天文12年(1543)8月 古志長尾景虎(平三)【14歳】
〔長尾景虎(のちの上杉輝虎・謙信)の登場〕
越後国内の戦乱が続くなか、兄である越後国守護代長尾晴景(弥六郎。越府春日山城を本拠とする)の指示によって、中郡の平定に従事するため、当方面で奮戦中の本庄新左衛門尉実乃(守護代長尾家に味方する古志長尾氏の与力であろう)が拠る古志郡の栃尾城へ移ることになり、18日、長尾晴景が本庄実乃へ宛てて返状を発し、念入りな音信を寄越され、満足の極みであること、爰元(長尾晴景)は抜かりなく治療に努め、たちまち快復を遂げたので、安心してほしいこと、その地(栃尾周辺)の陣所については、皆々と相談し合って厳重に統轄するのが肝心であること、異変が生じたならば、必ずや注進を寄越されるのを待っていること、めでたく万事が調ったのちに、あらためて音信を通じること、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、景虎が近日中に(栃尾へ)出立するからには勝利は眼前であること、これらを申し添えている(『上越市史 資料編3』782号「本庄新左衛門(尉)殿」宛長尾「晴景」書状写)。
これから間もなくして古志郡へ下り、古志郡司および古志長尾家を継ぐと、以後の数年間、栃尾城周辺に城砦を築いた近郡の対抗勢力と攻防戦を展開する(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写)。
天文13年(1544)2月 古志長尾景虎(平三)【15歳】
9日、越後国古志郡の守門神社の宮司である藤崎文六へ宛てて証状を発し、吉日をもって、きしん(寄進)をすること、かんはらくん(蒲原郡)内の玉虫新左衛門尉一せき(一跡)をすもん大明神へ末代にわたって進じ申し上げること、これらを恐れ敬って申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』2号「藤崎分六(敬称なし)」宛長尾「平 景虎」寄進状写【花押a1影】)。
※ 以下、上杉輝虎(長尾景虎)が用いた複数の花押形のうち、原本・影写本で判明しているものについて、その型式は『上越市史 上杉氏文書集一』に従う。
4月20日、天皇が全国の静謐と豊年を祈念し、各国へ宸筆御心一巻が下されるところとなり、越後国には大納言勧修寺入道(俗名は尚顕。法号は泰龍・栄空)が遣わされることを、右中弁勧修寺晴秀(尚顕の孫)から申し渡された(『新潟県史 資料編3』776号 後奈良天皇綸旨)。
〔屋形上杉玄清の復権〕
10月10日、越後国守護上杉玄清(俗名は定実。兵庫頭)が、揚北衆の安田治部少輔長秀(越後国蒲原郡白川庄の安田城を本拠とする外様衆)へ宛てて証状を発し、先年の一乱(天文の乱)以来、前々からの筋目を守って奔走し、忠信を励んでくれているため、蒲原郡の白河庄堀越半分の地と同郡金津保下条村を与えること、長尾弥六郎の方からも相当に取り計らうので、久しく知行し、ますます忠信を励むべきこと、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4』1495号「安田治部少輔殿」宛上杉「玄清」判物)。
同日、越後国守護代長尾晴景が、安田治部少輔長秀へ宛てて証状を発し、先年に国中の面々が同心し、府中に対して不義を企てにもかかわらず、前々からの筋目を守られ、忠功を励まれたのは、類まれな次第であるため、蒲原郡白河庄堀越半分の地と同郡金津保下条村を与えられること、(屋形上杉玄清が)取り計られて、御判を調えられるからには、確かに知行されて、ますます軍忠を励まれるべきこと、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4』1496号「安田治部少輔殿」宛長尾「晴景」判物)。
守護代長尾晴景・景虎兄弟の亡父である長尾為景の傀儡であった屋形上杉玄清は、天文7年に隣国伊達家から後継者を迎える約束が決まっていたにもかかわらず、両家それぞれの事情により、いつまで経っても実現しないことなどに嫌気がさし、天文11年に隠居を表明したが、苦境に立たされていた晴景に引き留められ、こうして守護の役割を果たすまでになっていた。
天文15年(1546)3月 古志長尾景虎(平三) 【17歳】
〔直江酒椿が君命によって平子孫太郎と一部の知行地を交換する〕
23日、屋形上杉玄清の側近である直江入道酒椿(掃部助)が、越後国魚沼郡小千谷の領主である平子孫太郎の重臣へ宛てて奉書を発し、貴意(平子孫太郎)の通り、互いに手近かの地へ参ってでも打ち合わせをしたいこと、されば、御知行分八ヶ条のうち、前野の地を拙者(直江)が知行している地に関しては、「松尾未年(不詳)」上野分ならびに▢▢▢▢地の▢田分を除き、(平子方へ)畠などを引き渡すこと、ただし、府内と其元(平子方)の間に御別条はなく、▢▢▢を調えたうえで御帰府したからには、替え返し申し上げる旨を、(平子孫太郎の)御意を得たいこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』7号「平子殿 参 人々御中」宛「直江入道酒椿」奉書写)。
同日、直江入道酒椿が、平子孫太郎の重臣(同心か)である小林左京進へ宛てて書状を発し、御知行分について、巨細人の堀 次郎左衛門尉方を差し越されたので、▢▢▢▢▢小野沢蔵人丞(直江家中)を差し添えて彼の地の様子を確認し、(土地を)受け取ったこと、(直江が引き渡す土地については約束通り)前野の地は除外してもらうこと、その御心得が専一であること、従って、書き間違えの証札に関しては、手直しをすること、別して堀方へ渡されること、なおもって、(詳細は)両人(堀・小野沢)から申し入れられるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』8号「小林左京進殿 御報」宛「直江入道酒椿」書状写)。
天文16年(1547)10月~12月 古志長尾景虎(平三)【18歳】
〔景虎、兄晴景を救援するために上郡する〕
ここ数年にわたって越後国守護代長尾晴景(弥六郎)に反抗している黒田和泉守秀忠を討伐するため、上郡へ馳せ参じて黒田勢に対向したところ、黒田秀忠は助命を乞い、僧体となって出国することを申し出たので、それを容認すると、越府春日山城(あるいは魚沼郡波多岐庄上野の節黒城か)に入った(『上越市史 上杉氏文書集一』5号 長尾景虎書状写、115号 上野家成書状)。
※ この景虎と黒田の両勢力が対向する前の5月から7月にかけて、黒田秀忠をはじめとして梅津宗三・小黒源三郎・新開縫殿助・諏訪部 某・平子孫太郎・直江掃部入道酒椿らが高野山清浄心院に自身や一族の逆修供養を依頼している(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。ただし、これらの諸将が黒田方とは限らないであろう。
※ 黒田秀忠は、越後国守護上杉家譜代の重臣であった黒田内匠助良忠の後継者であろうが、どうも実子ではないらしい。守護代長尾家に近い人物であり、魚沼郡妻有地域に基盤を持っていたようである(『新潟県史 資料編4』1318号 黒田良忠書状、2249号 黒田秀忠・新保景重連署状写 ●『上越市史 上杉氏文書集一』115号 上野家成書状)。
〔黒田秀忠の再乱〕
この秋中に越後国からの退去を約束していたはずの黒田秀忠がまたもや逆心したので、守護代側の正当性を示して味方を募ると、越後国頸城郡西浜地域の領主の一人である村山与七郎(実名は義信か。同地域の徳合城を本拠とする)が、越後国守護上杉家の譜代家臣である桃井 某(伊豆守義孝あるいは次代の右馬助義孝。越後国頸城郡新井地域の鳥坂城を本拠とするか)と談合して参戦を約諾したので、10月12日、村山与七郎へ宛てて返状を発し、兄である弥六郎(晴景)兄弟の者に対し、黒田(秀忠)が思いも寄らない暴挙に及んだので、(黒田秀忠を成敗するため)上郡を果たしたこと、(村山与七郎へ)その道理を説明に及んだところ、(村山は)桃井方へ御談合をもって、景虎に同心して和泉守(黒田)に成敗を加えるとの御判断は、当然の成り行きであること、いかにも爰元が本意(黒田成敗)を遂げたのちにおいては、(村山の功績を)晴景に(景虎が)奏者となって申請するつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』3号「村山与七郎殿」宛長尾「平三景虎」書状【花押a1】)。
黒田秀忠の討伐を目前に控え、12月13日、長尾景虎、守護代長尾家の旗本衆に属する村田次郎右衛門尉へ宛てて書状を発し、このたび忠節を励み、晴景ならびに平三(景虎)を守り立てるにおいては、本領の安堵を間違いなく(晴景へ)申請するつもりであること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』4号「村田次郎右衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。
※『上越市史』は3号文書を天文13年、5号文書を同14年に比定しているが、今福匡氏の著書である『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』(宮帯出版社)の「第六章 御館の乱 一 謙信の政庁・御館」に従い、それぞれを天文16年の発給文書、天文16年の記事も含まれる同17年の発給文書として引用した。
この間、越後国刈羽郡佐橋庄北条の領主である北条高広(毛利丹後守)が、菩提寺の専称寺へ宛てて寄進状を発し、御詫言があったについて、御寺領ならびに按察使分・天神田・月山の三ヶ所の小寺社共に新段銭に関しては、七貫文のほかは新たな寄進として進覧すること、努めて後代において違乱はないこと、たとえ水損干損が起ころうとも、この七貫文は厳密に差し出されること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』9号「専称寺 参」宛北条「高広」寄進状)。
天文17年(1548)2月~6月 古志長尾景虎(平三)【19歳】
〔景虎、黒田一族を滅ぼす〕
越後守護上杉玄清(俗名は定実。兵庫頭)の意向に従って、再乱を企てた黒田和泉守秀忠とその一族を滅ぼすと、2月28日、揚北衆の小河右衛門佐長資(秩父本庄氏の支族。越後国瀬波(岩船)郡小泉庄の小河城を本拠とする外様衆)へ宛てて書状を発し、(長尾)晴景に対し、黒田和泉守(秀忠)がここ数年にわたって不埒な振舞いを繰り返していたので、昨年の秋にこの口(上郡)へ打ち越し、(黒田秀忠の)成敗を加えるつもりであったところ、(黒田が)その身を異像の体(法体)にやつして、他国へ立ち去るつもりであると、しきりに(助命を)嘆願したので、その申し出を聞き入れ、旧冬に当地(府城春日山城あるいは越後国魚沼郡妻有地域(波多岐庄)の領主の一人である上野氏が拠る節黒城)へ移ったところ、それから幾ばくもなく(黒田が)逆心の企てが発覚したにより、とりもなおさず、御屋形様(上杉玄清)の御意をもって、黒田一類を残らず、ついに生害させたこと、これにより、(御屋形様が揚北衆の)本庄方(猪千代丸。のちの本庄繁長。越後国瀬波(岩船)郡小泉庄の村上城を本拠とする外様衆)へ御書を送られること、こうした爰元の首尾は、きっと御満足してもらえるであろうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』5号「小河右衛門佐殿」宛「長尾平三景虎」書状写)。
景虎は、黒田秀忠が越後国から退去するのを見届けるため、黒田が拠って立っていたであろう魚沼郡の妻有地域(妻有荘)の近場に留まる必要から、同地域(波多岐荘)の有力者である上野家成の居城に間借りしたのではないか。
黒田秀忠をはじめとする一族のほとんどが滅びても、高野山清浄心院に供養の依頼がされていないなか、黒田の息子である黒田新八郎と新造(黒田あるいは息子の妻であろう)だけは供養の依頼がされたということは、この二人はしばらくは生存していたわけであり、新八郎はこの年の6月朔日、新造は天文18年2月12日に死去しているが、黒田の妻である千代子は身分が高かったようであり、長尾為景に近い女性だった可能性あるので、千代子と新造が同一人物であったのだとしたら、このあたりの事情によって、二人が黒田一族の滅亡から一時的とはいえ、逃れられたのかもしれない(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。
揚北衆の本庄氏は、前代の大和守房長が、同じく揚北衆の中条弾正忠の肝煎りで屋形上杉定実の後継者を隣国伊達家から迎えることに異を唱えたので、天文8年に伊達衆の攻撃を受けて敗れ、出羽国大宝寺へ逃れると、存在が確認できなくなってしまい(再起を図り、本拠へ向けて進軍中に病死したと伝わる)、その頃に房長の嫡男(のちの繁長)は生まれたばかりなので、一族の孫五郎が当主に据えられ、やはり一族の小河右衛門佐長資が台頭した。そして、本庄猪千代丸(繁長)が、天文15年に配下の飯沼氏に知行を宛行い、同17年に領内の本門寺に土地を寄進していることから(『新潟県史 資料編4』2357号 本庄猪千代丸宛行状写・2359号 某寄進状)、15年以前に孫五郎は当主の地位から退けられてしまったようである。
4月10日、越後守護代長尾晴景が、越後国頸城郡安塚地域(五十公郷小黒保)の賞泉寺長夫へ宛てて証状を発し、安塚地域の領主の一人であるである吉田周防入道英忠(同地域内の直峰城の城衆か)が当寺(賞泉寺)へ寄附された土地については、彼の寄進状の旨に任せて、御執務を間違いなく担うべきこと、これらを申し渡している(『上越市史 資料編3』791号「賞泉寺 長夫和尚」宛長尾「晴景」判物)。
6月24日、同じく長尾晴景が、越後国魚沼郡妻有地域(波多岐庄)の領主の一人である下平修理亮(同地域の千手城を本拠とする)へ宛てて証状を発し、私領内の興徳寺・善勝寺・満用寺分の三ヶ所の地(安堵・宛行の文言が書かれる箇所に、土地などの売り渡しの証文を意味する「沽却」とあるのは誤写か)については、先年のその口(魚沼郡妻有地域)における一乱の折、道七(長尾為景。晴景と景虎の父)が(下平に)返付されているそうであるからには、以前の通りに知行するべきこと、これらを申し渡している(『上越市史 資料編3』792号「下平修理亮殿」宛長尾「晴景」判物写)。
吉田と下平は、黒田秀忠の逆心の折に功績を挙げたのではないか。
◆『上越市史 資料編3 古代・中世編』(上越市)
◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編3 中世一』(新潟県)
◆『新潟県史 資料編4 中世二』(新潟県)
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』(新潟県立歴史博物館)