story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

鬼無里の姫・紅葉狩伝説異聞     (ber.2021)前編

2021年04月19日 15時04分41秒 | 小説

序章

美しい秋の里山風景を背景に、まさしく襟を正した名のある演者たちが壇上に並び、極上の調べを奏でる。
そこに現れた余吾将軍惟茂(これもち)、紅葉の美しさを愛でるが、やがて女性ばかりの集団を見かけその者たちと連絡を取ろうとする。
しかし、女の中心人物である姫は「やんごとない事情故」と、名を明かすのを断る。
それでは仕方がないと、惟茂はその場を遠慮しようとするが、一緒に宴をしましょうと姫に言われ、その宴に加わる。
やがて、酒を呑まされ大酔し、従者とも眠りについてしまう。
そこへ山の神が現れ、これは鬼の仕業に違いないと、惟茂と従者たちを起こそうとするが、起きてこない。
山の神はあきらめて帰ってしまう。
夜の風に惟茂は自然に目を覚まし、従者たちを起こす。
これは鬼の仕業であると見破った彼は、鬼女を探し、成敗する。

歌舞伎の中では殊更に美しく、メリハリのある優れた作品ということになろうか。

この台本は能の脚本として江戸時代初期に成立したものを用いていて、艶やかで美しくコミカルで物語性に富んでいる。
しかし平安時代の余吾将軍・平惟持が出てくるのに主人公の一人である更科姫(戸隠の鬼女)のイメージはまるで吉原の花魁で、周囲の人たちの装束も江戸時代中期以後という感じだ。
従者二人を従えた余吾将軍惟茂はまるで、水戸黄門のようにも見える。
(余吾将軍という官職はなく、これは平貞守の養子であった平惟茂が、順序としては十五番目の男子ということで余吾の文字をあてられたものである)

それゆえ、この作品では江戸時代のコミカルな創作と捉えて楽しみ、目くじらを立てる必要などないかもしれない。
だが、この作品が演じられるとき、必ず説明として付加される、あるいはパンフレットなどに掲載されるのは戸隠の鬼女の伝説だ。
歌舞伎の舞台では「紅葉狩」のためにそこを訪れたようになっている余吾将軍惟茂、実は「紅葉狩」の語源こそ、この史実からのものであり、そこには一人の女の哀しい生涯が隠されている・・私はそう思ってこれを書いている。
彼女は、抜群の美貌と知性で都の人たちを驚かせ、やがて妬みから鬼とされ、信州に流される。
それだけに留まらず、地域の治安を乱すとして、都からの大軍に征伐される。
紅葉狩という古典芸能の脚本は、そういう人生を送った女性に対し、さらに土足で踏みつける結果になってしまってはいないか、私は微力ではあるが、それを世間に問いたいと願っている。

戸隠のものとされているその鬼女伝説、音読みすれば「きじょ」となるが、その主人公に「貴女」の文字を用いる伝説を有するところ、それこそ、長野県上水内郡鬼無里村・現在の長野市鬼無里地区である。

彼女の名を「紅葉(もみじ)」という。
貴女紅葉はこの村の人たちを助け、医療や教育を施したとされる・・鬼などではないのだ。
その違いに驚いた私は、さらに伝説を精査し、平安期の歴史的事実と並べると驚くほどに史実に沿った、説得力のある歴史ドラマが実現する・・そう知った。

拙作の「鬼無里の姫」、この作品は私の、紅葉姫への想いから作り上げた。
かつては川端康成先生も鬼無里を訪れ、紅葉や、あるいはこの村に流された月夜という女性のことに大いに興味を持たれたようだが、残念ながら大文豪の鬼無里取材による作品は日の目を見ていない。

もとよりプロの作家でもない私が作るものだから稚拙なものになるであろうことは承知している。
しかし、それでも本作を世に問いたい、それが紅葉と出会った私の心であるからだ

*(一)会津

田舎ゆえ郡司としての日常の仕事もさほど忙しくもなく、淡々と進み終え、日暮れの前には質素な食事をする。
夫婦二人きり、米よりは粟や稗などを多く混ぜた主食に、猪苗代で採れた蜆を汁に入れ、脇に数切れの漬物を並べただけのものだ。
薄暗くなってくる板敷の部屋で、夫婦はふっとため息をつく。
「われらには、子は授からぬのかしら」
「うん、そのうち、授かるであろうか」
妻にそういわれると、夫は自分の甲斐性のことと捉えてしまう。

その夜も薄い布団でむつみあいながら、出てくれ、わが子よ出てくれと祈る夫だった。

*******

承平七年、西暦九三七年というから朱雀天皇の御代だろうか。
その年の早春、まだ雪が残る会津地方、猪苗代湖畔の村に、双子の女の子が生まれた。名を呉葉(くれは)、黄葉(きのは)と授けられた。
親は大伴家持の血を引き継ぐ伴笹丸(とものささまる)、菊世夫妻である。

夫婦仲は至ってよかったが、仲の良すぎるものに子が出来辛いのは今も昔も同じことのようで、この二人はすでに三十路になってかなり年を過ぎていて、当時としては子を産むには遅い年齢に達し、なんとか子を授かりたいと揃って近傍の寺院に日々参っては祈りを捧げていた。

このとき、詣でた寺院のひとつで、御本尊の観世音菩薩とともに、第六天の魔王が祀られていたらしいが、そのことが後に大きな災いの火種にもなるのだが夫婦はもちろん、そのことを知らない。
やっと授かった双子に、夫婦が喜んだのは言うまでもない。
その日、笹丸は寺院に御礼のお参りをした後、晴れ渡る会津の空に聳える磐梯山にも向かって、この双子の人生が幸あらんことを祈った。

磐梯山は彼らの時代の百年ほど前に大爆発を起こし、秀麗な円錐形の山から四峰が連立するごつごつした山容に変わっていたが、雪を纏う神の山は美しかった。
(この当時の磐梯山は今の山容ではなく明治期の大爆発の後の姿が今の状態である)
笹丸はこの方面、耶麻郡の郡司で、京よりこの地へ派遣されてから相当な年月が経っていたが未だ都への思いは捨てきれないでいたし、いつしか自分がまた都に帰ることもあるのだと自らに言い聞かせている男だった。

双子の娘はすくすく育つ。
そして父母ともが京びとである血を受け継いだのか、成長するにしたがってその美しさは田舎の人々の評判に上るようになっていった。
美貌だけではない。両親ともに京びとであったゆえ、呉葉、黄葉の二人は徹底した教育を施された。
二人の教育には、時として都から訪れる官吏たちも関わってくれ、読み書きから文学、数学、医学、薬学、天文学、史学、陰陽学、兵学、音楽などに及んだという。
だが、口さがない人の中には「第六天魔王からあらゆる能力を得ているのだ、出来て当たり前だろう」と言うものも僅かだがあった。

双子が十五歳になったとき、日頃から二人を見染めていた豪農の息子が、親を通して「双子のどちらかをもらい受けたい」と申し出てきた。
身分は笹丸のほうがずっと高くとも、そこに経済は伴わない。
京から遠く離れた辺境の郡司でしかないのだ。

笹丸は双子に訊いた。
「どちらかに、あの傲慢な源吉に嫁いでもらわねばならぬ。そしてもう一人は都に行って京びとになってもらわねばならぬ」
豪農の息子、源吉の申し出は今の段階では絶対に断れないのだ。
姉の呉葉は黙ってしまっていたのだが、妹の黄葉はすぐに顔を上げた。
「お父さま、お母さま、吾は、この会津が大好きでございます、吾をここに残していただきとうございます」
はっきりと、よくとおる声でそう言った。
そういえば黄葉(きのは)は時折、磐梯山を眺めて立ち尽くしていることがあった。
「その時は、我ら二親とも都へ行くことになるのだぞ、構わないのか」
「お父さま、お母さま、お姉さまとお別れになるのはとても悲しゅうございます」
「そうであろう」
「ですが、同じくらい、磐梯山や猪苗代湖と別れるのも辛うございます」
控えめながらはっきりと黄葉はそう言った。

ちょうど、その頃、都から平泉へ陸奥守の使いとして行った、平惟茂(たいらのこれもち)が一軍を率いて、ここを視察しながら通過して都へ戻るという連絡があった。

春なのに、また寒さが戻り雪が降った日、惟茂が数騎に徒士数人を率いて猪苗代に到着した。
磐梯山は雲に隠れて見えず、ただ降りしきる雪だけがあたりを覆っていた。

その日の宴は郡司の館で行われ、「田舎ゆえ、何もおもてなしは出来かねますが」そう詫びながら、大皿に盛り上げた野菜や魚鳥の煮物を並べる。
「この辺りは客人が来られると、こういう風におもてなしをするんだそうです、われも最初は戸惑いました」
笹丸の言葉に「いやいや、こうして何気ない材料をきちんと調理されること、感じ入ります」と惟茂はさっそく、小皿にとり平らげていく。
濁酒を呉葉と黄葉が主なものに注いでいく。
惟茂は「ほぉ、たいそうお美しい女子(おなご)がおられますな」と、呉葉を見て言う。
笹丸は「さようでございますか、都にはもっと目を見張る女性(にょしょう)もおられますでしょうに」
「いやいや、北国である故か、雪の精とでもいうのだろうか、陸奥には肌の白く顔の引き締まる美しい女性が多い気がします」
そう惟茂は返しながら、呉葉を見つめる。
「それでは、皆さまに心ばかりのお慰みを・・」
笹丸はそう言い、娘二人に目配せをした。
「わが娘たちのお琴をしばしお楽しみくださいませ」
二人は一旦下がって、やがて琴を抱えて広間に戻ってくる。
琴の演奏が始まった。
二人は同じ調べを奏でるのではなく、姉は高い方の音程を、妹は低い方の音程をというふうにまるで奏者が何人もいるかのような調べを披露する。
惟茂はじめ、その場にいた身分の高い武人たちは、みな感じ入り、涙を流して聞き惚れるものもある。

その夜の酒宴は遅くまで続き、翌朝、多くのものがまだ眠っている館の外に惟茂が出て、雪の止んだ冷たい空気を吸っていた。
そこには井戸がある。

塀の向こうに真白くなった磐梯山が見える。
そこへ、水を汲みに出てきた呉葉と出会った。
「あら、あまりお休みになれませんでしたか?」
呉葉が惟茂に語り掛ける。
「いやいや、小用に起きたのだが、あまりに山の姿が見事なものでな」
「磐梯山がですか。確かに美しいですが、吾どもは見慣れておりますから」
「それはそうでしょう。だが、この山の美しさと貴女の美しさは都にはない」
真白い雪の積もる屋形の庭で、白い息を吐きながら水を汲む呉葉の姿は惟茂には得難いものに思われていた。
惟茂は続ける。
「昨夜、もうお一人、あなたとよく似た女性をお見かけしたが」
桶をそこにおいて、呉葉はにこやかに答える。
「双子の妹でございます。もうお輿入れが決まっております」
「双子とな。どちらもお美しい・・」
「妹の方がお好みですか?」
呉葉は惟茂を見ながら悪戯っぽく笑う。
「いやいや、そのようなことはない。われはあなたが良いのだ」
言ってしまってから武人らしくもなく顔を赤らめる。

「こちらへ・・」
呉葉が惟茂を誘う。
吸いつくような眼に思わず惹かれ、ついていくと、離れの部屋に入っていった。
部屋の戸を閉めてしまい、薄暗く差し込む光しか明かりというものがない部屋で、呉葉はゆっくりと衣をはだけ始めた。
「何をなさる、かような真似は・・・」
惟茂は一瞬、そこを出ようとしたが呉葉の少し強い声が飛ぶ。
「お待ちくださいまし」
「吾は、父母からあなた様を全てにおいて、もてなせと言われています」
「御父母からか・・」
「ですので、今しばし、吾のおもてなしを受けていただきたく存じます」
そういったかと思うと、呉葉はすべての衣を脱ぎ捨て、惟茂に覆いかぶさってきた。
まだあどけなさの残る少女とも思えぬ技が、彼の本能を刺激していく。
その技に陶酔してく彼ではあるが、呉葉は生娘だったのが意外だった。

朝餉の時、笹丸はふっと思いだしたように惟茂に語り掛けた。
「そろそろ、われらも京に戻りたいと存ずるのですが」
惟茂は箸をおき、笹丸が蹲るその背中を見つめ、しばらく考えてこういった。
「伴どの、陸奥に来られてどれくらいになりましょうや」
「さよう、二十年(はたとせ)になりましょうか・・」
「それは長い、都へ戻れば、早速、将軍に上申いたします」
「かたじけない、その折にはぜひ娘を連れていきたく存じます」
「それはそれは、たいそうお美しい姫様ですので、都でも評判になりましょう」
そう答えながら、惟茂は顔が火照ることに気が付いていた。
伴夫婦の思惑、いや、呉葉の思惑はうまく運んだということだ。

数日で惟茂一行は都へ向かい、村を出ていった。
そしてその三月ほど後に、僅かの伴を連れて都へ向かう伴笹丸・菊世夫婦と呉葉の姿があった。

妹の黄葉(きのは)は、夫源吉に支えられ、都へ旅立つ父母と姉を見送った。
これが永遠の別れになるような気がして、不安から涙を流しながら夫に支えられる。
「ととさま、ははさま、あねさま・・・」
くぐもった声で夫の腕の中で叫ぶ黄葉、初夏の磐梯山が彼らを見つめていた。


*(二)京

天暦四年、九五一年、村上天皇の御代になっていた夏。
伴笹丸一行は懐かしい都に着いた。
平安の世の太平は都を大きく発展させ、この街に生まれ育った彼でさえも目を見張るほどであった。
呉葉は輿の中から簾を上げて夏の光がまぶしい都の景色を眺めてはいたが、特に驚くということもないようだ。
「どうだ、呉葉、この都の栄えぶりは」
笹丸は馬を少し遅らせ、輿の横につけ、簾を上げている呉葉に語り掛けた。
「お父様、都とはもっと煌びやかなものと思っておりました」
そう言ってクスリと笑う。
「なに、これでも煌びやかではないのか。では、お前は、都がどのような姿だったら煌びやかだと思うのだ」
呉葉は空を指さし「日天はここでもひとつ。せめて都というほどなら二つあればよいのに」などという。
そういえば、会津にあっても、村のものが春秋などに磐梯山の美しさを愛でているようなときでも、呉葉はさして気の進まぬようですぐに家の中に入ってしまうことがあった。

気の利く娘ではあるが、時には我儘そのものを見せることもあり、親として手を焼くこともある。
それはその年ごろの娘たちによくある一時の跳ね上がりだと笹丸は捉えていたのだが、どうも少し違うようだ。

笹丸は官吏を断り、街中、四条通で、いまでいう雑貨屋を開いた。
武士から町人になるわけであり、笹丸は伍輔(ごすけ)、妻の菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と名を変えた。
特に呉葉の紅葉への改名は、彼女の強い希望でもあった。
妹が黄葉とかいて「きのは」と読むのに、自分は本来「紅葉」の「くれは」であるべきだというのが彼女の意見だった。
特にそれを断る理由もなく、夫婦は娘の我儘を通す。
そして改名がなると、彼女は「くれは」を「もみじ」と変えて名乗るようになった。

一家が開いた雑貨屋は、履き物や髪飾り、着物の上に羽織るもの、部屋に飾るものなどを売る女性向けの店だ。
これには紅葉の才覚が大きく役立っていた。
何に対しても燃え上がることなく冷めた目で見る彼女の才覚は、確かな品定めや店の陳列となってあらわれ、店はたいそう繁盛したといわれる。

店に来る女性たちが買うものを品定めしているとき、時には紅葉は店の奥で琴を弾き、その美しい音色が評判となり店はさらに繁盛する。

町家の一角に、女性たちが群れる店があり、その店の奥から見事な琴の音色が流れてくる。
その店を、時々、向かいから立ち止まって見ている武士があった。
平惟茂であった。

惟茂の心に沁み込んだ想いは消えることなく、彼は時に店を遠巻きにするのだが、その惟茂の姿を、紅葉はとうに見つけていた。

ある夜、惟茂は店の裏に忍び寄った。
障子越しに紅葉の影が近づくのを見て、彼はわざと少し音を立てて文を落とした。
ところが、どうも紅葉は彼の動きに感づいていたようで、いきなり戸を開ける。
平安朝らしい流暢な流れしか想像していない惟茂はさして広くない町家の庭に立ちすくんだ。

「平様、驚かれることはありませぬ。すでに父母は寝入っておりますれば」
久しぶりに聞く呉葉改め、紅葉の声だ。
紅葉の誘うままに、惟茂は家に上がり、部屋に通された。
僅かな燭台だけが灯である。

だが、紅葉はいきなり衣を脱いでいくということはしない。
まず、僅かな燭台の灯の下、きちんと酒肴を用意した。
まだ動揺が定まらない惟茂に酒を勧める。
そして、急に改まったかのように座を下げ、深く礼をする。
「平さま、おかげさまでわれら家族は、こうして都の空の下におります。どのようにお礼を申し上げてよいやら判りかねますが、今宵はごゆるりとお過ごしくださればと思います」

そしてまた酒を勧める。

惟茂の酔いが回ってきたころを見計らい、紅葉は衣を脱いだ。
上質な絹のような肌に包まれ、惟茂は我と時間を忘れていく。

翌早朝、惟茂が目覚めると紅葉はいなかった。
彼は衣服を整え、そろりと縁側から庭に出る。
夏の夜明けが早いのをこれ幸いと裏木戸から外に出、道から玄関に向かうと、そこに紅葉がいた。
彼女は竹箒をもって玄関先を掃除していた。
「あ・・昨夜は・・」
「あら、平様、お久しぶりですわね、会津でお会いして以来で、ご無沙汰をいたしております」
紅葉は早朝にしては少し大きめの声でそういう。
顔はあくまでも笑顔だ。

すると、玄関が開いた。
紅葉の親である笹丸改め、伍輔だ。
「これはこれは、かような狭き町家にお越しいただき恐縮です。折角ですので朝餉などいかがでございましょう」
すっかり町人となった伍輔はにこやかに惟茂を迎え入れる。

その日の夕刻、惟茂は主筋ともいえる八条の源経基の室、奥方を四条に案内した。
このところの猛暑で盆地である京の暑さは耐え難い。
「惟茂、どこぞ少しでも涼しいところはないのかえ」
館で彼を見かけた奥方は、軽い挨拶のかわりにそう言った。
「お方様、四条通の小さなお店で、この世のものとは思えぬ美しい琴の音が聞こえると評判でございます」
惟茂の思わぬ進言に奥方は興味を持ったようだ。
「琴の音とな。琴は吾もするが、この世のものとは思えぬとはどういうことであろうか」
「実は、昨日、その音を少し遠くから聴き入ってございます。それはそれは夢のようでござりました」
奥方はたいそう驚き、「今宵、そこへ吾を連れていけ」という。

夏の長い日がようやく沈むころ、ただその頃は風がぴたりとやんで実は最も暑いころなのだが、その時刻に惟茂は牛車を警護し経基の奥方はじめ数人を警護して四条通へ向かう。
「暑いのう」
奥方がそう叫ぶのを惟茂はただ「はっ」とだけ答える。
蝉の声が煩い。

道を歩く町衆も、暑さにげんなりした様子で、これもある意味、都の夏の風景でもあった。
しばらく行くと、人だかりがしている家がある。
「あそこでございます」
惟茂が指をさす。
かすかに琴の音が響いてくる。

近づくと琴の音は非常に涼しげで、多くの人が店の前で神妙に耳を傾けている。
貴人の隊列が来たので、人々は道を開けた。
牛車は店のすぐ前まで入っていく。
自らも琴をたしなむ奥方は、屋形を下りた。
店の中へ入り、琴の音を聞く。
「かような音を出せるものがあるのか・・」
絶句して立ち尽くす奥方に、惟茂が寄る。
「会津の郡司をされていた伴笹丸どののご息女、紅葉どのにてございます」
「会津、陸奥のか・・」「さようでございます」
「日ノ本は広い・・」
奥方はそう言って絶句する。


*(三)源家


数日後から紅葉は八条の源家へ琴の師範として通うことになった。
妻のもとへ通う非常に美しい姫のことはすぐに噂になり、幾日も経ず、主人の知るところとなった。
元来が女好きの性癖がある経基はこの姫に非常に興味を持ち、すぐに奥方が教えを受けている部屋を尋ねる。
彼が部屋に入ったことで、座は緊張したが、中心にいた娘は、さして動揺をするわけでもなく、不思議そうに経基らを見ている。
まだあどけなさも残るがそれでも美しい。

「邪魔して悪いのう、そなたが紅葉どのか」
紅葉は「はっ」とだけ返事をし、平伏する。
「素晴らしい琴の音じゃ、誰に教えを請けたのか」
「吾は、所詮は陸奥の田舎者にございます。琴は父母より教わりました」
「ほぉ、父母とは誰じゃ」
「陸奥の国、会津耶麻郡の先の郡司が父でございます」
「ほぉ、耶麻郡の郡司とな」
「はい」
経基は訝しがった。
会津のような田舎で、これほど洗練された琴を弾くものがあるとは思えない。

「詳しく申してみよ、そなたの父は都にかかわりがあるであろう」
「は、大伴家持どのの子孫にあたると聞いたことがございます」
「なるほど・・」

ふと顔を見上げた紅葉の表情に経基は見入ってしまう。
「なんと美しい・・・・」
紅葉はその声にまた平伏した。
「うちにはいれ、悪いようにはせぬ」

やがて紅葉は、源家につかえることとなった。
家の者たちの教育を任され、経基や奥方の信任が厚い。
ただ、才色兼備の美女を女好きの経基が放っておくはずもない。

はじめは奥方への気遣いから、時折眺める程度のことであったが、半年ほどたったある夜、紅葉は経基に呼ばれた。
部下に誘われるままに奥の部屋に入り、そこで平伏して待つ。
やがて、襖が開いて後ろから経基が入ってきた。

「よいよい、お顔を上げてくれ」
彼女の前にどっかりと座った経基は、ホッとしたかのように顔を上げた紅葉を見つめる。
「こうして、そなたを真正面から見ると、やはり美しいのう」
紅葉は少し恥じらう表情を見せた。
「今宵はお呼びいただき、誠にありがたく存じます」
臆する様子もなくはっきりとそういう。
「そなたは、なぜに今宵、呼ばれたのかわかるのであるか?」
「はい、お館様、大変、嬉しゅうございます」
ほぉ・・経基はちいさく感嘆の声を上げる。
「ま、とりあえずは酒だ、注いでくれるか」
経基の言葉に、紅葉は立ち上がり傍に寄っていく。
酌をし、経基からも杯を返され繰り返す。

やがて、経基は「では、頼もうか」などという。
隣の寝所に紅葉を誘う。

多くの女性と交わっている経基にして、紅葉の持つ技は全く知らぬ世界だ。
遊女のものではなく、かといって周囲に多くいる貴女たちのものでもない、その技は彼女本人によほどの素質がないと、いくら学んでも使うこともできないほどのことに思えてくる。
それでも、まだ十八の少女らしく時に自らも感極まりながら震え声を上げるその様子に、経基は我と時間を忘れる。

僅かに残る光が浮かび上がらせる裸身はこの世のものではないと思うほどに美しい。

その日以後、経基は紅葉を寵愛した。
毎夜、紅葉を呼び、他の全ての女は忘れられたかのようになった。
女は愛されることで美しさが増すともいわれているが、紅葉はさらに美しく、派手な着物もよく似合うようになっていった。
周囲からは紅葉がまるで奥の権力者であるかのように、お付きを従え邸内を我が物顔に歩くように見えてしまう。

経基の奥方は、本来は自分が琴の教えを受けるために呼んだ娘であるだけに、この成り行きにかなり狼狽した。
主人の女好きはそれはある面ではこの時代の権力者の常であり、ある程度はやむを得ないと思ってはいたが、それにも度というものがある。
町中で拾った娘を、奥の重鎮のようにしてしまったことは奥方の最大の悔やみとなった。

やがて奥方は心労から寝込んでしまった。
それを知った紅葉は、医術の心得もある自分がお見舞いに行こうとしたが、奥方はかたくなに拒む。
奥方の周囲の者たちは、あらゆる医療、祈祷を尽くして病の平癒を図るが、奥方の病状は悪化するばかりだ。

思いあまった奥方は、皇家に縁が深い自分の両親への手紙にこの事態を書いた。

やがて、皇家から病の原因を探る名人ということで、叡山の医僧が派遣されてきた。
医僧は奥方を触診しながらこう言う。
「お方様、病の根本はその因を断つことでございます」
弱り切っている奥方はか細い声で漸く喋る。
「わが病の因と言えば、あれしか考えられぬ」
「あれとは・・」
「この頃、お館様の寵愛を一身に受けているものよ」
「そんなもの、放っておけばよろしいでしょうに」
「あのものは、お館様の寵愛だけではなく、この館の主のように振舞う。やがて吾もここから追い出されるのであろう」
「つまりは、お方様はこの病が気から来ていると知っておられると」
「気などというものではない、あれは同じ”き”でも”鬼”の字を当てるのがふさわしい」
「なるほど、鬼女というわけでござりますか」
「さよう、人を惑わし、世を狂わせる鬼じゃ」
「世を狂わせるようなことにもなりますか」
「このままではお館の精も心も吸い取られ、世のことも思うままにしかねる」
「それは・・いけませぬな」
「わらわの体内にもすでに鬼の毒気が満ち満ちておるのよ」
憎しみをこめて、力の限り叫ぶ奥方に「それなら、拙僧に考えがあります」
医僧はそう言い、部屋を出ていく。

しばらくして医僧から経基に謁見の願いがあり、奥方の病を心配していた経基はすぐに医僧に会った。
「お方の具合はどうじゃ」
医僧は平伏したままで答える。
「鬼の気が心身に満ちており、正直なところ、なかなか御快癒は難しゅうございます」
「鬼の気とな」
「さよう、この館に鬼が姿を変えて居座っておるのでございます」
「鬼、そんなものが現実にあるはずがなかろう」
「いえいえ、仏法では鬼は人に姿を変え、ごく普通にそのあたりに暮しているとも説かれております」

経基は、しばらく考え込んでから「では、この館の誰が鬼なのか目星はあるのか」と問う。
「拙僧ごときではすべてのお人を見ることが叶いませぬゆえ、あくまでも憶測にすぎませぬ」
「構わぬ、言え」
医僧はさらに平伏してやや間を置いて答えた。
「殿の御傍にて、このところ侍る女子に相違なかろうと」
経基はいきなり笑い出した。
「いくらなんでもそれはなかろう。紅葉が鬼であるなら、まろはとうに食われておるわ」
「いやいや、今はまだ、殿様には失礼ですが、使い道があると鬼が見ているのではござりませんでしょうか、そのうえで、今はお方様を亡きものにしようということでございましょう」

皇家がよこした医僧の言葉である。
経基は考え込んだ。
医僧は続ける。
「例えば夜伽の時など、異常に心地よい、これまで味わったことのない気持ちになるとの思いはございませんか」
「それは・・」
「おありなのですね、それこそ、悪鬼が殿さまを誑かしているのです」
医僧は冷静に語る。
「遠く聞こえる噂では、あのものの父親は、出生を第六天魔王に祈念したと流れてきております。さすればあのものは鬼に相違ございませぬ」

その夜は紅葉を呼ばない、彼女が寵愛を受けるようになって初めてのことだった。
翌朝、改めて紅葉を呼んだ。
「御館様、昨夜はご調子がよろしくなかったのですか?」
部屋に入るなり、紅葉はいつもの明るい様子で気軽に口を開いた。

「座れ」
何か様子が変だ・・・紅葉は本能でそう感じた。
「紅葉よ、お前は鬼か?」
紅葉は不思議そうに経基を見る。

朝の陽が照らす庭を背に、紅葉は美しい。
「お方が寝込んで居るが、お前はお方に何かをしたか?」
紅葉には何のことだかわからない。

「吾は、お方様がご病気と聞いて少しは医術の心得もありますゆえ、お見舞いに伺いたいと願いを出しただけでございます」

そのとき、部屋の後ろから入ってきたものがある。
医僧だ。
「黙れ、鬼女。お前は悪魔の医術と鬼の呪術でお方様を亡きものにしようとしたであろう」
紅葉は驚いた。
そして背を伸ばし、経基を見つめ涙を流す。
「どういうことでございましょう」
経基は冷静に返す。
「その者の言う通りだ」
大きく目を見開き、流れる涙を拭うこともせず紅葉は経基を見る。
「吾は鬼でございますか、会津の片田舎に生まれた吾が、京では鬼と呼ばれるのでしょうか」
「鬼だというものがある・・」
「吾をどうされようとしておるのでございましょう」
「鬼の首は撥ねねばならぬ」医僧が言う。
頭の良い娘である。
この時に、彼女は物事の中にある憎悪が読めてしまった。
これは、この原因はお方様に相違ない・・

だが、奥方を憎む気持ちは彼女には湧いてこない。
奥方と主人の間に割って入ったのは自分なのだ。
平伏しなおし、紅葉は静かに言葉を返す。
「そうなるとあれば止むを得ませぬ、お好きにされれば宜しいでしょう」
大人しくそういう紅葉に経基は少し哀れを感じる。
だが、紅葉は小刻みに体を震わせ、唇を噛んでいた。

「殿さま、こ奴は許してはなりませぬ」
医僧が叫ぶ。
「黙れ!」
とっさに経基が出した大声に医僧は怯む。
「紅葉よ」
「はっ」
「何か言いたいことはないか、このままではまろは、お前の首を撥ねねばならぬ」
経基の気持から紅葉が消えたわけではなく、彼には未練もあった。
平伏したまま紅葉はややあってから答えた。
「お腹にお館様のお子がおります・・吾は、今、首を撥ねられても命など惜しくはありませぬが、この子が生まれるまでは吾の命をお留めくださいませ」
「それはまことか」
「はい、吾は医術の心得もありますゆえ、自分でいまが三月(みつき)かと」

武士に囲まれて紅葉は四条通りの実家に戻った。
そして武士たちはそのまま、父母の伍輔、花田ともども、屈強な武士幾人を加え、都の外れ、山科まで連れていく。
うち、三人の武士はこのまま残り、家族三人を警護して送り届けるという。

その別れの様子を平惟茂が遠くから見守っていた。
「紅葉が鬼であるはずなんかない。いずれ、われが罪を晴らせよう」と誓う。
だが、彼は責任ある武士としての重役だ。
そこから先へは進めない。

三人の武士について歩かれながら、やっと伍輔が声を発した。
「われらは、何処へ送られるのでしょう」
その言葉に武士は答えた。
「知らないのか。お前たちは鬼と鬼の親ということで、信濃国、戸隠へ配流されるのだ」
別の一人が言葉を繋げる。
「本来は死罪相当だが、殿様の憐憫の情により配流となったのだ。恨まず感謝せよ」
だが、とうの武士たちには何故にこの一家が配流されるのか、鬼だとはいうが、とてもそう見えない、美しい姫を連れたごく普通の人たちなのにと言う想いはあった。
それもまた平安の頃では珍しいことではなかった。
これまでにも何度か、おそらくは無実の人の護送にあたっている彼らなのである。

まだ母の花田は、それでも甲斐甲斐しく一行の世話もするが、父、伍輔には相当な精神的負担となった。
十日ばかり、山野を歩き続け、信濃の国、水無瀬という村にたどり着いた。
ここから戸隠まではあと半日の道のりだ。

だが、ここで伍輔が体調を崩した。
紅葉は武士たちの許しを得て、薬草をとり、煎じて父に飲ませるが薬効なく、数日で伍輔は亡くなってしまう。
最後の言葉は「都など、都の連中など信じねば良かった・・・紅葉には迷惑をかけた」だった。


*(四)水無瀬


伍輔が亡くなり、しばらく留まっていた水無瀬の村だったが、ここの村人たちは優しかった。
「鬼だって、とても鬼なんかにはみえない娘さんじゃないか」
「きっと、都の偉い人に讒言でもされたのだろう」
この村人たちは、平将門の乱を支持した過去があり、中央政府などというものは信じるに足らぬという気概を持っていたようだ。
そこで紅葉に事の成り行きを尋ねたところ、紅葉のお腹に将軍の子が宿っていると知り、非常に驚いた。

村人たちは相談しあい、警固の武士に告げた。
「戸隠だって水無瀬だって都から見れば似たようなものでしょう。ここは、我ら水無瀬の者たちがしっかりとこの者たちを見張りますゆえ、配流先はここということで宜しいのではないでしょうか」
武士たちにも異存はない。
戸隠の村では鬼は受け入れたくないという話も、伝わってきていた。
郡司に許しを得て、武士たちは都へ帰っていった。

ちょうど刈り入れの時期で、村人たちは哀れな母娘のもとへ米や雑穀、野菜などを届けてくれた。
紅葉は村人たちに深く感謝をし、村の子弟たちに読み書きや算用を教えたり、医学の知識で病で悩む村人への診察をしたりした。
水無瀬の人たちは紅葉の博学ぶりに驚いた。

やがて、二人のためにと小さな家まで建ててくれた。
そこを村人たちは「内裏屋敷」と呼び、交代で警護についた。
いつ都から鬼を討伐せよという命令が出るかわからない、中央政府への不信を持つ村人ならではの配慮である。

「この川からこっちは西京(にしきょう)、向こうは東京(ひがしきょう)と呼ぶことにしました」
あの川は加茂川、この神社は加茂神社、そっちの山が東山で・・村長から地名の変更をすることを告げられた紅葉は涙を流す。
だが、都には失望し、もはやそこに戻ろうという気は起きない。
ある日、村長が一人の女性を紅葉に紹介した。
紅葉より少し年上のその女性は、名を「月夜」といった。
矢張り都で不貞を働いたという謂れのない咎で流罪となり、この村にいるという。
「紅葉様、われはあなたの腰元となりましょう」
月夜はそう言ってくれる。 

秋の山々はそれこそ木々の紅葉で色づき美しい・・なぜ都になど憧れを持ったか、紅葉(もみじ)は山々を眺めながら悔やむ。

やがてここにも長い冬が来た。
紅葉は会津で冬には慣れているが、村の人々や、自分の母、それに月夜がいるとはいっても、この淋しさはこれまで味わったものではなく、会津と、会津にいる妹が恋しく思い出される。

その頃、紅葉が京を追い出され、伍輔が亡くなったという噂は会津にも届いていた。
黄葉(きのは)は、豪農の家で生活していた。
源吉はけっして傲慢でもなく、ただやや粗野なところがあるだけで、黄葉には優しかった。
「姉様は鬼だといわれて都から信濃に追い出されたようだ」
源吉が外で拾ってきた噂に黄葉は愕然とし、ここ数日の不安が現実のものであったことを知る。
実は数日前から心の中で姉が泣いているような気がしていた。

翌朝、磐梯山に向かい、「どうか、お山の神様、姉様がここに帰って来られるようにお願いいたします」と祈る。
父母が出生を祈願したとされる寺院にも参った。
観世音菩薩に祈るが第六天魔王には祈らない・・彼女は自分たちが魔王の分身だという何の根拠もない噂をしっていた。
この十年ほど前に建立された小平潟天満宮にも参り、「道真公は、都を追い出されたと伺っています、今、姉様も京を追い出され、信濃にいるようです。公と同じ憂き目にあっている姉様を、どうか守ってください」と祈る。

水無瀬に春が来た。
そして紅葉のお腹の子が生まれた。
村人たちの支えがあったゆえか、丸々と太った男の子だ。
経若丸と名付けられた、源経基の一字をとったのである。

このことは都に知られると、あまりよくない結果にしかならないと村人たちは考え、秘匿することにした。
だが、人の口は完全には防げない。
いつしか噂は流れ、それは平惟茂の耳にも届いた。

信濃の鬼女は、無理やり将軍から精を受け、子をもうけた・・というものだった。
なぜか、その鬼は第六天魔王の生まれ変わりだと尾ひれもついていた。
惟茂は「こうしてはいられない、なんとしても信濃に行かなければ」と考え、無理やりに陸奥の視察に出ることを申し出た。
なぜに、自分がそういう行動をとるのか彼には分らなかったが、心の底で突き動かすものがあった。

その後しばらく、紅葉は月夜とともに水無瀬村で医師として、あるいは教師として活躍し、深く村人に敬われるようになっていく。

*(五)会津


夏、平惟茂(たいらのこれもち)にようやく陸奥への視察の命がくだった。
彼は往路は関東から陸奥を目指し、復路に会津から信濃へ出ることにした。
気が急くのを抑えながら各地を視察し、ようやく会津に達した時はすでに秋の初めになっていた。

田の稲穂が美しく、そこで働く農民たちに声をかけながら、猪苗代の近くで出会えた男に尋ねた。
「この辺りに、黄葉(きのは)と呼ばれる、たいそう美しい女人がおられると思うが」
「ああ、その方なら、あの林に囲まれたお屋敷の妻女でございましょう」
男はそう言って指をさした。
「あそこがここの村長でございます」
屋敷の後ろには磐梯山が夕陽に照らされて屹立していた。

その屋敷を尋ねると、ちょうど一日の作業を終えた家人たちが戻ってきたところだった。
部下を従えた惟茂は、大音声に叫ぶ。
「われは、陸奥守の使い、平惟茂である。猪苗代に見分に参った」
家人たちは驚いた。
その声に、奥からこの家の妻女らしい女が走ってきた。
「これはこれは、平様、ようこそお越しくださいました」
清楚な妻女だが声はまったくあの紅葉と同じだ。
「どうか皆様、今宵はこちらでお泊りくださいませ」
「郡司様はこちらからご案内いたしますゆえ」
妻女は慇懃に頭を下げる。

部下たちを先に居間に向かわせ、惟茂は玄関に立ったままだ。
「どうぞ、平様、こちらへ・・」
妻女、黄葉が導くが、惟茂は動かない。

「お久しゅうござる」
そう言って深く頭を下げた。
黄葉は驚いて立ちすくむ。
兜をとって見せたその顔に見覚えがあった。
「あなた様が黄葉(きのは)様ですね」
言葉もなく、黄葉は頷く。
多少はふっくらしているが、まさにあの紅葉(もみじ)と同じ顔だ。
「此度はぜひとも、会津を訪ね、あなたにお会いしたかった」
「吾にですか・・」
惟茂は姿勢を正した。
「あれは幾年になりましょう、郡司の家でお琴を聴かせていただきました」
黄葉は思い出した。
「あの時の御武家様でいらっしゃいましたか」
黄葉はあの朝、惟茂が紅葉とむつみあっていたことを知っている。
使われていない部屋から、男女の声が聞こえたので近寄り、部屋の外でそのことを確かめたのだ。

「実は、どうしてもお伝えしたいことがござる」
絞り出すかのようにそういう惟茂であったが、彼の言葉で黄葉は用向きを察したように姿勢を崩さずに立っている。
「姉様のことでございますか」
「勘づいていただけましたか、まさに、あなたの姉様、そして御父母様のことでござる」
「京を追い出されて、信濃で暮らしているという噂は流れております」
「さよう・・」
「父が亡くなったと・・」
惟茂は頷いた。
「しかしなぜか、姉も父母も鬼になっていたと・・」
「そこまで噂が流れておるのか」
黄葉は土間に降りてきた。
「なぜでございますか、会津で幸せに暮らしていたものが京では鬼になるということですか」
「すまぬ、われにはそのカラクリはわからぬ・・」
「会津では父母ともに村人の信任が厚うございましたゆえ、誰もその噂は信じておりませぬ・・おおよそ京びとたちの、邪な謀り事であろうということになっております」
一部に口さがない人はあるが、源吉は村長として信任されていた。
「そう捉えていただけると有難い」
「せめて母様と姉様は会津に戻ってこられないのでしょうか」
「われは今、まさにそのことをあなたにお伝えしたかった。是非に姉様に手紙を書いてくだされ。拙者が必ずや届けましょう」

そこへ家主の源吉が帰ってきた。
「これはこれは、平様、かような土間で立ち話などもったいのうございます」
誰かから伝え聞いていたのか源吉は大きな声を出し、惟茂を居間に連れて行った。
その際、黄葉の耳元で少し囁いた。
「郡司どのに知れたら変な癇癪を起される。あとでうまく平殿と話し合ってくれ」
黄葉は軽く頷く。

その夜、惟茂の寝所に黄葉がやってきた。
盆に酒と肴を載せて持っている。
まだ、彼は寝ておらず、燭台の明かりで文をしたためているようだった。
「起きておられましたか」
「これはこれは妻女どの」
惟茂は嬉しそうに黄葉を見る。
黄葉は礼をしながら、いったんその場に立ち止まる。
「残念ながら吾は、姉様のような技も持ちませぬゆえ、今宵は何事もなくと思っております」
惟茂は苦笑しながら言う。
「いやいや、たくさんなご馳走をいただいて満腹いたしております。さらに妻女殿のご馳走も戴いたとあらば世の物笑いになりましょう」
黄葉はほっとしたように、惟茂に近寄り酒を注ぐ。
夫には「もしそのようなことがあっても構わぬ」とは言われていたが、他の男に抱かれるのは嫌だった。
「さようにお思いいただけると有難く存じます」
「姉様への文ができましたかな」
「はい、文を認めてまいりました。あなた様を信用いたしますので是非届けていただきたく思います」
「わかりました。必ずや姉様、紅葉様にお届けいたします」
惟茂がそう返事をすると、そのあと少しだけ都のことなどを彼に訊いて、訊きたいことが終われば安心したかのように黄葉は部屋を出ていった。

翌朝、惟茂一行は郡司の館に少し立ち寄り、会津を後にした。


*(六)水無瀬


平惟茂一行は、その後も各所で視察しながら、信濃の水無瀬に着いたのはもう木々が赤く染まる時節だった。
この旅は、急がぬと冬になるな・・そう思いながらも彼は水無瀬で数日を過ごすつもりでいた。

村長の家で名乗り、部下の宿所の手配を頼む。
そして居間に通されてから、惟茂は村長の目を見つめた。
「さて、いつもならば国司の方々は戸隠に泊られますが、今宵はかような田舎へお泊りとは」
村長は警戒心を解かない。
「うまく、旅が進みすぎてこの村が丁度良い塩梅となったわけだ」
そういう惟茂の言葉に村長は答えず彼を見つめる。

「ところで、村長、伺いたいことがござる」
やはり、そう来たかと、村長は少し緊張を解いた。
「そのことが真の目的でしょう。わざわざ山深い信濃を通るのはよほどの大事かと」
「分かっておられるのか・・」
「もちろんでございますが、あなた様が何をなされるか、そこを見極めないといけません」
惟茂は村長の目を見つめる。
「なにもせぬ・・」
「なにもですか・・」
「今は」
「この度は何もないと・・」
「さよう」
「ここへ来られた目的は?」
「紅葉どのに手紙を預かっている、お妹の黄葉どのからだ」
村長は屋敷の者に命じて、惟茂の夕餉をこの部屋に運ばせ、彼が食事をしている間、座を外した。
四半刻ほど後、村長について、紅葉がやってきた。
赤子を腕に抱いている。

部屋に入り、一度平伏し、紅葉は惟茂を見る。
「紅葉どの、お久しゅう・・・」
そう言ったまま、惟茂が思わず涙を流した。
恋焦がれた女がここにいる。
「何方かと思いきや、平様でございましたか」
紅葉は懐かしそうに惟茂をみつめる。
「座ってくれ」
惟茂は目の前の褥を指さす。
紅葉は赤子を抱いたまま座る。

「男児か」
「はい。経若丸と名付けました」
「あの方のお名前からとったのだな」
「さようでございます」
ふうっと、惟茂はため息をつく。
「さほどに、あのお方が好きか」
紅葉は少し考えてから答える。
「もはや、それは分かりませぬ。ただこの子の親があのお方なので」

その言葉を聞きながら、惟茂は懐から手紙を取り出し、紅葉に手渡す。
「なんでしょう?」
「読んでくれ」
紅葉がそれを開けると、そこには懐かしい妹、黄葉の文字が並んでいた。

・・姉、この度は都のこと、聞き及べり。流れこし噂には姉が鬼になられしとか言はるれど、我ら会津のものは誰一人として姉が鬼になられしとは思ひたらぬ。さだめて、なにか、都に不都合のありしにさうらはむ。いかでか、いま都のことは忘れたまはれ、会津へ一日もとく帰りたまふるやうに・・

読みながら紅葉は泣いた。
腕の赤子が母親の異変に気付き、大きな声で泣き出した。
すぐに赤子は村長が連れて行ってしまい、紅葉は惟茂と二人向かい合う。
「われからも願います。どうか、会津へ帰ってくだされ」
「吾はここに流された罪人ゆえ」
「それは何とかする、都に行くのでなければ将軍も何も言うまい」
顔を下に向け、紅葉はかぶりを振った。
「この姿を会津の方々にお見せできますか?」
と、絞り出すように叫んで泣く。
大声で泣き続け、やがて疲れ果てて黙り込んだ。

紅葉どの・・惟茂は見ていられず近くにより、崩れそうな紅葉の身体を支えた。
惟茂の腕に紅葉は抱き留められ、二人はそのまま横になってしまい、長い時間そうしていた。
村長が気を利かせたのか、燭台の明かりはいつしか消されている。
二人はやがて求め合い、睦み合う。

紅葉はこれまでの技を使わず、ただ求め、求められるままだった。
惟茂はここに来て初めて、紅葉という女性の真の姿を見た思いがした。

数日後、村長に見送られ、惟茂一行は都へ向かう。
「しばらくは何もないでしょう。ですが、もし、都で何か異変があればここに飛び火するやもしれません。どうかその時までに心の準備を」
「それはいつ頃になりそうですか」
「たぶん、ここ数年は何もないかと」
村上天皇はこの頃、財政の立て直しに取り組んでいて、要らぬ噂などでは動きそうになかった。

惟茂の出立を、紅葉は赤子を抱いて村の外れから見送る。

 

後編へ続く。


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