story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

フルートの少女

2023年01月19日 18時53分08秒 | 小説

僕が写真館に弟子入りさせてもらって、修行中の頃の話だ。
ちょうど平成に入ったころだろうか。
修業とは言っても昔の弟子入りのように師匠の家に住み込みで働くのではなく、DPEやカメラ販売、写真撮影などを事業としている写真会社のスタジオで、師匠も「先生」とは呼ばれるが、スタジオの店長で、僕も修行中とはいえ写真会社の正社員だった。

ある時、師匠の江藤先生が休みだった。
僕はスタジオの裏手でネガの修整をしていた。
ブローニー版のモノクロネガに修整用鉛筆で皴などを隠す作業だ。
当時の写真館にはどこにでも、修整や仕上げ用の小部屋が作ってあった。

ネガフィルムの裏から照明を当てる修整台においたネガを、修整用のルーペを通して拡大してみて細かく鉛筆の芯を入れていく作業はある意味無心になれる時間でもある。

没頭していると受け付け係の女性、桜田さんが僕に声をかけた。
「大野さん、プログラム用の撮影をという方がお見えなんですが」
「今日、先生がお休みだから・・」
「あら、それくらいの撮影は先生がお休みでもしてもらわないとね」
下手な写真を撮ればまた先生から小言が来る・・僕の脳裏に浮かんだのはその様子だが、予約なしで来てしまったお客は仕方がない。
「どんな方?」
受け付け係に訊く。
「若い女性、フルートを持ってきてる・・あとは自分でごらんなさい」
「はい・・はい」
僕は言われるままに受付に向かう。

写真スタジオだけあって受付は白っぽいお洒落な雰囲気でまとめてある。
大きな鏡もあるし、見本というには美しすぎる大きなポートレートが何枚も飾ってあり件の女性は興味深そうにそれらを眺めていた。

「いらっしゃいませ・・当館へようこそ」
僕はにこやかに女性に声をかけた。
はっとして振り向いた女性は若いのには違いないが、全体がかすれたような雰囲気で、化粧っ気もなく華やかさは感じない。
ただ、口紅だけはしっかりと塗っているようだ。

女性はお辞儀をしてもう一度、かなりしっかりと僕を見た。
「プログラム用ですね」
「はい・・」
「モノクロですか、カラーでお考えですか?」
一瞬考えながら女性は「簡単な印刷なのでモノクロでいいと思うのです」という。
そしてまた、僕をじっと見つめる。
綺麗なまつ毛のある、大きな黒い瞳、どこかで見た目だ。
それに声もどこかで聴いたことがある。
思い出そうとしたが、その前に女性が叫んだ。
「大野さんではないですか!」
「はい・・まさに私は大野ですが」
僕にはまだ思い出せない。
「あの、高村義一の妹の高村さえ子です」
女性が僕を見つめる。
「あ・・思い出しました!随分前・・たしかまだ中学生だったころにご家族でどこかへ引っ越されたのでは」
「そうなんです、あれから大阪へ引っ越してしまって」
女性、さえ子の目に僅かに涙が見える。

********

その10年ほど前、僕はK市の市営住宅に家族で住んでいた。
父がこの町で亡くなり、住んでいたのが社宅だったために改めて市営住宅を借りたものだった。
その住宅に高村義一という僕より三つほど年下の男がいた。
高村君のところも父親が出奔し母親と彼・彼の妹である長女・次女が住んでいた。
高村君は中学を出ると働かざるを得ず、町工場で仕事をしていた。
僕も似た境遇だが、入社したのが大企業の養成工だった事もあり、まだ高村君よりは落ち着いた生活をしていたように思う。
高村君の家に遊びに行くと、隣の部屋で妹さん、つまり・・さえ子さんが勉強をしている姿を見ることがあった。
中学校では吹奏楽部でフルートを奏で、秀才の誉れも高かったが、家庭がこのありさまでは進学など到底覚束なかっただろう。

高村君はクルマが好きで、免許を取る年齢になると即座に免許を取得、そして高級車を無理して買った。
このことが彼の一家を苦しめることになる。
世はバブル、到底、支払えそうにない若者にも堂々と多額の金を貸していた時代だ。
彼の働きでは車のローンや維持費などを賄うのが精いっぱいで、家族は生活できない。
やがて彼は家族を邪魔に思うようになり、家族は困窮する。

ある日、彼の母が娘二人を連れて家を出ていってしまった。
行先は大阪の親戚宅だという。

がらんとした部屋で義一はひとり、青春を謳歌していたがそれも長くは続かない。
彼の起こした事故で彼の愛車は屑鉄となり、それをきっかけに彼はやがて友達のクルマを借りたまま行方不明となった。
噂というのは不思議なもので、K市から遠く離れた大阪の街で暮らすはずの母と娘たちの事も流れてくる。
「あの娘さん、売られたらしいで…高村さんのお母さん、鬼や」
僕の母が外で聞いてきた話をする。
だが、売られたという事がどういうことなのか、僕には理解できなかった。

*******

さえ子を誘い、僕は第一スタジオに入った。
この写真館にスタジオは二つあって、第二スタジオは小ぶりで証明写真専用、第一スタジオはある程度の人数の撮影もできるやや大きな設備があった。
上半身のポートレートだから証明写真のスタジオでも十分だが、なんとなく、彼女との時間を大切にしたくなってきていた。

まず、作例を見せてどのようなものにするか、選んでもらう。
数多の先生の作品の中から、彼女が指さしたのは胸から上、女性がフルートを持っている写真だ。
だが、さえ子の今日の恰好ではどう頑張ってもこのようには撮れない。
まず、着ている衣服が地味すぎるし、何の飾りも身に着けない写真では華やかさとは程遠い。

そこで僕は「スタジオに常備しているアクセサリーを使いましょう」と提案した。
撮影小物の類で、イヤリング、ネックレスなどもある。
だが、女性演奏者のプログラム用写真に欠かせない華やかさは…
「肩を出されるのはどうでしょう?」
そう提案するとさえ子は頬を真っ赤にして首を振る。
「わたしなんて・・」
「いや、もちろん、撮影するのは肩から上だけです。まるでイブニングドレスを着ているかのような雰囲気を出せるとは思うのです」
「できるのでしょうか・・こんなわたしでも」
「もちろん、女性は本来美しいものですから」
先生の言葉の受け売りをしつつ、僕は小物類と一緒にシルクの布を倉庫から出してきた。
「この布を纏っていただいて、胸から上を撮影しましょう、布が写りこんでもシルクですから上質なドレスにみえるでしょう」

スタジオで彼女が着替えをしている間に、僕は預かっているフルートを磨く。
「撮影助手で手伝ってあげようか」
受け付け係の桜田さんが悪戯っぽく声をかけてくる。
「お願いできればありがたいんだけど・・」
「でしょ、こっちも貴方があのお客さんに手を出さないか心配で‥」
「いや、いくらなんでもそれはないでしょ・・・」
「分からないわよ、男女の仲は・・」
そう言って小さく笑う。
昨夜も不倫相手と悪所にいたらしいが、そんな女性だからこそ見えるものもあるのかもしれない。

「できました」
スタジオから声が聴こえる。
助手になった桜田さんと入っていくと、さえ子はシルクの布を纏い、渡したネックレスやイヤリングを身に着けて美しくなっていた。
「ちょっとごめんね」
桜田さんが彼女の傍に行く。
「お化粧、少し触らせて」
そう言って、自分のポーチから化粧用具を出し、さえ子の頬や首筋にパフを当てていく。
なかなか良い感じに見えたので、僕は傍らにあった35ミリカメラで軽い気持ちでスナップを撮影する。

いよいよ本番の撮影だ。
さえ子はブローニーカメラの逆像になったウェストレベルファインダーで美しく輝いている。
フルートも輝いている。
ソフトフォーカスレンズが良い味を引き出している。
「もう少し、布を下に・・」
恥ずかしそうにさえ子がシルクを下げる。
少し胸の稜線が見えたほうが女性らしい美しさが出る。

2~3枚撮影すると、慣れたのだろう、さえ子が屈託のない良い表情で写っていく。
ブローニーフィルム6×7で10枚ほど撮影、フィルム一本分だ。

「ちょっと待って」
僕はそう言うと35ミリカメラで撮影を続ける。
桜田さんは笑顔で見ていてくれる。
「もうちょっとだけ、布を下げてみて」
胸のトップが見えるギリギリまでシルクを下げるさえ子、肌は荒れ気味だがライティングとソフトフィルターでそれは目立たなくなるだろう。
後ろを向いてもらい、背中を大きく出したカットも撮影した。

撮影が終わると彼女の頬は真っ赤になっていた。
「なんだか、とっても恥ずかしい・・」
呟く彼女に「では、終わりましたよ、お着換えなさってくださいね」と僕は伝えた。

その日のうちにモノクロフィルムは現像して、、ネガをセレクト、修整も焼き付けも済ませておいた。
カラーの35ミリフィルムは自社系列の現像所に出せば明日の朝にはできているはずだ。

翌朝、師匠の江藤先生が出勤されてすぐに昨日のことを報告し、さえ子の写真を見てもらった。
「ええやん、なかなかきれいな子やな」
「ありがとうございます」
「君の知り合いか?」
「ええ、偶然、昔知っていた女の子でした」
「ほう、こういう可愛い女性をプライベートモデルとしてお願いできたら腕も上がるのやけどね」
先生はそう言って笑う。
褒められるのは久しぶりだ。

夜、先生が帰られた後に店じまいの準備をしていた時、さえ子が店にやってきた。
「できましたでしょうか・・」
「はい、たぶん、ご満足いただけるかと」
僕はそう言ってキャビネ版のモノクロ写真を見せた。
フルートを持って少しはにかんだような仕上がりになっている。
肩を出し、シルクはほとんど見えていない。

彼女の表情が明るくなっていく。
「これ、わたしですか・・」
「はい」
「とてもきれい・・」
そしてそのあと、「これはプレゼントで」と僕は35ミリカメラで撮影したカラーポートレートを、DPE店のミニアルバムに入れたものを渡した。
「え・・」
大きく肩や背中を出した彼女がソフトフォーカスによって柔らかく写っている。
「あ・ありがとうございます!」
嬉しそうに言うさえ子に「もう店じまいなんですよ、その辺りでご飯でも如何でしょう」と僕は言った。
「あ・・でもわたし、帰らないと」
「お時間、ご都合悪いですか?」
「いいえ、外でのお食事なんて持ち合わせもないですし」
「お金なら心配いりません、軽いご飯代くらいは出しますよ」
僕には、彼女から訊きたいことがたくさんあった。
彼女の兄や母、妹のこと、そして大阪での生活、
噂は本当なんだろうか…
売られたという噂が。

いや、それ以上にやや擦れた感じはあるものの、美しい女性に成長した彼女と二人の時間を持ちたいという思いもあった。

店を閉め、駅ビルの向かいにある中華料理店に入った。
ここは、会社の人たちとの食事でよく使う店だ。
「嫌いなものはないですか?」
彼女は少し躊躇して「ないです、目の前にあるものを食べないと、食べるものがなくなってしまう生活でしたから」
K市での生活を知っている僕だからこそ、彼女はそう言ってくれたのだろうか。

ビールと軽めのコースをお願いした。
すぐに運ばれてきたビールを彼女は手際よく手に取り、さっと注いでくれる。
「わたし、お酒は呑めないので」
ビールの入ったグラスと水の入ったグラスとで乾杯した。

「さえ子さん、すごく気になっていることがあって」
「はい・・たぶん、わたしの兄の事でしょ?」
「うん、それもなんやけど・・」
「兄のことは何も知らないのです、それに家族のことも」
淡々という彼女に僕は少し驚いた。
「ご家族・・・お母さんと妹さんのこともってこと?」
「そうですよ、わたし、売られました・・親の借金を肩代わりして、代わりに家族とは縁を切りました」
彼女の表情は思いつめた風ででもなく、あくまでも淡々としている。
「売られたというのは噂で聞いた・・どういう事か理解できなかった・・」
フッと彼女は笑みを浮かべる。
「難しいことではないですよ、中学3年のカラダ、そんなのが欲しい人は世間にたくさんあります」
「苦労したんやね‥」


******

「お願いです、借金を待ってください、必ず返しますから」
さえ子の母親が市営住宅にやってきた数人の男たちに必死で懇願している。
部屋の中にいるさえ子にはその様子は見えなかったが玄関先での様子は手に取るように分かった。
「いや、今すぐとはいわん、あんたがした借金、5社のものを全部儂が肩代わりしたったやさかい、返す先は一つになった、それだけでも助かるやろ」
「ええ、それはもう本当に」
母親は土下座の姿勢なのだろうか。
だが、男の言うようには助かったりなどしない、街金で借りた金は男の手で数倍になっているではないか・・それは言えない。
「お願いです、娘たちにも学校を出させてやりたい」
「可愛い娘さんや、そりゃあ大事やろ、そやけどその前にあんたにはちゃんと働く息子があるやろ」
「息子は駄目なんです、家にお金を入れてくれないんです」
「それはあんたの教育が悪いからや、ま、ここでそれを言っても始まらん、いつ返せるか、返せなかったらどうするか、それを決めてくれや」
玄関先の怖い男の声、どうか部屋には入ってこないで…
祈るさえ子だったが、男の太い声はこんなことを言いだした。
「玄関先で大声出したらあんたも近所付き合いがしにくかろう・・部屋に上がらせてもらうで」
怖かった、だが男が二人、無理やり部屋に入ってきた。
「可愛いお嬢さんやないか、いくつになったんや」
ボスらしい男がさえ子の顔を見て言う。
体が震える、何かされるのではなかろうかと思う。

「なあ、高村さん、あんたの息子、ええクルマに乗ってるらしいやないか・・」
あとから入ってきた母は棒立ちになったまま頷いた。
「その車を売ったら当座の利子くらいにはなるんや・・」
男が諭す。
母親は首を横に振る。
「そうか、無理なんか・・冷たい息子やな・・」
男はそう呟くとさえ子のほうを見た。
「これはあまり言いたくないけどな、娘さん、こっちで預かってもええんや」
「やめて・・それだけは・・」
「そやけど、あんたの皴しわのカラダじゃ、カネにはならん」
「やめて!」
母親が泣きだした。
さえ子は大きな声を出した。
「ウチやったら、その借金、消せるんか!」
男が驚いた。
さえ子を睨みつけ、諭す。
「今のは、お母さんの覚悟を決めてもらうための方便や・・お嬢さん、許してや」
「ウチで借金が消えるんやったら、好きにしたらええねん」
母親は黙ってしまって声も出ない。
さえ子は命でも何でも持っていけ、と思う。
もともと、母と折り合いがさほど良くないさえ子は、どうでもよくなっていた。
「お嬢さん、儂についてきてくれたら、そら、お母さんの借金はあんたが肩代わりして、いずれなくなる・・」
男は静かに語る。
「そやけどな、儂、あんまりそういうことは好きやない」
「でも、おかんの借金が消えるんやったらそれでええやんか」

男は母親のほうを見る。
母親はじっとさえ子を見つめながら、頷いた。
その瞬間、自分の母が娘を、自分を売り飛ばしたわけだ。

さえ子は身の回りのものだけを持ち、男たちのクルマに乗せられた。
何処へ連れていかれるのか、なにも聞かされず、男も彼の部下と思しき者たちも何も言わない。
高級セダンの後部座席、男二人のごつい体に挟まれたまま、クルマが東へ向かっていることだけは分かった。
その夜、さえ子は男に連れていかれた部屋で、男に抱かれた。
男は荒々しいことはせず、丁寧に彼女を愛撫したが、破瓜の痛みはすさまじく、だが、さえ子は泣きもせずその場をやり過ごした。
そして翌日、連れていかれた建物で、主任らしき女性から客にするべきことを教わったのだ。

学業なんてできるわけもなく、同じ年ごろの女の子たちが青春を謳歌している年頃に彼女がしていたのは、一晩に何人もの男性を相手に、ひたすらカラダを売り続ける生活だ。
最初は全くのド素人にしか見えず、年齢は18歳とはしているものの誰の目にもまだ高校生くらいの少女であることは明らかだ。
だが、もともと様々なことに呑み込みの早い彼女である
いつしか、店の誰よりも客をつかんだ花形となっていった。
おぼこい少女のようなプロが素晴らしい技を持っていると、スポーツ紙や夕刊紙にも書かれたこともあった。
そう言う生活の中で、彼女が離さなかったものがある。
それが、フルートだ。
もちろん、それを奏でる場所などない。
店の屋上で客の来ない朝など、控えめに吹くのが精いっぱいだった。

5年が経った。
男がさえ子の仕事場に来た。
「おう、久しぶりやな、人気もええらしいやないか・・」
ご機嫌に男はそう言い、「ちょっと今夜は儂を客として頼むわ」という。
断れるはずもなく、さえ子は男の相手をする。
「さすがに、上手くなったな・・」男は感心したようだった。
コースが終わり、男は分厚い封筒を手渡してくれた。
「今日で年季明けや、約束の借金は利子も含めて完済や」
「え・・」
男を見つめるさえ子。
「もう、こんな世界におったらあかん、自分らしゅうに生きるんや」
「でも・・」
この世界に長く居続けてほかの世界のことなど彼女は知らなかった。
「いつも、屋上からの綺麗なフルートの音色、あれ、儂、楽しみにしてるんや」
「え・・」
「でもな、ああいう音を奏でられるような人は、きっとその人の道があると思うんや」
男は絞り出すかのようにゆっくりと諭す。
「この金で専門学校くらいは入れるやろ、生活費はバイトでもせなあかんと思うが、この世界やのうて、コンビニでもファミレスでも真っ当なところで細やかに稼いでやれるやろ」
頭を下げるさえ子、涙がわいてくる。

母も兄も自分には冷たかった。
だが案外、この男だけは少しは自分のことを思ってくれていたのかもしれない。
「うちは、人気もんに去られるのは辛いけどな」
男は照れ隠しのように笑った。

*******

僕はさえ子の話を聞きながら泣いていた。
ふたりの目の前には手つかずの料理が並んでいる。
「料理が冷めてしまう」
涙を拭き、僕は彼女に食べるように促した。
話だけ話したら気が済んだのか、さえ子は一気に食べ始める。

「で、今は何をしているの?」
料理を頬張りながらさえ子が答える。
「昼は音楽の専門学校に通いながら、夕方からコンビニでアルバイトしています」
「生活は苦しいのやろ?」
「しんどいです、でも、あっちの世界にいた時のような絶望感はないですよ」
屈託なくそういう彼女に、僕はいつの間にか、恋愛のような感情を抱いていたことは確かだ。

食事の後、帰る方角が同じということで、神戸の坂道を下る。
街中の公園のベンチでもまた少し話を聞く。
「噂では、兄はどこかの刑務所に入っているようです」
なるほど、有り得るなぁと思う。
「母と妹は多分幸せに大阪の郊外で暮らしているとのこと」
「その情報はどこから?」
「ボスです・・裏のことはいろいろ知っておられるようでした」
「では、君は今もそのボスとつながりはあるの?」
「ないですよ、もう縁は向こうから切られましたから」

町の灯りで、ぼやけたようにしか見えない夜の星を眺める。
「でも、このたび、大野さんとお会いして、縁って不思議だなって思いました」
クスッと笑う。
「ありがとう、なんだか抱きしめたくなってきた」
僕がちょっと気を張ってそう言うと彼女は「やってみます?」などという。
ふっと肩を寄せ、唇を交わした。
滑るように彼女の舌が僕の中に入ってくる。
長い時間そうした後、彼女は僕を離した。
「もしかして、大野さん、まだ女性を知らない?」
図星だ。
「なんだか、とても新鮮なキスでした・・」
「そうなの?」
「これが恋愛の味かな」
さえ子が僕を見つめてくれる。

 

 

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絶頂で見えるもの

2022年11月03日 20時23分49秒 | 小説

 

 

まだ僕たちが若くて、籍も入れずに付き合っていた頃

君はセックスの際に絶頂に達するとなんとも言えず

嬉しそうな表情をしてくれたものだ

 

二年の付き合いのあと正式に結婚し

その頃も君は絶頂になると嬉しそうな表情をしてくれていた

 

子供が二人出来

僕たちは世間では倦怠期と言われる年頃でも

仲が良いと言って良いのか

週に二度はセックスをしていた

 

あるころ、そう五年ほど前からだろうか

セックスのあと、君が不安な表情を見せるようになっていた

それも、日を経るごとに君の不安は大きくなるようで

だからと言ってセックスを断ったりはしない

いやむしろ、これまでよりずっと積極的に僕を求めてくる

 

君の不安はどんどん大きくなるようで

ある時から君が、セックスのあとは泣き出すようになっていた

もう齢五十に近く

まさかいまの君が処女の頃の涙を見せるはずなんてないのだが

 

ある夜の君は不安が殊更に大きかったようで

絶頂に達して叫んだあと

大声で泣きだした

「なにがあったの、この頃不安定にみえるけど」

僕の問いに君は「なんでもないの」と呟く

けれど、その夜の君の身体はいつまでも震えが止まらず

僕はずっと君の肌をさすっている

 

数日後、同じ布団に入ると君が求めてきた

そして僕が愛撫を始めると

突然、「怖い」と言い出した

「何が怖いの?僕?」

そう尋ねると首を大きく振る

「見えるの・・見えるの」

「何が見えるの?」

すると君はさらに身体を震わせ、僕を求めてくる

 

終わった後、やはり体を震わせて泣いている

「ね、なにがあるの?一度精神科医に診てもらおうか」と僕は勧めた

「違うの、違うの」

君は言う

もう十分に世間を知っているはずの君は

まるで少女のように僕の胸で泣く

「何が違うの?不安神経症ってあるじゃない、あれではないのかな」

「違うの、見えているの」

君はそう言って泣きじゃくる

「せめて僕には、なにが君にみえているか教えて欲しい、もう何年もこの状態だし、それもどんどん酷くなるし」

君はいったん僕から離れた

そしてゆっくりと小さな声で語り始める

 

「わたし、不思議なことに絶頂に達するとそれから3~4年後の未来が見えてしまうの」

「未来が見える?」

「そう、だから、昔はあなたと結婚出来るとか、娘と息子が生まれるとか予想できたの」

「じゃ、本当に見えているのなら僕たちの哀しい未来なのか」

君の答えはない

「それがたとえ哀しいことであっても僕は知りたい、君を苦しめる未来を」

君は涙を流しながら僕の目を見て首を横に振る

「わたしたちの事だけなんかではないわ」

「どういうことだ」

「今見えているのは、何年先のことか知らないけれど・・」

「ああ・・言ってくれよ」

僕が早死にするという事だろうか・・それならば覚悟を決めねばならない

「あなたのことじゃない、あなたにとっても関係あるけど、もはやそんなことではないの」

「じゃ、なんなのだ・・」

君は僕を見つめて大きく息を吸う

布団を半分下げて、歳を経ても良い形のままの胸をさらけ出す

「ね、これ聞いてもどうにもならないから・・」

「いいよ、言ってくれよ」

「わたしも貴方も、いいえ、息子も娘も隣の夫婦も、いつもの店の人たちも」

「どうなるんだ」

「隣家のワンちゃんもバス停でバスを待っているあのひとだって、電車に乗っている人たちだって」

「だからどうなるんだ」

「誰もいなくなるの」

「どういうことだ?」

僕は君が何を見ているのか、知ってはいけない気がしてきた

だが、もはや君の話を止められない

「空虚なの、風が吹いているの、オレンジの空、崩れた建物」

そして続ける

「誰も生きていない、風が吹いて地面はコンクリートの残骸だらけで」

「それは世紀末SF映画の世界観みたいだ」

「そんな生易しいものではないの、熱い風が吹いて水が一滴もない世界」

「どういうことだ」

「三年から四年後の世界・・」

「つまり僕たちは・・いや日本は・・」

「日本なんてものじゃなくて・・・」

「世界が‥」

 

そんなことを信じることが出来ようか…

僕たちの世界が数年後になくなるってことを君は言う

「ありがとう、貴方のおかげで腹が決まったわ」

「どんなふうに?」

「この世の最後を見届けてやるって」

君は僕の顔を君の胸で包んでくれた

 

数年後のオレンジの空、そしてその時は死に絶えて誰もないこの星

僕の心は一気に空虚になり

今度は僕が君の豊かな胸で泣きじゃくるしかなかった

 

翌朝のニュースで、某国が隣国への攻撃に核を使ったと報道された

 

         

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三条の方と諏訪の方

2022年09月23日 18時21分17秒 | 小説

(本作は「三条の方覚書」「十六の母(諏訪御寮人異聞)」の関連作でもあります)

弘治元年十一月(1555年12月)、甲斐の国はすでに冬の装いとなり、すでに借り入れの終わった田畑には朝霜が降り、富士の峰にも雪が積もるのが見える。

躑躅が崎館の奥で、観音像に向かい端座して祈りを捧げているのは、当主武田晴信の正室、三条の方だ。

先月、四年前に父を謂れなきことで死に至らしめた陶晴賢が、毛利元就との厳島の合戦で討ち死にし、彼女にとってはまさに父の仇を打ってもらったとの報告を都からもらって以来、祈りの時間が長くなっている。

亡き父の面影を追い菩提を弔うとともに、戦で亡くなられた敵味方の将兵のことをも祈る。

父が亡くなったのは四年前、天文二十年(1551年)のことだ。
大内義隆の食客として山口に滞在していた三条公頼は、陶の乱のどさくさに紛れて殺された。

それ以来、三条の方に父を思わぬ日はなく、陶氏への恨みも戦国の倣い故として抑えても抑えても湧き上がってきてしまう気持ちを、祈りに代えることで自分の中に収めていった彼女である。

二年前には三男がまだ幼いのに夭折した。確かに病弱ではあったが、まさか突然亡くなるとは思ってもみなかった。

その日から父への供養とともに、三男信之への供養も日課になった。

武田家の運は開け、晴信の善政によって甲斐府中の街中にも明るさが感じられるようになってきた。

だが、そこに不運の闇が覆ってきたような気がしてならない・・どうか仏よ、武田を守って・・彼女の祈りは続く。

はじめての川中島での会戦があった後も三条の方は、敵味方の亡くなった将兵やその家族のことを祈った。

信濃に侵出しているのは我が夫である。

その妻がいくら祈ったところで、殺生の罪は消せぬかもしれない。

だが、彼女は祈る・・少しでも武田が、いや、自分の家族が罪によって不運に陥ることがないように。

祈ることは増え、祈りの時間が伸びていく。

何時しか彼女の祈りは一刻にも及ぶようになっていた。

その時刻は侍女の誰も、奥仕えの武士も祈りを邪魔するまいと控えているのだ。 

 

そんな折、祈りが終わり三条の方がほっと一息ついているときだ。

次女の一人が「御館様からです」と手紙を持ってきた。

信濃で二回目となった川中島会戦の後始末を続けている夫、晴信からだ。

封を切ってみるとそれはごく短い一行だけの文章である。

「諏訪の方、さる十一月六日に身罷れて候」

え?

どうして?

諏訪で四郎と仲良く暮らしているのではなかったの?

三条の方の頭は混乱し、心の臓の響きが大きくなる。

 

手紙を持ったまま、しばらく呆然とする三条の方だった。

 

********

 

諏訪の方、「梅」は、諏訪の領主、諏訪頼重の実子だ。

諏訪と武田の長年続いた争いを終えた時、信玄の父、武田信虎が人質にするように求め、諏訪頼重は素直に従い、わが愛娘を武田へ送ったのだ。

もちろん、武田とて同盟国の子女であるがゆえに、丁寧に扱っていた。

 

流れが変わったのは、武田信虎を息子の晴信(のちの信玄)が駿河へ追いやり甲斐の実権を得た時で、信虎とは違い晴信は諏訪への進出を目論んでいたことからだ。

まさに嵌められた感のある諏訪頼重謀反、そして追討。

武田信虎を心から信用し、まさかその息子が攻めてくるはずもなかろうと、何の戦準備もしていなかった諏訪はいきなり晴信勢の攻撃を受ける。

碌な戦にならず、敗れた諏訪頼重は甲斐府中に連れてこられ、しばし幽閉された。

そして謀反の罪を着せられ、成敗される。

 

その直後、三条の方は晴信名代として梅姫を見舞った。

正室が見舞いに来るという知らせに、梅姫の侍女たちは非常な不安を持っていたが、梅姫は一人、動ぜずに端座していた。

三条の方はその梅姫を見て、未だ十三歳ながら堂々とした振る舞いに圧倒された。

「此度は、御父上、諏訪頼重様にあられましては誠にお気の毒でございました」

礼を踏まえ、九つも年下の少女に頭を下げる。

「これはご正室様、父のことは戦国の倣いゆえにお気になさらずにいてくださりませ、かようなご挨拶は勿体のうございます」

凛とした返礼に圧倒される。

 

都での女性同士のやり取りは見慣れている三条の方ではあったが、なるほど武士の世界では命の遣り取りも日常茶飯事、この小さな少女の覚悟が一瞬にして読めた。

ふっと涙を流す三条の方。

それを見て今度は梅姫が三条の方の傍に来る。

「お方様、何かお哀しいことでも・・それとも己(わたし)がお心に触りましたでしょうか」

にじり寄る梅姫に三条の方は頭を振った。

「いえいえ、あなた様のご覚悟のほどがきちんと読めましたゆえ、苦労知らずの都育ちの妾はいたく感動しておるのでございますよ」

と答えた。

梅姫はまっすぐに三条の方を見つめ、三条の方は姫の手を取った。

戦国有数の美女として伝わる武田晴信正室三条の方と、側室になる梅姫、諏訪の方の出会いは優しい風の吹く奥座敷だったのだ。

ふたりの心にお互いに響きあうものがあったのだろう。

以後、梅姫は三条の方を実の母娘、実の姉妹のように姉とも母とも慕うようになる。

 

やがて、晴信が梅姫を側室にすると宣言した。

これは、諏訪家直系の血を引く梅姫が武田と繋がることで、諏訪領民の心を鎮めるのが最大の狙いだった。

だがその話が決まったころ、部屋を訪れた三条の方に、梅姫は不安を隠せない顔で言う。

「お方様、己は、御館様が恐ろしゅうてなりませぬ」

「なにゆえ?」

「大変、失礼なことを申し上げます、申し上げた以上は己の扱いがどうされても構わぬ覚悟でございます…」

そう前置きして思い切った表情をして梅姫は続けた。

「武将たるもの、皆そうでなければならぬのでしょうが、伝え聞いたことからではございますが、御館様は人を欺き人の命を奪う事をなんとも思っておられないと見えて致し方のうございます」

梅姫は俯いた。

領主の正室にこのようなことを言えば、如何に優しい三条の方とはいえ、厳しく接してくるだろう・・それくらいのことは未だ少女の域を出ない梅姫にもわかっていた。

だが、三条の方は、最初はちょっと驚いたように、そしてすぐに笑顔になって話を最後まで聞いた後、こういった。

「人を好んで欺き、喜びながら人の命を奪うような人は居らぬとは申しませぬが、少なくとも御館様は違います・・きっとご本人もその時は辛い思いを為されておられるはずです」

「そのようなものでしょうか」

「姫様も、御館様と肌を合わせるようになれば、御館様の悲しさ、悔しさ、苦しさが自然にご自身の心に入るようになるでしょう、その時にはお分かりになります」

そしてこう付け加えた。

「御館様はとても繊細でお優しい方でございます」

その言葉には安心した梅姫だったが、以前から思っていた別の疑義が沸き上がってきた。

「それでは、失礼ついでにもう一つ、宜しゅうございますか?」

「なんでしょう・・姫様が仰ること先ほどのも当然そうお思いになられることで、全く失礼とも思ってもおりませず、そう、ごく自然なお若い女性なら誰しも持たれるご不安かと捉えました」

「それでは、思い切ってお伺いします」

「どうぞ、なんなりと」

「これまで、御館様はお方様だけのものでしたのに、己が入ることはお方様にとって、女性としてお嫌なことではありませぬか」

すると三条の方は、フッと笑みを浮かべた。

「もちろん、我が身よりずっとお若い、それもお美しい女性と御館様が肌を合わせられること、妬き餅もありますわよ」

梅姫は俯いて話を聴いている。

「でもね、武将の妻として最も大事な仕事は、家運を向上させ、家を絶やさないようにすること・・果たして妾ひとりの力でそれが成し遂げられましょうか」

梅姫は俯いたままである。

三条の方は一息おいて続ける。

「あなたの血を、諏訪家の血を持った後継を生んでください・・それが甲斐武田と諏訪のつながりになるのです、そのためには妾の妬き餅くらい、いくらでも焼いて差し上げます」梅姫が顔を上げた。

三条の方は梅姫に近づいて彼女の手を取った。

互いに戦国の女であり、運命はその流れの中でしか開いてはいかない。

 

梅姫は側室になるとはいっても、武田家と並ぶ家柄の娘である。

正式とまではいかぬが、諏訪と甲斐の民に晴れ姿を見てもらわねばならない。

晴信は、そのために、梅姫をいったん諏訪に返し、婚礼の身支度をさせて改めて甲斐府中に行列を連ねて嫁いでくるような演出を一門のものに命じた。

 

もう日が暮れようとするころ、晴信と並んで門前に於いてその行列を待っていた三条の方は、行列の戦闘が見え始めると篠笛を取り出した。
優しい音色が暮れなずむ府中の街に広がる。

ゆっくりと提灯を多数掲げた行列が進んでくる。

 

その夜、晴信は諏訪の方の部屋に行った。

自室でこればかりはどうしようもない我が心から出る女の嫉妬を紛らわせようと、三条の方は回廊に出て月を眺める。

煌々とした十四日の月が庭を照らす。

「今宵は小望月か・・」

三条の方の独り言が、躑躅が崎の中庭に静かに沁みていく。

「満ちるしかない十四日の月、武田もまた、満ちていく」
そう確信はしたが、心の中には少しの不安もあった。

満ちたその先にあるものとは・・考えたくもない思いがよぎる。

 

三条の方は家伝の笛の名手でもある。

その笛を習いたいと諏訪の方と呼ばれるようになった梅姫が請う。

最初はたどたどしかった諏訪の方の笛もすぐに上達して、三条の方と二人、躑躅が崎の奥で笛を重ねることも多くなった。

それは時として館に勤める武士や侍女たちの癒しにもなっていった。

 

諏訪の方がいたころの躑躅が崎は楽しかった。

だがそんな生活が終わりを告げたのは、諏訪の方の懐妊が分かった時だ。

だから、二人が本当に仲の良かったのは、僅か数か月という事になる。

 

出産のために諏訪へ帰る諏訪の方を、三条の方は名残を惜しんで見送った。

禰津の方、油川の方とは気さくには話をしても、それが諏訪の方ほどには親密にはならなかったのはなぜだろうかと、三条の方は思う。

難しいことは何もないのではないか、ただ、ウマが逢ったという事なのだろう。

 

やがて諏訪に四郎が生まれる。

 

三条の方の子供である太郎は今川の姫を娶り、先年には将軍足利義輝から義の字をもらい受け、義信と名乗り今のところ盤石だ。

二郎は盲目になってしまったが知恵も周り何とか生活をしている。

長女、次女とも聡明で美しく、いずれどこかの武将とでも引き合わせることが出来るだろう。

 

四郎は諏訪にいる限り、武田の一家臣に過ぎない。

それゆえ、野望さえなければ諏訪の方の気持ちは楽なはずだ。

決して無理などしているはずもないが、四郎の出産直後より体調が思わしくないと信玄から聞いていた。

その時は、出産後の身体によい食べ物などを使者に伝え、やがて快癒したと聞いた。

 

以後も数年は時折、手紙のやり取りなどしていたが、それもあるころからぷっつりと途絶えた。

 

********

 

三条の方はふっと、館の門前へ出た。

遠く東、諏訪の方向の山々に向かって静かに笛を吹く。

哀しく優しい音色が、甲州往還の辺り、夕陽とともに染まっていく。

「ね、梅姫、今度いつ会えるかな」

暮れなずむ山々を見ながら、篠笛を吹く三条の方の頬に自然に涙が伝っていく。

「妾もいずれ、あの世に行くゆえ、その時はともに笛など楽しみましょう」

人の命の儚さをまた味わい、そして武田家の中に何となく流れている不運の空気を微妙に感じ取っていた三条の方であった。

 

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凍り付いた駅で

2022年08月22日 23時04分42秒 | 小説

冬の夜
上田から乗ったしなの鉄道の電車は淡々と走る
昔懐かしいというのか
ボックス型の向かい合わせ座席
4人掛けを一人で占領して僕は小諸に向かう
窓の外は夜の上田市街だ
家々やショッピングセンターの灯りもすでに大人しくなり
国道を走るクルマのヘッドライトも少ない
そして闇を小雪が舞う
自分の顔や車内の様子が窓ガラスに反射する
長野ではかなりの降りだった
電車の暖房は強く車内は暖かい

小諸の駅近くの宿で昨夜に引き続き連泊だ
僕は一昨日からこの地で所用を片付けているが
今日はどうしても長野市内で打ち合わせがあり
そのあと久しぶりの友人たちと、かなり呑んだ
悪い癖で、話が盛り上がり酒が進むと
僕は殆ど食べ物を摂らなくなる
ひたすら酒だけを呑んでいるわけだ

遅くなってしまったので北陸新幹線で上田まで一駅乗り
そこからしなの鉄道に乗り換える
ただ、東京行き最終一本前の「はくたか」から
上田駅で改札を出て二階へ上がり
しなの鉄道の切符を求めてまた階段を降りると
そこには今にも発車しそうな電車が停車していて
少し焦ったのは確かだ
酔いが残ってというより、まだかなり酔っていて足元がやや覚束ないのもある

僕の住む関西では
新幹線から在来線に乗り換えて少し先へ行く場合
乗車券は最初にまとめて購入できるが
ここでは新幹線と在来線の鉄道会社が異なり
切符はそれぞれ別に買わねばならない

夜遅いローカル電車に乗客は少ない
3両編成でも一両に乗っているのは十人前後というところか

信濃国分寺という駅を過ぎると
それまでは車窓にみえていた家々の灯りもうんと少なくなる
電車はかなりの速度でモーターを唸らせ走っている
眠くなってきたが電車は小諸行きではない
軽井沢行きだ・・寝てはならない・・寝過ごすと後が面倒だ
そう自分に言い聞かせるが
暖房の心地よさとレールジョイントのリズムは
今日一日の疲れと、なにより酒の酔いが僕を眠りの世界に引き込む

イントネーションが前にある「田中」に着いたのは覚えていた
だが、そこから眠りに落ちたようだった
「今日はごしてえよ」
「勉強するしない」
「今日はもうできねえだよ」
「だらずねえ、明日はしみるよ・・」
若い女性の声がする
さっき上田で乗り込んできた数人の女子高生風だろうか

座席下からの暖房が僕を暖かく包み込んでくれる
「また、明日、がんばりやしょ」
「んじゃね、ばいばい」
「あばね~~」
可愛い声が心地よい
そう思った瞬間、ハッとした
小諸ではないのか!

電車はドアを閉めゆっくり走りだしていた
明るい小諸駅のプラットホームが流れていく
車内では自動放送の甲高い女声が「次はひらはら」と言う
いくつものポイントを超え
やがて構内を出て掘割のようなところを走っているようだ
雪が降っているのが見える
「しまった」
平原駅なんて降りたこともない
だが電車はどんどん進んでしまう
時刻は21時を回っている

だが今ならまだ、小諸に戻る電車もあるだろう
確か小諸駅には23時過ぎまで列車の時刻が表示されていたはずだ
線路が走る掘割が壁のように見えるが
沿線に住宅が少なく闇の中だ
雪が強くなってきたようで列車の速度ゆえか
白い粒がたくさん横に走る

寝てはならないと言い聞かせても
僅か一駅でも眠りに落ちそうになる
それに酔いが覚めかけてきていて、気分が悪い
電車が停車した
ホームに降りると足元には雪が積もっている

駅にはちゃんと照明があり
オレンジ色の強いひかりで辺りを照らしてくれているが
小さな待合室があるだけのホームだ
仕方ないからその待合室に入ろうとして、どこかで見たようなと思った
しげしげ見回してやっと気がついた
これは「車掌車」だ
昔、貨物列車の最後尾に必ずくっついていた
夜に見ると、赤いテールライトが印象的だったあの車両だ
それが、駅舎の代わりに置いてある

待合室のベンチには座布団も置かれているが寒い
冬の小諸は氷点下10℃以下になることも珍しくなく
しかも今夜は雪が降っている

雪は吹雪というほどでもなくしんしんと降る
大粒の雪がどんどん辺りを覆うような感じだ
寒い…
震えが来る
時刻表を見ると次の小諸行きは30分ほど後だ
「電車がまだあってよかった」
寒い待合室で立ってうろうろしながらほっとするが身体の底が寒い
それに胃袋のあたりがムズムズする
こういう時は、一度吐いてしまわないと治まらない

待合室で吐くわけにもいかず外へ出た
だが駅にトイレなどはない
駅前には工場風の建物と数軒の民家がある
こんなところで吐いたなら地元の方々に迷惑だろうと思う
どうしようか、思案していると水の流れのような音が微かに聞こえる

耳を澄ますと、どうやら駅舎と反対側から音が聞こえているようだった
ホームの先には構内踏切があり、そちらへ向かってみる
小諸方向へ行く電車の乗り場があり
さらに、線路を超えて雪原にしか見えない方向への簡単な通路があった

水音はそちらから聞こえているようだ
胃が暴れ始めた
走ってそっちへ向かう
線路を渡った先の通路の斜めになった踏み板で足をすくわれた
そこに敷いてあるのはただの板で、表面が凍っていたのだ
思い切り転倒したが、そこに水の流れる水路を見つけた
怪我をしているかもしれない
そう思いながらも吐いた

たいして食べ物を摂らずに、ただ大量の酒を呑んだからか
殆ど食べ物らしき残骸は出てこない
水路に向かって口から水を流し出している感覚だ

それでもほっとした
辺りを見回すと、雪原の中に線路という風情だ
身体が痛い、転んだ時に膝や腰を打ったのだろうか
動けないのでしばらくじっとしていた

何分か経過しただろうか
「大丈夫ですか?」
女性の声が聴こえた、
人?と思いながらそちらを見ると、子供を連れた女性が立っていた
カッパのようなものを被っている

「ええ・・なんとか」
立とうとしたが、膝を打ったようですぐには立ち上がれない
雪はかなり小降りになったようでパラつくという感じだが寒い
寒いというより痛い
「無理なさらないで・・」
「はい、でも今夜のうちに小諸の宿へ帰らないと」
だが、重い体はなかなか立ち上がれない
「お母さん、この人怪我しているの?」
横にいた子供が訊いてくる
カッパに包まれてよく分からないが、声からして女の子だ

「あら・・」
女性は僕の膝のところを見ている
「怪我をされているではありませんか、これはすぐに手当てしないと」
「いえ、これくらい・・」
そう言って笑おうとして痛みが走る
「うちはすぐ近くです、そこまでお支えしますから」
女性は僕の意向など構わず肩を差し出してきた

女性の肩に腕を回し、やっとの思いで立ち上がる
「ここで朝までいると凍死しますよ」
確かにそれはそうだ、動けなければ凍死かと
雪にまみれた多分ここは田んぼだろうか・・を見る

女性に肩を支えてもらいながら、雪道を歩く
しなの鉄道の電車が、明るい車内を雪に反射させて通り過ぎる

少し坂を登った先の小さな家の前についた
ここらしい
「待っててね」
女性と子供が家に入るとすぐに明かりがついた

「どうぞ」
女性が僕を部屋に入れようとしたが
転んで汚れたままでは失礼かと僕は固辞した
すると女性は玄関の上がり框に僕を座らせ
「見せて」という
膝のあたり、ズボンが破け血が出ていた
女性は自分が土間に降り、そこで「これは痛いわよね」と
呟きながら、いったん奥へ入っていった
「痛いの、可哀そう」
女性の娘、たぶん5~6才だろうか、がカッパを被ったまま
こわごわ僕の膝をのぞき込む

やがて女性が薬箱を下げて玄関に戻ってきた
カッパは脱いでいて、ジーンズにセーターといういで立ちだ
胸のあたりのふくらみが眩しい
「ズボン、上げられます?」
だが、けっこうスリムなデザインのズボンは膝まで捲り上げることが出来ない
「脱いでください」
「は・・?」
「せめて消毒して傷口をふさがないと」

促されてズボンを脱ごうにも立てない
すると女性は自ら僕のズボンを下げてくれた
そして、膝の血を拭き取り、消毒し、大き目の絆創膏を貼ってくれた
「明日、病院に行ってくださいね」という

そのとき、女性の娘が「おかあさん、これ」という
手に木で出来た大き目の人形を持っている
娘の半身くらいはありそうな大きさだ
人形は男性のようで、武士のような服装をしている
「あら・・」
女性がちょっと驚いて娘と僕の両方を見る
何のことだろう・・と思った
娘は、結構大きめのその人形をもって僕の前に向き合う
それは簡単な操作で手足が動くようないわゆるからくり人形だ

「ね、痛くなくなったでしょ」
と娘は人形の後ろに回り、人形に喋らせる
「痛くないよね、お母さんはお医者さんなのよ」
人形は器用に首を傾げ、動かないはずの表情も変わる気がする
僕はなんだかおかしくなって彼女が操作する人形に話しかける
「ありがとう、もうすっかり大丈夫だよ」
「よかったね、これでお家に帰られるね」
娘ではなく、人形が僕に語ってくる
「うん、本当に助かった」

「今夜は泊っていかれたらどうですか?」
女性が言う
「いえ、宿も小諸にとってありますし」
「でもまだお膝が動きづらいでしょう」
「はぁ」
すると人形が喋る
「まだ、今日は動いちゃだめよ、明日の朝になったら動けるようになるからね」
「でもね、君のおうちにも迷惑だよ、見ず知らずのおじさんを泊めるなんて」
「うちは大丈夫」
そういったかと思うと、娘が人形の裏から顔を出した
「ね!」

暖かい部屋にあげてもらい、母娘と一緒に炬燵に入る
そしてお茶をもらうと、心が和んできた
酔いはすっかり冷めたようだったが眠気が強い
母親は美しく、まるでどこかの女優さんのようだ
娘も可愛く、僕にこんな家庭があったらなぁと心底思う

そのまま僕は眠ってしまった

なんだかとても暖かい夢を見ていた
女性の柔肌につつまれ、僕は為されるままに歓びを感じている
白く、暖かい空間
回りは雪や氷なのに自分はその中で心の底から安堵している
長い髪が広がる白い床
僕は躊躇わずに女性を抱きしめる
味わったことのない快感が僕を満たしていく

白く強い光が身体を包む
はっと気がつくと僕は粗末な駅舎の中にいた
蛍光灯が室内を照らすあの車掌車の駅舎だ
時刻は・・腕時計を見ると朝の五時ではないか
急に寒さを感じた

スマホを取り出し、現地点での気候を見た
小諸市平原 雪 -12℃
「寒いはずだ」と思う。
立ち上がろうとすると少し膝が痛む
そういえば、昨夜、この駅で転んだような気がする
・・そうだ、あの女性・・・
抱き合った気がするが、それは夢なのだろうか
僕はずっとここにいて駅舎の中で寝てしまっていたのだろうか

だが寒い、寒いというより痛い
駅舎の外に出たがまだ夜が明けず
オレンジのライトに照らされた簡単な時刻表を見る
上りが先に一本あるらしいが
下り、小諸に行くのは一時間以上先でないとだめらしい

そういえば昨夜この辺りで吐いたはずだと
粗末な出口に行くと斜めの踏み板は凍っていて
「間違いなくここで転んだ」と確信した
踏み板を通らず、線路のバラストをゆっくり確かめながら歩いて
溝を超え駅前の広漠とした田畑に面した道に立つ

夜が明ける前だが、微かに東の空が明るい
白く凍った世界に線路と道路が通る
雪は完全に上がっていた

この道を、昨夜に連れていかれたと思う方法へ歩く
「確かにこの道だ」と思う
だが、その先、少し坂を登った先には人家はなかった
確かこの辺りに・・
そう思ってよく見ると
ちょっとした洞穴のようなものが凍った草の合間から見えた

そこでしばらく呆然と立ちすくむ
そうか、僕はやはり夢を見ていたんだ
酒の酔いがあるからあの寒い待合室で寝てしまっても凍死しなかったんだ
と思うことにしようとした
と言ってもまだ納得などしているわけではない

そこへ、高校生らしい制服の少女が通りかかった
「おはようございます」
マフラーで顔を包んだ少女は挨拶をくれる
僕も挨拶を返した「おはようございます」
少女はホッとしたように通り過ぎようとしていた
「ちょっと、訊きたいことがあるんだ」
少女は立ち止まり、「なにか」と不審げに僕を見る
「このあたり、可愛い女性が娘さんと生活しているお宅はなかったかな」
少女は、はっと、僕を見つめた
「ゆうべ、そこに連れていかれたのですか?」
「うん、怪我をして介抱してもらったんだが」
「介抱・・」
「そうなんだが気がつくと、駅で寝ていて」
「小さな娘さんと一緒でしたか」
「そう、上手に人形を操る可愛い子だった」
少女はマフラーで口元を覆いなおしながら周囲を見回す
「とても親切な親子だったでしょう」
僕は頷く
「でも、昨夜にその親子と出会ったことは、もうお忘れになられた方がよいと思います」
そして、少女は一礼をして会話を打ち切り駅へ向かっていった


やがて、上り電車が遠くからやってくるのが見える
雪と霜と氷の世界に二つの強いヘッドライトが輝く

何のことだ・・
訳が分からず僕は立ちすくむ
膝が痛む
ズボンの上から膝を触ると、そこは破れていて
絆創膏が貼ってあった
では、あの夢のような肌の感触も・・

遠くで電車の音が聞こえる
下りの一番電車だろう
僕は滑らないように凍った道を駅へと向かった

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夏参り

2022年08月18日 18時14分58秒 | 小説

旧盆の一週間ほど前、まだ列車も宿も空いているだろうと久しぶりに小諸へ向かった。
今回は上の妹が同行してくれた。
小諸は長野県東部、佐久地方、もしくはもっと大雑把に東信に位置する。

今回は祖父が菩提寺にしていた寺院と役所を回り秋に予定している墓仕舞いについての手続きを進める必要があった。
これらは郵送でも可能だったが様々なことが長野県と、地元兵庫県とでは異なり
文書での何度ものやり取りで時間を浪費いるわけにはいかず、それなら住職や役所の担当者の顔を見ながら書類を整えたほうがよかろうと判断してのことだった。

だが、神戸から長野県東部、いわゆる東信への交通費は高額だ
この高額な旅行を一時は10日ごとに実行したのは、一族の末裔としての自分の中にある本能がさせたのだろうか。

交通手段としても長野県では航空機は松本にしか空港がなく、そこから松本駅に出ても小諸までは2時間以上かかる。
航空機は大阪伊丹まで行かねば乗れず、松本までは小型機で便数もごくわずかだ
東信への所要時間は神戸の都心から5時間というところか。

東海道と北陸の新幹線同士の乗り継ぎだと、上田・佐久・軽井沢まで約5時間、速くて快適だが東京での乗り換えは恐ろしいような金額になる。
大阪からの「サンダーバード」で金沢へ行き北陸新幹線で上田、佐久という手もあるし、これも三度ほど使ったけれどもほかに用がなければ大阪へ出るのも面倒で運賃料金は東京経由ほどではないにしろ高額だ。

新幹線を名古屋で降りて在来線特急「しなの」にすれば所要時間は上田まで5時間半ほど、小諸まではうまく行って6時間だが、距離は短くなるし運賃・料金は東京や金沢回りよりは安くなる。
最初はこのルートをよく使った

僕はこのごろよく使うのは、神戸三宮から名古屋まで高速バスで行き名古屋から在来線特急「しなの」に乗り、長野から北陸新幹線で上田に行き、片道7時間半ほどの旅のあと、そこで宿泊するという手だ。
新幹線と「しなの」で行くよりは片道で四千円ほど安くつく。
小諸よりは上田で宿泊した方が、レンタカーもあるし手ごろな価格のホテルもある
そう、小諸駅前にはレンタカーすらないのだ。
(だが、小諸の落ち着いた風情にはいつも心惹かれ、泊まりたくなる街ではある)

結局、行きに一日、現地で一日、帰りに丸一日かかる。
21世紀であっても神戸から、たかだか500キロ先の長野・東信は遠いところだ。

今回も夏の盛り、名古屋までバス、そこから特急「しなの」で長野へ、長野から北陸新幹線自由席に一駅だけ乗って上田に泊まった。
新幹線と在来線特急の乗り継ぎ割引は、この場合も適用されるのが良心的だ。
それに妹とはいえ女性同伴だと、荷物の持ち込みやすさや、朝夕の化粧や着替えのことも考えねばならない。

ついた日は雨だった
本来、東信は雨が少ないのだが、こればかりは致し方ない。
ホテルは連泊にしていて、着替えなどは部屋に置きっぱなしにでき、翌朝レンタカーを借りて小諸に向かう
雨は上がっていた

ここでレンタカーを借りるのは、多分あと一回だろうと思う。
北国街道、国道18号を東へ走る。
夏の盛りなのに窓を開けると涼しい風が入り、田んぼの稲はすでに穂も出ている

横をしなの鉄道の電車が走り抜ける。
北陸新幹線が開業し信越本線がJRから分離され(つまりは捨てられ)地元自治体や経済界で第三セクターを作って運営している鉄道だ。
なかなか魅力的な電車が走っている。
本当はあの電車で行き来したいが、この後の予定を考えれば小諸駅について数か所の用事のある先を、その都度タクシーを呼んでというのは現実的ではなく、だから電車は使えない。
それに今回は時間が余れば回りたいところもあった。

まず、向かった先は小諸市内で最大ともいえる花屋だ。
叔母が住んでいた家のすぐ先にある。
朝の開店直後の花屋で墓参用の花を組んでもらうが、ここで花を買えなければ、お花なしの墓参という事になってしまう

そして、浅間山の方角に向きを変え、20分ほど坂を登る。
登るにつれて、坂の街から高原の田園へ、巨木の連なる山林へと周囲が変わっていく。
小諸は街自体が高原にあり、墓地はさらに高山といえる高さにある。
今日は浅間山が雲に覆われて見えない。

遥か下界に市街地が見える市営の墓地について墓の掃除をし、花を供え、線香に火をつける。
涼しい風が吹いている。
「叔母様、そろそろお手続きさせていただきます」
法華経を唱えながら、叔母に語り掛けてみるが墓がものを言うはずもなく、所詮は自分自身を納得させるためでしかないのはもちろんだが叔母がなにか言った気はした。

天気予報は雨だったはずで、だのに遥か下界が開け、空には濃い色の信州らしい青が広がり始めているのだから叔母が決して此度のことを反対してはいないと受け取ることができるのは今日の自分にとっては運が良いという事なのだろうか。

クルマを下界に走らせ、小諸市街のごく入り口付近にある瀟洒な寺院に入る。
祖父が栃木からここに移り住んだ時に自ら訪ね、檀家にしてもらったという寺院だ。

今、寺院はその時代の住職の孫が護っていて、既に本堂で三代目住職は用意を終えて待っていてくれた。

来意は前もって告げてあり、快く応対してくださる。
そして、もう一つ、住職に願っていたことがあった。
実は、今回は僕の少年期に亡くなった父の五十回忌という意味合いもあった。
「ようこそ、遠いところをおいでくださいました」
まだ若く、聡明な僧侶だ。
「仰られておりましたお父様のお塔婆、叔母様のと並べさせていただきました」
見ると、確かに父と叔母の戒名を書いた塔婆が並んでいて、それを見た瞬間、僕は泣きそうになった
「先生、これで、会ったことのない“きょうだい”が並びました」

会ったことのない「きょうだい」二人が、もし出会えていれば、お互いの人生がどれだけ変わっていたかしれない。
不運・不幸そのものでしかなかった父と、最期は寂しさの中で命を落とした叔母を思う。

いや、もし、祖父と祖母が別れなければ・・・
祖母は生前、「私の最も好きだった人」として祖父の名を教えてくれていた。
何故その二人が別れねばならなかったのか。

祖父は職業軍人だった、それはこの三年間で分かったことの一つだ。
幼くして両親に先立たれ、苦労の果てに軍人入りの道を選ぶしかなく、それゆえに、頑健な体と信用を得たようだ。
その頃出会った祖母は、北関東のドサ回りの一座の中で生活をしていたから、結婚などされ、一座から出ていかれては曾祖母が困るというのが二人が別れさせた原因だと聞いた。
この曾祖母が明治の「翔んだ女」だったらしく奔放すぎて嫁いだ先から飛び出したのが、わが家系の苦難の始まりだと僕は考えている。
もちろん、女性の生き方は自由ではあるけれど。

わが家系の元は栃木は佐野の豪農であるはずで結局、本家や生家に合わせる顔をなくし、というか出戻りなど認められない明治の家で、そこを子連れで飛び出し、ドサ回りの厄介になったという事なのだろうか。

ふたりの卒塔婆を見ていると、住職が「始めますね」という。
秘仏として金幕が下ろされている本尊の前には祖父、祖父の後妻である義祖母、義祖母の連れ子だった義叔父の位牌も並ぶ。
「一応、ご家族全てお越しいただきました」住職は恭しく頭を下げる。

読経が始まった。
般若心経がゆっくり、香が漂う本堂に穏やかに流れる。
焼香をし、住職のよく透る声を聴いていると、祖父が現れた。
「すまんな、ありがとうよ」
祖父の横に若いころの父と、若いころの叔母が並んでいる。
仲がよさそうだ。
「やっと会えたね、兄さん」
叔母が父に話しかけていて、そのすぐ脇で義祖母も義叔父もにこにこと見ている。

読経は法華経観世音菩薩本持品にうつり、住職に促され二度目の焼香をする。

一回目は父の五十回忌として、二回目は叔母のお盆の供養としてのものだそうだ。

僕の目には、本堂の中は大騒ぎになっているように見えている。
といっても、僕と妹と住職しかいないのだが、まるで幻灯機の映像のように、そこに現れた一家一族、祖母までが入り込んできた。
なんだか宴会のようなことになっているが、皆表情が明るく、祖母がにこにこしながら「ちゃんとしてくれたね~」なんて言っている。
大阪に長年住んだ祖母だったが、言葉は最後まで関西弁にならず関東のものだった。
この時には父方の一族が大勢総出でがやがや言ってる。

やがて、読経が終わり、住職は薬師如来の真言を唱え始めると現れた一家は静かになり、揃ってこちらに向かって頭を下げてくれる。

「よく、世間では回向といいますが、この回るという文字は、御先祖への供養をすることで、それが現世の我々、あるいは子孫末代まで回っていくという事を意味しているのです。五十回忌をしてもらえる人というのは、多くはありません。ですが、それをなされ、そこで家族・兄弟の繋がりを蘇らせたというのはすごいことだと思うのです」
僧はしみじみ語ってくれた。
この人は、名刹の僧にありがちな上からの視線というものを感じない人で、その言葉一つ一つには納得してしまう力を持っている。

「しかし、賑やかでした」
僕がそう言うと、「感じられました?ですよね、ほんと皆さん出てこられて」住職が笑う、不思議な人だ。
妹も同じことを考えていたそうだ。
「兄ちゃん、これは、すごいことをしたかも」と真顔で言う。

「こうちゃん」
片付けをしていたら叔母が呼ぶ気がする。
そちらを向くと「あとで一寸だけいいことあるわよ」と悪戯ぽく笑って消えた。

寺院を辞し、小諸市役所に行く。
ここから市役所まではクルマで数分だ。
寺院でもらった書類を出して墓仕舞いのまず第一段階の手続きを願うが、担当の女性がちょっと後ろを向いて、そこに居た人にひそひそと耳打ちをする。
ややあって叔母の後輩だったという人が窓口に出てきて「手続きを進めてくださっていたのはあなたでしたか!」と手を取ってくれた。
二十分ほどで書類の作成、手続きを終えた。
役所の駐車場は安いので、そのままクルマを停めさせてもらうことにして前に二度入ったお気に入りの、お昼、それも売り切れるまでしか営業しない蕎麦屋に行く。
幸い空いていて、香りのよい旨い蕎麦を腹いっぱい食べることが出来た。
これは「一寸いいこと」なのだろうか。

蕎麦を食っただけでクルマを駐車場から出し、小諸を後にする。
今からなら時間が取れそうなので思っていたことを実行することにした。
国道18号、ここからは佐久往還といわれる道をひたすら南へJR小海線に沿って走る。
途中から無料の自動車専用道路があり淡々と走りながら過去二回、小海線から見た景色を道路から見る。
今日は八ヶ岳も山のてっぺんが雲に覆われている。
「浅間山も八ヶ岳も見えてくれないか」とすこし落胆する。

高規格道路は途中までで、山間の曲がりくねった道になり、そこを過ぎると高原の畑ばかりの風景になった。
野辺山駅前で休憩して、列車で通った時に降りられなかったのでリベンジを果たす。
駅前で国鉄最高地点の写真を撮り、保存されている機関車「高原のポニー」に挨拶をする。
妹はアイスクリームが旨いと喜んでいる。
そして、山梨県に入り、今は北杜市となった長坂から白州へ・・

叔母の亡くなった釜無川沿いの田んぼはすぐに見つかった。
ここは今回の一件の二回目の時に訪問したところだで、そこで妹と祈りを捧げた。
今度はそこから山林を超えた先の小学校近くの畑へ、山の中の道は通れないので幹線道路で迂回して向かう。

叔母のクルマが山に突っ込む事故を起こし、そこから深夜に叔母がふらふらと何かに追われるように入り込んでいった場所も前回は来られなかったところだが、すぐに判明し祈りを捧げる。

そのあと、ほんの少し、途中にある行きたかった美術館に立ち寄れ、館長さんも在館しておられたのは「一寸だけいいこと」だったのか。
この美術館は妹には内緒で連れて行ったので、非常に喜んでくれた。

そこから高速道路ばかり突っ走り山梨県西北部・諏訪、塩尻、松本など長野県中央部から姨捨、長野をぐるっとまわり、上田に帰ったら走行距離は230キロにもなっていた。
上田市内は結構渋滞がひどかった。

駅前には人が多く浴衣を着ている若い人もたくさんいる。
上田は小諸と違い、元々華やかな町だがこの日は三年ぶりの花火大会があり、それゆえ道路渋滞に気を付けてと、朝にクルマを借りた時にレンタカー会社の係の人から聞いていた。
花火か、人混み迄見に行く気はしないねと妹と話しながら、駅近くの中華料理屋で思わぬ旨いものを食いホテルに戻った。

もう空は暮れかけている。
神戸と比べると一時間近く、太陽の動きが早いようだ。

妹とはもちろん別の部屋で、エアコンのスイッチを入れる。
下のコンビニで買ってきたビールを飲もうと栓を開けると、どど~んという音が響いた。
驚いてカーテンを開けて窓の外を見ると、正面やや右に大輪の花火が上がっている。
花火はいくつもいくつも上がり、上に上がるものだけではなく、下の方で滝のように火を流すもの、まるでロケットの航跡のようなまっすぐな線が幾本もクロスするもの、その間にも上空には大輪のさらに大輪、大輪の中に模様を描くもの、まるで宇宙船のような可愛い形の花火など息をつかせず上がる。

「これは・・」
「こうちゃん、言ったでしょ、一寸いいことって」
いつの間にか部屋に入っていた叔母が悪戯っぽく笑う。
「これは想像もできなかったですよ」
僕は感嘆して花火を見る。
叔母は暫く一緒に眺めていたはずだったが、いつの間にか姿が消えている。

不思議な縁は確かにあった。
このホテルになったのは泊まりたい別のホテルがいっぱいだったから止む無くで、いや、上田に泊ったのも本来は小諸に泊まりたかったのに諸般の事情で、時間がこの時刻になったのはレンタカー会社の営業時間と、渋滞があるからと前もって教えてくれた係員の言葉から。

そして、僕は窓際のベッドに寝転がって缶ビールを飲んでいる。
花火は時折、煙が流れるのを待って小休止する。
部屋のテレビは地元ケーブルテレビにしていて花火の実況中継迄ある。

冷房の良く効いた部屋で寝転がってビールを飲みながら華麗な花火を眺めるなんて人生で初の経験だ。
僕は人混みが苦手だから、普段は花火大会の傍には寄らず、遠くから眺めるだけだ。
それがこの大輪だ。
「花火すごいね~」
妹から感嘆したようなメッセージが送られてきた。

これは、まさに叔母がくれたお礼なのだろうと思うことにした。
「こうちゃん、ありがとうね」
花火の大輪の向こうに叔母が笑っている気がする。

 

コメント
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