story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

酔った猫

2007年06月08日 09時08分43秒 | 小説

大阪からのJR神戸線の快速電車の中。
やっと一日の仕事から解放されて、僕は自宅近くの駅を目指している。
今日も遅くなってしまった。
仕事も会社も大嫌いだ。
でも、他に生きる道があるのかどうなのか?
僕には分からないし、もしも転職の可能性があるにしても、またあの面倒な面接とやらを受けねばならないことは苦痛だ。
何度かの転職を経験した僕は、しばらくあの屈辱にも似た緊張感を味わいたくはないのだ。
仕方なく、僕は楽しくもない会社で楽しくもない仕事をしている。

今日も、もっと早く会社を出ることは出来たのだ。
だのに、突然の営業ミーティング・・・
所詮は上司が本社あたりでこってり絞られてきたそのお釣りと言う訳だ。

ふと、僕が立っている目の前の座席があいた。
僕は何も考えずに、座ればゆったり出来るその座席にありついた。
背もたれに身を任せ、軽く目を閉じる。

車内の雑音、レールジョイントの軽いリズム、すれ違う列車の風のような音。
大嫌いなはずの会社の、事務の女の子だ。
案外、可愛い子だなあとは、入社したときから感じていたのだ。
彼女の横には大嫌いなはずの上司が二人、笑顔で立っている。
僕は、妙に素直になった自分を我ながら可笑しく感じている。
会社のロビーかな・・
明るい、ゆったりとした空気だ。

人の動きではっと気がついた。
夢を見ていたようだ。
汗をかいている。
「どこだろ・・」
そう思い、窓から見える駅の雰囲気に、僕はとっさに席を立ち、電車から転げ落ちるように閉まりかけたドアから外へ飛び出した。
降りたばかりの乗客で溢れるプラットホームから、暗闇のような森とその先の小さくライトアップされた城郭のそこだけが残っている櫓が見える。
明石・・
僕はいくつも駅を乗り過ごし、明石まで来てしまった。

折り返さねば・・そう思うものの、とりあえずどこかで休憩がしたかった。
驚くような大勢の降車客に交じり、僕はICカード型の定期券で改札を出た。
チャージ残金350円・・

改札を出ても人の波の中、僕は人波を避けたくて駅北側の公園・・先ほどホームから見えた明石城址の公園へ向かう。
道路を渡り、石垣の間から公園に入るとそこは都会とは思えぬ暗闇の世界。
路傍の石に腰をかけ、煙草を取り出した。
火をつけ、大きく吸いこみ、吐き出す。
一日の苦しみが吐き出されて天に昇っていくようだ。

しばらく休憩したら帰ろう・・
そう思うけれども、腰が上がらない。
去年から始まった今の生活の、その只中に帰るのを少しでも遅らせたい気持ちはあった。

闇に目が慣れてきて、少しは周囲のものが分かるようになってきた。
人影が揺れながら近づいてくる。
どうせ、酔っ払いが居場所をなくしてさ迷っているのだろう・・そう思う。
よしんば、スーツを着た僕を誰かが脅しに来ても・・それはそれで楽になって良いとさえ感じる。

やがて、その人影の輪郭が女であることが分かる。
女は揺れながら近づいてきた。
僕が座っているそのすぐ前で、女はよろめいて倒れた。
「大丈夫ですか!」
僕は立ち上がり、その女に近づいた。
「あ・・・このまま打ち所が悪かったら死ねるのに・・」
若い女だった。
酒臭い息を吐きながら、それでも、女は「ごめんね・・知らない人に迷惑をかけちゃった」という。
「死にたいのですか?」
僕は女を起こしてやりながら聞いた。
「死にたいのよぅ・・自分を消してしまいたいの」
女はそう言った途端、僕に抱きついてきた。

僕は女を押し返し、立ち上がるべきだったかもしれない。
でも、そのときの僕は、情けなくもその女の身体の妙な温かさを感じてしまい、そのまま女を抱きしめてしまった。
「好き!」
僕は、女の言葉には答えず、黙って女の身体を抱きしめていた。
酒と煙草の臭い。
僅かな明かりに照らされる女のその顔は、これまでに見たことのない美しさに感じる。

僕には妻も子もある。
自制しなければと思う。
けれども、僕は男だ。
いきなり飛び込んできた女のなぜか不思議ななまめかしさに、惑わされても不思議ではない・・一瞬の間にそんなことまで考える。
女は、目を瞑って僕に顔を寄せてくる。
僕は迫ってくる彼女の顔を避けた。
「ふ~ん・・」
女は呆れたように僕の顔を見つめたけれど、すぐにまた僕に身体を押しつけてくる。
温かい女だ。
女の柔らかい感触が情けなくも僕の男を目覚めさせてしまう。

僕たちは暫く抱きしめ合う時間を過ごしてから、そこを離れた。
「家はどこ?」
「加古川・・」
「電車で帰るの?」
「帰るの・・でも、帰りたくない」
「どうして・・」
「明日が来るのが嫌だから」
そう行ったかと思うと、女は宙を見上げる。
「ね・・煙草持ってないですか?」
僕は、ふらつき揺れる女に自分の煙草を渡してやり、火をつけてやる。
「マイルドセブンか・・オヤジ煙草だな」
女は美味そうに煙草を吸って空に向かって吐く。
「僕はオヤジやからね」
そう、僕は42歳、どこから見ても疲れ切ったオヤジだ。

ふらつく女を僕は時々支えてやりながら、夜の明石をさ迷う。
「名前はなんて言うの?」
「名前?人に尋ねるときは自分が名乗るものだぞ」
ろれつの回りきらない喋り方。
「すまん・・僕はアベトシオだ」
「ふ~ん・・変な名前・・」
「へんで悪かったな・・約束だぞ・・・君の名前は?」
「タカクラカスミ!28歳だぞ。文句あるか?」
「文句はないよ。カスミさんか・・」
「文句がないならそれでよろしい!」
酔っ払い、ふらつく女・・
今夜は酒など一滴も飲んでいない僕なのに、自分も酔っているかのような錯覚に陥ってしまう。

「なんで、明日が来るのが嫌なの?」
僕がそれを聞いた途端、彼女は僕から離れた。
「それを聞くのは前彼と同じだゾ!」
「悪かった・・でも、気になるじゃないか」
「あんたも、あいつと同じだな・・あたしは消えたいだけだよ・・」
「振られたからか?」
彼女は、僕を真正面から見据えた。
恐ろしいような美しさが僕を惹きつける。
「それはもう、何年も前!」

鉄道のガードをくぐり、駅前広場を通り抜け、国道を渡る。
もとより明石の町に当てなどない。
彼女は、妙にくっついたり、はたまた離れたりしながら、ふらつき歩いていく。
店がすっかり閉まっている魚の棚の商店街で、スケートボードを楽しんでいる少年達の間を通りぬけ、ふらつき、目的もなく歩く女を支えて歩く僕は、自分が何を考えているのか、分からなくなってきた。
時折、野良猫がこちらを見ては、走り去っていく。

僕は、道端の自販機で缶ビールを買った。
自分も酔わなければ彼女の話も理解できない・・
「いいもの買ったねえ・・」
僕が一口飲んだビールを、彼女は奪い取る。
そして、一気に飲み干してしまう。
「おいしいねえ!」
仕方なく、僕は次の自販機で今度はビールを2本買った。
「どうして2本も買うの?」
彼女が聞いてくる。
「君の分・・」
「いらない!」
「は?」
「いらないの!」
「じゃ、2本とも僕が飲むよ」
僕は、1本目を今度は一気に飲み干した。
僕たちはいつしか商店街を抜け、広い通りを海のほうへ向かっていた。
2本目の缶ビールを開けて、それを僕が飲み始めた頃、彼女はすっかり大人しくなり、僕の肩に持たれかかって歩いているだけになった。
「頂戴・・」
小さくそう言う。
缶を渡す。
「わかってないなあ・・」
彼女はそう言いながら、手渡したビールを半分ほど開ける。
「こういうことなんだけど・・」

港の船溜まり、漁船が係留されている橋の上で、僕たちはくちづけをした。
長い、長い時間、そのままで僕たちは立ったまま・・
酒の臭い、煙草の臭い、汗の臭い、あらゆる臭いがそこに含まれているように思う。
さっき出会ったばかりの不可思議なこの子が、心から愛しく、僕の数ヶ月の苦闘も全てがそこに飲みこまれていくように感じてしまう。

フェリーが港から出て行くところだ。
オレンジ色の街灯に照らし出された小さな港から、さして乗客もあるまいと思われる船が、船体に面白げな蛸の漫画を画いた船が・・出て行く。

「なんで消えたいの?」
この問いはしてはいけなかったなあと思いながらも、僕はまた聞いてしまった。
「自分を消してやりたい・・」
「なんで?」
「わららないの・・でも、あたしが死んだらたとえ少なくても何人かは悲しむだろうな」
「僕も悲しむ」
「そうだよね・・優しそうやもん・・名前・・なんだったかなあ」
彼女はそう言って、始めて軽く笑った。
きれいな笑顔だ。
「アベトシオだ」
「アベさんだったか・・忘れてたわ」
今度は僕が噴き出した。

「酔いは覚めたの?」
「酔い?はじめから酔ってないわよ」
「嘘や・・さっきのキス、思いきり酒の匂いがしたぞ」
「お酒は飲んだけど、酔ってないもん」
「ろれつも回ってないし、歩いていてもふらついているじゃないか」
「あたしはいつも、こんな喋り方なの。ふらついてなんか、いないし」
嘘だ・・ふらふらしてるぞと言おうとしたけれど、その言葉は僕からは出てこなかった。

海からの風には少し湿気が含まれていて、心地が良いとは言えないけれども、それでもその風がありがたい。
夜の海、沖を行く船、遠くに見える海峡大橋のライトアップ、対岸の淡路の山の輪郭と海辺の町の明かり・・

「人間って・・おかしなもんだよな・・」
僕は呟く。
「そうかなあ・・」
「俺はまともだ・・って思っているやつほど実は思いきり変なのかもしれない」
「それは言えるね・・」
「偉そうに会社のデスクで座っているやつなんか、変なやつばっかりなのかもしれない」
「それは違うな・・いい人もいるよ」
「そうか・・」
「それはね・・あなたが何か、歪んでるのよ」
「歪む?」
「そう・・今の会社が嫌いだとかさ・・・」
僕は自分の心の中を言い当てられたような気がした。
この女は、もしかしたらするどい感覚を持っているのかもしれない。
彼女の先ほどのふらつき、ろれつの回らない状態が嘘のようだ。
「ね・・携帯の番号教えてよ」
「いいよ」
僕は自分の携帯電話の番号とアドレスを手帳に書いて、そのページをちぎって彼女に手渡した。
「ありがとう・・電話かメールしても良いですか?」
「いいよ!」
「ありがとう!じゃ・・」
「じゃ?」
「お母さんに心配かけるから:」

そう言ったかと思うと、彼女はいきなり走り始めた。
駅のほうへ向かってだ・・
僕は少し、追いかけようとしたけれど、しばらくして諦めた。
二〇代の彼女に体力で叶うわけもなく、そのまま駅へと歩くことにした。
走り去ってしまった彼女の姿はどこにもなく、僕は商店の大半が閉まった大通りをゆっくりと歩いた。

もう少しで駅だと言うとき、携帯電話にメールの着信が入った。
「今日はありがとう!また愚痴を聞いてもらって良いですか?今、新快速の中です。」
滅多に携帯電話のメール機能を使わない僕はたどたどしく、時間をかけて打ち込んだ。
「こちらこそありがとう。気をつけて帰ってください」
すぐに返信が入る
「向かいの席に変なおっさんがいます・・気色わるい・・」

まるで、猫みたいな女やな・・
そう思うとなんだか、愛しさがこみ上げ、同時に可笑しさも感じ、自分が味わう今の苦闘もどうでも良くなってきた。
僕は彼女に惚れたのかもしれない。

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