越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記【天文10年12月~同17年6月】

2012-08-13 20:07:54 | 上杉輝虎の年代記

天文10年(1541)12月 長尾景虎(平三)【12歳】


〔景虎、父長尾為景を喪う〕

12月24日、天文初年から続いている越後国の内乱の最中、前越後国守護代長尾為景(六郎。弾正左衛門尉。信濃守。絞竹庵張恕)が死去した。大龍寺殿喜光道七(『上杉家御年譜』第1巻・第23巻)。永正16年に34歳という記録が残ることから
、文明18年(1486)の生まれとなり、56歳であった。次代の長尾晴景とその弟たちは、越府で甲冑を着用して父を葬送している(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写)。景虎は通称を平三といい、弥六郎晴景、平次(実名不詳)に続く男子であった。享禄3年(1530)正月21日に生まれ、幼名は虎千代と伝わる(『上杉家御年譜』第1巻)。


※ 長尾為景の没年月日は、山本隆志氏の「高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』9号 2008年)、同じく年齢は、片桐昭彦氏の「春日社越後御師と上杉氏・直江氏 ー「大宮家文書」所収文書の紹介 ー」(『新潟史学』75号 2017年)による。



天文11年(1542)4月 長尾景虎(平三)【13歳】


〔越後屋形上杉玄清が、世の中につくづく嫌気がさしたとして、引退を宣言する〕

4月5日、越後国守護上杉玄清(俗名は定実。兵庫頭)が、同国守護代長尾弥六郎晴景へ血判起請文を渡し、起請文の事、晴景の事は言うに及ばず、御舎弟たちにおいても、他意はないこと、このたびふつけい(仏詣)をしたいと申したのも、絶え間なく世上は退屈であり、安閑無事に残りの人生を過ごしたいばかりであること、この文言を偽ったならば、諸神の御罰を深く蒙るものであること、よって、起請文に前記した通りであること、これらを誓約している(『新潟県史 資料編3 中世一』241号「長尾弥六郎殿」宛上杉「玄清」起請文)。



天文12年(1543)4月8月 古志長尾景虎(平三)【14歳】


〔府中長尾晴景が、揚北衆中から懇望されていた竹俣式部丞の赦免を拒否する〕

4月23日、阿賀北でそれぞれ在地している(秩父本庄一族)の本庄孫五郎 長・色部弥三郎勝長・小河右衛門佐長資・鮎川摂津守清長が、越後国守護代長尾弥六郎晴景へ宛てて返状を発し、(揚北衆・佐々木加地一族の)竹俣式部丞方(越後国蒲原郡の竹俣城を本拠とする外様衆。筑後守昌綱の世子)の進退の件について、旧冬に申し達したところ、(長尾晴景の)御懇報を漏れなく披読し、仰せ越された趣のほかには御対応のしようがないのであろうか、これにより、(揚北衆・佐々木加地一族の)新発田源次郎方(忠敦。越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする外様衆)から重ねて使者をもって、申し述べられた通り、すでに庵主(長尾為景)の御在世の時分に御説明した旨であるにより、その意に任せ、各々で申し語らい、式部丞方に関しては、御味方に復した際、爰元はまずもって一遍の形を付けたこと、(長尾晴景においては)今この時には諸々の支障をなげうたれ、御寛大な心をもって(竹俣の)過ちを赦してもらえれば、吾々においても本望であること、委細は源次郎方(新発田忠敦)から申し入れられ、なお、黒田和泉守方(秀忠。長尾晴景の側近)へ申し越すにより、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『新潟県史 資料編4 中世二』1057号「長尾弥六郎殿 御宿所」宛「本庄孫五郎 長・色部弥三郎 長・小河右衛門佐長資・鮎川孫次郎清長」連署状案)。


このあと、揚北衆の佐々木加地竹俣氏は、式部丞・筑後守系から一族の三河守系に代わることで存続を認められている。また、式部丞・筑後守系竹俣氏と縁戚関係にあった越後衆の吉田氏(越後国守護代長尾家の直臣で、越後国頸城郡安塚地域の領主の一人)が筑後守清綱・式部丞昌綱父子から譲られた土地を手放しているのは(『新潟県史 資料編4 中世二』2238・2239号 吉田英忠寄進状)、この竹俣氏の人事を受けてのことであろう。



〔府中長尾晴景の母が死去する〕

5月7日、越後国守護代長尾晴景の母で、故長尾為景の妻であった天甫喜清が死去した(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。景虎はのちに、自身の父母は幼稚の時分に亡くなったと述懐しているが(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写)、この天甫喜清が景虎の生母であるのかは分からない。



〔景虎、越後国古志郡へ下る


越後国内の争乱が続くなか、兄である越後国守護代長尾晴景(弥六郎。越府春日山城を本拠とする)の命を受け、中郡の鎮定に当たるため、当方面で奮戦中の本庄新左衛門尉実乃(古志長尾氏の与力であろう)の本拠である古志郡の栃尾城へ移ることになり、8月18日、長尾晴景が本庄実乃へ宛てて返状を発し、念入りな音信に預かり、満足の極みであること、爰元(長尾晴景)は抜かりなく治療に努め、早々に平癒を遂げており、安心してほしいこと、その地(栃尾周辺)の陣所の位置は、皆共で相談し合って堅固に仕置(統括)するのが肝心であること、異変が生じたならば、取り急ぎの注進を待っていること、万事がめでたく調ったのちに、重ねて音信を通じること、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、景虎が近日中に(栃尾へ)取り出すわけであり、勝利は眼前であること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 資料編3』782号「本庄新左衛門(尉)殿」宛長尾「晴景」書状写)。


これから間もなくして古志郡へ下り、古志郡司および古志長尾家を継ぐと、以後の数年間、栃尾城周辺に城砦を築いた近郡の対抗勢力と戦う(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写)。



天文13年(1544)2月 古志長尾景虎(平三)【15歳】


〔景虎、古志郡司として、越後国守門神社に土地を寄進する〕

2月9日、越後国古志郡の守門神社の宮司である藤崎文六へ宛てて証状を発し、吉日をもって、きしん(寄進)を致すこと、かんはらくん(蒲原郡)内の玉虫新左衛門尉一せき(一跡)をすもん大明神へ末代にわたって進め申し上げること、これらを恐れ敬って申し伝えた(『上越市史  上杉氏文書集一』2号「藤崎分六(敬称なし)」宛長尾「平 景虎」寄進状写【花押a1影】)。


※ 以下、上杉輝虎(長尾景虎)が用いた複数の花押形のうち、原本・影写本で判明しているものについて、その型式は『上越市史 上杉氏文書集一』に従う。



〔宸筆の御心経を携えた勧修寺晴秀が越後国へ下る〕

御門が全国の静謐と豊年を祈念し、
4月20日、右中弁勧修寺晴秀(大納言尚顕の孫)が、越後国守護代長尾六郎晴景(弥六郎)へ宛てて綸旨を発し、各国へ宸筆の御心経一巻が下されるところとなり、大納言勧修寺入道(俗名は尚顕。法号は泰龍・栄空)が御使いとして差し下されること、よって、当国中(越後)が静謐を遂げて豊年となるために、  宸筆の御心経一巻(紺紙金泥摩訶般若波羅蜜多心経)を神前へ奉納するべきであると、天気の所であること、よって、状に前記した通りであること、申し渡された(『新潟県史 資料編3』783号 後奈良天皇綸旨【封紙ウハ書「長尾六郎殿  右中弁」】)。



〔越後屋形上杉玄清が、揚北衆の安田長秀に知行を宛行う〕

10月10日、越後国守護上杉玄清(俗名は定実。兵庫頭)が、越後国安田に在地している安田治部少輔長秀(越後国蒲原郡白川庄の安田城を本拠とする外様衆)へ宛てて証状を発し、このたびの一乱(天文の乱)以来、前々の旨(筋目)を守って駆け回り、忠信を致しているので、蒲原郡(白河庄)に残る堀越半分の地と同郡金津保下条村の地を、長尾弥六郎が格別に取り計らい、何よりも適切であるにより、久しく知行し、ますますもって(忠信を)心懸けるのが肝心であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4』1495号「安田治部少輔殿」宛上杉「玄清」判物)。


10月10日、越後国守護代長尾晴景が、安田治部少輔長秀へ宛てて証状を発し、先年に国中の各々が同心をもって、府内に対して不義を企てたとはいえ、前々の筋目を守られ、忠功を励まれたにより、誰よりも際立っている次第で、これにより、蒲原郡内の堀越半分の地と同郡金津保下条村の地を、取り計ったうえで、(屋形上杉玄清が)御判を調えられること、御執務を違えず、ますます軍忠を励まれるのが肝心であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4』1496号「安田治部少輔殿」宛長尾「晴景」判物)。


府中長尾晴景・景虎兄弟の亡父である長尾為景の傀儡であった越後屋形上杉玄清は、天文7年に隣国伊達家から後継者を迎える約束が決まっていたにもかかわらず、両家それぞれの事情により、いつまで経っても実現しないことなどに嫌気がさし、天文11年に隠居を表明したが、苦境に立たされていた晴景に引き留められ、こうして守護の役割を果たすまでになっていた。



天文15年(1546)3月11月 古志長尾景虎(平三) 【17歳】


〔越後衆の直江酒椿・平子孫太郎の間で、君命により、一部の知行地を交換する〕

3月23日、屋形上杉玄清の側近である直江入道酒椿(掃部助)が、越後国小千谷に在地している平子孫太郎(越後国魚沼郡小千谷の薭生城を本拠とする、越後国守護上杉家譜代の重臣の系譜)の重臣へ宛てて奉書を発し、貴意(平子孫太郎)の通り、互いに手近かの地へ参ってでも打ち合わせをしたいこと、されば、御知行分八ヶ条のうち、前野の地を拙者(直江)が保持している地に関しては、「松尾未年(不詳)」上野分ならびに▢▢▢▢地の▢田分を除き、(平子方へ)畠などを引き渡すこと、ただし、府内と其元(平子方)の間に御別条はなく、▢▢▢を調えたうえで御帰府したからには、替え返し申し上げる旨を、(平子孫太郎の)御意を得たいこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』7号「平子殿 参 人々御中」宛「直江入道酒椿」奉書写)。

3月23日、直江入道酒椿が、平子孫太郎の重臣(同心か)である小林左京進へ宛てて書状を発し、御知行分に、巨細人として堀 次郎左衛門尉方を差し越されたので、▢▢▢▢▢小野沢蔵人丞(直江家中)を差し添えて彼の地の様態を確認し、(土地を)受け取ったこと、(直江が平子へ引き渡す土地については約束通り)前野の地はそのまま(直江が)保有すること、その御心得が専一であること、従って、書き間違えの証札に関しては、(そのまま)進覧すること、何度も堀方へ申し伝えたこと、なおもって、(詳細は)両人(堀・小野沢)から申し入れられるにより、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』8号「小林左京進殿 御報」宛「直江入道酒椿」書状写)。


〔揚北衆の本庄千代猪丸が、配下に知行を宛行う〕

3月24日、越後国村上に在地している本庄千代猪丸(のちの弥次郎繁長。越後国瀬波(岩船)郡の村上城を本拠とする外様衆)が、配下の某へ証状を渡し、長年にわたって神妙に奉公していること、さんひゃう作壱貫の地、下袖触六百の地、ろく▢田四百の地、以上の弐貫の地ならびに小嶋分の町屋敷と号するうちの弐間を出し置くこと、今後ますます駆け回るのが肝心であること、もしも怠慢するに至ったならば、証札は無効とすること、ますます立ち回るのが第一であること、よって、前記した通りであること、さらに追伸として、先年に下渡ヶ嶋において少地を申し付けて任せたこと、確かに保障するので、ただ今この分も渡すこと、(本庄千代猪丸は)若年ゆえ、判形をまだ持っていないので、異変に備えて添書きすること、端書きに書き留めておくものであること、これらを申し添えている(『新潟県史 資料編4 中世二』2357号 本庄千代猪丸宛行状写)。


〔府中長尾家旗本の吉田英忠が、越後国安塚の賞泉寺へ土地を寄進する〕

11月15日、越後国守護代長尾晴景の直臣である吉田周防入道英忠(俗名不詳。この吉田氏は「政」を通字としている。越後国頸城郡の直峰城の在城衆か)が、越後国安塚(頸城郡)の賞泉寺へ証状を渡し、寄進状の事、右、五十公之郷小黒之保安塚のうち、福寿寺山屋敷・畠と王堂屋敷の北内藤のうちで山・畠を二枚ならびに大海寺山屋敷・畠と尼寺々は三斗を、賞泉寺領として、黙室雪厳和尚へ御寄進に任せ、高岳正統(長尾能景)・同道七(同為景)の御菩提として、永代にわたって寄進申し上げるのは誠のところであること、よって、状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4 中世二』2237号「賞泉寺 長夫和尚 参衣鉢閣下」宛「吉田周防入道 沙弥英忠」寺領寄進状)。

11月15日、吉田周防入道英忠が、賞泉寺へ証状を渡し、寄進状の事、右、五十公之郷小黒之保のうち、下安塚の田畠・山屋敷などは、(揚北衆の)竹俣筑後守清綱(越後国蒲原郡の竹俣城を本拠とする外様衆)から、(心窓妙安との)縁があり、末代まで給い置かれたこと、中安塚の今泉分のうちで竹原屋敷より上の山筋ならびに神矢之保のうちで上横角名・同中名、これも竹俣政綱(式部丞昌綱。清綱の世子)から給い置かれた地であり、いずれも永代にわたって賞泉寺領として、高岳正統・道七の御菩提、御次いでとして(吉田)能政・英忠父祖の菩提のために、黙室和尚雪厳へ申し定める旨に任せ、寄進申し上げるのは誠のところであり、何事においても以後に至っては、それに干渉があってはならないこと、なお、子孫として(吉田)源右衛門尉兼政・孫七郎重政が裏判を据えるものであること、よって、寄進状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4 中世二』2238号「賞泉寺 長夫和尚 参衣鉢閣下」宛「吉田周防入道 沙弥英忠」寺領寄進状)。


吉田英忠は、賞泉寺の寺伝によると、安塚地域の要衝である直峰城の城主という。英忠の父である能政は、長尾能景から一字を拝領したのであろう。そして、先述したように、この吉田氏は、揚北衆の竹俣氏と縁戚関係にあったと思われる。



天文16年(1547)10月12月 古志長尾景虎(平三)【18歳】


〔景虎、兄晴景に反抗していた重臣の黒田秀忠を降す〕

ここ数年にわたって亡父長尾為景以来の重臣であった黒田和泉守秀忠が、兄の長尾晴景(弥六郎)に反抗を続けており、黒田秀忠を成敗するため、上郡へ馳せ参じて対向したところ、黒田は助命を乞い、僧体となって出国することを申し出たので、それを容認すると、越府春日山城(あるいは魚沼郡波多岐庄の上野城か)に入った(『上越市史 上杉氏文書集一』5号 長尾景虎書状写、115号 上野家成書状)。


この景虎と黒田の両勢力が対向する前の5月から7月にかけて、黒田秀忠をはじめとして梅津宗三・小黒源三郎・新開縫殿助・諏訪部 某・平子孫太郎・直江掃部入道酒椿らが高野山清浄心院に自身や一族の逆修供養を依頼している(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。ただし、これらの諸将が黒田方とは限らないであろう。

黒田秀忠は、越後国守護上杉家譜代の重臣であった黒田内匠助良忠の後継者であろうが、どうも実子ではないらしい。軍記物などでは、長尾為景が寵臣に当主が戦没した黒田氏を継がせたとしている。確かであるのは、秀忠の代では黒田氏が越後国守護代長尾為景・同晴景父子の重臣となっていることと、蒲原郡の黒瀧城に拠って反抗はしておらず、魚沼郡妻有地域に基盤を築いていたことである(『新潟県史 資料編4』1318号 黒田良忠書状、2249号 黒田秀忠・新保景重連署状写 ●『上越市史 上杉氏文書集一』115号 上野家成書状)。


〔景虎、黒田秀忠の再乱により、越後国上郡の有力者に協力を求める〕

この秋中に越後国からの退去を約束していたはずの黒田秀忠がまたもや逆心したので、守護代側の正当性を示して味方を募ると、越後国徳合に在地している村山与七郎(実名は義信か。越後国頸城郡西浜地域の徳合城を本拠とする越後国衆)が、某所に在地している桃井 (伊豆守義孝あるいは次代の右馬助義孝。越後国頸城郡新井地域の鳥坂城を本拠とする越後国衆か)と談合して参戦を約諾したので、10月12日、村山与七郎へ宛てて返状を発し、兄である(長尾)弥六郎兄弟の者に対し、黒田(秀忠)が思いも寄らない無法を行ったなので、(黒田秀忠を成敗するため)上郡を遂げた
こと、(村山与七郎へ)その道理を説明に及んだところ、(村山は)桃井方へ御談合をもって、景虎に同心して和泉守(黒田)に成敗を加えるとの御判断は、当然の成り行きであること、いかにも爰元が本意(黒田成敗)を遂げるにおいては、(村山の功績を)晴景に(景虎が)奏者となって申請するつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』3号「村山与七郎殿」宛長尾「平三景虎」書状【花押a1】)。

黒田秀忠の討伐を目前に控え、12月13日、長尾景虎、守護代長尾家の直臣である村田次郎右衛門尉へ宛てて書状を発し、このたび忠節を励み、(長尾)晴景ならびに平三(景虎)を守り立てるにおいては、本領の安堵を間違いなく(晴景へ)申請するつもりであること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』4号「村田次郎右衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。
 

※『上越市史』は3号文書を天文13年、5号文書を同14年に比定しているが、今福匡氏の著書である『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』(宮帯出版社)の「第六章 御館の乱 一 謙信の政庁・御館」の記述に従い、それぞれを天文16年の発給文書、天文16年の記事も含まれる同17年の発給文書として引用した。


この間、11月10日
、越後衆の北条高広(毛利丹後守。越後国刈羽郡佐橋庄の北条城を本拠とする越後国衆の系譜)が、菩提寺の専称寺へ宛てて寄進状を発し、御詫言があったについて、御寺領ならびに按察使分・天神田・月山の三ヶ所の小寺社共に新段銭に関しては、七貫文のほかは新たな寄進として進覧すること、努めて後代において違乱はないこと、たとえ水損干損が起ころうとも、この七貫文は厳密に差し出されること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』9号「専称寺 参」宛北条「高広」寄進状)。



天文17年(1548)2月~6月 古志長尾景虎(平三)【19歳】


〔景虎、黒田一族を滅ぼす〕

越後国守護上杉玄清(俗名は定実。兵庫頭)の意向に従って、再乱を企てた黒田和泉守秀忠とその一族を滅ぼすと、2月28日、越後国小河に在地している小河右衛門佐長資(揚北衆の本庄氏の支族。越後国瀬波(岩船)郡小泉庄の小河城を本拠とする外様衆)へ宛てて書状を発し、(長尾)晴景に対し、黒田和泉守(秀忠)がここ数年にわたって不埒な振舞いを繰り返していたので、昨年の秋にこの口(上郡)へ打ち越し、(黒田秀忠に)成敗を加えるつもりであったところ、(黒田が)その身を異像の体(法体)をもって、他国へ立ち去るつもりであると、
しきりに(助命を)歎願したので、その旨に任せ、旧冬に当地(府城春日山城あるいは越後国魚沼郡妻有地域(波多岐庄)の上野城)へ移ったところ、それから幾ほども経たないうちに(黒田が)逆心の企てが発覚したにより、とりもなおさず御屋形様(上杉玄清)の御意をもって、黒田一類を残らず、ついに生害させたこと、これにより、(屋形上杉玄清が揚北衆の)本庄方(猪千代丸。のちの本庄繁長。越後国瀬波(岩船)郡小泉庄の村上城を本拠とする外様衆)へ御書を調えられたこと、爰元の首尾(屋形と本庄の通交)には、きっと御満足してもらえるであろうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』5号「小河右衛門佐殿」宛「長尾平三景虎」書状写)。


景虎は、黒田秀忠が越後国から退去するのを見届けるため、黒田が拠って立っていたであろう魚沼郡の妻有地域(妻有庄)の近場に留まる必要から、同地域(波多岐庄)の有力者である上野家成の居城に間借りしたのではないか。

黒田秀忠をはじめとする黒田一類が景虎に滅ぼされても、前年に高野山清浄心院へ逆修供養の依頼がされていた黒田一類の戦没後の供養が依頼されていないにもかかわらず、黒田の息子である黒田新八郎と新造(黒田あるいは息子の妻であろう)だけは供養の依頼がされたということは、この二人はしばらくは生存していたわけであり、新八郎はこの年の6月朔日、新造は天文18年2月12日に死去しているが、黒田の妻である千代子は身分が高かったようであり、長尾為景に近い女性だった可能性あるので、千代子と新造が同一人物であったのだとしたら、このあたりの事情によって、二人が黒田一類の滅亡から一時的とはいえ、逃れられたのかもしれない(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。



揚北衆の本庄氏は、前代の大和守房長が、屋形上杉定実の後継者を揚北衆の中条弾正忠の肝煎りで隣国伊達家から迎えることに異を唱えたので、天文8年に伊達衆の攻撃を受けて敗北し、出羽国大宝寺へ逃れると、その存在が確認できなくなってしまい(再起を図り、本拠へ向けて進軍中に病死したと伝わる)、当時はまだ房長の嫡男(のちの繁長)は生まれたばかりで、一族の孫五郎が当主に据えられ、やはり一族の小河右衛門佐長資が台頭していた。そして、本庄猪千代丸(繁長)が、天文15年に配下の飯沼氏に知行を宛行い、同17年に領内の本門寺に土地を寄進していることから(『新潟県史 資料編4』2357号 本庄猪千代丸宛行状写・2359号 某寄進状)、天文15年までに孫五郎は当主の地位から退けられてしまったようである。



〔府中長尾家旗本の吉田英忠が、越後国安塚の賞泉寺へ土地を寄進する〕

3月7日、越後国守護代長尾晴景の直臣であり、越後国頸城郡安塚地域(五十公郷小黒保)の領主の一人である吉田周防入道英忠(安塚地域の要衝である直峰城の城衆か)が、同地域の賞泉寺へ証状を渡し、寄進状の事、右、五十公之郷の田員の地は、竹俣清綱から、妙安との縁があり、給い置かれたこと、知行分のうち、田畠の坪本は、壱段は堀の水口、弐段は谷地の下、弐段は同じく谷地の下、壱段は谷地田、壱段は堀切の上の坪、合わせて七段は、心窓妙安の霊前への供物を免ずるために、私の諸役を停止したうえで、永代にわたって寄進申し上げるものであり、後日のために、(吉田)源右衛門尉兼政・孫右衛門尉重政(英忠の長男・次男)に裏判を据えさせておくものであること、よって、寄進状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4 中世二』2239号「賞泉寺 長夫和尚 参侍者御中」宛吉田「沙弥英忠」寺領寄進状)。


4月10日、越後国守護代長尾晴景が、越後国頸城郡安塚地域の賞泉寺長夫へ宛てて証状を発し、吉田周防入道英忠が当寺(賞泉寺)へ寄附申し上げた地に関しては、彼の寄進状の旨に任せて、御執務を間違いなく担うべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4 中世二』2240号「賞泉寺 長夫和尚」宛長尾「晴景」判物)。


〔府中長尾晴景が、越後衆の下平修理亮を忠賞して失地の回復を認める〕

6月24日、越後国守護代長尾晴景が、越後国千手に在地している下平修理亮(越後国魚沼郡波多岐庄の千手城を本拠とする越後国衆)へ宛てて証状を発し、(下平)私領内の興徳寺・善勝寺・満用寺分の三ヶ所を、沽却したこと(事情により売り渡すほかなかったということか)、先年のその口(魚沼郡妻有地域)での一乱の折に、道七(長尾為景。晴景・景虎の父)が(下平に)返附されたわけであるからには、以前の通りに知行して問題はないこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 資料編3』792号「下平修理亮殿」宛長尾「晴景」判物写)。



◆『上越市史 資料編3 古代・中世編』(上越市)
◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編3 中世一』(新潟県)
◆『新潟県史 資料編4 中世二』(新潟県)
◆『上杉家御年譜 一 謙信公』(原書房)
◆『上杉家御年譜 二十三 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜(1)』(原書房)

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