彼は頷いて、そのまま消えてしまった。

一度、彼の名前がそのまま新聞に出ていたことがある。
自動車泥棒が逮捕されたという記事だった。けれども、その記事も年齢が違っていて、彼かどうかを確かめる術はなかった。

僕はその後、仕事を神戸の都心に変えてから、クルマを手放した。
クルマを手放すと、何の不自由もなく、むしろ、車に使っていたお金が少し、余るようになった。
そのお金で僕は一人暮らしをはじめ、やがて、結婚した。

僕は中村が高級車を買うといったその時に、何故、止めてやれなかったのか・・その思いをずっと抱いて生きている。
中村の家族も何処へ消えてしまったか全く分からない。
世の中は確かにバブルの絶頂期であったけれども、返す当てのないカネを平気で、18歳19歳頃の若者に貸し付けていた銀行系のローン会社は、既に潰れてしまって今はなく、一瞬でも夢を見、それによって人生を狂わせた若者の青春は帰ってこない。
今日も、僕が歩く道を、若者達が高価なサルーンや四輪駆動車に乗って過ぎていく。
願わくば、彼らには、中村のような不運が待っていないことを・・そう願いながら走り去るそれらのクルマのテールライトを眺めるのだ。




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