story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

うどん

2005年08月14日 15時17分41秒 | 小説
昭和63年、大阪環状線、雨の朝、京橋駅。
プラットホームに溢れる乗客、ひっきりなしに出入するオレンジ色の電車・・
駅のスピーカーががなりたてる・・雨で電車は遅れている。
遅れていようがなんだろうが、電車はひっきりなしにやってきて、その都度ホームにいる乗客が入れ替わる。
電車が吐き出す大量の乗客は、殆どが駅の南北の出口へ向けて流れていくが、一つの電車で必ず数人だけが流れを横切り、ホームの壁の方へ向かう。
そこにはキオスクや飲み物の自動販売機、そして小さな喫茶店と並んでこじんまりとした小屋が作ってあって「大阪うどん」と大きくかかれた看板のうどん屋があった。
うどん屋といっても、駅のホームでのものだ。
立ち食いうどんである。

それらしいつくりの、開け放しの入り口を入ると、右手にチケットの自動販売機、左手にうどんを出すカウンターがあり、客はチケットを購入し、そのチケットをカウンターに出し、調理をしているうどん屋の店員から盆に載せられたうどん鉢を受け取り、こんどは、右手ずっと奥に広がる横並びのカウンターでそれを食べるシステムになっていた。
カウンターは立ち席だが、数脚だけ木のイスが置いてあり、必要な客が自由に使うことが出来た。
カウンター席からはホームの乗客の様子や電車が良く見えた。
電車といっても環状線は一日中オレンジ色の変わり映えのしないものばかりだけれども、それでも1時間に数本は奈良方面からの白い車体に朱色の帯が入った瀟洒な電車を見ることが出来た。

朝の通勤ラッシュはうどん屋にとっても一日で最も忙しい時間帯だ。
遠距離通勤のビジネスマン達は自宅では朝食は摂らない事が多いらしく、会社に近い駅で済ますようだった。
どういう訳かうどん屋で朝食を摂る人は、圧倒的に男性が多かった。

今も一人のビジネスマンが自販機でチケットを買って、受付カウンターにそれを出しているところだ。
「はいよ・・月見うどん一丁・・」
うどん屋の中年の男性店員は投げやりな調子で、チケットを見て、後ろの女性店員に声をかけた。
女性店員がうどん玉をさっと湯通しし、鉢に入れて彼に渡す。
彼はその鉢に、卵を割りいれて、ネギと天かすを入れ、汁を上からかける
生玉子を割る際に手が滑り、玉子の黄身が潰れて麺の上に載ってしまっていた。
「はいよ・・おまちどうさん・・」
彼が待っている客のビジネスマン風の男にその鉢を渡そうとすると、客の男は少しむっとしたようだった。
「おい・・おっさん・・」
客がやや俯き加減に睨んで言う。
「なんでっか?」
店員も横柄に答えた。
「卵が潰れとるやないけ!」
「卵みたいなもん、どうせかき回して食べるもんや・・かまいまへんやろ」
「阿呆か!おっさん、こないな、きちゃないもん、食えるかい!」
「きちゃないやと!人が一生懸命に作ってやってるのに、そういう言い方はないやろ!」
「作ってやるって・・お前、ホンマに商売人かい!わしは客やぞ!」
とうとう怒鳴りあいになってしまった。
顔を真っ赤にして怒鳴りあう店員とビジネスマン風の客、二人の周りには人垣が出来てきた。
「おっさん!どないでもええさかい、はよ、うどん作ってくれや!」
後ろに並ぶ別の客も声を荒げる。
「すみません!」
そう言って若い男が人垣の中に入ってきた。
「松井さん!何があったのです?」
若い男は作業用のガウンにネクタイを締めていた。
その男はうどん店の店員に向かってそう問いかけた。
松井と呼ばれた男は、答えず、憮然として客の男と睨みあっていた。
「お前、ここの責任者か!」
客の男は若い男にそう叫んだ。
「はい!私はレイルフーズサービスの山根と申します・・この者がお客様に何か、しましたのでしょうか?」
「何かしたも糞もあるかい!このおっさん、卵が潰れとるやないか・・そう言うただけで、食って掛かってきたんやぞ!」
客の男の言葉に、山根は松井の方を振り向いた。
環状線の電車が出て行く。
次の電車の行き先を告げるアナウンスがしつこく鳴り響く。
「松井さん!ホンマですか?」
憮然としていた松井は、ようやくポツリと答えた。
「卵みたいなもん、潰して食うもんやないけ・・」
「そやから、それがきちゃない言うてるのや!」
客の男がまた激昂して叫ぶ。
「見せてか・・」
山根はカウンターの上のうどん鉢を手にとって見た。
麺の上に潰れて、だらしなく黄身が広がっていた。
「お客様!申し訳ございません!すぐにお取替えさせていただきます!」
山根は慌てて客の男に頭を下げた。
「取替えだけかい!」
男は山根を睨みつけた。
「そうですね・・なにか、お詫びに他のものも・・ジュースかおにぎりはいかがですか?」
客の男は呆れたように溜息をついて、こう叫んだ。
「もうええわ!こんな気分でここで食えるかい!金返せ!」
「あ・・それでは、こちらへちょっと・・」
山根は、慌てたように男の手をとり、店の外へ連れ出した。
男も素直について店の外へ出た。
「松井さん!あとのお客様の仕事をお願いしますよ!」
山根はそう叫んでから店の外で、客の男と体を密着させて話をする。
「ちぇっ!」
松井は舌打ちし、投げやりな声で「どうぞ!」と叫んで他の客にカウンターへ並ぶよう促した。
「あほらし・・」
「このおっさん、国鉄の余剰人員ちゃうか・・」
「そうやろな・・組合のバッジがあるさかいな・・」
「クビにせなアカンわ・・」
何人かの客jはそう言い捨てて、店の外へ出てしまった。
それでも残った客たちはチケットを持って、大人しく松井の出すうどんの順番を待ってくれている。

うどんの麺に汁をかける松井の調理用の白衣にはJRUと書かれた労働組合のバッジが誇らしげに輝いていた。
松井は無言でうどんを出し続けていく。
ようやく静かになった店の中に山根が入ってきた。
「松井さん・・何度、こんな騒ぎを起こせば気が済むんですか?気をつけてください・・」
山根は松井にそう言った。
松井はそれには答えず、山根を睨みつけてこう言った。
「今の客には、なんぼ払てん?・・わしは、なんも悪うないさかいな!」
山根もさすがにこの言葉には切れたようだった。
「三千円ですわ!松井さん!これは給料日にあなたに支払っていただきますからね!」
「労働者が一生懸命仕事して、何で会社が勝手に詫びた金を払わなアカンねん・・」
「労働者の糞のは、どないでもええんですわ・・ええ加減にしてください!」
「わしは労働者や!一生懸命仕事をしてやってるのや・・」
「その、してやってるって意識、何とかなりませんか?少なくともお客には・・」
「うるさい奴っちゃのう、嫌やったら辞めてやるわい!」
山根は呆れたように、少し声のトーンを落として、言い聞かせ始めた。
「いいですか・・松井さん、あなたは、うちの会社への出向ですから、辞めるっていうことは出来まへんのやで・・2年間、うちでみっちり働いてもらわんと、鉄道の現場へは帰られへんってこと、よう、心に入れてくださいよ」
雨がきつくなってきた。
ホームのスレートの屋根は激しい雨の音を響かせる。
電車が停車する際にも、ブレーキの甲高い音がする。
「もういっぺん、心を入れ替えて、頑張らな・・行くところはおまへんのやで・・」
山根は、それだけを言うと、店から出て行った。
松井は憮然とした表情で、折から入ってきた客のチケットを受け取り、蚊の泣くような小さな声で「天ぷら蕎麦・・」という。
「はあ!?」
奥で麺をゆがく女性が聞こえないという苛立ちを声にした。
「天ぷら蕎麦や!」
松井は怒鳴り返しながら、やるせない怒りの持って行きようが、何処にもないことを実感として噛み締めていた。

その日は早番で朝の仕事をしていたので午後2時には彼は家路についた。
彼の自宅は操車場があった場所に程近い、かつては国鉄官舎と言われた社宅にあった。
午後の空いた電車で松井は、座ることもなく、ただ、電車の扉にもたれかかり、外の景色を眺めながら考えている。

松井は一昨年まで、国鉄の操車場で働いていた。
機関車が突放する貨車のステップに乗り、前に停車している別の貨物列車の後部に連結をする。
言葉で言えば簡単な仕事だが、ブレーキは自分の足でかけるしかなく、タイミングを間違うと連結どころか衝突してしまうし、前にいる列車にきちんと届かなくて途中で止まってしまうと,どうしようもない状態になる。
経験と勘の必要な仕事だった。
松井はこの仕事に自信をもっていた。
自分ならきちんと、突放された貨車を、ショックを誰よりも少なく連結できる・・そういう自信はあった。
彼は職場を愛し、線路を愛し、仕事に誇りをもっていた。
彼は他人が嫌がる組合の役員も喜んで引き受けた。

けれども、その職場は貨物列車の大合理化であっけなく廃止されてしまった。
松井は最後まで職場に残り、現場の管理者側との交渉ごとに力をつくした。
それは組合員一人ひとりの配置転換がほぼ目処がつくまで続いたのだ。
やがて、彼も職場を離れる日がきた。
彼は車掌区に回され、電車の車内でキップやプリペイドカードを販売する仕事についた。
客商売は生まれて初めてだ。
「ありがとうございます」がなかなか言えなかった。
そんな彼を車掌区の組合は暖かく受け入れてくれた。
けれども、彼は本職の車掌ではない・・いくら頑張っても給料は他の車掌のようには上がらない。
1年余りその仕事をしていて、ある日、車掌区の助役に呼ばれた。
行ってみると出向はどうかという。
彼は自分がいくら頑張っても、車掌区にとっては居ても居なくてもいい人間だったと気がついた。
出向先はいくつかあったけれど、一番、のんびりしていそうな子会社のうどん店に決めたのは、ほかならぬ彼自身だった。
けれども、国鉄から分割された民間会社がその系列で作った外食サービスの会社は、彼の予想以上に厳しかった。
マネージャーは国鉄職員だった過去を持たない、民間会社からの引き抜きで、会社は徹底して効率と売上を求めてきた。山根もそういうマネージャーの一人だった。
それでも、彼は労働組合役員の肩書きはそのままだったから、会社のマネージャーには「条件などで腑に落ちない面があるときは話し合いに応じる」という口約束を認めさせていた。
けれども、それは世間で就職を決めるときに交し合うごく当たり前のことで、ただの挨拶代わりにしかならないことも、ようやくわかるようになって来た。
それが分かっても、やはり「ありがとうございます」と大きな声ではなかなか言えなかった。
ただ、うどん店ということもあり「まいど!」「へい、おおきに!」といった程度の挨拶で済むこともあり、それが彼が今日まで堪えることの出来た部分であったわけだ。
これまでも小さなイザコザはたくさんあった。
注文の聞き間違い、汁の湯加減の間違い、麺のゆがきすぎ、反対に麺を殆どゆがかず出して客に怒鳴られたこともあった。
彼自身、生来は器用な方だ。
そのときは腹が立つが、すぐに二度といわれないよう気をつけて仕事をしていた。

けれども、今日のは違う・・松井はそう思っていた。
「あれは言いがかりや・・」
彼は思い返すたび、そう自分に言い聞かせていた。

電車が自宅の最寄り駅に着き、自宅への道をのんびり歩きながら彼は考える。
「いっそのこと、JRを辞めてしまおうか・・」・・思いは果てがなく、考えれば考えるほど、悪い方向に向かっていくような気がしている。
社宅の階段を上がり、3階の自分の部屋の扉を開けた。
「パパ!」
彼の気配を感じて一人娘が抱きついてきた。
まだ4歳になったばかりだ。
「おかえりなさい!」
この頃はハッキリした口調で喋るようになった娘・・
「あなた・・おかえりなさい・・」
妻の声も聞こえる。
うどん屋に出向に行く時、一番反対したのが彼の妻だった。
娘を抱き上げ、抱きしめていると、涙が出る。
「パパな・・会社は辞めへんからな・・」つぶやくと、「どうしたの?あなた・・」妻の不審気な声が聞こえてきた。
妻には泣き顔は見られたくない・・彼は咄嗟に涙を手のひらで拭った。

数日後、昼間の空いている店に、珍しく老婦人が小さな女の子を連れて入ってきた。
自動販売機でチケットを買うにも戸惑っているようだ。
「おばあちゃん、あたし、きつねうどん!」
女の子がせがむが、老婦人には数多いメニューの中から、目的のボタンを押すのが難しいようだった。
松井は思わず、カウンター下の木戸を開けてその二人の近くへ行った。
「きつねうどんでっか?」
「はい・・すみません・・」
老婦人は恐縮したように、そう答えた。
「ひとつで、ええか・」
「はい・・あ・・いえ・・ふたつ・・」
老婦人はしどろもどろになっている。
「おばあちゃん!おにぎりも!」
女の子がせがむ。
おかっぱにした髪が彼の娘を思い出させた。
彼の娘よりは一つか二つ年上だろうか・・
「おにぎりは・・ひとつでっか?」
松井は老婦人に問いかけた。
「あ・・あの私もですから・・ふたつ・・お願いしたいのですが・・目が見えにくくて・・すみません・・」
千円札を老婦人の手から預かり、自販機に入れ、きつねうどんとおにぎり二つずつを選択してやって、お釣を老婦人に手渡した。
「ありがとうございます・・すみません・・」
ひたすら頭を下げる婦人に彼は手で「いいよ」と合図をして、木戸をくぐり、中の女性店員に大きな声で言った。
「きつね2丁!おにぎり2個!」
「はいよ!」
元気な声が返ってくる。
「おばあちゃん!やさしいおじちゃんね・・」
女の子が老婦人に笑顔で話し掛けている。
「ほんとうね・・おばあちゃん、助かっちゃった」
婦人がそう答えている間に、うどんは出来上がった。
おにぎりも棚から取り出した。
盆にそれを載せ、老婦人に渡そうとした松井は思いとどまり「ちょっと待ってや・・」と言い、木戸をもう一度くぐり、その盆を自ら持った。
「熱いさかいな・・持っていったげるわ・・」
そう語りかけ、彼はその盆を客用のカウンターの奥に運んで、木の椅子を2脚、その前に置いた。
「ここで召し上がってか・・ゆっくりとどうぞ!」
老婦人は感激して何度も彼に頭を下げ、孫らしき女の子と並んで座った。
二人が並んで、うどんをすする後姿が、彼にはこの上ない大切なもののように思えてきた。
「おばあちゃん!ここのおうどん、すごく美味しいね!」
女の子が喜んで食べている。
「本当だね・・おじちゃんも親切でよかったねえ・・」
松井は少し照れくさくなって、余所見をしていたけれど、老婦人がきれいに食べ終えた二人分の食器を持ってきたとき、思わず「毎度あり!またどうぞ!」と叫んでいた。
二人が帰ったあと、松井は女性店員に「うどん屋って、ええもんやな・・」そう、ぽつりと言った。

その日の帰路、彼はいつも乗り換える駅のホーム脇にある立ち食いうどん店に立ち寄った。
他所の店がどの程度の味なのか、気になったのだ。
店は混んでいた。
湯気を立てて、うどんや蕎麦をすする客の雰囲気は、彼が居る店と大差はなかった。
その店は自動販売機はなく、受付の婦人が居て、そこでチケットを買うようだった。
メニューの豊富さに驚き、一瞬迷ったが、それでも彼は次の瞬間には「天ぷらうどんとおにぎり」と叫んでいた。
チケットを貰うと同時に、その女性が「うどん・天ぷら一丁!おにぎり一丁!」とマイクで叫んだ。
彼がチケットを持ってうどんを渡してくれるカウンターに行くと、もう、うどんは出来ていて「はい!こちら、天ぷらうどんとおにぎりです!ありがとうございます!」そう言って店の男性が盆に載せた二品を出してくれた。
その男性の声もマイクに載って店中に広がっている。
うどんを受け取り、いくつか作ってあるカウンターの一つにそれを置くと、割り箸や唐辛子と交ざって、テンカスが置いてあるのが目に入った。
周りの客を見ると、無造作にテンカスをうどんに入れているようだった。
彼も少しそれを取ってうどんに入れ、汁を少し飲んでみた。
「汁は・・うちのほうが美味いな・・」
そう感じた。
少し舌が痺れる感じがする。
麺を口に入れる。
腰はあるけれど、ぱさぱさしているように感じた。
おにぎりも一口頬張ってみた。
「おにぎりは・・美味いな・・」
ほんの少しの時間で彼は全て食べ終えた。
食後の後味はよく、満足な感じがしたけれど、自分の店のうどんの方が、より「うどん」らしい気がした。
店を出るとき、受付に座っている女性が「ありがとうございました!」と言う声がマイクを通して追いかけてきた。
「美味い・・っちゅのは・・味も大事やけど、雰囲気も大事なんかいな・・」
大勢の客で賑わう店を外から眺めながら、そう独り言を言ったけれど、彼は、初めてまともに今の仕事のことを考えている自分には、気が付かなかった。

「おい!松井やないか・・」
翌日の昼前のちょっと客の数が減る時間、チケットを買った運転士風の男が彼に声を掛けた。
「肉うどん一丁!」
心なしかいつもより元気よく後ろの女性店員に伝えながら、松井はその運転士風を見た。
「わしや・・福田や・・」
「おう!」
松井は驚いた。
操車場で一緒に仕事をしていたかつての仲間だった。
「お前、ここ出向か?」
福田は不躾に聞いてきた。
「おう!2年な!」
「ふうん・・」そう頷きながら、福田が、彼を見下げるような目で見ていることに、松井は気がついた。
「お前、まだその組合か?」
松井の胸のバッジを見て福田が問う。
「ああ・・」手短に答える
うどんに汁をかけ「お待ちどうさま!ごゆっくりどうぞ!」
そう言って、鉢の載った盆を差し出した。
福田は軽く頷きながら、盆を手に、客用のカウンターに進み、そこでうどんをすすっている。
やがて、うどんを食べ終えた福田は食器を返しながらこう言った。
「組合は、早うに辞めたほうがええで・・お前も線路に帰ってきたかったらな・・」
「お前は・・今は何をしとるんや・・?」
「運転士や・・見たら分かるやろ・・学研都市線に乗ってるのや・・」
「組合は?」
「とうに変わったわ・・いつまでも、あの組合におったら、花が咲かんさかいな・・」
別の客がチケットを持って入ってきた。
「天ぷら蕎麦一丁!」
気持ちよく叫び、福田を見ると福田は彼を哀れむような口調になった。
「まあ・・かつての組合の役員さんも・・うどん屋の親父になったのう・・」
福田は言い捨てて店を出て行った。
松井は聞かぬフリをして、それでも、心の底が抜けたような、苦しい気持ちになった自分を押さえていた。
「おまちどうさま!天ぷら蕎麦です!」
客に盆を渡しながら、松井は、ざわざわと心が揺れてくるのを感じている。
そのときだ。
マネージャーの山根が入ってきた。
「松井さん!今日はいい感じじゃないですか!その調子ですよ!」
機嫌よく山根は笑顔で言う。
松井は揺れ始めた気持ちを押さえ、山根に言った。
「山根さん!昨日、O駅のうどん屋に行きましたよ・・」
山根は一瞬、きょとんとして、すぐに興味深いような表情になった。
「O駅ですか・・どうでした?」
「はい・・うちのうどんのほうが、うどんらしい気がしましたんや・・」
「ほう・・それは・・・」
山根は松井の顔を見て、ちょっと言葉を呑んでから言った。
「とても、素敵な感想ですねえ・・実は、うちが目指しているのも、本物に近いうどんなんです」
「本物に近い?」
「そうです」
「ほなら・・・これは、ホンマもんとは違いますのんか?」
「うーんと、例えば手打ちの、きちんとしたうどんに出来るだけ近くなっていこうと、してはいるのですが・・」
「手打ち・・それがホンマもんでっか・・それは・・何処で食えますのや」
「大阪のうどんも美味いですけど、僕は讃岐が好きで・・」
「讃岐・・高松の・・」
「でも、立ち食いは時間勝負と値段勝負ですから・・今くらいが限度ですけどね・・」
そう笑いながら、山根は店を出て行った。
チケットを持った次の客が立っていた。
「はい!月見うどん一丁!」

開通して間もない瀬戸大橋を電車で渡り、松井が高松へ向かったのは、それからいくらも経たない彼の公休の日だった。
高松には操車場時代の友人、河合が住んでいて、彼は国鉄改革のときに、故郷へ帰りたいと上申し、それが認めらたのだった。
松井は讃岐うどんのことを、河合に電話で聞いたところ「うどんなら任せとけ・・」と言われ、好意に甘えて高松まで来たのだった。
マネージャーの山根が言った「讃岐」のうどんを本場で見たかったのだ。
高松駅に来るのは初めてだった。
電車を降りると、ホームの端に「讃岐うどん」と書いた暖簾が見つかった。
松井は、まず、そこに入ってみた。
「天ぷらうどん」注文し、代金と引き換えにうどんの鉢を渡してもらう。
一口、食べてみる。
麺には確かに腰はある。汁も彼の店で出すものより少し濃い。
美味いことは美味いが、彼の店に比べ、はるかに出来がいいとは感じなかった。
「こんなものか・・」
彼は腑に落ちない気持ちで、改札口を出た。
そこに河合が来ていた。
手を振り、近づき、大袈裟に抱き合う素振りで再開を喜んだ。
中年の男二人が大声で、大袈裟に語り合うのだから周りの人の目を引いた。
「待たせてすまん・・そこのうどん屋で、まず食ってみた」
「ほう・・どうじゃ?うまいか?」
「美味いとは思うが・・さして感動するほどではない」
その答えを聞いた河合は「上等な答えじゃ・・あそこは立ち食いじゃけん、仕方がないがの」そう言って笑った。

河合は彼を、市内のうどん専門店に連れて行った。
彼が始めてみるセルフサービスのやり方で、客はめいめいにうどんを取ったあと、上に載せる具を選んで、最後にはおでんまで置いてあり、それも殆どの客がとって行くようだった。
席につき、麺を一口すする・・
「これは!なんや!」
松井が叫ぶのを、河合はニヤニヤしながら見ている。
麺の感触がこれまでに彼が味わったことのないものだったのだ。
硬いとも、軟らかいともいえず、確かに腰はあるけれど、噛み切れない不快な硬さではなく、噛むことが快感になるような感触なのだ。
「これが・・讃岐か!」
「いや・・まだまだこんなもんじゃあ、ないけんね」
河合はそう言って、自分もうどん鉢に首を突っ込んでいた。

「このうどん、どうやって作るんや・・」
松井は食べ終わってから河合に訊ねた。
「どうやってって、言われてもなあ・・」
河合は店の天井を眺めながら、含み笑いをしている。
松井は、立ち上がると、調理場のほうに歩み寄った。
「すみません!このうどん、どないして作るんでっか?」
大声で調理場の女性に尋ねる。
女性は明るい声で笑っていたが、やがて「こっち、きんさい!」と彼を招いてくれた。
ちょうど、小麦粉を練ったものを伸ばしているところだった。
床に置いた広い板の上に練った小麦粉を載せ、それの上に大き目の布巾のようなものを乗せる。
その上から、女性の一人が踏み込んでいく。
ある程度踏み込んだら、今度は板状になったそれを両手で巻き取るように、棒状にする。
またそれを布巾を掛けて踏みこむ。
また、できたものを巻いていく。
また布巾を掛けて踏み込む・・それをまた巻いていく。
そこまですると、布巾を掛けたまま、台の上に持ち上げて置いた。
「これを切ると、うどんになりまんのか?」
女性はまた笑みを浮かべて「まだまだじゃわ・・これをしばらく寝かせて、へそ出しして、寝かせて、まるけして、寝かせて、また踏み込んで、また寝かせて、伸ばして伸ばして、そんで、やっと切ってうどんになるんじゃ」
はあ・・溜息をつきながら、松井は調理場の女性を見つめていた。
「いやあ・・よう、分からんが、とにかく大変やってことは分かりました。すみません・・ありがとうございます!」
彼は礼を言って、店を出た。
「また、おいでまいよ!」
機嫌よく店の人たちが送り出してくれた。

「讃岐は・・奥が深いなあ・・」
河合の運転するクルマに乗るなり、松井は溜息をつきながら言った。
「まだまだ・・奥が深いんじゃ・・もう一軒、行ってみようかい・・」
河合は、悪戯っぽく笑いながら、クルマを郊外へ向けて走らせた。
「もっと、すごい店があるのか?」
「店っちゅうか・・なんちゅうか、よう分からんがの・・」
「わからん?」
「行ってからのお楽しみじゃあ・・」
郊外に出ると田園の向こうに、奇妙な形をした小山が幾つも見える。
まるでお伽の国のようだ。
そのうち、河合は田圃の真ん中の、駐車場に見えなくもない場所にクルマを止めた。
「ここは・・店なんかあるんかいな?」
「じゃから、店っちゅうか・・」河合はブツブツ言いながら、それも、言葉の意味には要領を得ないで、あぜ道のようなところを歩き出した。
農家の納屋のような建物に、古い琺瑯の看板と、米穀店の文字が見える。
「これは、米屋やないけ・・」
不審がる松井をよそに、河合はつかつかと、その米穀店らしき建物に入っていった。
「おばちゃん!わしや!」
河合が店の入り口から叫ぶ。
「はいよ!河合はんかいね・・入りまいよ!」
うすくらい奥から年配らしい女性の声が聞こえる。
「うどん、もらうで!」
土間のような場所に簡単な机があり、その上に布巾を掛けたうどんが置いてあった。
横にどんぶりがある。
河合は「松井も食えよ・・」そう言って、うどんをどんぶりに入れ、そのまま、別の机の上にあった刻みネギと醤油をかけた。
松井は何がなにやら分からず、同じように真似をした。
割り箸でかき回して食う。
その瞬間、松井は驚いた表情になった。
驚いて麺を口に頬張ったまま、言葉が出ない。
美味いとかまずいとか言うのではなく、何か自分の知らない世界に足を踏み入れたような気になったのだ。
「これは・・うどんか?」
ようやく、うどんを飲み込んで、彼は河合の顔を見た。
「うどんじゃあ・・間違いはないがの・・」
河合はおかしくてたまらないと言う顔で答えた。
「どない?今日のは?」
奥からさっきから声だけだった女性が出てきた。
笑顔だが、そのまま農作業が出来るような格好だ。
「おう!まあまあじゃあ・・」
河合がそう答える。
松井は、言葉で表現の仕様がなく「すごい・・すごいですわ・・」と、同じことを3度も繰り返した。

田んぼの中を吹いてくる風が開け放しの窓から入ってくる。
「讃岐かぁ・・」
松井がポツリとつぶやいた。
「讃岐じゃあ・・」
河合もそう受ける。
「変な人らやね・・」
店の女性が屈託のない笑顔で見ている。

その日、遅く、自宅に帰った松井は、妻の顔を見るなり、こう言った。
「おい!わしは、わしはのう、うどん屋になるぞ!」
彼の妻は娘をあやしながら、きょとんとしている。
「うどんは、奥が深いぞ!貨車の入換よりも、組合の理念よりも、奥が深いぞ!」
上気した松井の顔は子供のように輝いていた。

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