story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

高架下、夏の夜

2023年10月26日 19時24分00秒 | 小説

高架下、夏の夜

蒸し暑い街中の夜道
粗末な街灯の下を歩くと
頬に蛾がぶつかっていく
と思う間もなく黒い昆虫が目の前を飛ぶ
あれはクワガタかゴキブリか
この街はすぐ近くに大きな山があり
街と山の昆虫が入り混じって夏の夜を飛ぶ

すぐ横の複々線高架を
車内灯の灯りをまき散らしながら
旧型電車がモーターを唸らせ、派手な音をガードで立てていく

教えてもらったアパートはこの高架下らしい
メモを握りしめ
僕はどう見ても上品とは思えない
古臭い建物ばかりのその街で
自分が何故にこのようなところへ向かっているのか
自問しながら歩く

酒の席での先輩からの質問が発端だった
「お前は女を知っているのか」
気張って「知ってますよ、そんなもの」
と強がったものの先輩からの執拗な質問にはやがて降参するしかなかった
そう、僕はあの頃、まだ女性を知らなかった
だが、化粧っ気の濃い
歓楽街で見るような女性たちにはとても興味がわかなかった

目的地らしい辺りへ近づくと
高架下のアパート群の方へ道を渡る
甲高い警笛は電気機関車のものか
ダダダダダダ、タ~ンタ~ンタ~ンタタンタタンタ~ン
長く単調ではないレールジョンとの音が貨物列車であることを
線路の真下ゆえ見えない位置なのに確信させる

教えてくれたのは別の先輩だ
その人もその道のプロにしか見えないような女性は好きではないそうで
だからと、お前だけに教えると連絡先を教えてくれた
「ほかのやつに、教えたらあかんで」と忠告を付けて

高架下、橋脚の間に二階建てのアパートがいくつも建っていた
裸電球の灯りを頼りにメモに記された部屋を探す
「白鳥荘14号室」
その部屋のある場所はすぐに分った

砂が撒かれているかのような木の階段を上る
14号室の部屋の扉には桜を模した造花がオシピンで貼り付けられている
ノックは三回と決められている
トントントン
「はーい」明るい声がした

「野上です」
「お待ちしてましたよ」
扉を開けてくれたその女は
こういった職業の女によくある崩れた雰囲気を醸し出さず
清楚な黒髪でブラウスにスカートといういで立ちだった

「いらっしゃい、ビールでも飲みますか?よく冷えてますよ」
「あ・・はい」
僕は女の明るい声に戸惑う

だが部屋の照明はサークラインが一つぶら下がっているだけ
そして部屋にはテレビと粗末な箪笥と冷蔵庫
その上には古臭いラジオが居座っている

入れてもらったビールを一気に飲み干す
暑くて汗がしたたり落ちる
「暑いですね、助かります」
僕がそう言うと女は少し微笑む
かなり美人の方だろう
「ほんと、いまが暑さの盛り」
折り畳みテーブルの向かいに座った女は僕をじっと見つめている
「ね、先にくれますか?」
「あ、はい、いくらだったでしょう」
「うん、一万五千円って言ってなかったかな?」
「はい、ほんとにその通りでよいのですか?」
「もちろん、でも少しチップくれると嬉しいな」
「はい」
僕は女に二万円を渡した
「すごぉい、こんなにチップくれるの?お釣りはナシよ」
「はい」
じゃ、こっちに来てと言われ、奥にある別の部屋に案内された
ダダダダダダ、タタ~タタタタン、タタタタン、タタタタン、タタタタン
規則正しいレールジョイントは機関車の牽く夜行列車だろうか

奥の部屋はせいぜい三畳ほどか
布団が敷かれ、小さな鏡台に小物入れと枕もとのスタンドだけのある部屋だ
天井の灯りは消されている
目の前で、するすると着ているものを脱ぐ女
「ご紹介の人が真っ当な感じでよかったです」
「真っ当ですか・・」
「真面目そうだもんね、もしかして初めて?」
「あ・・正直に言うとそうです」
「そう、わたしで良かったのかしら」
「なにが?」
「筆下ろし・・」そう言って女はクスッと笑った
「あなたも脱いでくださいね」
下着だけになった女は先に布団にもぐりこんだ
夏場ゆえ、掛布団はなく薄いタオルケットだけだ
僕は着ているものをすべて脱いで
女の待つ布団へ無様な格好で入り込む
「好きにしていいですよ」
「はい・・」
「暑いわね」
女が手を伸ばして扇風機のスイッチを入れる
モーターの回る音、生暖かい風がかき回されていく

柔らかい乳房、重ねた唇の中へ入りこんでくる女の舌
「うふん、サービス、あなた、可愛いもの」
そう言いながら女は自分から僕の上に乗りかかってきた

ダダ、ダダンダダン、ダダンダダン、ダダンダダン
電車が通過しているのだろう
車輪の音ごとに部屋が少し揺れる
女の口が僕の身体を這う
汗と唾液が混ざり合った香りが漂う

「ね、朝まで居てくれますか?」
「あ・・いいんですか、二時間ってお伺いしましたけど」
「あなたはホント、特別、可愛いから」
女の黒髪が僕の頬に罹る
僕は「ありがとう」と言いながら女の身体をくるりと返し
女の躰に乗る
「うふ、頑張ってやってみてね」
女を抱きしめる
互いの汗が肌の間を流れる気がする
圧された乳房が僕を急かせる
「急がなくていいわ、女はこういう時、ゆっくりと攻めてもらえるのが嬉しいの」

ダダダダ、ダダダダ、タン~タン~タン~タタンタタンタン~タン~
あの音は二両で一つになった黒い電気機関車だろうか
女が僕の手を優しく誘ってくれている

汗と体液と唾液の匂い、そして時折流れる女の喘ぎ
なまめかしく動く細く綺麗な女の腕
レールジョイント、揺れる部屋、扇風機の音
生暖かい風、どこからか入り込んできた虫の舞う音

遠い昔の微かな夢
遠い昔の一夜だけの恋
遠い昔の誰にも話さない内緒の夜

 

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真夏の女性客

2023年07月22日 22時04分02秒 | 小説

 

僕の運転するタクシーは真夏の昼下がり、明石市のとあるマンションに配車となった。
マンションの玄関で待っても客の姿は現れない。
空は雲一つなく、気温が高い。
10分が経過したころ、マンションの脇の道から女性が走ってきた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
そう詫びながら乗ってきたのは若い女性だ。
「いえいえ、マンションの中から来られるとばかり思っておりました」
僕がそう言うと女性は「近くに良い目印がここしかなかったもので」と答える
「なるほど、そう言う事だったんですね」
そう言うと微笑んでくれるが、この暑いのに紺のスーツを着ている。
それも、胸のところのボタンがはち切れそうだ。
スーツが身体に合ってないのはすぐに分った。
「では、どちらに参りましょう」
僕の問いに彼女はスマホを見ながら「神戸市須磨区M町3丁目5番地13号」という。
「では、カーナビに打ち込みますね」
僕はそう言ってカーナビを操作したが5番地13号は検索に出ず、5番地12号なら出た。
「あ、それならそこでいいです、高速で行ってください」
「このお昼間だったら国道でも充分速いですよ」
「でも、高速代は構いませんので高速で」
「分かりました」
「若宮インターで降りたら早そうですね」
「いえ、そこは乗るためだけのインターなので」
「あ、では月見山かな」
「いえ、そこも乗るだけで、降りるのでしたら手前の須磨インターか、ずっと先の湊川インターですが、湊川だとかなり行き過ぎで却って時間がかかりそうです」
「それじゃあ、須磨インターでお願いします」
「畏まりました」
僕は話をしながらクルマを現地からほど近い大蔵谷インターに向けた。
だが、おかしいではないか・・
地元の人間ならほとんどこれらのインターチェンジのことは知っているはずだ。
・・いやいや、普段クルマと縁のない生活をしている人なら分からないというのもあるのだろう・・と思い直した。
だが、バックミラーに映る、胸のところがはち切れそうになったスーツが気になる。

小柄で黒髪をきちんと後ろで束ねて、大きな眼鏡、白いブラウス、化粧っけはなく、韓流ドラマのような赤い口紅を付けてはいるが女性は充分に清楚だ。
ただ、身体に、いや・・胸の大きさに合わないスーツを除いては・・

そこへスマホに着信があったようだ。
「電話に出ていいですか?」女性が可愛く訊いてくる。
「もちろん、電車やバスじゃあるまいし、ご自由にどうぞ」
「ありがとうございます」そう礼を言ってから彼女は着信を受ける。
・・はい、ええ、そうですね、今、別件で時間をとってしまっていました。
そちらに向かっております、そうですね、20分ほどで到着できるかと思いますのでお待ちいただけますか・・
何の仕事をしているのだろう、この子・・と思った。
可愛い女性だが年齢的にはまだ二十歳になるかならないか、どう考えても営業や公務で飛び回るような経験値があるようには見えない。

少し走ると女性は鼻をぐずぐずとし始めた。
「寒いですか、エアコンを弱くしましょうか」
僕が伺うと「いえ、これはアレルギーなので・・暑がりですのでこのままのエアコンにしていてください」という。
そして「すみません、ティッシュ持っておられませんか」と訊いてきた。
「ああ、ありますよ、ちょっと待ってね」
僕がコンソールの中から会社の宣伝用のポケットティッシュを渡してやると「ありがとうございます、助かります」という。
女性の身だしなみとしてハンケチやティッシュの類は持ってないのだろうか。
まぁ、自分の娘もドジなところがあるから、似たような性分の人かもしれない。

クルマは20分ほどで須磨区M町3丁目5番地12号と、ナビが指定した場所に着いた
そこには大きな集合住宅がある。
「ここで宜しいでしょうか」と僕が伺うと「もう少し先です、あ、そこの角を曲がってください」という。
だがその場所はすでに3丁目ではなく2丁目だ。
「すみません、ここで待っていていただけませんでしょうか、お金は先に一万円を置いておきますので」という。
「いいですよ、どれくらいのお時間ですか?」
「そうですね、10分もかからないと思います」
女性はそう言っていったん降りた。
クルマの後方へ向かい、さっきクルマが曲がった角を小走りで曲がる。

5分ほどしただろうか、女性が小走りで後ろからかけてくるのがバックミラーに見えた
「お待たせしてごめんなさい」そう言って乗ってきたかと思うと、女性は自分ですぐドアを閉めた。
「急いで・・えっと・・一番近い新幹線へ」と息を切らせながら言う。
「ここからでしたら新神戸で宜しいですか?」
「はい、どこでも新幹線に乗れるところなら」
僕はクルマを動かそうとした。
そのとき、一瞬だけ女性を追ってきたような人がバックミラーに映っていることに気が付いた。
だが、女性が何も言わないので僕は構わずクルマを出す。
バックミラーに映る女性はさっき僕が手渡したティッシュでしきりに汗を拭いている。
僕はエアコンの温度を下げ、風量を最大にする。
もう一つティッシュをだして「どうぞ」と後ろの席へ手渡してやる。
「ありがとうございます、外が暑くて」
「それでしたら、新神戸に着くまで、上着を脱がれてはどうですか」
「あ、そうですね!」
女性は上着を脱ぐ。
バックミラーに、ブラウスも胸の大きさにあっていないらしい様子が映る。
大きな胸がそこから飛び出してきそうだ。

女性のスマホに呼び出しがあった。
だが、女性はスマホの画面を一瞬見ただけでその着信を取らない。

高速に入りなおし、新神戸駅へ向かう。
15分ほどでタクシー降車場につき、タクシー運賃は先に一万円札を預かっていたので、その釣りを渡した。
「領収書はお入り用ですね」僕の問いに女性は「いえ、結構です」という。
公務、あるいは社用ではないのかと疑問に思う。
どうも今日のお客は疑問に思うことが多い。
そして彼女が降りようとしたその時、クルマの外に男女数人が立ちはだかった。
「ちょっと来てもらおうか」
男の一人が手帳のようなものを女性に見せている。
別の男が僕の方にも近づいてきた。
運転席の窓を開けると男は「警察です」と言いながら手帳を見せた。
「あなたにも事情聴取をさせていただきます、申し訳ありませんが我々と御足労願えますか」
「いったい何なのですか?」
男の目を見つめながら僕は問う。
「特殊詐欺の実行犯です、あなたがここまで乗せてこられた様子を伺いたいのです」男は冷静に答える。
先ほどの女性は数人の男女に囲まれたまま、タクシー降車場の前方に停車している警察車両に連れていかれるようだ。
「ごめんなさい」
女性は僕の方に向かって泣きそうな表情で頭を下げた。
少し抵抗したのか、ブラウスのボタンが外れて、下着が見えている。

その日、僕はS警察署で4時間以上の事情聴取をうけた。
もはや、一日の仕事の成績など望めるはずもない。
会社には警察署へ向かう道すがら無線で連絡を入れた。
「さっき、配車してもらったお客さん、詐欺容疑とかで警察に連れていかれてね、私も今から事情聴取です、暫く帰社できません」
配車係は「了解しました、また結果が分かれば連絡ください」と淡々と宣う。
配車したのはお前だろうがと、少し苛つきながら「了解~」と無線を切った。

女性は所謂「受け子」で、明石では訪問先の人物が余りにも痴呆が来ていて話にならず、須磨ではまんまとキャッシュカードを騙し取ろうとしたものの、応対中にそこの息子が帰宅し、なにをしてるんやと問い詰められ、適当に言いつくろって玄関を出た。
息子は一瞬後に女性を追いかけたが、女性は僕のクルマに乗って出てしまった、それでもなんとか去りつつあるクルマの写真をスマホで撮影して、警察を呼んだのだという。
ただ、どうやら女性は初犯だったようで、しかもまだ高校生だという。

ひと月ほどして僕はいつも待機している駅で晩夏の午後の猛暑をクルマの中で凌いでいた。
だが、色の黒いタクシー車両は夏の熱をいくらでも吸収し、停車して待機している状態ではコンプレッサーが動かず、冷房なんてほとんど効かない。
「今年はいつもより暑い期間が長いなぁ」と愚痴も出る。
そのときだ、クルマの窓を叩く音が聞こえた。
見ると、可愛い女性が僕のクルマをのぞき込んでいる。
窓を開け、女性を見る。
先だっての詐欺事件の犯人ではないか。
着ているのは若い女性らしいパステル調のワンピースで、口紅も塗っていない。
ワンピースは胸の大きさには合っているようで、良く似合っている。
「先だっては、ご迷惑をおかけしました」
女性は殊勝に頭を下げた。
「いやいや、あれからどうなったんですか」
「はい、初犯で未遂に終わりましたので、一月ほどして釈放されました」
「それはなにより、それより君は高校生ではないの?」
「はい、学校は退学になりました」
「それは、えらい失敗やったね、もうあんなことはしないことやな」
「はい、ただ、ご迷惑をおかけしたことだけ、お詫びしたくて」
そう言って頭を下げる。
そして彼女はすっと踵を返して駅の改札の方に向かっていく。
後ろ姿、パステル調のワンピースのひらひらが、やけに印象に残る。
「暑い・・」
独り言が出て僕はクルマの窓を閉めた。
「あのスーツは家族の誰かからでも借りたのだろうか」
ふっと、そう思った。
大きな胸を包むには小さすぎるスーツとブラウスが思い出され、少し可笑しくなった。

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もう一杯の水

2023年06月22日 19時31分56秒 | 小説

友人の金岡から「吉田に一寸、会って欲しい人がいる」とSNSで連絡が来た。
「そっか、ようやくお前も年貢を納めるか」と俺が返すと
「まあ、そんなところだ」と答える。
嬉しいことではないか。
仕事一筋、かといって器用な奴で、早くに両親を亡くしたが、一人暮らしの大きな家も片付いているし、料理でも洗濯でも大抵のことをやり遂げてしまう。
「お前は器用すぎて、嫁の来てがないのやろ」
仲間はそんな風に彼を揶揄うが、金岡だってもう五十代だ。
いつまでも一人という訳にも行くまい…
「だが、ちょっとお前を驚かせるかもしれない」
やつはそんなことを言う。
「なんだ、飛び切りの超美人で、二回りくらい年齢が下だとか」
「いや、そう言う事でもないのだ・・」
「よく分からんがまぁ、目出度いところだろ・・いいよ」と答えた。
「まぁ、慣れれば大丈夫だ」
まさか、猛獣と結婚するというのでもあるまいと、俺は笑いながら話を打ち切った。

約束は翌日の夕方、平日の町中のカフェレストランだ。
時間を見計らって店に入ると、金岡が向こうの方で手を振っている。
「待たせたな」
「いやいや、僕が先に来ていただけだ、いつも確実に時間通り、さすがは営業の鏡だな」
と金岡が言う。
彼の隣には誰も座っていない。
テーブルにはお手拭きと、水を入れたコップが二つだ。
「あれ?今日、彼女が来るのではなかったのか?」
俺が疑問に思ったことをそのまま口に出した。
「来るよ、だから四人で座れるボックスにしてある」
「なら、グラスは三つ必要だろう」
「いや、いいんだ」
彼は含みを持たせて頷いた。
何を考えているのか、そうか、彼女は自分が来た時に初めて持ってくるグラスでないと気持ちが悪いというタイプの人なのだろうか。
どうでもいい、彼の言うことに身を任せることにした。

やがて、金岡が店の入り口に向かって手を振った。
だが店の入り口、レジのあたりには女性店員が立っているだけで、その女性は金岡が手を振るのを不思議そうに見ている。
「あの店の子か・・」
「いやいや、違うんだ」
金岡はそう言いながら手を振る。
そして、「おうおう!ごめんね!!」などと言いながら誰かを手招きするような仕草をする。
「悪かったな、ぜひ君に会って欲しい友達で、一番の親友なんだ」
と、誰かに語り掛ける。
そこは俺の斜め向かい、金岡の隣の席だ。
だが、誰もいないし、声も聞こえない。
俺は、こいつはついに頭が逝ったのかと思ったが黙っていた。

「あ、すみません、もう一杯お冷ください」と金岡が店の子を呼ぶ。
ウェイトレスはちょっと怪訝な表情をしたが、すぐに新しいグラスに水を入れておいてくれた。
「吉田、ちょっと真面目に聞いてくれ」
「なんだ、誰もいないじゃないか」
「いや、いるんだ・・」
大真面目な顔でそう話す彼の顔をみて、何か裏があるのかと腹を決めた。
「ほう、ではどのような方がここに居られるのか」
「うん・・ちょっと目を瞑ってくれ」
と金岡が言う。
「吉田、今から言う頃のことを思い出してくれ」金岡が続ける。
「あれは僕たちが高校生だったころ、クラスの男子、みんなのアイドルだった女の子を覚えているか」
「ああ、確か、野村・・・怜子だったかな・・」
そう答えて俺は目を開けようとした。
「まだ目を瞑っていてくれ」
金岡がきつく言う。
「野村玲子のことをいくらでもいい、思い出してくれ」
「野村玲子?・・本当に可愛い子だったな、今ならアイドルで売れそうな・・」
「それで?」
「成績もよかったよな、俺は、学年で野村とお前には敵わないままだった」
「そうそうその調子」
「でも案外、運動は不得手そうで、体育大会の時にあの子が走る姿が一生懸命なんだけれども、くねくねしてて、それがまた面白いと言っては失礼だが、妙な色っぽさもあったな」
「う~ん、そう言う事もあったか」
「これでいいのか」
「いや、まだみたいだ・・・」
「まだ・・みたい?」
「そうそう、お前があの子に惚れて、ラブレターを書いたの知っているぞ」
「そんなこともあったなぁ」
「だけどラブレターを書いたのはお前だけかもしれんが、クラスの男子は皆、あの子が好きだったことは間違いがないな」
「ほかにもラブレターを書いたやつはいるけどね」
そう言って金岡が笑い声を発した。
「もういいか、目を開けて」
「もうちょっと待ってくれ」
「そうか、だが、なにがあったか知らないが、卒業してからの野村玲子には気の毒だったな」
「うん」
「俺の母親が野村の母親と付き合いがあったから、葬式の連絡が来た時、俺はまず一番にお前に知らせたものだ」
「うん・・」
あんなに可愛い子が、あんなに賢い子が、なんで自ら命を絶ったのだろう・・俺は今もあの事を思い出すとものすごく切なくなる」
「うん・・あ、そうか、もういいか・・吉田、目を開けていいよ」
俺は目を開けた。
金岡の隣にいつの間にか美女が座っていた。
知らない女性なんかではない、そこには三十年ほど前に他界した野村玲子が座っていた、
白いワンピース、カールした髪、大きな瞳の整った顔立ち、やや大人びた雰囲気だが、あの頃より少し成長した怜子の姿があった。
「え?」
「彼女が見えるには想いが必要なんだ」
金岡が言う。
「想い…」
「吉田君、お久しぶりです・・驚かれたでしょう」あの頃の声のまま、怜子が喋り掛ける。
「これは・・?」
「僕は野村玲子と結婚する・・いやもうすでに結婚している」
「いや、そんなこと言っても怜子さんは・・」
「そう、一度死んだ・・そして僕らとは別次元の世界に住んでいた」
怜子は俺を見て頷いた。
「怜子さん、どちらにいらっしゃったのですか?」
「わたし・・高校近くの線路際の神社の森に・・」
「あそこは、君が・・」
「そう、命を捨てたところです」
「現世への想いがどうしても残ってしまって、天上に行くこともできず彷徨っていました・・そうすると、あの事があってからほとんど毎日、金岡君が通りかかって声をかけてくれたの」
「僕の大学への通学経路、仕事場への通勤経路だったからな」
「毎日、毎日、怜子さん、どうしている?って、声をかけてくれた」
「僕は本当に怜子さんに惚れていたんだとあの時、気が付いたんだ」
二人の応酬はまさに青春時代の続きを見ているようで、あの不幸なことがなければ多分、今頃二人はこうして似合いの真っ当な夫婦だったのだろうなと思う。
怜子が言う「金岡君、時に「会いたいよ」ってあの林で泣くの」

「そんなことがあったのか」
金岡はあまり感情を表に出さない。
彼がそこまで怜子に惚れていたというのは俺は知らなかった。
怜子がしみじみとした表情で言う。
「ある時、深夜だったかな・・金岡君がいつものように通りかかったけど、少し酔ってたのよね‥きっと、「怜子さん、何が何でも会いたい、僕は地獄に落ちてもいい、今あるものを全部捨ててもいい、出てきてくれ」って、泣きながら叫んだの」
「いや、恥ずかしい話ですが・・」
金岡が頭を掻く。
「神社に居るほかのお仲間も、可哀そうよ・・あの人なんて言うものだから、じゃそこまで想いがあるなら、わたしの姿が見えるかなって」
「それで、彼の前に出てきてみたら・・」
僕は何か感動しながら口を挟んだ。
「見えたんだよ、怜子さんが・・」
金岡が感極まったかのように言う。

ちょうど彼の両親が相次いで他界した後のことだ。
深夜の神社の森、金岡はかなり酔ってそこを歩いていた。
踏切で貨物列車の通過するのを見て、「怜子さん・・」と呟いたという。
すると想いがどんどん大きくなり、それでも彼は周りを見渡した。
幸い、ほかに人の姿はない。
「怜子さん、何が何でも会いたい、僕は地獄に落ちてもいい、今あるものを全部捨ててもいい、出てきてくれ」
神社の森の上の方、真っ暗な木々とその上の星空しか見えないところで思いきり叫んだ。
叫んだあとは泣き崩れてしまい、そして、泣き止むと神社の石段に腰かけて呆然と本殿を見ていた。
すると闇の中にぼんやりと白い光が浮かび上がって近づいてきたという。
それは、近づくに従って人の形となり、女性であることが分かるようになり、その時はもう、金岡は疑わなかった。
「怜子さん!」
空間に現れた怜子はゆっくりと彼の傍へきて、彼を抱きしめた。
「ね、本当にわたしのこと、そこまで好きですか?」
間髪を入れず、金岡は叫んだ。
「他には何もいらない、ただ、怜子さんだけが欲しい、僕は地獄に落ちてもいい」

それ以降、怜子は金岡が一人で住んでいる彼の実家に住み着いて、身の回りの世話をしてくれているという。
彼の家が片付いているわけだ。

「ただね・・誰もが怜子を見られるわけではないんだ」
「それが想いという事か」
「そうだ、僕と同じか、僕以上に高校生の頃は怜子に惚れこんでいた吉田ならと思ってな」
「吉田君、わたしが見えるの、素敵です‥ありがとう」
怜子が俺に微笑みかける。
改めて、いい女だなと思う。
だが、俺には金岡のように、現実にあるもの以外を求めて思いを募らせるということができなかった。

食事が運ばれてきたが怜子は食べない。
ただ、グラスの水だけが少し減っている。
金岡は「遠慮せず食ってくれ、やっぱり吉田、お前を選んで大正解だった」
と上機嫌で料理を頬張る。
「怜子さんは召し上がらないのですが?」
「わたしは、食べるという事はもうできないので」
怜子はそう言ってクスッと笑った。

その夜は遅くまで歓談し、帰宅してから矢張り今夜の不思議な出会いを噛み締めていた。
「そりゃあ、生涯で最高に惚れた女と、もしかしたら永遠に生きられるんだから」
と思いながらウィスキーを嘗めていると「なんだか、今日はしみじみと嬉しそうね」
俺とおない年ですっかり年齢を重ねた妻が微笑みかけてくれた。

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テレビ

2023年05月17日 22時44分53秒 | 小説

「もう十時前やん‥」
史子が目を覚ます
いつの間にかベッドから布団が落ちて
自分を見ればパジャマも脱いでしまい下着だけで寝ていた

まだ頭がぼうっとする
準夜勤の後は睡眠が浅く、疲れが残りやすい
自分だけかと思ったら同僚もみな同じことを言う

史子はこの近くの大きな病院でナースをしている
年齢的にも経験でもさすがに彼女に敵う者はおらず
いまや病棟士長だ

しかし、昨夜は十二時前の終業のはずが
ギリギリに飛び込んできた急患
なぜか昨夜に限って深夜に騒ぎ出す老人たち
そして急に容態が悪化した個室の患者

とても引継ぎなどできる状況ではなく
二時間以上も時間が押してしまった

疲れ果て
家に帰るも食事も作る気もなく
水だけ飲んで寝た

「疲れがたまりやすくなったわ」
若い時は連続の準夜、深夜勤でも何とも思わなかった
それどころか、その合間に呑みに行くし
友達と遊ぶし
男と寝るのも平気だった

齢六十・・還暦だ
よろよろと起きだして
この頃、特に近くなったトイレへ行く
その前に何気なくテレビのスイッチを入れた
用を足し終えてトイレから出ると
平日の朝にいつもやっている関西ローカル番組がかかっていた

タレントでもあるレポーターが
適当に店や事務所を訪問して
関西らしく素人さんに出演させる番組で
史子のお気に入りでもあった

脱いでしまっていたパジャマを着る
もともと細身だが年齢とともにお腹の弛みが気になってきている

テレビでは本日のレポーターを勤める落語家が
他の出演者に弄られている
「ふふ・・」
自然に笑いが出る
そう言えば昨夜は笑う暇などなかった
いや、余分なことをする余裕は全くなかった

「わたしこのまま朽ちていくのかなぁ」
独り言が出る
独身を通したと言えば聞こえは良いが
誰か一人のものにはなりたくなくて
適当に都合の良い時に遊んでくれる人ばかり探していた

元より美人の方だ
ただ、身体は痩せぎすで決してスタイルは良くないし
胸は小さい、だのに脚は太く思える
それでも、若いころは常に言い寄ってくる男たちを
適当にあしらってきた

最後の男はもう十年も前だろうか
男たちは気心が繋がってくると結婚をほのめかす

自分にその意思がないことを知ると彼らは静かに去っていく
史子にとって不思議なのは
男たちの方が自分よりはるかに家庭を求めていたという事

裕福ではあったが決して恵まれたとは言えない家庭で育った彼女は
だから家庭を自分が創れるとは夢にも思っていなかった

今こうして神戸の東
分譲マンションの一室で独身を謳歌している
・・はずだったがこの頃の寂しさは何だろう
時に自室で酒を呑んで夢うつつで「助けて」と叫んでいる自分がいる

遮光式の分厚いカーテンを開けた
神戸の街並みが眼下に広がる
サッシを開けて外の空気を入れる
ようやく花粉の季節が終わり
町に降り注ぐ陽光は暖かい

テレビの音がバルコニーにも聞こえてくる
「あらこんにちは~~」
男性が答えている
え??
今の声…
史子は部屋に入ってテレビ画面を見る
タレントと関西人らしい漫談のような会話をしている男性
笑った顔には前歯がなく
屈託のない表情
「こちらは趣味のお店ですか!」
タレントが感嘆している
「見ていただければ、決してご飯屋さんではないことだけは確かです」
そう言いながら笑う男性のその声
「いやぁ、店主さん言わはりますね~~確かに機関車は食えないですね~」
「何なら食べてみます?」
「ほな・・おひとつ」
タレントはそう言いながら棚の蒸気機関車の模型を手にもって食べようとする
そのしぐさが可笑しい
「ふふ・・あはは」
声を出して笑う史子
テレビでは
「どないです、辛子の代わりに石炭でもふり掛けましょか」
と、男性がタレントを揶揄っているように見える
「こちらの店主さん、むしろうちの事務所にでも」
「ああ・・それはありがたいですが、わたしヤッパリ落語より電車のほうがええですわ」
そう言って大笑いする男性
鉄道専門の模型やらグッズやらを扱う店の主人らしい

「カンちゃん・・」
そう呟いた瞬間、史子の目に涙があふれた
あれはまだ彼女が二十代後半だったころ
何人かの男友達の中でひとりだけ、やけに一生懸命な男がいた
それが、カンちゃんこと、寛志だった

ドライブに誘ってくれ、一緒に呑みに行ってくれ
けれど彼はほかの男のように男女の関係を求めては来なかった
だがあるとき
それは彼と出会って二年もたったころだろうか・・
彼は「抱きたい」と言ってきた
その時は断った
彼は別段ショックを受けるでもなく引きさがった

それから何か月かして
ひょんなことで彼と泊まることになった
「おやすみ」
彼は並んだベッドでそう言っていったんは寝たが
「来ないの?」
と史子がちょっと揶揄い気味に言うと
「いいんですか?」
と、彼女のベッドにもぐりこんできた

それからさらに数か月、彼の仕事と親が大変な事態となり
彼はその時、史子に暮れた電話で
「大丈夫、乗り切って見せる」と宣言した

彼の仕事の問題も
入院して生死を彷徨っていた彼の母親の問題も
いずれも解決して
意気揚々と会いに来た彼を史子は蹴飛ばした格好になった

・・なにも、別の友達とおるときに急に来なくても
カンちゃんだって、わたしがいつも複数の男っ付き合っていることくらい
知っているはずなのに・・

私鉄電車の駅前で深夜、史子の好きな二人の男が言い争う
いや、怒っているのはカンちゃんだけで
その頃おつきあいをしていた男は
年齢がかなり上というのもあり、宥め役に回っていた
「まぁ、そこで少し呑もう…」
「なんで俺が、あんたと兄弟の盃を交わさなアカンのや!」

だけど史子には寛志に対しては別の想いもあった
彼は良かれと思うものを人に無理に進める癖があり
それが食べ物や酒、あるいは彼の好きな鉄道なら
たいして回りに影響は与えないだろうが
信奉する思想信条、政治理論、あるいは宗教
そう言ったものへの傾倒に嫌気がさしていたのも事実だ

だが、テレビの中のカンちゃんはどうだ
屈託なく楽し気で
昔からよくやっていた下手なダジャレが良く効いている
番組が進むほどに
史子は泣き笑いの状況になってくる
暖かいものが体を包む

一回だけ重ねた身体の感触が蘇る
意外にも女性関係は初めてで何も分からないと戸惑う彼
それゆえ、かなり辟易するシーンもあったのだけれど
あの純粋さは可笑しかった

「カンちゃん・・会いたい・・」
そう呟く自分に驚く史子

番組が終わってから
大昔の折り畳み式携帯の履歴を今に引き継ぐ彼女のスマホで
彼の番号を探した
そしてそれはすぐに分った
「あれぇ、フミちゃんですか!」
素っ頓狂な彼の声が聴こえる
「お久しぶり、テレビ、見たわよ」
「うわ、それは嬉しいなぁ」
「ね、教えて、今もあの宗教しているの?」
「ああ・・あれ・・平和や政治の問題で僕とは考えが違うからやめたよ」
ほっとした
一番聞きたかったことがこんなことだったのかと自分で気がついた
「ねぇねぇ、カンちゃん、今度呑まない??」
「嬉しいなぁ、その言葉だけで天に上る心地だ」
若いころと変わらない彼の声が史子の耳に素直に入ってくる
「歯が抜けたね」
「治すお金がないんや」
史子は、その答えに思わず爆笑してしまう

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強い女性

2023年04月15日 20時27分51秒 | 小説

仕事で訪れた長野県のとある街で、居酒屋で食事をして
多少はビールなどを呑んだ
昼間の仕事での憂さもあったのか、その日はひどく酔った

ふらふらしながらさして灯りの多くない街中を歩いて
ここ数日は宿泊しているホテルに帰る道すがら
城跡の公園そばを通りがかる

関東のナンバーをつけた黒いミニバンが停車している
エンジンはかけたままだが黒いフィルムを貼った窓から車内の様子がうかがえない
その先をほんの少し歩くと、泊まっているホテルが見えるようになる
公園とは言え、近景は真っ暗に近い

あと何日、ここに宿泊しなければならないのだろう
宿は食事を付けてくれるが、バイキングで同じものが並ぶだけなので
数日もすると飽きてしまうゆえに、外へ食事に出たというわけだ

ふっと女の悲鳴が聞こえた
「きゃあ、なんするの」
太い男の声がそれに被さる
「うるせえんだよ、じっとしてろ」
「逆らうと殺すぞ」
別の男の声もする
どうやら女は一人で男は二人いるようだ

声のする方へ走った
昼間しか開いてない土産物屋の裏手
暗がりに人の影が見える
「なに、してるんや!」
叫ぶといきなり拳骨が飛んできた
僕はそのまま倒れて上に男が乗りかかる
「じゃますんなよ!」
「ちょ、ちょっと、そん人にまでなにするん」
女が叫ぶ
「うるせえ、おまえはじっとしてろ、いい気持にさせてやっからよ」
僕はとっさにうつぶせになった
そのほうが殴られた時のダメージが少ないと思ったからだ

だが僕に乗りかかる男は僕の首を腕で締め上げてきた
「おい、おっさんよう、みせてやらぁ・・いいシーンをよ」
女を抑え込んでいる男も応じる
「へへ、レイプ映画の実演だぜ」
女が叫ぶ
「やめてよ!話がやねこくなる!」
こちら側の男が促した
「おい、さっさと女をやっちゃいな」
「おう!」
女を抑え込んでいる男が返事をした瞬間、男は宙を飛んだ
女は立ち上がり、大きな声で宣言した
「あんたたちは、襲う相手を間違えたんよ!」
すぐに女は吹っ飛んだ男が仰向けに倒れているその股間を踏みつけた
「ぎゃああ」
ぐいぐいと力を入れてパンプスで股間を踏みつける
「ぐぐぐ」
うめき声を発しながら男は俯せになる
女は男の背に乗り、首を締めあげた
「おい、そっちの人を離さんと、こがぁな首が折れるで」
女は僕などが出せないような力で男の首を締めあげているようだ
男はすでに泡を吹いている
「やめてくれ・・死ぬ」
女は力を抜かない
「じゃけヤメェゆったじゃろうがいや」
続けて言葉を浴びせる
「あんたらんような人は、汚い都会へいね!」女は手を離した
そして男から離れる
「あんたも、やられたいか!」
僕を組み敷いているいる男に叫んだ

その男はここまでの成り行きを呆然と見ているだけだった
「そん人を離せ!」
男の手が離れ、やおら男が立ち上がろうとするとき
その男も吹っ飛んだ
「手を離したじゃねえか」
半泣きのような声で叫ぶ
「煩い、あんたたちんような馬鹿もんは、二度と立てないようにしておくのが一番なんじゃあ」
そう言ってへたり込んだ男の胸倉をつかんで殴り飛ばした

女を襲っていた男は何も喋らない
ただ、俯いて唸っているだけだ
「行きましょう・・」
女が僕に声をかける
「あの男は…」
「背中に一発、かましておいたんで・・しばらくは動けんじゃろ」
女はふっと笑顔を見せた
僅かな照明に照らされる女の横顔が美しい

「警察に通報しなければ」
「朝まであそこでへたばっているでしょう、放っておきましょう」
座り込んでいる僕に女が手を差し伸べてくれた
「助けようとしてくれんさった、ありがとう」
女は僕の顔を見る
「いやいや、お恥ずかしい・・こっちのほうが助けてもらった」

だが、歩くにも無理に引き倒された膝が痛い
女がさっと僕の脇に自分の肩を入れてくれた

女のスーツは、汚れてボタンが引きちぎられ
ブラウスも破られて、下着があらわになっている
「随分、やられてしまいましたね」
「あなたもじゃわ」女は笑う
そう言われて自分を見ると、スーツは泥まみれでボタンは取れてしまっている
「言葉を聞くと、この辺りの人ではなさそう・・どちからから?」
「僕は関西です・・あなたは・・」
女の土壇場での言葉はこの辺りでは聞かぬ方言だった
「うち?今は東京で暮らしているけど、生まりやぁ広島じゃ」
「仕事でここに?」
「そう、営業で来とるんじゃが長野はなかなかお堅い人がおゆって」
「そうですよね、僕も同じです」
「うちも、えろう苦労しとるんよ」
「難儀しますやんね」
僕がそう言うと彼女はくすくすと笑った
「でね~」

「泊りはどこかの?」
「あ、あそこにみえるホテルです」
「一緒じゃあ・・」
「というかこの街、あのホテルしか、マトモな宿ないですよね」
「あるんじゃけど、どれも駅から遠いんよ」
彼女はそう答えながら嬉しそうに僕を見た
僕よりは背が低く
僕の脇に肩を入れてもらっているのがちょうどよい高さで
若いという訳ではないが、美しい女性だ

ホテルへ入る前に、見た目が哀れな二人の服装を可能な限り直すが
彼女の吹っ飛んだボタンは直せるわけもなく
スカートの中に入れてちょっときつめに締めるしかない

ホテルフロントではやや服装の崩れた二人にフロントマンがギョッとしていたが
二人が笑顔なのでそのままルームキーを渡してくれた

部屋は同じフロアでどちらもシングルだった
「荷物置きおったらこっちにきて」
女がそう言ってくれる。
「繕ってあげるけん、そんままでね」
素直に彼女の言うとおりにした。
まだ膝が痛い

さして広くないシングルルームのベッドに腰かけ
彼女は僕のスーツの破れを縫い始めた
「すごい、あんな力業があるのに裁縫もなさるんですか」
「自分こたぁ自分でせんと、高くつくんよ」
そう言って僕を見てくれる
だが彼女のブラウスは破れたままだ
「あなたの服を先に直して」
「これはもう、破れてるし・・替えもあるから」
みえたままの下着が眩しい、いや、さらにその下の白い肌がもっと眩しい
「気になるんですよ」
「なにが?」
「ブラが見えてるの」
彼女はふっと自分の体を見て、笑う
「あはは、そりゃあそうよの、これ、男性が見たらまた狼になりかねんわ」
「いや、僕はそんな大それた気はないですけど」
「うそうそ、男はみんな狼なんよ、気ぃがついとらんだけじゃ」
そう言ったかと思うとまた笑う
「でも、もし狼になってあなたに抱きついたら投げ飛ばされる」
「そりゃあ、嫌だってときに抱きついたらね‥」
「怖いですやん」
「そう?でも、惚れた男にゃあ優しいわよ」
「でも・・・」
女は繕いの手を休めて僕を見た
「ちぃと惚れたかもね」
「は・・」
「あんたに」

狭い部屋で僕は恐れと感謝と
そして始まったばかりの淡い思いとで複雑な気持ちになった

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